2011年5月30日月曜日

続・好みの声

会議やミーティングでうたたねする人っているでしょ?
ステキですよね。

先日、とある社外のそれも結構重要な会議で堂々と寝ている、関係各社の代表がいる中て猛者だと思いました。
あたしはMCの正面だったので瞬きすらできませんで、きつかったです。

年のいったサラリーマンなんかが会議でうつらうつらするのを見ると、やさぐれ感がイーハン上がりまして一瞬、ここが会議室ではなくて新木場の居酒屋だったのでは?と思うことありです。

その点、あたしの上司なんて大したもんです。会議で眠そうにしたところを見たことがありません。

偉そうに書いている自分はどうなのか?
基本的には寝ませんが、「好みの声」の人がしゃべってると辛抱たまらなくなる時があります。

MNさんという人が進行する会議はたまりません。
眠らないやつはゆるせん!というくらいの単調さとマイルドな声質で他者の追随を許さない。
あ~、以前のように彼の進行する会議に出たい。

また、月に一回部門内で予算の報告会みたいなのがあるのですが、そこで発表するとある最近であった管理職。彼女の声は大好きです。数字を語るリズムのミニマルさがまるで子守唄です。

「頭うつばりにかけ、錐(きり)ももを刺す」くらいでないと目を開けてられなくなりそうです。

2011年5月26日木曜日

好みの声

先だっては、長い間、香りというか匂いの話を続けました。

そんな話を先日、知り合いの若い女性に話したところ、「あたしは実家の排水口の匂いでリラックスします」と来まして、上には上がいるものだと思いました。

さて、今日は声の話。声にも好みが、ありますな。

こんどは男性(実はま、そこそこの著名人)との会話。その男性がある女性を可愛いと思うと、いうわけです。ま、自由ですから。

もちろんあたしも異論はありませんが、実はその女性の声、その人が昔好きだった人(かなり著名人)にそっくりなんですな。傷をえぐると気の毒なので指摘しませんでしたけど。

好きになっちゃえば、相手の声もファッションもクセまでも、みな好きになるのかもしれませんが、先にそうした部品やらパラメーターが「好き」の感情を引き起こしているのかもしれないし。

ひじょ~~に細かい話ですが、「いきものがかり」の「かげぼうし」という歌のサビの部分でヴォーカルの女性が声をわ~~んと伸ばすんですな。

で、最後にちょっとだけカスれる。このカスれであたしは萌えますな。シェリル・クロウの声も良いです。松田聖子も上手にカスれさせますな。

このネタ少しだけ続きます。

2011年5月24日火曜日

『浅草紅団』

吉原の話が出たので、場所を浅草に移します。

表題の『浅草紅団』。
川端康成の小説です。

あたしは、中公文庫から出ているものを図書館で借りて読みました。ながらく絶版だったようですが最近復刊しているようです。

浅草で暮らす人々の人間模様を描いた青春小説。といってしまえば身もふたもないですが、永井荷風の「墨東奇譚」(”ぼく”は、さんずいに墨)、高見順の「如何なる星の下に」とならぶダウンタウン文学の最高峰のひとつです。

「紅」に限らず、「墨東」も「如何なる」も今は書店では手に入りずらい作品になってしまいました。
大正期の大衆小説が失われつつあるような気がして残念です。

「紅団」は新聞の連載小説だったそうです。読めば、さすがノーベル賞。素晴らしいフレーズがてんこもりです。

「浅草は東京の心臓。」
「浅草は、人間の市場。」
「……私はなんて可哀相な女でしょうって、いいえ、いいの。それね、男ってなんていいものでしょうというのと、私には同じことなの」


しびれますね~鳥肌ものです。
引用続けますよ。

「恋をしていると、夜涙が出るものよ。別れると、朝涙が出るものよ。この朝の涙が出なくなれば、まず女として一人前だわ。」

参った。
次の引用は長いです。

「私は浅草に生まれも育ちもせぬ。故郷という言葉の意味がちがう。だが、1日に20万も70万も浅草公園に流れ込んでくる人達のうちには、ここを故郷ならぬ故郷と思う人間がどんなに多いことか。失業者や家出人や犯罪者は、なぜ必ず浅草に足を向けるのか。自分というものをその中に隠したり、忘れたりするのに、一番具合いい雑沓が、なぜここにあるか。一口にいえば、浅草公園は恵まれぬ大衆がここに棄てる、生活の重みと苦しみとがもうもうと渦巻いて、虚無の静けさに淀み、だから、どんなにぎやかな騒ぎも寂しく聞え、どんな喜びも悲しげに見え、どんな新しさも古ぼけて現れるのだ。

加賀まりこの自伝『とんがって本気』の中に、川端康成との対談のくだりがあります。

ノーベルのくせに、加賀まりこに向かって、スカートをもう少し上にあげれば?というとんでもないセクハラを言ったのだそうです。
でも、加賀さんもすごくて、そんな川端翁に官能を感じてしまったのだそうです。
文学者ですもの、おそらく相対する女性の、その場のココロの具合を巧みに察することができるのでしょうね。
でなければ、上に引用したような台詞は思いつかないでしょう。

長文の引用の最後に「浅草が古びている」と書いてありますが、この小説がかかれたのは昭和初期です。その頃から古びていたというのが深いです。

ずっとふるめかしいからこそ浅草なのでしょう。

2011年5月23日月曜日

吉原

ブログサービスには、必ず「アクセス解析機能」がついています。

で、アクセスは検索サイトでひっかかるかどうか?どれだけ検索されるか?というのが肝なわけですが、今日のような表題にしますと、あからさまにアクセスが上がります(笑)。

この地域近辺の名称なども適宜入れておくとまた隠し味が効いてきます───「見返り柳」、とかね。

検索したあげくこのブログ記事を開いて舌打ちしている人も多いのではないかと推察します。

さて、本題は、オススメの本の話。

吉原はこんな所でございました』(福田利子著)


この本は、非常に有名なので説明はいらないかもしれません。

ハトバスの東京観光でも立ち寄っていた松葉屋の女将だった福田利子さんの昔話を聞き書きしたもので、昔の人々の暮らしがていねいに描かれています。

一時期、絶版になってまして手に入らなかったのですが再度検索してみると文庫本が復活しているようです。

2011年5月19日木曜日

暗唱、付録のCD

百人一首の暗唱用テキストは、「奇跡の百人一首」ですが、「音」としても耳に入れておきたいので音源を別途用意しました。

といっても、もともと何故か?持っていたカルタの百人一首に付属していたCDをiPodに入れて利用しましていました、ただ読み方がゆっくりして日が暮れちゃう。下の句を二回読むし。

なんかいい素材はないだろうか?と思っていたところ、例の七田式から新作の「百人一首」のテキストが発売になりました。
こちらは暗唱用に作られたものなのできびきびしてますよ。しかも音源が子供の朗読ですから耳に残りやすい。同じ、七田のCDでも大人のプロが読んだものは、はっきり言ってイマイチです。上手すぎるというか印象が薄いんですな。(七田の「暗唱 達人編」も子供の朗読でして、出来が素晴らしいです)

ひとつだけ欠点は、「曲」が四首ずつの区切りになってまして自分が脳みそにいれた五つ区切りと、どうも間尺が合わない。でもたまに流して耳で復習をすることにしています。

追記)「百人一首」教材の扱いについて追記しました

2011年5月18日水曜日

暗唱ネタ「百人一首」好みの歌、イヤな歌

あたしの場合、百人一首自体は趣味ではなく暗唱の対象であって無意味な?暗唱そのものが趣味なわけです。(笑)
ですが、暗唱しますとだんだんと詳しくなりまして、やはり好みの歌というのが出てきます。
たとえば、嫌いな(笑)歌をあげてみますと

○小倉山峯のもみぢ葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ(貞信公)

詠まれたいきさつなどを調べるといろいろあるようですが、”ヒラメ”っぽい内容がとにかく鼻につく。
と勝手に思い込んでおります。

※ヒラメっていうのは、故横澤彪さん発明の言葉でしてサラリーマンで上ばかりみている追従者をいいます。

一番好きなのは、祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい) というお嬢さん(たぶん)の、

○音にきく 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ

ま、恋心の歌なのですが、とにかくリズム感がよくて耳に残る。
それと短歌に限らず「時空、時のうつろい」について詠ったものが好きなので、たとえば、

○み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり(参議雅経)

なぞは、お気に入りです。「衣うつ」ってなんだ?ってとこですが、きっと打ってるのだろうと(笑)
なんだかしらないが叩いているのでしょう。きっと秋の夕暮、カーン、カーンという音が里に響いているんですよ。ホっとしますよね。

それに引き替え、

○おほけなくうき世の民におほふかなわがたつ杣(そま)に墨染の袖(前大僧正慈円)

坊主のくせになんだか俗っぽいなぁといやになっちゃいます(笑)
解釈知りませんから勝手な解釈ですよ。
ちなみに、墨染めの袖というのはお坊さんの着物のことなのですが、家の近所の植物園で「墨染め」という桜があることを知りました。
で、あたしのイメージは油ぎった坊さんが「墨染め」満開の丘の上にすっくと立ち、世の中を眺めている。花びらがダァ~~~っと雪のように舞っている。
こんなイメージです。

クリスティーナの世界

誰も聞いてないよ、なんて言われそうですが、あたしがこの世で一番好きな絵は、アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」であります。

70年代に建築家、ロバート・ヴェンチューリの著書ですっかりおなじみになった絵です。
アメリカ人にとっての「家」の原風景なのだろうと思いますが、日本人のあたしが見ても、とにかく懐かしい。

何年も行っていませんがニューヨークに行く機会があると必ずMoMAで展示されている、この絵を見に行くことにしています。

さて、昔の話。画集「クリスティーナの世界」という図書がありまして、とうの昔に絶版になっています。しかたないので図書館で借りては返しの繰り返しをしていましたが、しまいにはどうしてもほしくなりました。

神田の古書店街を歩いても見つかるべくもなく、結局アマゾンの中古本で発見。原書版を手に入れることができました。この時ほどアマゾンが便利だと思ったことはありません。

ワイエスの描く空間には人の世のあまねくうつろいが凝縮されています。
カーテンの皺のひとつひとつに、置き捨てられたバケツの影に、胸がしめつけられるような感動を覚えます。

無名に生まれて無名に育ち、無名のまま死んでいく美しさ。
ワイエスが描いたオルソン姉弟はワイエスのせいで結局無名のままの人生では済まされなくなってしまいます。

でも、「クリスティーナの世界」で記されているワイエス一家との交流の様子をみると、彼らはあくまでも謙虚で誇り高い。
アメニモマケズ。

手に入れた画集は日本円で二万円。ちょっとした値段ですが、出費にみあう充足感。