2018年7月30日月曜日

Maya(31)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』24-1

講義はカルロスが書いた博士論文に基づいていた。論文を参照したり、学生たちのディスカッションのテーマとして使われた。

学生たちの中でも特に熱心だったRussとRosieが中心となりはなかなか写しを渡そうとしないカルロスに言い募って、少しずつコピーさせてもらい自分たちで教科書を作った。

Russは自分用に二冊作成した。一冊は緑、もう一冊は茶色のフォルダーで綴じた。それがカルロスのオーラの色だからだそうだ。

他の学生たちには、頭が変なんじゃないかと考えたがカルロスが社会科学棟の724号室に仮入室した時、彼のオーラの色をはっきりと見たのだ。

それは突然訪れた。彼と彼の仲間たちがカルロスを7階で待っていたときだ。壁がゆっくりとベリーダンスをするようにうねり始めた、風の乗って流れてくるブルーグラスミュージックのような感じに。

彼と仲間たちは、リノリウムの床に滑るようにくずれおち壁に背中をもたせかけたままカルロスを待つことになった。

少し経つと、廊下がライム色のゼリーでできたチューブのようになり光りだした。何百万マイルも伸びてゼリーの道をカルロスがいつものようにゆっくりと歩いて来た。
通路が放っている光はカルロスの体にあたると緑色に光った。

緑色だった。ネオンライトのような天井の下をRussはカルロスが歩くと彼が放っているオーラが弱くなったり膨らんだりした。

ついにカルロスが彼らの前に着いた。
床の上に座っている二人の若者を横目で見ながら事務所の扉の鍵を探している。

やぁ」カルロスはドアを開けながら言った。
どうも」とRussが答えた。
カルロスは軽くうなずいてまばゆく緑色の光のかたまりの中に立っていた。

教室にいるときのカルロスのオーラは茶色に思えたが、ここでは緑だとRussは”理解”した。

Russは、茶色のオーラはカルロスがすごく不思議な話をするときに出る力と関係があるとわかった。たとえば、バイリンガルのコヨーテと会話をしたエピソードや、ドン・ヘナロが一瞬で遠くに移動した話などをするときだ。どんなに馬鹿げて聞こえる話などこれまで誰も異論をはさんだことがなかった。

学生たちが合理的な答えを探すことは、カルロスは最も嫌っていた。
学生たちは、カルロスの体験を幻覚か催眠をかけられた体験ととらえていたが、カルロスは彼らが理解することを望まなかった。

クラスの中で最も疑り深い学生はいつもカルロスを実証主義や唯物論的な議論に引きずり込もうとしていた。

ドン・ファンのやり方というのは、神学の基本に内在している不完全で暫定的な仕組みに置き換えられることを目指しているのではないでしょうか?」(何言ってるかチンプンカンプンです)その学生は真摯さを装ってカルロスを見つめた。

2018年7月27日金曜日

Maya(30)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』23-3

カルロスの授業は、ただふらっと教室に現れて「オーケー、質問のある人手を挙げて」と言うだけだった。

学生たちはドン・ファンのことを知りたがり、世界を止める方法やリアリティを分離する方法についてたずねた。

ドラッグについて聞くと、カルロスはもう使っていないと答えるのだった。

ドラッグは呪術の重要な要素だと思っていたが、もうそうは思わない。ドラッグは補助的なものだ。ドン・ファンは、彼が教えたすべてのことは世界を止めることだと言った

カルロスは、ペヨーテ、キノコそしてジムソン・ウィードがドン・ファンが使っていたもの、正確にはドン・ファンの呪術のドラッグだったこと、そしてドン・ファン自身はもう何年も自分では使っていなかったことを話した。

ドラッグは、人をあるところへ連れて行くための地図のようなものだが、その場所そのものではない、と言った。ドラッグは旅の一部分だ。
人は、自分の奥深くに自分の世界に関する知識を蓄えていて、そこから流れ出てくるものを解釈しているのだ。
真実、つまり別の世界は、(同じ世界なのだが)、もっと重苦しくて夢幻的で永遠のものだ。それはまるでWilliam Blakeの洗い流された知覚の扉のようなものだ。

このあたりの訳は自信がありません。ご参考までに言及されているウィリアム・ブレイクの「知覚の扉」を下記に引用しておきます。
ちなみにこの「知覚の扉」は、オルダス・ハックルスレーの『知覚の扉』のタイトルとして採用されたものです。『知覚の扉』についてはこれまでも触れていますが、1954年の発行ですのでカルロスはもちろんこの本を読んでいます。

他の参照リンク)
”フォロワーズ(The Followers)”の話(前篇)(3)『ドン・カルロスの教え』(5)
ドン・ファンの教え~序文(2/2)~

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“If the doors of perception were cleansed every thing would appear to man as it is, Infinite. For man has closed himself up, till he sees all things thro' narrow chinks of his cavern.”
William Blake, The Marriage of Heaven and Hell
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余談ですが、このあたりのカルロスの発言に関して原文では「Carlos would」という表現になっています。ニュアンスにもよりますが「仮定法」の一種なので実際の記録としてなんとも言えないと思います。

これに続いて、カルロスがティモシー・リアリーの信奉者たちに出会ったときのエピソードが書かれています。
彼らが手順(儀式)を無視して無造作にキノコを食べておかしくなっているさまを見たドン・ファンが呆れていたという話です。

キノコは非常に慎重に摘まなくてはいけない。そして一年間ヒョウタンの中に保存してから、他の材料と混ぜるんだ。手順(儀式)は、どのように扱うかまで決まっている。最初に左手に取って次に右手に移してからヒョウタンに入れるのだ。キノコを選ぶ時にもとてつもない集中力が要る。ドラッグを使うということよりも”ヤキ”の実践の方が重要なんだ

彼は、自分の経験と関連していることを学生たちにも体験させた。
学生が腕につけている時計を指して
僕は、時計をつけてないと誰でもない。時計は僕の力の物体(Power Object)なんだ

学生は自分の腕時計を見つめて、じっと考え込んだ。そしてカスタネダ哲学の意味したことを理解しようと必死に頭をひねるのだった。

2018年7月26日木曜日

Maya(29)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』23-2

カルロスはSharonの話を熱心に聞いていたが、自分が話す番になると、いつものような感じで本題からはずれた逸話を話しはじめ「正しい生き方」についての自分の意見を披露した。少しは新しい部分もあったがSharonが前に聞いた話ばかりだった。

(当時のカスタネダブームの熱狂について割愛)

1972年の春、UCLAでは学生たちの熱望でカルロスが教授として招聘されることになった。

カルロスは、Irvineキャンパスで二つのクラスを受け持つことになった。ひとつは学部生向け、もうひとつは大学院生向けの「シャーマニズムの現象学」というタイトルだった。
どちらの講義も彼の博士論文と『分離したリアリティ』以降、彼が書きためたものに基づいていた。この新しく書かれたものは『呪術:世界を著す( Sorcery: A Description of the World )』というタイトルの論文になり、これが後の『イクストランへの旅(Journey to Ixtlan)』として出版される。

セミナーには12人の学生が登録していたが、初日には30人はいたと思う。

学生たちが本人が教室に登場した時、あまりにも普通の人が現れたので拍子抜けした様子が描かれています。

Rosemary Leeというカルロスのアシスタントが講座の概要を説明した後、カルロスが口を開いた。

私の修行は終わってしまった。ドン・ファンが私に教えるものはもう残っていない。私は呪術師の実践に必要な知覚をすべて持っている。知覚は変えられる。ドン・ファンは、私に別のリアリティを見る力をくれた。もう彼が教えることは残っていない。私はこれからは自分一人でやっていかなければならない

その後の授業でカルロスは、彼が最後にドン・ファンに会ったのは5月のことだったと説明した。

これは『イクストランへの旅』の中で述べている日付の通りです。

ドン・ファンの家で、ドン・ヘナロが不思議な体術を見せてくれた。腹を下にしてまるで床の上で泳いでいるようにすいすいと動き回ったと言った。
だが、本当の驚きは午後遅くにおきた。カルロスの車が消えたのだ。

この下りは、『イクストランへの旅』を参照

(車のエピソードを話した後)カルロスがニヤっと笑った。

二人の呪術師が世界について合意をしているので、彼らは他の人間にも彼らが見ているリアリティを見せることができるのです。
呪術師は理屈や物理的な力学のような感覚を分離することができるのです

彼の学部生向けのクラスはテストやレポートなどきちんと進めていたが大学院の方はまったく型にはまってなかった。
熱心な学生だったRussとRosieがカルロスの論文のコピーを手に入れるまでテキストすらなかった。

2018年7月25日水曜日

Maya(28)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』23-1

Douglas Sharonは、フリーの文化人類学者としてペルーで数年間過ごしたあとUCLAに来た。
1960年、Sharonは高校をドロップアウトして南米に向かった。

1965年、Trujilloの北部ペルーコミュニティ近くのChan Chanの遺跡で働いている時、Eduardo Calderonに出会った。彼は、地元のcurandero(治療師、ヒーラー)で古代の治療法に関する卓越した知識を持っていた。

Eduardoは、Sharonに(呪術の)実践を学ばせようとしたがSharonは多忙で1967年に現地を去ってしまった。

1970年に戻るとSharonはヒーリングの儀式に参加しcuranderoが行う”見る”方法について研究した。

Sharonは、Eduardoの教えを何時間も録音した。細部は異なっているが、カルロスが彼の情報提供者(ドン・ファンのこと)から教わった内容と同じだ。
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ドン・ファンは、カルロスにペヨーテを使って”見る”ことを教えたが、Eduarudoは、同じことをSan Pedro cactus(写真)を使った。

カスタネダの修行の最初の年、彼はDaturaの煎じ薬を飲まされたちまち頭が回転し目の前に赤い斑点が生じた。

Sharonに見えたものはremolino(渦巻)だった。彼の目の前に赤と黄色のうずが現れた。
UCLAのペルー考古学を教えていたChristopher Donnanは、二人の体験の類似性にきづきSharonとCarlosの二人に彼のクラスで発表するように頼んだ。

僕たちは二人ともシャーマニズムを実践している。だからDonnanはいいアイデア(二人が一緒に話すこと)だと思ったんだ。二人の内容が似ているのは別に驚くようなことじゃない。なぜならシャーマニズムを形作る中身はどれも似ているからだ。表面上は、言語が異なるような感じで違うところがあるかもしれないが、深層の心理的な核となる部分はとても似ているんだ。だから僕たちがしていることが似通っているのは偶然じゃないんだ。

僕はEduarudoが実践しているように率直に秘密を明かすやり方を信じている。彼はぼくの師匠に相応しい人だと思う。個人の歴史というのは彼が生きてきたものだ。彼は14歳だったことがあるだろう。でも今はもう14歳ではない。そして14歳だったときのことを語ることができるんだ。でもそのことは彼を一か所にとどめることはできない。なぜなら彼は彼の仲間たちと一緒に生きているからだ。それが彼の個性で彼のやり方だからだ

原文でもいきなり出てくる発言なので明示していませんが、「師匠」の下りからこの発言は、おそらくSharonのものです。いずれにせよ、あたしの英語力のなさのせいか発言の後半はチンプンカンプンです。

カルロスとSharonの二人は、Chris Donnanの授業の前にシャーマンの教えについて情報交換をした。

1971年の12月、カルロスの二冊目(『分離したリアリティ』)が出版された直後、Sharonがペルーの高地から戻ってきたところだった。二人の大学院生は、生協で落ち合って二人の仕事の共通点についてディスカッションをした。

Sharonは、ここ数カ月を北ペルーでEduarudoとナショナル・グラフィックのカメラマンと過ごしていた。彼らはまさにカルロスの故郷であり伝説のシャーマンたちのいる場所から数百マイルのところ原始魔術の世界観の中心にいたのだ。

2018年7月24日火曜日

Maya(27)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』21-22

■第21章

1969年、私は旧友たちに会うため、先延ばしにしていたロス旅行をすることになった。

カルロスは、私のためにHollywood Roosevelt Hotelのスイートを予約してくれた。
彼は私とC.J.に会えるのを喜んでいた。
私たちは7月上旬にロスに出かけた。

カルロスはちょうどこの時期、メキシコへ行き、ドン・ファンの家でシロシビン(Psilocybe)キノコを体験したことになっている。
私は一週間でワシントンに戻ったが、カルロスがどうしてもというのでC.J.だけ残ることになった。

C.J.は大学に近いところにあるカルロスの家に泊まった。スペイン風の平屋の家で、電話はなく、カルロスと暮らしていたNanny(UCLAの同級生)が電話をしたいときは表にある公衆電話を使っていた。

カルロスは電話が嫌いで、私と暮らしていた時も押し入れに突っ込んで鳴らないようにしていた。しまには解約してしまった。

滞在中、カルロスとC.J.は外出からの帰路、空手道場にいるNannyをピックアップした。
夜、NannyはOld Maid(ババ抜き)をしたりC.J.に詩を読んで聞かせた。

C.J.は、Casey at the Batアニメーションのことのようです)がお気に入りだった。(他にも参考リンクを設けておきます

別れ際、カルロスはC.J.にイタリアに行くといったが彼は本気にしなかった。
C.J.は7歳だったが嘘に慣れていた。

■第22章

Quebecは、カルロスをNed Brownに紹介した。
Separate Realityの頃の話だ。
これでカルロスはQuebecの手を離れ商業出版の世界へ入っていった。

C.J.に対する仕送りは、月75ドルから200ドル程度だったが、二巻目(Separate Reality)からカルロスの金回りがよくなってきた。
Alexander Tuckerという男が彼の金銭面の面倒を見るようになった。

この後、A Separate Realityの内容について説明がありますが割愛します。

2018年7月23日月曜日

Maya(26)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』20-2

カルロスは、Furstの授業でドン・ヘナロの滝登りについて話を披露した。この話でFurstはHuicholインディアンとの体験を思い出した。

1966年に彼が行ったフィールド・トリップで、Furstと彼の連れのhikuri(peyote)探索者であるRamon Medina Silvaが滝の淵で曲芸を行ったのだ。
それはHuichol族の小人数のグループに”バランス”について説明するためのデモンストレーションだった。

Ramonは、サンダルを脱ぐと、儀式を行った後、滝の上の岩から岩へ飛び移り、すべりやすい崖につかまったり、時には動きを止めた。そして突然、水の上を大きく跳躍した。
大きな岩に隠れたかと思うと再び現れ岩から岩へ飛び移るのだ。

その場にいた者たちで、心配そうにしているのはFurstと彼の妻だけだった。
Ramonの妻もいたが他の人間と一緒に静かに座っているのだった。

翌日、Ramonが、あれはばかばかし曲芸などではなく、”バランスを持つ”というシャーマンにとって重要な考え方を見せたのだと説明した。この普通の世界とそれを超えたところにあるものを結びつけるものがあってそのために必要なことなのだと言った。

抽象レベルでは理解できても西洋人であるFurstには受け入れがたいことなのであのようなデモンストレーションが必要なのだと言った。

この話は、Furstがフィールドワークから戻った1966年にはよく知られていたエピソードだったことも確かだ。

だから、その四年後に同じようなエピソードをカルロスがFurstの授業で話すと言うのは奇妙なことだ。

Ramonは、滝のバレエはシャーマンの特技だと言ったというから、もしかすると呪術師はどこでも皆同じことをするのかもしれない。

とはいえ非常に疑わしいこともある。同じようなケースで、ドラマッティックな話をカルロスは後に書いているのだ。

それはMichael Hanerがカルロスに、ヤキ族がダチュラのペーストをお腹に塗る話をしたことがあるのだ。

ヤキも麻薬を使うんですね。それともデミルの指摘は、彼らがペヨーテを使わないってことなのでしょうか?

カルロスは、後で本に書いたエピソードが、友達に話していたネタをもっと複雑にしたものだったことが多い。

オアハカのレストランでメキシコの少年たちが食べ残しに殺到したエピソードもその一つでQuebecの事務所で語った。

この話は、『分離されたリアリティ』が出版されるとドン・ファンによる教訓めいた話になっている。

こうした話は他にもたくさんある。

Douglas Sharonのカルロスについての思い出を省略します。

2018年7月22日日曜日

Maya(25)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』20-1

『教え』の商業的成功が見込まれたのでカリフォルニア大学出版局のニューヨークのマネージャーは大手の出版社との交渉を始め、Simon and Schusterへの再販がまとまった。

Ballantineは1969年にペーパーバックの販売をし10月には再版が決まった。

カルロスはM.A.を取得しなかったが、上級のクラスの授業を受けていて第二巻を書き始めていた。彼は一足飛びにPh.D.をもらうつもりだったが、なかなかむずかしいことがわかっていた。

カルロスはいきなりアメリカでもっとも有名な文化人類学者になったが学内ではそうではなかった。

Meighanだけが味方だった。
カルロスはMeighanが製作しているフィルムの手伝い(インディアンの手のモデルとして)にトパンガ峡谷にある彼の家にでかけたことがある。

Meighanはいう。「こんな助手をやってもらうのは気が引けたよ。でもピクニックだと思って楽しかったよ。彼はとても楽しい相手さ

このフィルムは学生用の教材として使われた。この同じ夏、カルロスはドン・ファンとの修行を再開したとある。

彼の本によると一旦1965年の秋に弟子を辞めて、この1968年の4月に再開している。

次の月にはカルロスはドン・ファンとHuicholインディアンのペヨーテ・セッションに参加するため北東メキシコへ旅をしている。(彼自身はペヨーテを服用しない)

カルロスはシラフの状態でインディアンたちの様子を観察したかったのだ。(詳細割愛)

続いて現象学についての説明がありますが省略します。

9月にカルロスが学校に戻るとちょっとした話題になっていた。Ballantineブックスは手広く出版することを決めたし、お金も少し入った。二冊目の執筆に取り掛かっており、Ph.D.取得が近づいた。

みなカルロスにドン・ファンのことを聞きたがった。
この頃からメキシコに出かけるときにつけられないように注意をするようになってきた。
この年の10月にカルロスは、ドン・ヘナロに出会い滝登り他の不思議な体験をする。

カルロスによればドン・ヘナロの滝行は1968年の話だが、1971年の出版まで知られていなかった。

それは文化人類学者のPeter Furstが同じような話をUCLAで行った一年間の授業の後の話だ。

このクラスにはカルロスの他に、彼の友人のDouglas Sharonも登場している。彼はペルーのシャーマニズムについて集中的な研究を行っていた。

2018年7月21日土曜日

Maya(24)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』19-3

彼はオアハカを去る一日前に連絡をよこして言った。「僕のchochoとカラスが正しい道に導いてくれると信じているよ。この本はなんていってもchochoのための本だからね

彼が変な比喩を使うことについてはあまり不思議に思わなかった。彼はここのところずっとこんな感じだったからだ。1960年より以前は、彼はこんな話し方をしたことはなかった。例えば「impeccable(完璧な)」とか「warrior(戦士)」や「invincible(無敵な)」といったたぐいのネオ・プリミティヴィズム的な言い回しだ。

だから私は、カルロスが実際にインディアンたちと暮らしていたことを疑っていない。こうした言い回しはそうした生活から自然に生じたものだと思っているからだ。

南メキシコにいる間もカルロスは出版に執着し続けていた。博士号を取れればこれまで批判した連中に一矢報いることができると思っていたからだ。
Oaxacaで三週間過ごしてUCLAに戻ってきたカルロスはQuebecに会って本がついに出ることと1968年に市場に出ることを知らされた。

9月23日にカルロスは、UCLA出版局と契約を取り交わしたことを手紙で書いてきた。

”文化人類学にとって重要な貢献をした”って書いてあるよ。どうだい?これで僕が1965年に中断していた試験をまた受けることができる。こっちの連中は石頭だったけど、ニューヨークのコロンビア大学は僕にPh.D.をオファーしてきているんだ。こっちはもううんざりだ

カルロスは、ニューヨークにも知り合いがいたので移ることを考えたいたが、カルロスを買っていたMeighanやGarfinkelたちは喜ばなかった。

契約が結ばれたことが知られると、みんなはもしもドン・ファンの話が無価値なもの(shuck job)だったらどうしようという恐怖に襲われた。

契約は標準的なものだった。本の著作権はthe Regents of California(評議員)が持ち、著者は出版によるロイヤルティを受け取るというものだった。

大学は本のことをまったく評価していなかったが、もしも本が売れればカルロスに多くの金額が入ることになる料率性になっていた。

契約を済ませるとカルロスは前からほしかったグレーのスリーピースのスーツを買った。
出版まではまだたくさんやることがあった。仕上げの編集にも数週間かかるし、表紙やカバーなどのデザインも決めなくてはならない。

Quebecは、それっぽい写真をあしらったデザインをいいと言ったが、カルロスは却下して大学出版の他の学術書のような、きわめてシンプルにクリームとグリーンの色のカバーにゴシック文字で『The Teaching of Don Juan:Yaqui way of Knowledge』と書いてあるものになった。

11月下旬、カルロスはニューヨークにでかける機会があり帰路、引っ越して1年になるワシントンDCに寄ってC.J.と私と一週間ほど過ごした。

『ドン・ファンの教え』は、早春に出版され、カルロスは例のスリーピースを着てサイン会などに顔を出していた。

本は飛ぶように売れた。これまでCalifornia大学が出したどの本よりも売れた。カルロスはたちまち有名になった。

こんなに売れているのに、カルロスは、まだハリウッドのデニーズでハンバーガーを食べているんだとQuebecに話していた。

カルロスは、Quebecに続編を書いていると話した。
Quececはカルロスが代理人を持つべきだと考えてNed Brownを紹介した。

Brownが言った「カルロス、君を有名にするよ
カルロスは、「そうじゃなくて、僕はお金が欲しいんだ」と答えた。
Brownは、ちょっとびっくりしたが謎の男と自分は波長が合うと感じた。

2018年7月20日金曜日

Maya(23)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』19-2

chochoがいたから頑張れたんだ。chochoが去ってからなにもかも無くなってしまった」と彼は1967年の1月に手紙をよこした。

chochoのために役にたてないならなにもやる気がおきない。でも、きっとまたいつかchochoの頭を撫でて寝かしつけることができると信じている。(後略)

(彼の手紙にはchochoのためにと何ドルか入れてくれた。)

chochoのためにもっとお金を送ることができるようになると思うし、またきっと会えることを信じている

編集委員会はなかなか判断を出さなかった。春早く、カルロスはドン・ファンや他の人々に会いに砂漠にでかけた。

4月に戻ってくると、彼は事態が好転していると感じた。
彼は自分の論文が認められて本が出版されると感じていると連絡をくれた。

彼は、ワシントンの私に手紙を出すときは(叔母をはじめ親戚に好まれていなかったので)Chalie Spiderという偽名を使った。Arana(という彼の苗字は)スペイン語でSpiderという意味だからだ。

春、カルロスは、MeighanとGarfinkelに昨年の10月に受け損なったテストを受ける許可をもらった。彼はAlbertaと共に電話交換手として働いていた。

Haines Hall(学部)では、たくさんの人々がカルロスの原稿を読んでいた。信じる者もいたし、疑い深いものもいた。

6月下旬から7月にかけて夏には両者による議論が高まった。

僕たちの旅は、長かった。驚異と謎に満ちていた。僕の話を喜んでくれて嬉しいよMayaya。ようやく先が見えてきた。君がいなくて寂しい。君は無敵の戦士だ。でなければ僕の論文は受理されなかったろうし学校に戻ることもできなかったろう」と7月に手紙をよこした。

大変なことになってる。ある連中は、この仕事が古典になるだろうと言ってるし他の連中はクソだと言ってる。でもとにかくみんな読んでくれているんだ。議論になってるのは例の呪術師というところだ。覚えているよね?それと呪術に対する僕のアプローチも議論になっている。とにかく試験に合格しないと。博士号を持つことができれば僕の発言がもっと信用されるようになる。(中略)みんなが大騒ぎしている様は楽しいよ。この本はchochoのために書いたんだ。だってchochoは、呪術師の中でも一番の呪術師だからね

編集委員は、本に感銘を受けて、ずいぶん待たされたが、いよいよCalifornia Pressから出版されることが決まった。

Bill Brightは、これが素晴らしい作品だと他のメンバーに伝えた。
最終的には、Meighanが皆を説得した。

委員会が出版を決定した時にカルロスは学校にいなかった。彼は、9月11日に南メキシコのOaxaca(オアハカ)に出かけていた。彼がいうところのマザテックインディアンのドン・ヘナロに会いに行っていたのだ。

出版の決定が遅れていたので彼は、じれてRandom Houseや他のニューヨークの出版社にも話を持ち掛けていた。彼はGrove Pressにも原稿を送っていた。

2018年7月19日木曜日

Maya(22)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』19-1

カルロスは、ノートをはじめイエローパッドで取ってから原稿に起こしていた。

『ドン・ファンの教え』の実際の原稿は彼のアパートで執筆された。1961年に初めてペヨーテを体験したあとGarfinkel教授に体験を分析して発表を行った。

しかしGarfinkel教授は学生による判断は欲しておらず直接の詳細を知りたがっていたので、カルロスは数年後に手を加えて再びGarfinkelに見せた。
しかし老人の態度はまだ変わっていなかった。

そこで彼は再び原稿に手を加えHaines Hallの三階に厚い紙の束を持って登って行った。
当時、彼は学校を辞めていた。
カルロスは、このころMeighanと呪術師についての話はあまりしたことがなかった。


Haines Hall

ある日、彼は原稿を持ってきて読んでアドバイスをほしいと言った。私は彼が大真面目だと認識していた。彼はこの原稿を大学の出版局から出版できないだろうか?というものだった。
内容は、当時非常にポピュラーだったドラッグや精神の解放について書かれていたもので、一般的な研究書のように第三者の視点ではなく本人の視点で書かれていて逸話に飛んでいた。
だから私は、この本は科学書の範疇で出版するものではないと思った

Meighanは、カルロスにHaines Hallの向かいにあるPowell 図書館の地下にあるUniversity of California Pressに相談しにいくことを勧めた。

現在は、「カリフォルニア大学出版局」は別の場所にあります。

また文化人類学の本ではなく一般の商業向けの出版という形で話した方がいいともアドバイスした。

UCLAの教師で早期にこの本を目にしたのは、カルロスは、GarfinkelとMeighanの二人だけではない。
William BrightとPedro Carrascoのところも訪れて熱心に説明をした。もう一人、Robert Edgertonも目を通して批評を加えていた。

University PublicationsにいるMeighanの友人の一人がJim Quebecで、大学院生のカルロスのソノラの呪術師と過ごしたレポートについて耳にしていた。

Quebecは、この本は売れると思ったが彼自身も元は文化人類学者だったので営業部門の意見が大切だと思った。

原稿は何週間も放置されていた。編集会議でも討議されたがなかなか売れるかどうか判断ができなかった。

やはり研究論文として発行した方がいいのではないかという意見もあった。商業的にカルロスは無名だし出版社自体のブランドがアカデミックな印象を与えがちだったからだ。

言うまでもないが、やはり営業部が決定権を持っていた・・いや持っていなかった。
このUniversity of California Pressは、そこらの営利目的に出版社とは違う権威のある会社なのだ。
Harold GarfinkelやWalter Goldschmidtをはじめとするそうそうたる学者たちの本を出版していたのだった。

(Goldschmidtの業界的位置づけ割愛)

William Bright教授は、最初からカルロスを買っていてQuebecに推薦の手紙を書いたし、Goldschmidtもその手紙を読んだ。

GoldschmidtがUniversity of California Pressの編集員だったことは重要だ。

Brightは、カルロスがF.A.Guilfordというフリーランスの編集者を雇って校正作業をする前の原稿の一部を読んでいた。

この原稿を読んだ。君は絶対に出版すべきだ」とカルロスに手紙を書いた。
Quebecは、文化人類学部から突然いい知らせを受け取った。

彼自身のスタッフであるAtlee Arnoldですらカルロスのことを話題にするようになった。Atleeもこれを素晴らしい作品だと言った。だが、象牙の塔が認めてくれるまではさらに一年かかった。

学校をすでに辞めていたカルロスは、その間ずっと不安にさいなまれていた。

2018年7月16日月曜日

Maya(22)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』18

Carlton Jeremy(C.J.)は、1964年の9月から学校に行き始めた。公立の学校ではなく、サンタモニカのSaint Sophia's Montessori Schoolだった。カルロスが最高の教育を受けさせたいと言ったのだ。

カルロスは、そのために貯金をしていて毎月120ドルをきちんと払ってくれた。
この金は、彼がUCLAでブルホ(呪術師)の研究で得たお金だと言っていた。
実際は、資金繰りでは結構苦しかったはずだ。

彼は、学校で図書の販売をしていてOxford Unionの製品を売り込んでいた。
その売り上げで月々の家賃や食費を賄っていたのだ。
9月の初頭、カルロスが弟子生活を辞める前に、最期のメスカリトとの出会いがあった。それはテキサスとの国境に近い、メキシコのChihuahua州で行われた四回のミトテのセッションのことだ。

ミトテは、研究者にとって特に新しい話ではない。

(ミトテの簡単な歴史とカルロスのミトテ体験をを省略します)

カルロスは、フィールドワークで夥しい数のノートを記録した。それといくらかの写真、16ミリフィルムも少しあったし、テープレコーダーの記録も行ったが、これらの内、大半を持ってないと後に言った。
彼は、フィールドノートを読みやすい形に整える作業をした。

時々、彼は、自分の研究がUCLAから出版されるだろうと自信を持っていたが、あるときは自信喪失して落ち込んでいた。

彼は、内容を面白くするために一人称で書いたが、論理的な部分を示すために注釈を加えて彼が体験した超常的なものはすべてドン・ファンの操作によるもので植物による幻覚だったと記した。

彼の1965年の秋に大学院を卒業して修士を取得する予定を計画した。
だが、彼はお金がなくなってしまい結局UCLAを退学してしまった。

私の友人の一人、Alberta Greenfieldと私は、電話会社に関する本を執筆していた。カルロスも手伝ってくれた。私たちが渡す原稿料でまた大学院に戻れると思っていたのだ。
だがカルロスとAlbertaが気が合わなかったようだ。

この本の作業、ドン・ファンとのフィールドワークとその執筆、C.J.の教育、自分の未来)などでカルロスは頭がおかしくなりそうだった。

1965年の秋にカルロスは、Albertaと大喧嘩して本の企画も流れてしまった。学校も放り出し、呪術師に関するノートの束も放って砂漠に戻ってしまった。

(中略)

1966年の早い時期、私がC.J.をSaint Sophiaを辞めさせてLAを去ろうと思っていることを告げたときカルロスは非常に動揺した。
私は、カルロスのいい加減な約束に疲れていた。私たちの関係はおかしくなっていた。

私は、ワシントンD.C.のテレビ局WTOPのチーフ・オペレーターの職を得た。

もし坊やを連れて行ったら君は僕の光を奪ってしまう」と9月に手紙をよこした。

2018年7月13日金曜日

Maya(21)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』16~17

■16章

16章と17章は、カスタネダの本編のおさらいとあまりインパクトのないエピソードが多いのでサラっと流します。

冒頭、呪術師の目の使い方と、夕暮れの世界の裂け目についての言及があります。
 ○最良の場所を見つけるための目の使い方
   ※「立体視」の目の用法
 ○自分が坐る場所を見つけて精霊に対するための動作
 ○休むのにいい場所を見つけるための目の使い方
 ○ドン・ファンの目の動き
 ○別世界の番人を見るための目
 ○(たぶん異世界を)見るための目
 ○世界の裂け目

続いて”しないこと”、”世界を止めること”、”見ること”についても少し言及があります。
 ○しないこと
 ○世界を止めること
 ○見ることと眺めること

私は、これをGarfinkelの現象学の影響とみている。

カルロスは、Edmund Husseriの現象学を学んでいた。それを知ったカルロスの知人がHusseriの机にあった黒檀をカルロスに贈り、それをカルロスがドン・ファンにあげたところすごく気に入ってくれたそうだ。

ドン・ファンとのフィールドワークと並行して、カルロスは、Talcott Parsonsの学問やLudwig Wittgensteinの哲学も学んでいた。

カルロスがヴィトゲンシュタインのことをドン・ファンに話して笑われたエピソードがありますが割愛します。

■17章

「煙」の準備の儀式、1963年12月26日の煙体験についての記述と飛翔の話がありますが割愛します。

Joan Daughtyがカスタネダにはじめて会ったのは1962年の春だ。Joanは彼のインディアン研究に対する情熱に感銘を受けた。

カルロスは、めったにプロジェクトについて語らなかった。話すのはC.J.のことだけだった、あるいはJoanのことだった。

Joanは、カルロスにプロジェクトについて話すことを強いなかったので、カルロスは彼女といるとくつろげたようだ。Joanが絵画や彫刻に興味があったのも気に入った理由のようだ。

彼はとても深い気持ちをもっていたわ」とJoanは語る。「見えている以外のものが彼にはあったわ。彼は第六感を持っていた。彼と話しているとなにもかもが計算機で動いているようだった。どんな話題もなんでも吸収するの。(以下、略)

1964年、Joanがカルロスと私に結婚することになったと告げた時、カルロスは驚いたようだった。
後に彼は、この知らせを聞いて嫌な気持ちがしたと言った。

このあたりちょっと英文がむずかしくて不明です。
この後、ティモシー・リアリーについての話。
家に帰って来てC.J.にリアリーの話をしていたというエピソードが披露されています。

2018年7月12日木曜日

Maya(20)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』15-5

だからドン・ファンは、そうした(ペルーの治療師の)系譜につらなる知識を持っていた一人なのだ。
カルロス自身も飛んだことがある。

1963年7月6日のダツラの飛行のエピソード省略

カルロスは、ドン・ファンがダツラとヤキの”飛行”について最初に言及した人物だとしているが、実はそうではない。カルロスの友人の人類学者Michael Harnerが、ヤキがビジョンを視るためにダツラを腹に塗ることをカルロスに伝えていたのだ。

Harnerは、1961年にペルーのインディアンのConibo族がayahuascaを使うことに興味を覚え、カルロスに、ヤキにとってのayahuascaがダツラのペーストかどうか調べてみるように言ったのだ。

Harnerがカルロスにこの話をしたときにはカルロスはまったく情報を持っていなかったが、その6年後には調査をしただけでなく実際に体験してみたのだ。
カルロスの本では、この体験は”彼の”ドン・ファン独自の知識であると書いている。

(中略)

カルロスは、当時、忙しかったが貧乏だった。本を読んだり研究をまとめたりと自分がやりたいことはたくさんあるのにお金がなく、彼の時間を生活が奪っていった。
Meighanは、カルロスが空腹で死にそうだったと言っている。タクシーの運転手をやりながら酒屋で売り子をやっていた。

当時、カルロスはC.J.をよく連れ出して自分のアパートに泊めたりUCLAのキャンパスに連れていったりした。1963年の秋のある週末も同じようにC.J.を連れ出したが、この週末は普通と異なった。

三日後、彼がC.J.を連れて戻って来た時、カルロスはC.J.を砂漠に連れて行ってカルロスのインディアンの友達に会ってきたのだと言った

C.J.は、その時2歳。”証人”としては厳しいかな。

カルロスは、C.J.をドン・ファンに愛する息子だと紹介して将来を託したいと伝えたそうだ。しかし、彼はお金について心配をしていた。カルロスは、C.J.を立派な私立学校に入れて教育を受けさせたいと考えていた。
それと履歴を消さなければいけないということは、C.J.との関係にも影響を及ぼすはずだった。

こうした希望と心配を話しているカルロスをドン・ファンは黙ってうなずいて聞いていたそうだ。ドン・ファンは、砂で遊んでいるC.J.を見おろして言った。

子ガラスについては心配はいらないぞ」とインディアンが言った。「この子がどこにいて、何をしているかは関係がない。彼はなるようになるさ

なんという情景!
ドン・ファン、カルロス・カスタネダとまだ二歳のCarlton Jeremy Castanedaが砂漠にともに佇んでいるのだ。

(中略)

C.J.が二歳の時、カルロスが連れていると空を見てC.J.が言った。「太陽をみて。年取って弱そうに見えるよ。明日の朝は、若くて美しくなるよ
感動したカルロスが私に夜話してくれた。

(中略)

この話は後に、ドン・ファンが話したこととして『イクストランへの旅』の中で予兆に関するエピソードとして扱われている。

明らかに、こうした会話の一部が創作である、だが”ドン・ファン”は実在する。彼は実在するインディアンで、実際にカルロスが会いに行っていた相手だ。(115p)

しかし、いったんカルロスが文書に書き起こすと、ドン・ファンはまったく博識で異なる存在になってしまう。それは、カスタネダのイマジネーションや周囲の人々、上記のようにC.J.や私、Mike Harner、UCLAの同僚、彼のお祖父などとの会話や存在に影響を受けているのだ。

2018年7月11日水曜日

Maya(19)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』15-4

Meighanは、Mrs.Liptonという作家の妻がUCLAのPowell Libraryの地下にあるUniversity of California Pressの受付として働いていた人がしてくれた話を覚えている。

カルロスが出版の打合せでオフィスに来た時、何度かC.J.を連れて来ていたという。
だが、こと私生活の話になるときまってCarlton Jeremy Castanedaの母親はスカンジナビア人だと言っていたというのだ。

カルロスが執拗にいうので私は、California Department of Public Healthの書類にカルロスが法的な父親であるとサインした。

新しい出生記録には彼の名前がCarlton Jeremy Castanedaと記された。カルロス自身も自分が父親であると署名させられた。面白いことに、彼は、ペルー生まれの学生となっていた。

なぜ僕がChocho(C.J.にカルロスがつけたニックネーム)を愛しているかわかるかい?君の(要素を備えた)子どもだからだよ」とある晩私に告げた。
僕は彼に伝えて一緒に働くよ。彼にすべてを伝えるつもりだ

彼の著書の中では、あいまいに「ぼくのかわいい少年」という言い方をしているが、彼のC.J.に対する愛情は本物だった。

その12月、ドン・ファンはカルロスに過去を徐々に消して完全に自由になるように履歴を消すように指示をした。

もちろん、それは理由は別かもしれないがカルロスが何年もやってきていたことだった。
昔の同級生のJose Bracamonteは、彼を嘘つきと呼ぶが、ドン・ファンによれば履歴のある物だけがウソをつけるのだそうだ。

履歴を消すことは親類とも縁をきることを意味し、それはカルロスがC.J.との関係も捨てることを意味していた。

カルロスは、そのころフィールドワークでは三種類のドラッグを体験している。
ペヨーテ、ダツラ、そしてキノコだ。またドン・ファンに盟友(ally)関する手ほどきも受けている。

『白いタカ』の話が出てきますが割愛します。こちらをご覧ください。

「変身」については多くの謎がある。その頃の週末の定例行動として1961年の11月、カルロスは学校を休んでドン・ファンに会いに行っている。

彼は、老人の義理の娘と会っている、ユカタンからきたメキシコ人で、ドン・ファンの足の怪我の世話をしている。ドン・ファンは転んだあるいは、ラ・カタリーナという魔女に押し倒されたと言っている。

ドン・ファンによるとラ・カタリーナは黒い鳥に変身していたそうだ。はじめカルロスは信じなかったが、とにかく話を聞くことにした。

ドン・ファンによると呪術師の世界では動物に変身するのは普通のことで物理的な肉体から精神は分離して旅をできると言った。

カルロスの故郷から数百マイル離れたペルーのUcayaliでも、ayahuasca(アヤワスカ)を服用したシャーマンは鳥に変身すると言われている。

またペルーPeruvian Montanaの東のAmahuasca族にも同じ言い伝えがあるしエクアドルの東Zaparo族やコロンビアのSiora族やペルーのCamapa族も同様だ。

2018年7月10日火曜日

Maya(18)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』15-3

カルロスがインディアン居留地にでかけて留守にすることで私たちはしょっちゅうケンカをした。
少なくとも彼の研究が終わるまではということで、ついに彼は家を出ることにした。

そして7月。
彼は自分のタイプライターや書き連ねたものをもってMadison Ave.のMarietta Apartmentsに引越しをした。

このような状況であれば、むしろその方が好ましいと思った。
私は彼に薬草を家に持ち込むんでもらいたくなかったし、学校も新しい学期に入ったばかりでもあった。

私もSouth Detroitのアパートを去り、Willowbrookに引越しをした。カルロスの住まいとは近いところだ。

この結婚がうまくいかないのは明らかだった。6カ月たったが週末彼はほとんどフィールドトリップで家にいなかったし、何をしているのか言いたがらなかった。

Adrian Gerritsenというビジネスマンに出会い、カルロスに離婚を迫った。はじめ断られた数週間後に承諾してくれた。

カルロスは、とても簡単に(離婚)できると私に言うと車でTijuana(ティファナ)に行った。
結婚式を挙げたときと同じ担当者に離婚したい旨を説明した。書類を受け取って記入すると役人にカルロスがお金を払った。
彼は、書類が正式に受理されれば離婚が成立すると言った。
私たちはロスに戻った。

その秋と冬、カルロスはフィールドトリップでより多く過ごすようになった。彼がメスカリトと出会ったのはこの時期だと書いている。

1961年の夏ごろにはドン・ファンとの関係が良好だと書いているが、初期の頃は呪術の世界に入ってその儀式のプレッシャーのため憂鬱に苛まれていたようだ。

学校の授業で会う以外はカルロスとはほとんど会うことがなくなり、私がGerritsenと結婚して妊娠したことを知人を通じて知ることになった。

8月12日、Hollywood Presbyterian Olmsted Memorial HospitalでC.J.を産んだ。カルロスが病院に訪ねてきたかどうかはよく覚えていない。


Hollywood Presbyterian Olmsted Memorial Hospital

二年後、カルロスが私を驚かせた。私たちが本当は離婚してなかったというのだ。メキシコでの離婚手続きは、彼のフィールドワークの間、私をごまかすためのインチキだったのだ。いずれ私に告げようと思っていたと言ったが、私がすぐにAdrian Gerritsenと結婚するとは思ってもみなかったのだろうか?

カルロスは、私にまだ公式には結婚していて、誕生した子供は彼の子どもだと言ったのだ。私は麻痺したようになり頭がぐるぐる回った。

そして私たち三人、つまりカルロスとAdrian Gerritsenと私たちが着地点をみつけるまでさらに数週間かかった。

私がようやく事態を受け入れカルロスが私のSoheny Driveのアパートを訪れることを許容できるまで一年かかった。

当初からカルロスは、C.J.に対して強い思いを持っていて、彼の精神的な息子だと言っていた。小さなC.J.が育つのを見るのが大好きだった。

10カ月もするとC.J.は自分の足で立ち、おしゃべりもするようになった。
彼は、学校にC.J.を連れて行くようになった。友人たちがC.J.のブロンドの髪と青い目を指摘すると(私のことは話さずに)母親がスカンジナビア人だと言って説明をしていた。
これは彼がLAで私と付き合う前に付き合っていたGib Edwardsという女性をイメージして話していたのだ。

2018年7月9日月曜日

Maya(17)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』15-2

カルロスは、著書ではその時点でダツラについてまったく無知であったかのように書いている。

事態を一層複雑にしているのは、カルロスがインディアンの情報提供者からドラッグについて教わったのがダツラが一番目のものではないということだ。
彼は最初にペヨーテについて学んだと『教え』で書いている。そして学んだ時期はダツラについての会話が行われる数週間前なのだ。

もし、本当にペヨーテについてダツラより以前に学んだのであればなぜ彼はMeighanに提出した論文にペヨーテについて書かなかったのだろうか?

なぜ出版するまで待ったのだろうか?時系列をごちゃまぜにしてシャーマンへの道が徐々に進むように見せたかったのだろうか?

カルロスの一連の作品が、事実と創作の混合だった可能性がある。アリゾナとカリフォルニアそしてメキシコの砂漠で得た情報の混成、UCLAの図書館も入っているかもしれない。それらを読み物としてまとめたのだ。

逆に、著作の方が彼の弟子生活を正しく書き記したものの可能性もある。

確かなことは1960年、彼が実際にインディアンに会いにいって留守にしていたことだ。
South Detroitのアパートにいることは少なかったし、友達とも過ごすこともなかった、そしてこれまで好きだったオカルト話にも興味を失っていた。

(中略)

彼は、自分の旅行が重要なことだと言っていたが私はあまり興味がなかった。私が知っていたのは彼が家にいないことが多かったことと、それが嫌だったことだ。

ある日の午後、彼はダツラと思われる束を抱えて砂漠から戻ってきて、その煙を私に吸わせて何がおきるか話すように言った。
私には、部屋の中のカーテンだか何かが畳まれるように見えた。カルロスと思しき人間が黄色いメモパッドに私のいうことを書き留めていた。

何時間後かに目覚めたあと私がカルロスに何が起きたのか尋ねたがあまり話したくないようだった。

彼は、まるでそのことが重要でないように振る舞った。彼が書き込んだノートも見せてくれなかった。彼がドラッグをアパートに持ち込んだのは先にも後にもこの一回だけのことだ。

2018年7月6日金曜日

Maya(16)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』15-1

この章は長いので5つに分割します。

カルロスにドン・ファンを教えた友人のビルという人物は、Alan Morrisonのことのように思える。彼は、ドラッグ研究のガイドであり助手だった。

Meighanは「ドン・ファンのことで問題なのは、そして批判されるのは、彼が唯一の人物だということだ。彼は、実際にはどの部族にも属していない。彼の両親は、どの部族にも属していなかったし、彼はカリフォルニアのインディアンたちと暮らしていたこともあるし、またある時はメキシコのインディアンたちとも暮らしている。彼は純粋なヤキではない。また、彼は非常に知的な人物でもある。私も彼のように知的なインディアンに会ったことがあるが非常に稀な存在だと思う」と言っている。

当初、カスタネダは論文の情報提供者として付き合っていて、自分の論文を書籍にして出版するようなイメージは持っていなかった。

彼の論文では、インディアンの情報提供者の名前は明かされておらず偽名で記されている。後に彼の本では、恩師をJuan Matus、つまりドン・ファンと名付けている。この名前は英語でいうジョン・スミスと同じくらいのありふれた名前なのだ。

Meighanは、1966年まで謎のインディアンの名前を知らなかったし、UCLAの同級生たちが知ったのは、『ドン・ファンの教え』が発行された1968年まで知ることがなかった。
しかしカルロスは、ドン・ファン・マトゥスという名前を1963年よりも前に決めていた。

彼とAdrian Gerritsenは、1963年のはじめロスのThird Avenueのカフェでカルロスとお昼を食べていた。話題が中央アメリカのインディアンのことになった。

この人物は、C.J.カスタネダの実の父親です。

Gerritsenは、モルモン教の活動の一環で、ユタ、カリフォルニア、ニューメキシコそしてアリゾナのインディアンの居留地のサポートをしていたのだ。

彼が僕のインディアンについての知識に興味をもったんだ」Gerritsenは当時を振り返る。
彼は、治療師のドン・ファンについて話してくれた。カルロスは何度も会いにでかけ友達になったと言っていた。ドン・ファンは、カルロスを信頼し、その夏、彼とその仲間に会いに出かけることになっていた。カルロスは、この人物と彼の不思議な話について書く予定だと言っていたが、それ以上詳しく話してくれなかった

カルロスは、1961年6月23日からノートを記している。
この習慣は彼が弟子の間ずっと続いた。写真もテープも残っていない。弟子になりたての頃は、隠れてノートをとり記憶をたどって会話やできごとを書き起こしていた。ドン・ファンに記録を取ることがゆるされてからは大量の会話を記録している。

しかし、そうした記録にはいちゃもんもついている。例えば、ドン・ファンは本当にジムソン・ウィードに関する説明をしたのだろうか? したのだとするとカルロスはいつ聞いたのか?

ドン・ファンの説明は、『ドン・ファンの教え』に書かれている1961年の8月23日より前のことだ。少なくともカルロスは、その時点より前に知っていたはずだ。なぜなら彼は、その情報をMeighanに提出した論文に書いているからだ。彼の学部時代の論文には、ダツラの四つの頭についての情報が全部記されているのだ。

カルロスが本で61年に知ったと言っている情報を彼はそれより前に知っていたのだ。

今、思ってみれば、ダツラの扱いについては、彼の情報提供者(ドン・ファン)の中ではあまり重要視されていなかったからではないだろうか?」とMeighanは言う。
ドン・ファンの強力な知恵のストックの中でそれほど重要なものではなかったんだろう。だからカルロスが彼の前に現れたさい、ダツラに非常に興味を示してもわずかの情報しか教えなかったのだろう

ということだとすると、問題はカルロスが書いている日付にいったい意味なんてあるのだろうかという疑問が生じる。むしろ目くらましの一種なのかもしれない。

卒業論文に登場する情報提供者がドン・ファンとは別人物だったということも考えられるが、他の人物が後にドン・ファンが語る内容とまったく同じ知識を語るだろうか?

2018年7月5日木曜日

Maya(15)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』14

※この章は、割と重要です。

カルロスは、Vermontにある自分の部屋を引き払って823 South Detroit Streetの私の部屋に移って来た。



彼は、Haggarty'sの仕事をつづけ、私も電話会社勤務で忙しかった。
彼は夜遅くに帰宅、夏ごろには週末も家をあけるようになった。
時に何時間か、次第に何日も家に帰らないようになった。
はじめは他に女性ができたのでは?と疑ったが彼は否定した。

カルロスは、砂漠に薬草の勉強にでかけていて、”ある男を見つけたんだ”とある日言った。だが、彼がインディアンで先生である以上のことは何一つ教えてくれなかった。

初期のフィールドトリップは、彼がとっているカリフォルニア民族誌(California Ethnography)の授業の延長だった。Clement Meighanという考古学者(archeologist)が教える授業で人気があった。
彼の第一作の本のクレジットで一番に載っていたのがこの人物だ。

この授業は毎年行われていてレポートが課題だった。インディアンとの直接インタビューに成功した学生は無条件にAがもらえた。
カルロスは、このレポートが成功すればいい成績がもらえるだけでなく大学院に入るのにも有利になると考えた。

レポートのテーマには、バスケット(籠)や陶器、農業など事欠かなかったがカルロスは、民族植物学(ethnobotany)に決めた。

60人のクラスメートの中で実際にインディアンとコンタクトした人間は三人だけだった。一人は、大学生の中で一人見つけ人種問題をテーマにした。もう一人は、フレズノ( Fresno)に住んでいる友人を通じてインディアンを紹介してもらい月並みなインタビューを行った。
カルロスだけが情報提供者を見つけたのだ。

実際のところカルロスは、何人ものインディアンとコンタクトし何度かMeighanの指導を受けるために彼のオフィスを訪れている。
始めの頃、カルロスは、Palm Springに近いCahuillaのインディアン居留地を訪れ、次にColorado River近辺のインディアンと接触した。

インディアンに他のインディアンを紹介してもらうのでカルロスは次から次へと情報提供者たちを渡り歩き、不思議な儀式や薬草の利用について学んでいった。
最終的に、彼はJimson Weed ( Datura inoxia)について深い知識を持っている男にたどり着いた。
それがカルロスの卒業論文のベースとなった研究だ。

彼の情報提供者は、Daturaについて驚くほどの知識を持っていた。カリフォルニアの一部インディアンたちによって儀式で用いられるドラッグだ。だが、多くの文化人類学者は4、50年前に情報が失われてしまって研究をやめてしまっているテーマだった」とMeighanは当時を語っている。

だがカルロスが見つけた人物は、いまでも大量にその知識を持っていてしかも使っていたんだ。彼が提出したレポートは、そのような知識を持っている情報提供者がいなければ成立しないものだった。素晴らしい内容だったので私は彼に研究を継続するように勧めた。
彼は、いまだに力の植物としてダツラを扱うことのできるインディアンがいると言った。これについては彼の最初の本に記されている。
彼は、植物の根のどの場所を扱うのかが重要だと言っていた。植物が雄なのかメスなのか、深い部分の根なのかについてはシンボリズムや空想に基づいていて、薬理的な意味があるかどうかは疑わしいと思う。

彼は、いろいろな場所にでかけていき人々の信仰について尋ねて歩いた。私の知る限りでは、ダツラにまつわるこうしたことがこれまで出版されたことはなかった。私は、カリフォルニアの文献をくまなく読んでいたが、インディアンが儀式で扱うドラッグについて尋ねはじめると抵抗にあうため、このような情報を得ることができていなかったのだ。私はカルロスのレポートに感銘を受けた。彼は、これまでの文化人類学が得ることのできなかった情報を手に入れたのだ

(※中略)

カルロスが情報を得た相手は、彼が本でドン・ファンと呼ぶ人物だったのだと思う」とMeighanは言う。「カルロスは、本の中で明示してはいないが、おそらく同じ人物なのだろう。彼は、情報提供者を部族と地域だけ明かしていて、その人物はYuma族とYaqui族の混血だと言っていた

ドン・ファンは、父親がヤキで母親はユマ・インディアンである(『呪術と夢見 - イーグルの贈り物』 )と言っています。
NAVERの「カルロス・カスタネダまとめ」によると、自称ドン・ファンのモデルだったというカチョーラは、1909年、北米大陸 ソノラディザード(Sonola)で、ヤキインディアンの父とトルテックインディアンの母のもとに生まれる、とあります。

文献によるとヤキは、儀式では薬草を使わないそうだが、カルロスは気に留めなかった。彼は、本当の呪術師を発見したのだ。

2018年7月4日水曜日

Maya(14)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』13

LACCを修了すると、カルロスはUCLAに入学した。

芸術家としての道を断念し、教育を専門にしようと考えた。物書きとして身を立てようと思っていたか?と考えるのは興味深いがこの時点ではまだ考えていなかったと思う。

私の叔母が亡くなってからSouth Detroit Streetのデュープレックス(二階建てのアパート)に引っ越した。私はSue Childressと同居した。

初冬、カルロスはHaggarty's(Wilshire Boulvardにある女性ものの店)の経理として夜に働く職を得た。

Andrija PuharichのThe Sacred Mushroomが出版されたとき、カルロスも含めみんなが読んだ。

カルロスは、霊媒役のオランダ人彫刻家のHarry Stoneと自分を重ね合わせていたかもしれない。

Puharichによりカルロスは、メキシコのシャーマニズムとPsilocybe mexicana(キノコ)を知った。
そしてオルダス・ハックスレーにより、詳しく言えばProfessor J.S.Slotkinの研究によりメスカリン、アメリカ・インディアンが使うペヨーテについても学んだ。

サウスウェストの学生たちにはもう一つ有名なドラッグがあった。”loco weed”(ダツラ)と呼ばれるものだ。

ドン・ファンが教えてくれたことになっている三つのドラッグ、キノコ、ペヨーテ、そしてジムソン・ウィード(ダツラ)のことをカルロスはドン・ファンに教わる1960年より前によく知っていたのだ。

この後、マーガレットとNeville Goddardとの不思議な関わりについてのエピソードがありますが、割愛します。この下りは、神秘学や精神世界について精通していたマーガレットとの付き合いを通じてカスタネダが知識を蓄えていったと示唆しています。

続いて1960年の1月、Farid Aweimrineという中東のビジネスマンとアパートにいた時~結婚のエピソードが詳しく書いてありますが、すでに『ドン・カルロスの教え』に書かれている内容とかぶりますのでそちらをご覧ください

あと先になった感がありますが『ドン・カルロスの教え』の著者は、マーガレットの著書を参考にしたと思います。しかし、ここで大きな矛盾があります。
この結婚の詳細を知っているのはマーガレットを含む部屋にいた当事者3人以外にはあり得ません。ですが、マイク・セイガーの『ドン・カルロスの教え』(のオリジナル)は1999年に発表されているのです。
一方、マーガレットの著書は、2001年2月1日発行。マイク・セイガーの記事より後なのです。

これは100%あたしの推測ですが、マーガレットの回想録のゴースト・ライターがマイク・セイガーなのではないでしょうか?

『ドン・カルロスの教え』とよく似た情緒的な書きっぷり、いかにもプロのドキュメンタリーライターっぽい構成、カルロス周辺の人々の取材内容などから彼自身がマーガレットにインタビューして仕上げたのではないのでしょうか?


2018年7月3日火曜日

Maya(13)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』11~12

お待たせしました。(誰が?(笑))
『~魔法の旅』、一応最後まで抄訳が済みましたので連載を再開します。

●第11章

第11章は、カルロスが手掛けた彫刻についての話が披露されています。
その内のいくつかをまだマーガレットが所有していて、Sueの胸像も作ったとあります。

また、カルロスがマーガレットの他の交際相手に嫉妬深かった話とインディアンの占星術についてのエピソードが書かれていますが、あまり面白くないので続く第12章に進みたいと思います。

●第12章

カルロスは、1958年はNorth New Hampshireに住んでいた。そこから数マイル離れたHawthorneにあるRosencrans通り(Ave.)にあるMattel Toy Companyに職を得た。

日本人にもおなじみのマテル社ですね。

彼は、LACCの四年目、Jonnieという女性が経営するAdams Avenueの下宿に引っ越した。
LACCでは、Vernon Kingという先生がカルロスに(詩を)書くことを勧め、学校新聞で入賞したこともある。

1958年の12月、ハリウッドのCherokee Ave.に家を借りることにした。カルロスとの交際に反対する叔母の態度に変化はなかった。

数か月、同棲して私は、叔母の家に一旦戻った。カルロスは、LACCキャンパスに近いVermont St.にある40階建てのアパートMarietta Apartmentに移った。

最終学期になってシルクスクリーンの仕事をしていたし帰化の準備を始めていた。
名前を本名のAranaにするかカスタネダにするか迷ったが結局、カスタネダにした。

1959年に叔母のVelmaが亡くなった。

1959年6月19日、カルロスはLACCを卒業した。美術とプレ心理学で学士号を取得した。実家には、記念写真とともにこの後、UCLAに入る予定だと手紙を出した。これが彼が家族に出した最後の手紙になった。後に出版が成功しても家族はまったくそのことを70年代まで知らなかった。

彼は家族との絆として自分の母の写真を持っていたが、ある日、私との喧嘩の最中に破いてしまった。

2018年7月2日月曜日

『一人旅の友は自由』~孤独な鳥の条件~(3/3)

前回は、PBSのMy Humble Opinionをご紹介しました。

この話で思い出すのがカスタネダの『力の話』で引用されている『孤独な鳥の条件』という詩です。
あたしの手元には、日本語では『力の話』の初期の出版である『未知の次元』に掲載された名谷一郎氏の訳とカスタネダ本の本家?、太田出版による『力の話』真崎義博氏による翻訳、そして上記、二冊の原作、『Tales of Power』に掲載されている英語版があります。

この詩のオリジナルはスペイン語ですので『Tales of Power』に掲載された英語翻訳はカスタネダ本人の手になるものと思われます。
カスタネダは、LACC(Los Angeles Community College)時代、教師に詩の才能を認められていたといいますから詩については造詣が深かったのでしょう。

あたしの邪推では『力の話』から以降は情報提供者(=ドン・ファンたち)不在の完全なフィクションですから文中でカルロスに詩の朗読を頼むドン・ファンは、まさにカルロス本人なのだと思っています。

スペイン語の原詩もついでに掲載しようと検索したところ日本語のブログでとても良い記事を拝見しましたので参考にさせていただきました。この場を借りて御礼申し上げます。


孤独な鳥の条件

孤独な鳥の条件は五つ。
一、孤独な鳥は至高へと飛ぶ
二、孤独な鳥は連れに煩わされることがない
  たとえそれが同類でも
三、孤独な鳥は嘴を天空へ向ける
四、孤独な鳥は決まった色をもたない
五、孤独な鳥はとても静かにうたう

サン・ファン・デ・ラ・クルス
(光と愛の金言集)
※『力の話』(新装版)太田出版2014年4月8日第1版第1刷
真崎義博訳

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孤独な鳥の条件は五つある
第一に孤独な鳥は最も高いところを飛ぶ
第二に孤独な鳥は同伴者にわずらわされず
どの同類にさえもわずらわされない
第三に孤独な鳥は嘴を空に向ける
第四に孤独な鳥ははっきりした色をもたない
第五に孤独な鳥は非常にやさしく歌う
サン・ファン・デ・ラ・クルス
<光と愛のことば>

※『未知の次元』講談社学術文庫1993年6月10日第1刷
名谷一郎訳

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The conditions of a solitary bird are five:
The first, that it flies to the highest point;
the second, that it does not suffer for company,
not even of its own kind;
the third, that it aims its beak to the skies;
the fourth, that it does not have a definite color;
the fifth, that it sings very softly.
- San Juan de la Cruz, Dichos de Luz y Amor
( Carlos Castaneda “Tales of power” )

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LAS CONDICIONES DEL PAJARO SOLITARIO

Son cinco:

La primera, que se va lo mas alto;
la segunda, que no sufre compania, aunque sea de su naturaleza;
la tercera, que pone el pico al aire;
la cuarta, que no tiene determinado color;
la quinta, que canta suavemente.