2016年8月31日水曜日

分離15 音の中の穴

実は、この第15章から後のエピソードについては今回読み直すまですっかり記憶から消えていました。

それほどラ・カタリーナの話が強烈な印象を与えていたのでしょう。
シリーズの後で、このラ・カタリーナがカスタネダのことを好きになったという話題がでますが作品の中では二人が直接言葉を交わすシーンは登場しません。
とても気になります。

前章で、目をつかわずに音に注力しろと言われたカルロスは、二か月間『世界の音』に聴き入る訓練をはじめたとあります。訓練のやり方についてはまったく書かれていません。耳を澄ませるだけでしょうか?見ずに聴いて自分に語りかけないことだそうですが。

その訓練を経て1969年11月10日朝9時に訪問すると二人で東の山の方へ遠出をし、きざみを吸います。

ドン・ファンに『穴』を見つけろと言われます。穴の中にあらゆる種類のメッセージや訓令が見つけられるのだそうです。

ドン・ファンはスピリットキャチャーという「紐」を使ってカルロスをサポートします。あたりの音に集中していると「穴」とは「音と音との間の空間」だったことがわかります。
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ひとつひとつの音の拍子は実は音のパターン全体における単位となっていたのである。このように音と音の間の空間なり休止というのは、それに注意を払えば、ある構造における穴だったのだ。(分離277)
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気がつくと再び例の畑が見え、盟友が立っていました。
盟友が自分に向かってきて身の危険を感じましたが、顔をそむけることができませんでした。ですが・・・
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ドン・ファンが盾として『心ある道』の項目について話してくれたときの意味がわかったのである。生活のなかでしたいことがあったのだ。それは非常に消耗的かつ好奇心をそそるものでわたしを平和と喜びで満たしてくれる何かであった。盟友がわたしを打ち負かすことはできないことがわかった。そして彼の顔全体を見る前に何の苦もなく頭を動かすことができたのである。(分離279)
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確かにドン・ファンは「楯」とは「人間がすること」だと言ってました。生活の中でしたかったことってなんでしょう?スイミングとかゴルフとかそういう日常のことなのかもです。
「酔い覚まし」にまた川に行きます。

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ドン・ファンがわたしを非常に小さな川へ連れて行って服を脱がせ、そのなかで転がした。(分離279)(体術)
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「転がす」ってどのように転がすのでしょうか?鉛筆みたいに?コロコロと?

いつものように、おさらいセッションでドン・ファンが教えてくれます。
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呪術師の盟友は音の中の穴を通して複雑なものごとを明かしてくれる(分離280)
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カルロスは(まだ)盟友を持ってないのだそうです。
うーん。こんなに出会っていてもまだ持ってないんですね。とにかくうち勝たないと盟友を手にいれることはできないのでしょうか?

ところで、
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わしのスピリットキャッチャーはイノシシなんだ。
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と今回の旅の目的は「狩り」だったはずだという話の流れでドン・ファンが言います。はて?
あたしはスピリットキャッチャーは、ネット検索結果の影響もありすっかり「楽器」のことだと思ってました。

ところが、スピリットキャッチャーを盟友がくれるものだというのです(分離282)

スピリットキャチャーと精霊の関係などについて対話があります。
長いので割愛しますが実践にご興味のあるかたは本編をご覧ください。

2016年8月30日火曜日

分離14 女性呪術師ラ・カタリーナ

最近、エントリーがやたらと長くなっているので引用などは原本の書籍にまかせてなるべく分量減らしたいと思っています。

さていよいよ『分離したリアリティ』のメインイベント「ラ・カタリーナ」との対決です。
1969年9月28日にドン・ファンを訪問すると留守で、以前に起きたカタリーナとの一件の影響でドン・ファンの家にひとりきりでいるととにかく恐怖を感じるようになっていたといって過去の事件の回想が語られます。

『ドン・ファンの教え』で少し触れた1961年11月23日のドン・ファンの脱臼の話に続いて10日後(1961年12月3日?)に訪問すると怪我はケロっと治っていました。
それからちょっとした旅に行こうと誘われます。ラ・カタリーナを監視するんだそうです。その日の夜まで監視するので「音を立てずに」坐る方法を習います。

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右足を左ももの下におしつけ、左足はあぐらをかくような格好にしておうように。
右足は素早く立ち上がるためのスプリングとして使う。(体術)
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女の家のある西側を向いて坐って見張りましたがこの日は失敗でした。
それから数か月、カタリーナについて語らなかった(分離254)ドン・ファンがある日興奮して「くろうた鳥」にやられるところだったと言ってカルロスにショット・ガン(散弾銃)で撃ち殺すように言われます。
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心臓の鼓動が激しくなり耳鳴りがした。わたしは闇のなかで狙いを定め、両方の引き金を引いた。
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両方の引き金?あたしは銃の知識がまったくないので調べましたら、こんな動画を見つけました。
引き金が二つある鉄砲なんてものがあるんですね。
ま、ハーモニカもいろんなのあるものなぁ。

あるんですね~、でも動画の銃砲店のご主人は危険なので絶対にしないようにおっしゃっています。

『水平二連銃の両引き、引き金を同時に引くとどうなる?』



結局、この鳥撃ちはしくじってしまいます。
ドン・ファンは前以上に自分の命が危なくなったので、最後のチャンスだと言われイノシシの足でカタリーナのヘソを突き刺せと言われます。(分離259)

カルロスはヒットマンを引き受けるには躊躇がありましたがドン・ファンの命を守るためついに決心します。夕暮れになるとイノシシの足を使った一連のまじないのような動作をさせられてます。(分離260)(体術)

翌朝、ドン・ファンに案内された道端でカタリーナを待ち伏せすることになりました。
ドン・ファンのキュー出しでカルロスはカタリーナを襲いますが、目の前にいたはずの彼女が瞬時にハイウェイの向う側に移動したように思えました。今回もカタリーナにすんなりかわされドジをふんだカルロスはパニックに陥ります。

しかし、なんとドン・ファンは一連のカタリーナとの対決はすべてトリック(仕込まれた芝居)だったと打ち明けます。

知者は自分の弟子にわなをしかけにゃならんのだ。これが規則なんだよ」(分離263)と言います。久しぶりに「知者」が出ました。

ドン・ファンはカルロスに自己放棄などを学ばせるためにこの課題を実施したと言います。

彼女に自分のツメを示したから、あいつはお前が恐れておらんことがわかったはずだ。お前をトリックにかけるために彼女を使ったのは、彼女が強くて冷酷で絶対に忘れんからだ

怒るカルロスにドン・ファンは自分の師にもっとひどい目にあったのだと言います。
ドン・ファンの辛い年月については後半に驚愕のストーリーが待っています。

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あの女は自分の力を試すのに彼を使い、本当に殺そうとしていたのだと厳しい口調でつけ加えた。
「もうあいつもわしにからかわれとったことを悟ったろう」
「あいつはトリックじゃないんだぞ」
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ドン・ファンにはかなわないと知ったカタリーナは次からはカルロスを狙うだろうと言います。
カルロスはカタリーナにつけ狙われることを思い恐怖におののきます。
一巻目の終わりと同じく弟子をやめようとまで考えます。(分離265)

以上がラ・カタリーナ事件の顛末です。
この章の冒頭でドン・ファンの家が留守だったので恐ろしくなった~怖いと言えばカタリーナだ~という回想になったわけですが、一度、出直して来てからが以下です。

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ドン・ファンの家に戻るとトリックの一連の流れを踏まえ戦士の心得、”見る”ことについて、そしてカルロスに対する期待についての長口上があります。このあたりドン・ファンの教えを実践なさる方々はお読みください。(分離266)

その後、カルロスの盟友(水の精霊)との出会いでの失敗の原因についての言及があります。
カルロスが自分の楯をなくしたのがいけなかったのだと言います。
(前には、自分を投げ出してしまったからだと言われますが、表現としては似ていますね。)

楯とは「人のすること」だそうです。
人のすることがなぜ(身を守る)楯になるのかいまひとつわかりませんが、シリーズ後半では「しないこと」という用語が登場します。なにか関係がありそうです。

ドン・ファンの戦士の心得話はさらに続いて「心のある道」についての助言をします。
カルロスはそういわれても努力しているのだがうまくできないんだといいます。

するとドン・ファンは「お前は考えすぎるししゃべりすぎる。自分に話しかけるのをやめにゃいかんよ」と言われます。
この考え方も継続的にでてきます。
頭の中で自分に語りかかる状態を「内的対話」と呼んだりします。そして内的対話をやめる状態をドン・ファンは「世界を止める」と表現します。

わしらは自分のなかのおしゃべりでわしらの世界を守っとるんだ」(分離271)

世界は言葉でできている」いますからあたしにしては珍しくドン・ファンの言っていることはよくわかります。

内的会話を止めると世界のあるべき姿が見えるそうです。そのためには目から重荷をとりさり耳を使うように言われます。(分離272)


「世界は理解できんものだ。本当の神秘だ!」(分離273)
「戦士は世界を永遠の神秘として扱い、人のすることを永遠の愚として扱うのさ」
ドン・ファンは今後も世界はだと言い続けます。

ああ。今回も結局長かったですね。

2016年8月29日月曜日

分離13 盟友の顔そして死とは(2)

ドン・ファンは、盟友が畑でカルロスに示した動作についての解説をしています。(分離239)

お前をみて歓迎したのさ。彼は、お前にはこのあたりのものでないスピリット・キャチャーと小袋が必要だってことを教えたんだ。彼の袋もほかの地域のものだ。お前には行くてをさえぎる三つの障害があるが、それが丸石だ。・・・

「三つのお願い」とか「八つの玉」とかエピック・ファンタジー系によくある使命ですがこの「三つの障害」という課題。おそらくここ以外で振られていないのでは?
だからまたしても落とし前がついていないと思います。

カルロスが見た盟友がいた畑の風景はどこかに実在する場所だそうで、いまいるドン・ファンの家の近くではないらしいようです。
要するに、カルロスは実際に泡に乗って本当に遠くに旅をしたのだということです。こうした呪術による空間移動を、カルロスはこの後もたびたび体験していきます。

ドン・ファンは、目をとじたままの水浴のあと家に戻り目をあけたとき隣にいた盟友の顔が「カルロスの死の顔」だといいます。


1969年9月5日の日誌では、カルロスがロスに帰ろうとすると、水の精のワナによるダメージ?から回復するまでロスに戻らない方がいいと言われそれから「死」に関する長い談義が続きます。

議論の糸口によかろうとカルロスが持ち歩いていた『チベットの死者の書』をドン・ファンに読み聞かせます。
そういえば、大流行しましたね、『死者の書』。あたしも持ってましたがどこかに行ってしまいました。内容も全然覚えていません。


カルロスは、「チベット人が”見てる”と思うか?」と尋ねると「かろうじてな」と答えて「チベット人が話とるものは死じゃない何か別のものだ」と言います。

やはし、民族によって世界の認知度合が異なっていて、ドン・ファンは自分たちが一番いけてると思っていたのでしょうか?
では、ドン・ファンは死をどう考えているのか突っ込むと死がどんなものかは言えないと言われてしまいます。(分離243)
このやりとり長いので引用しませんが、興味深い内容ですのでぜひ原本をご覧ください。

この章では、息子の死について再度の言及があります。(分離244)
ここでは息子の名前がウラリオ(Eulalio)となっていますが、前出の同115ページではユラリオとなっています。校正もれだと思います。
ものは試し、Google翻訳で発音を聴いてみました。

英語:ユラリオ
スペイン語:エウラリオ

スペイン語では冒頭のEは発音するということなのでウラリオはないのかも。

ドン・ファンによると死には二つの段階があるそうです。
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第一段階は薄い一時的記憶喪失。第二は死と出会う現実の段階なんだ。それはほんの一瞬にすぎん。そしてわしらはまたわしら自身になるのさ。死が静かな凶暴さと力でわしらの生を無にしちまうのはそれからなんだ。(分離244)

死は腹から入ってくる。意志の欠陥を通ってな。一番重要で敏感なところなんだ。わしがこのことを知っとるのは、盟友がその段階まで導いてくれたからだ。(分離246)
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てなことを言ったあとドン・ファンは奇妙なジェスチャーをします。
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両手を二つの扇のように広げて肘の高さにまであげ、親指がわきに触れるまでそれをまわし、次にヘソの上の身体の中心でゆっくり合わせたのである。(以下略)(分離246)(体術)
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これは、例の後にマジカルパスと呼ばれる一連の体術のひとつでしょうか?

呪術師であるってことは恐ろしく重荷なんだ
”見る”ことを学ぶ方がはるかに良いと言ったろう。”見る”ことのできる奴はすべてだ。それに比べたら呪術師なぞ悲しいもんさ」(分離247)

またまたドン・ファンの「呪術師」廃業宣言です
明らかにドン・ファンは「呪術師」を職業ととらえていて「見る」ことと切り離しています。

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「呪術ってのは自分の意志を鍵穴へさしこむことさ。呪術は干渉さ。呪術師は影響を及ぼしたいものの鍵穴を捜して見つけだし、それからそいつに自分の意志をさしこむんだ。呪術師が呪術師であるためには”見る”必要がない。知っていなければならんのはいかに意志を使うかってことだけだ」(分離248)
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呪術の効果を証明するようにドン・ファンは自分の意志を使ってカルロスの車のエンジンがかからないようにします。
ドン・ファンはカルロスの前でカラスの動作をまねた振る舞いをし、奇妙な笑い声をたててカルロスを気味悪がらせます。

カルロスは、催眠状態にさせられた結果、エンジンがかからないような気がしたのだろうと呪術の効能を疑います。

そんな催眠術をかけられるだけでもすごいと思いますが、それよりもシリーズを通してドン・ファンがこのように自身の力を誇示すのは非常に珍しいことだと思いました。

2016年8月28日日曜日

分離13 盟友の顔そして死とは(1)

1969年9月3日、カルロスは「見る」試みをするためまた煙を吸います。

でもさ、8月9日に水の精にワナにかけられてから3、4カ月は戻って来るなって言われたのに?たった一カ月で「自分を投げ出さないよう」コントロールできるようになったのでしょうか?

吸ってから歩いて丘に登ります。ドン・ファンがカルロスの頭を左右に動かしたら突然、目の前に耕された畑が見えました。(分離230)

畑の中にメキシコの農民のような質素な男がいて男は背を向けていましたが、もし向かってくるような守ために頭をまわしてやると言われます。
こちらを向いたので「来るぞ!」といって頭をまわしてもらい助けてもらいます。

ドンファンに見つめずに『軽く』眺める程度にしてものを調べろと言われます。(分離232)(体術)また、焦点を合わせない技法です。

再び頭を回されて畑を見るとまたあの男がいましたが、歩き始めて視界から消え、目が覚めると翌日の1969年9月4日までドン・ファンの家に寝かされていました。

放心状態で気が付くと自分の周りに大量のすりつぶした葉がありそこに胃をおしつけるようにうつぶせに寝かされています。(体術)

起きてドンファンを探しに。用水路のところにいるのを見つけますが、走って逃げろ!と言われ驚いているとドン・ファン曰く「カルロスを連れ戻すのが大変で水をとりなしたのだ」と言います。

畑の風景で見えた男の件と水の精とどういう関係なのでしょうか?
カルロスを「連れて行った」のが畑の男のようなのになぜ水の精をとりなすのでしょう?
しかもいきなり「いちかばちかの賭をやるぞ。水のなかでお前を洗うんだ

なんだ?なんだ?

ドン・ファンに手を引かれ水のところに着くまで目を閉じていろ。一瞬でも水を見たら死ぬかもしれないぞ」と言われます。

またやけにいきなりカジュアルな死を賭した儀式です。怖すぎますよね。
カルロスは水に沈めたり引き上げたりの数時間。言われた通りずっと目を閉じていました。
家に戻り目を開いたら、すぐそばに畑の男がいて死ぬほど驚きます。
畑の男の顔に見覚えがあったそうですが、ドン・ファンに頭をたたかれて光景が消えていまいます。

ふーむ。じゃやっぱり畑の男が水の精だったのか。

ドン・ファンはカルロスに裏手の水の方は向くなと命じ「お前が見たのは盟友だ」と明言します。(分離236、237)

ここに興味深い記述があります。

カルロスは自分が見ている部屋の様子の現実味が何か変と感じ、「わたしが自分の知覚の究極的な『現実性』を信じられなかったのはこれが最初だった」とあります。

ドン・ファンは今後も「知覚がすべてだ」のような表現をします。
自分たちが当たり前だと思っている現実が実はそうではない。寝ている時の夢も現実も同じようなものなのだと言います。ここにおいてカルロスは新たな世界の認識に正式に一歩踏み出したのです。(分離236)

2016年8月27日土曜日

分離12 泡にのっての旅

1969年8月8日の日記は、水の精に出会ったあとの反省会から始まります。

緑色の霧(水の精)は、守護者(ブヨ)みたいに”見る”ためには打ち負かせなければいけないのか?とカルロスが問います。

そう。あらゆるものにうち勝たにゃならん

そりゃ戦士ですからですかね。

どうすれば勝てるのか?と尋ねると、

守護者の場合と同じさ、そいつを無にしちまうんだ

ふーむ。ようやく「どのような状態を”勝った”というのか」がわかりました。
でも、どうすれば無にできるのでしょうか?

相手に関して、何の感情ももっとらんかったら無にできる」(分離213)

なるほど。
この「無にしちまうんだ」の発言をいわゆる俗っぽい「勝ち負け」で解釈すると対決してやっつけるからボワーンと無くなるみたいな受け取り方をしてしまいますが、ドン・ファンが言いたいことはこちら側が「見る」状態くらいまで知覚を訓練すれば、ココロも鍛錬されているし相手に関して感情をコントロールできるので害のある影響力もなくなってしまう、みたいなことではないのでしょうか。

だから「すべてが無になる」みたいな表現になるのでしょうね。

この精霊たちは、これまでのドン・ファンの言を振り返ると精霊イコール「盟友」です。
シリーズの後の内容で盟友を「抑え込む」みたいな表現があったと記憶しています。これも「打ち勝つ」と同義でしょう。(pending)

呪術師は盟友を「使役」するようですので文字通り「無くなって」しまったらこっちとしても困るわけです。あくまでも盟友たちは異世界に存在をし続けていて自然体でつきあうことができる、と。
(精霊は非有機的存在とシリーズ後半で名づけられます)

結局、わかったようなわからないような感じですが、例の「子供のころの約束」と盟友に勝つことの関連性がまたよくわかりません。要するに精進しろということ?

守護者も、水の精もシリーズ最後まで読んでも勝ったのかどうかはわかりませんし、カルロスが”見る”ことができるようになったかも不明です。

水はお前の「見る」技術を完成させるための「かなめ」だと言われ、「ブルホが動くために水を使うという勉強」(分離221)のため1969年8月9日煙を川岸でふたたび吸い緑色の霧に再び会います。

霧の中に見えた泡にまたがるように言われ泡についてフワフワ浮いてカルロスは水の中をものすごく遠くまで旅をしたそうです。(分離222)

正気に戻るといつものように用水路につかっていましたが、身体が緑色になってしまいます。ドン・ファンは「水がお前をワナにかけようとしとるんだ」と警告を発しカルロスを逃がします。

カルロスの身体が緑色になったのは、カルロスが自分を投げ出してしまったからだそうです。そして水たまりの精霊に打ち負かされてしまったのだと言われます。(分離225)

でもさ、こないだはお前は水の精に気に入られたっていってたじゃないですか。
なんで気に入ってるのにワナにかけるんだよ。

ドン・ファンは水に狙われて自己を投げ出すことに対するコントロールを回復するまでは戻ってこないように言われます。

水を避けて3,4か月は身体に触れさせないように指示され、風呂はどうするんだと聞いてくだらないことを聞くなと叱られてしまいますが、実際どうしたんでしょう?
歯も磨かなかったのかなぁ。

2016年8月26日金曜日

閑話休題 『利己的な遺伝子』からの引用

少し前の投稿、「メスカリト問答 (教え 4.メスカリトとの再会(1))」でカルロスが神のいる天国について話すとドン・ファンに「お前頭おかしいんじゃないか?わしは神のいる所なぞ知らんぞ」と馬鹿にされた話がありました。

ドーキンスとドン・ファンは気が合いそうだと書きましたが、具体例をお示ししようと思い書棚から『利己的な遺伝子』を引っ張り出してきて、あたしが特に気に入っていた部分を引用してみました。
(数少ない「自炊」しなかった一冊です)

ドーキンスは、この著書に限らずどこもかしこもこんな調子の皮肉攻撃なんですが、下記は特に笑えるのでぜひお楽しみください。

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DNAは、ヌクレオチドのA、T、C、Gというアルファベットで書かれた、体のつくりかたに関する一種の指令だと考えてよい。それはまるで、巨大なビルの全室に、そのビル全体の設計図をおさめた「書棚」があるかのようである。細胞内のこの「書棚」は核とよばれる。設計図は人間では四六巻にのぼる――この数は種によって異なる。各「巻」は染色体と呼ばれる。(中略)

以降、実物を示す用語と比喩とを適当にまぜながら、建築家の設計のたとえを用いて述べていくことにしよう。「巻」と染色体ということばは、同じものを指すと考えてほしい。また遺伝子間の境界は本のページの境界ほどはっきりしないが、かりに「ページ」は遺伝子と同じ意味に使うことにする。この比喩はかなり先まで使えるであろう。これがついに破綻をきたしたら、また別の比喩を用いることにする。ついでながら、もちろん「建築家」は存在しない。DNAの指令は自然淘汰によって組立てられてきたのである。

(『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス著、訳:日高 敏隆、岸 由二、羽田 節子、垂水 雄二(紀伊国屋書店1998年5月27日17版)P45より)
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プリーチャー
最近、ビッグ・リボウスキ同好会(在りません)の知人から見ろと言われてどっぷりハマった「プリーチャー」(アマゾンプライムで配信中)も併せてごらんいただくとさらに味わい深いと思います。

建築家はいったいどこにいるのでしょう?


2016年8月25日木曜日

分離11 水たまりの精霊

1969年6月28日にまた煙を吸います。
ドン・ファンの手助けで立たされますが、また自分の力で立てず、ドン・ファンに横にされ「転がされます」(分離194)(体術)
この転がす体術?については度々登場するので記載しておきます。

煙による内省の影響か、例の自分の息子への思いが語られます。

自分の生活の複雑さの原因が息子であることがわかっていた。父親でありたかった。
子供の(を自由に放っておかねば)ことを考えると泣き出してしまった。(分離196)

追記2017/5/17)カルロスの妻Margaret Castanedaは、1966年に息子のC.J. Castanedaを連れてカルロスの元を去ります。

その内、ドン・ファンの顔が「それ自身の輝きをもったまるい物体」に見えたとあります。

その感覚に夢中になってじっと見たのでしょう。
ドン・ファンは、
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「わしを見つめるんじゃない」
「見るな。ほかを見ろ」
「何にも焦点を合わせるな」
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といいます。このどこか一か所に集中せず、焦点を合わせずというのも頻繁に登場します。(体術)

焦点を合わせるなとかいっておいて、今度は、そのまま家の裏の灌漑用水路までいって水を見つめるように言われますが、集中できずうまくできません。・・・さっき集中するなって言ったのに

いつものように水に浸けられ横になり回復をはかります。

いつもの伝で翌日の1969年6月29日に昨日の反省会を行います。
カルロスは(ドン・ファンの顔が輝きをもったまるい物体に見えたので)”見た”のか?と尋ねましたが、煙は誰にだってそう見えるようにするものなのさ、といなされます。

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昨日お前は”見”やしなかった。だが、”見る”ことへの第一歩を踏み出したんだ。
本当に見ることができると見つめることがすべて無になるんだ!(分離200)
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要するに、煙の力を借りて「見る」のは補助輪で自転車に乗るようなものなのかと思います。すべてが「無」になるんだ、という背景は、「色即是空」関係かもしれません。シリーズ後半「空っぽ」という用語が登場しますので関係ありそうです。

それから丘のふもとの峡谷の入口へ歩いて1時間ほどの水たまり(water hole)と呼ばれてるが乾いている場所へ連れていかれて、その真ん中へ坐れと言われます。

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左足を尻の下にし、右足はひざを立てて坐れ。
右手は坐ったときのまま横にたらし、左手は胸を横切るように当てた。(体術)(分離201)
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瞑想用の体勢かな?

ドン・ファンはスピリットキャチャーと呼ばれるヒモを使って音を出して水の精霊を呼びます。

ひもを鳴らしているときに何かがやって来るように感じたら特別なことばをさけばなければならないと言われます。あいにく具体的な言葉の内容は秘密のようで書かれていません。

何かがひどく恐ろしげにやってきたら数年前教えてくれた戦闘姿勢(右腿を強くたたきながら左足のつま先で地面を打って踊る)をとるように言われます。(分離202)(体術)

Mukkuri.jpg
ムックリ
この「スピリットキャチャー」について検索してきましたが、かかってきませんでした。日本語で検索すると出てくるのですが英語(spirit catcher)ではミュージシャンや近代彫刻だけしかかかってきません。

勝手な印象ですが、アイヌの「ムックリ」のようなものではないでしょうか。(ドン・ファンが使うのはヒモだけですが)

昔、八重洲にある「アイヌ文化交流センター」でいただいたことがあります。うまくはじくとビヨ~~ンと気持いい音が口の中で反響します。

カルロスは、(自分の方角としていつものように)南東を向いて座っていると反響音が南東方向のある一点に集中するように思えてきます。

翌日(6月30日)、ドンファンは、昨日は水たまりの精霊に話しかけて眠りを覚まさせた、とカルロスに教えます。

その同じ日、カルロスはまた煙を吸います。(分離203)
今回は自分の意志で立つことができるようになり、前日失敗した灌漑用水路の水を見つめる「行」に再挑戦します。
しばらくすると緑色の霧が見えて輝いてきました。

事後、ドン・ファンは、その経験でカルロスがもう「見える」ようになっているようにほのめかします。(分離206)

再び二人は丘に向かい、スピリットキャッチャーを使って水たまりの精霊を呼ぶと、また南東からこだまが返ってきますが、カルロスは怖くなって危険を感じた時に叫ぶことばを叫びます。

その様子をみたドン・ファンは、十分にやったと言います。
ドン・ファンにしては珍しく優しいです。

その後、「見ること」に関する対話があるので記載しておきます。
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『見ること』が盟友と呪術の技術からは独立したプロセスだと言った。
呪術師は、盟友を支配してその力を扱えるが、見ることができるとは限らない。
以前、彼が盟友をもっていなかれば「見る」のは不可能だと言ったと言い返すと。
ドンファンは、「見る」ことはできて同時に盟友を支配することはできないことはありうると答えた。(分離209)
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見ることのできる奴はさまざまな盟友のあやつり方を学んで呪術師になれる。盟友を支配する技術を学んで呪術師になることもできるが、そういう奴は決して見ることは学ばんのだ。(分離209)
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それどころか見るってのは呪術の反対で、呪術なんぞちっとも大事じゃないってことを気づかせてくれるんだ
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上記の引用で、ドン・ファンがもはや(職業的な)呪術師ではないというわけがだいぶわかってきました。

この二度のセッションでカルロスは、水たまりの精に気に入られたそうです。(分離210)
しかも今日は、「見ること」に近かったと褒められます。
これまたドン・ファンにしては珍しいことです。

2016年8月24日水曜日

分離10 戦士とは?意志とは?

この章は大変マジメな内容でしてカスタネダの理論を本気で実践しようとする人たちには重要な章かと思いますが、あたしには宝の持ち腐れです。

1969年5月31日にドン・ファンを再訪します。
”見る”ことに再挑戦したいと言いましたが、前回守護者から受けた『傷』が治るまで待てと言われてしまいます。
傷からの回復に関係があるのかないのか、成り行きで戦士に必要な「意志」についての説明がはじまります。(182)

「意志」については、以前「分離 5 管理された愚かさ」(分離104)で初めて登場していた用語です。

途中の行を省いているので感じがいまひとつですがドン・ファンが言う「意志」を理解するために下記をピックアップしてみました。
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「意志とはわしらの行動を命ずることのできる明晰で強力なものだ」
「一種のコントロールと言ってもよかろう」
「お前の意志(will)は少しずつだがお前に裂け目(gap)をつくりはじめてるんだぞ」
「わしらのなかには裂け目があるんだ。自分の意志を発達させるにしたがってこの裂け目が開いていくのさ」
「どこにあるの?」
「輝く繊維のところさ」自分の腹のあたりを指さしてこう言った」(分離184)
「呪術師が意志と呼んでるものはわしらの内部にある力のことだ」
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腹のあたりってのは、いわゆる丹田・太陽神経叢のあたりですかね。ニューエイジや東洋で定番の。・・・「東洋」って言い方はナニですが(笑)

「意志談義」は翌日の1969年6月1日まで続きます。

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「お前が意志と言っとるものは気骨とか強い気質のことだろうが、呪術師の言う意志は内部からやって来て外の世界にへばりつく力なんだ。そいつは腹から出てくる。そうここだ。輝く繊維のあるところだ」彼はその場所を示してヘソをなでた。
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やはりあそこですな。

強い意志をもった偉大な呪術師でも”見る”ことのできん奴がいるそうです。(分離186)

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(ドン・ファンの恩師は)偉大な呪術師だったがわしやジェナロが”見る”ようには”見る”ことができなかったんだ。
”見る”ことができれば、そいつは戦士とかそのたぐいみたいに生きる必要はないのさ。(恩師は戦士として生きにゃならんかった)
お前の性格を考えてみると、お前は決して”見る”ことは学べないと思うんだ。そしたら生涯戦士として生きにゃならんことになるだろうよ。(分離187)
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以前もドン・ファンは自分はもう戦士ではないと言っています。呪術師とその能力、あるいは”格”のようなものがいまひとつよくわかりません。
しかも、最近は(といってもまだ二巻目だけど)もう「知者」という用語が登場しなくなってきています。戦士⇒知者という過程を経るのでしょうか?

その場合、やはり戦士という段階は、誰しもが経ないと知者にはなれないのでしょうか?戦士と死の関係についてもピックアップしておきます。

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知が恐ろしいものだってことに気づくころには、死が自分のとなりに坐っていてどかすことのできない相棒だってことにも気づきはじめるのさ。(分離187)

戦士であるにはまずなによりも自分自身の死を敏感に意識せにゃならんのだ。(分離188)
自分の死や解脱や決心の力を十分意識して、戦士は戦略的に生きるんだ。(分離189)

”見る”のを学んじまえばもはや戦士のように生きなくてもいい。(分離191)
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意志の力を示す実例として、ドン・ファンが山の中に入っていてメスのピューマに出くわした話をします。襲われそうになったが意志で手なずけて命拾いした話です。

この話題は、ドン・ファンシリーズ創作説の立証のために引き合いに出されたことがあったと思いますが、一旦ペンディングとさせてください。(pending)

2016年8月23日火曜日

分離9 こどもの頃の約束(2)

カルロスが子供時代に果たさなかった約束についての対話中、ドン・ファンが言います。

「男の子が泣いているのが『見える』」
「ぼくの息子?」
「ちがう」

このやりとりの結果、カルロスには息子がいることがわかりました。
この息子についてはいずれ詳しく書くことになりますが、妻のマーガレットと別の男性との間に生まれた男の子、Cho-cho(C.J. Castaneda)のことです。

追記)カルロスの「息子」は、この時点(1969年4月24日)で8歳です。

泣いているのが息子ではないとわかり、他に思いついた子供を言ってみるがみな違うと言われます。彼はいまも泣いていて傷ついている、とドン・ファンがいいます。

そうだ!ボタン鼻だ

カルロス自身も忘れていた子供の頃のともだちのあだ名をドン・ファンが言い当てたことによりカルロスが8つの時の記憶が蘇ります。

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母はその二年前に死んでおり、わたしは母の姉妹の間をたらいまわしにされて最もいやな地獄のような生活をしたのである。
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実は、カルロスの母親が亡くなったのはカルロスが25歳の時だという事実が分かっています。

追記)この年齢は、Amy Wallaceの著書から引いていますが、他の情報では24歳と書いてあります。ひとまず、このままにしておきます。

これをカルロスの虚言癖の果てとみるか、「履歴を消す」ための方便とみるか?
少なくともカルロスの子供時代の話はすべて疑ってかからねばなりますまい。

叔母の子供たちにいじめられていた生活の中、詳しくは書かれていませんが、そのイトコたちとの戦いに勝った結果、勝つことに執着するようになっていたそうです。

そんな自分を学校でボタン鼻というあだ名で呼ばれていたジョアキンという1年生が慕ってくれていました。

慕われていたのにいつもいじめていて、ある日度が過ぎて大怪我をさせてしまったという話を告白します。(分離176)
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後悔したカルロスは、彼が治ったら二度と勝ち誇るなどということはすまいと約束したのである。
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これが忘れていた約束だったのです。

ドン・ファンに自分の約束を変えるんだと言われますが、具体的にどうしたらいいのか教えてくれません。もうじきどうすればいいかわかるさ、と言うだけです。
自分の必要とするものをゼロにすることを学べば本当の贈物が与えられるそうです。

約束を変えると”見る”ことができるようになるのでしょうか?
この顛末については守護者を打ち負かせたのかという話同様その後はっきりしません。

何度も書きますが、ドン・ファンのシリーズには落とし前がつかないエピソードが多いです。そこが逆に真実ぽさを醸し出しているともいえます。

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カルロスは、なぜドン・ファンがカルロスの過去を知っていたのか?といぶかります。もしかすると「わたしが非日常的現実状態にあるときに話したのかもしれないとも思った」(分離178)
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ここでいう「非日常的現実状態」は、ラリっている状態のことだと思います。一瞬、「高められた意識状態」のことか?と思ったのですが、この時期はカルロスは、「高められた意識状態」で過ごしている時間についてはまだ気づいていないはずです。

ところで母親が亡くなった時期がウソならボタン鼻の少年とのエピソードもウソの可能性があります。ウソだとするとドン・ファンはカルロスのウソの過去を言い当てたことになります。

カルロスを励ますためか、ドン・ファンが告白します。
ウソでもいい話なので引用します。

「わしも一度誓いをたてたことがある」

「わしはオヤジに、殺した奴に必ず復讐してやると約束したのさ。何年かはその約束を守ったが、今じゃ約束も変わった。だれかを殺すなんてことには何の興味もなくなったのさ。メキシコ人も、誰も憎んじゃいない。人が一生かかって旅する無数の道はどれも同じだってことを学んだんだ。迫害者も被害者も最後にゃ顔を合わせるんだ。確かなことといえばその両方にとって一生なんぞというものはひどく短いってことだけだ。わしが悲しくなるのはオフクロとオヤジの死に方のせいじゃなく、二人がインディアンだったからさ。インディアンらしく生きてインディアンらしく死んだ。だが何よりも自分たちが人間だってことを知らなかったんだ」(分離179)

2016年8月22日月曜日

分離9 こどもの頃の約束(1)

1969年4月24日は、この3か月で4回目の訪問だそうです。

前回、守護者を負かせなかったのは、カルロスが戦士のように生きなかったからだ、とご無体なことを言われます。(分離167)
このままではなかなか”見る”ことができないだろう、他の弟子に後れをとるぞなんてひどいことを言われます。ドン・ファン、スポーツのコーチには向いてないですな。

悲しくなったカルロスが子供の頃の話をはじめると、いきなり何か大事な「約束」を忘れていないか?と言われます。

追記2017/5/16)この「約束」の話は、カルロスが好きなネタですので、(私見ですが)作り話です。ぜひ、こちらもお読みください。

一度えらく大事なことを約束したな。たぶんその約束が”見る”のを妨げているんだ
まったく思い出せない。でも、少し辛かったと言うと、

わしだって子供のころはひどく不幸でこわかったさ。インディアンに生まれるってのはつらい、ひどくつらいことだからな」(分離169)

つらさをフィルタリングできる”見る”能力が必要だったドン・ファンの人生が少し明らかになります。

「わしはやせ細った子供でいつもこわがっておった」
「一番はっきり覚えとるのは、オフクロがメキシコ兵に殺されたときのあのおそろしさと悲しみだ」彼はその記憶がまだ胸に痛むかのように静かに言った。(分離170)
「オフクロのからだにしがみついたらムチで指を打たれ、指が折れた」

少年ドン・ファンが理不尽に殺された母親にしがみついている姿を想像すると胸が締め付けられます。
それはいつごろのことなのかカルロスがドン・ファンに尋ねるとヤキの大戦争があった7つの頃と答えます。

日本語の資料で付け焼刃ですが、今更ながらヤキの歴史をひもといてみますと、1821年、スペインの支配から独立してメキシコになってから100年もの期間、大小の戦乱が続いていたことを知りました。

※日本語ウィキには情報がないので英語版へのリンクを設けておきます。

ここで1891年生まれのドン・ファンが「大戦争」と言っているのは、1900年に起きたテタビアテという指導者が起こした反乱のことだと思います。この戦いはその1,2年前から萌芽となる戦闘が起きていたそうですからドン・ファンの母親はそのような争いの過程で殺害されたのでしょう。

オヤジは殺されずに、二人は貨車につめこまれた。オヤジはその時したけがが悪化して貨車の中で死んだ

両親を失った少年の心はいかばかりか。居合わせた捕虜たちが指の怪我の手当てをして面倒を見てくれたそうです。

この貨車というのは、この戦いの結果、メキシコ政府がソノラ地方のインディアンたちを強制的に中央メキシコに追放(強制移住)させていたからです。(教え18)

ドン・ファンが中央メキシコと言っているのは1890年代に捕虜になった人たちは例のオアハカに移され、1900年代から始まった本格的な強制移住はユカタン半島だそうです。

時系列の感じから、ドン・ファンのお母さんが殺されたのは彼が7つの時より少し上だったかもしれません。

追記)ドン・ファンは、1900年に中央メキシコに強制移住させられ40年まで暮らします。したがって母親が殺されたときと貨車に載せられたときが同じとすると母親が殺されたのはドン・ファンが9歳の時ということになります。

わしの生活は良くも悪くもなかった。ただつらかったんだ。生活はつらい、そして子供にとっちゃそれは時には恐怖そのものなのさ」(分離171)

この話をきっかけに子供のころの話をしだしたカルロスにドン・ファンが言います。

人は勝か負けるかのどちらかで、それによって迫害者になったり犠牲者になったりするのだ。人が『見る』ことのできないかぎりこの二つの状態はずっと存続する。逆に言えば『見る』ことによって勝利とか敗北とか苦しみといった幻想がかき消されるのだ」(分離172)

2016年8月21日日曜日

分離8 守護者との再会・離反

この8章は、記すことが比較的少ないのですが、章として一応エントリーだけ立てておきます。

1969年1月18日、ドン・ファンの家を訪問して再び、昼すぎにきざみを吸いました。
今回は、ふたたびブヨの番人と出合います。

カルロスは守護者に打ち勝ったと思いましたがふいをつかれ逆襲にあい倒されてしまいます。

翌日19日の反省会で、カルロスが守護者の背中に色が見えたのは幸運で、もしそれが身体の前や頭に見えたらお前は今頃死んでたろうよ。

と言われても、カルロスも書いているように、どのようになったら打ち負かしたことになるのかぐらい教えてくれなければ厳しいですよね。

※追記:答えっぽいかも?

カルロスが逃げられたのは「煙」が逃げるスピードを与えてくれたからだそうです。(分離165)

この煙が与えてくれるスピードについて以前、あたしの勝手な解釈で
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ここでいう「速さ」というのは、ドラッグを使わないとなかなか見る力を身に着けることができないという意味です。
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書きましたが間違いでした。すいません。

文字通りのスピードのことをドン・ファンは意味していたようです。
こうした整合性がとれると少し安心します。

最後に、前回、横になってきざみを吸って守護者を見る態勢について書きましたが、この章では更に詳しく記述されています。

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右手をござについて左わきを下にして横になる。その際、右手は握りこぶしをつくると起きやすい。(分離159・150)(体術)
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あたしたちが「きざみ」を吸うことはまずないですから書くだけ無駄かもですが。

2016年8月20日土曜日

巨大ブヨとの出会い (第二部「見る」という課題 分離7 もうひとつの世界の守護者)

さて、数日『分離したリアリティ』から離れていましたが、続きです。

カルロスは、やめようと思っていたきざみ(mixture)を再び吸う決心がついたために1968年11月8日にドン・ファン訪問します。

煙を恐れるカルロスにドン・ファンは、おまえは明晰さを失うのを恐れているのだといいます。

「知者の第二の敵、明晰さがお前の前に立ちはだかっとるんだ」(分離143)

一巻目で語られた四つの敵の一つについて触れています。

あたしは、ドン・ファンシリーズで語られている「小暴君」だの「捕食者」だの各種謎めいた用語や概念がまるで思い付きのように登場してその後、フォローがないのを訝しく思っています。

もとは「カルロスの話が本当だったらいいな」というスタンスですので、このエピソードのように整合性が取れているコンテクストがあると少しホっとします。

特に例の「高められた意識」に持っていくための肩甲骨の間を叩く動作は、残念ですが、ここまでまだ一度も出てきていません。

追記)それっぽいところを一か所見つけましたが・・・

追記2017/5/15Sustained Reactionでも、あたしと同じような疑問をもった人が、サイト管理者でありカルロスの「信者」だったDavid Lawtonに、「背中を叩かれたか?」と質問をしていましたが、「ない」と答えています。

翌日の11月9日(午後3時)にいよいよきざみを吸うとまた「番人」(the keeper)がやってきます。
番人や守護者といった言い方が結構、混在して使われているので気になっていましたが、ここではドン・ファンは番人をキーパーと言っています。

横になったカルロスに、左目だけでござの一点をじっと見つめていればそのうちに番人が”見”えてくるだろうと言いました。(分離145)(体術)

現れた「番人」は、ブヨ(gnat)でした。
ラリってるカルロスが見たブヨは巨大化してビビらせます。

ブヨ。最悪な連中ですな。あたしは田植えで噛まれた結果、なんだか体質が変わってしまいまして、その後、軽い虫さされでも皮膚が過剰に反応するようになってしまいました。
田んぼの番人だったのでしょうか。

番人との邂逅の後、幻覚から目覚めさせるためにドン・ファンは、カルロスを家の裏にある灌漑用水路に連れていって、裸にして何度も水につけて引き上げます。

目が覚めた後も、カルロスは水路の浅い底に横になっているとドン・ファンがカルロスの足の裏をやさしくたたいて回復を促進させました。(体術)

翌日(11月10日)のおさらいの際、ドン・ファンは、「番人」のことを以下のようにいっています。
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The guardian, the keeper, the sentry of the other world
守護者、番人、別世界の歩哨(分離147)
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メスカリトのことも守護者と言っていますので、思いますにドン・ファンはそれほど言葉の定義を厳密に言ってないのだと思います。

カルロスが、”あれ”が何なのかどうか念をおしますとドン・ファンが答えます。
「あれが守護者だ。もし”見たい”ならあいつに打ち勝たねばならん」(分離148)

このセリフの”見たい”は、守護者を見たいのではなくて、世界の本当の姿を見れるようになりたいのなら、勝て、と。

でも、この後、シリーズ通してカルロスが実際に勝ったのか負けたのかさっぱりわからないんです。

この類の試練というかドン・ファンがカルロスに課すタスクってカタリーナとの対決しかりラ・ゴルダ一味との再会劇しかり勝負?の結末がはっきりしないのが消化不良になります。

逆に白黒はっきりしていないところが「真実」らしいといえなくもないか。

忘れないように書いておきますと、シリーズ後半ではカスタネダは、新しい時代の呪術師の一団を率いるリーダーとして立つことになります。
ということは一流の呪術師としての資格があるとドン・ファンに認められているってことですよね。

追記2017/5/15)私見ですが、シリーズ後半との関連で解釈するのは意味がないことがわかりましたので上記の記述は流してください。

一流の呪術師は、”見る”ことができるはずです。”見る”ことができると前述のように人が「光るタマゴ」のように見えるようになるらしい。

訂正)アップしてすぐに追記ですいません。呪術師であることと見える能力は関係がないそうです。『分離したリアリティ』の後半の戦士に関するディスカッションで明らかになります。

しかし、シリーズを最後まで読んでもカルロスは一度も自分が”見えている”と読者に断言することはありませんし、修行のどこかで”見えるようになった”時のことを記録にも書いてありません。
もし、書いてあったとすると喜んだ瞬間とかを記すと思うのですが。

「おいら見えた!光繊維がタマゴのヘソのあたりから出まくってるぞ!」

みたいな(笑)
でも、シリーズの中のカルロスって日本語訳の言葉使いのせいもあるかもですが最後の最後まで初心者みたいな感じなんですよね。

もしかすると、カルロスは本当は免許皆伝しなかったのでは?

追記2017/5/15)してません。

この考察、ドン・ファンの物語が事実だったという前提になっていますが、もしかすると読み終わった内容に「光るタマゴが見えている話」があったのをあたしが忘れているだけかもしれないのでここでは仮置きとさせてください。(ペンディングにしていましたが、ハッキリせずじまいでした。)

カルロスは、11月11日にもきざみを吸いましたが、この日は守護者に会いませんでした。前回同様、酔いを醒ますために、また灌漑用水路で水につかっています。(分離154)(体術)

ところで、きざみ吸引では、もうひとつ腑に落ちないところがあります。
昔、カルロスが煙を吸ったときには、身体が溶ける幻覚で恐慌に陥りましたが、今回はその現象は報告されていません。
なぜ、ここ数回は番人との出会いが実現するのでしょうか?

この章の最後では、ドン・ファンが一時期、呪術から5年半遠ざかっていたことがある(分離155)という話が出ます。ドン・ファンの修行時代は後半でたっぷりありますので記載だけしておきます。

2016年8月19日金曜日

人間は光るタマゴか?

先のエントリーで下記の引用を掲載しました。

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人間は光の繊維のようなものでできており、それがタマゴの形になるように身体にまきついているのだと言った。ヘソのあたりから一組の長い繊維が出てくる。その繊維がジェナロのバランスの秘密だ。(分離133)
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これに類する表現は、今後もシリーズを通して登場しますし、ドン・ファンたち老呪術師たちが身に着けている”見る”能力の現れです。

他にも宇宙が階層的な構造になっているとか平行世界が存在しているといった概念がありますが、これれは他の地域の宗教やSFのモチーフでも割と目にする考え方だと思います。

仮に、「悟り(見る)」を開いた場合、人が「光るタマゴ」のように見えるというのが「真理」だった場合どうでしょうか?

「真理」は、古代メキシコインディアンだけでなく世界中で見出されているのではないでしょうか?
「知者」がメキシコだけしかいなかったということはさすがにないですよね。

宗教体系が整備されたメジャーな宗教であれ、原始的な宗教であれ世界各地で、人間は光るタマゴだと悟りを開いた人々が言っているのではないのでしょうか?

グルジェフなんてどうなんでしょう?―いかん、いかん。これ以上ネタを広げるわけにはいきませんな。昔、分厚いやつを一冊持ってたんですよ。ウスペンスキーのやつも。
これまたどちらも英語だったんで読まないままどこかへ行ってしまいました。

でもね。新宗教とか近世・現代のカルト系の団体が「光るタマゴ」と言ってるのでは納得できないんです。もっと古い連中が言ってないとね。権威主義っていうのではなくて、昔から知られていることでないと。奥義であってもいいのかもしれないですが、ドン・ファンは割と軽く明かしていますので、そんな大げさな秘密ってほどでもないのかと思います。どのみち修練しないと見えないわけですし。一般人が知ったところでなんの役にも立たないし。

試しに、luminous egg human being とかluminous fiber human beingとか引いても、この分野ではカスタネダ関係の記事しか検索にかかってきません。

ドン・ファンならどう説明するのでしょう。人間できてますからインディアンだけ優れていたとは言わないと思います。


2016年8月18日木曜日

アニメ『僕だけがいない街』

遅まきながらNetflixでアニメの『僕だけがいない街』を観ました。

映画の方の予告編を見ていて、たぶんそんな感じのストーリーかなと想像していた通りの話でした。

この手の話、要するにタイムトラベルもの好きなんですよね。もともと。

ハナは、広瀬正の『マイナスゼロ』から『バックトゥーザフューチャー』、そしてケン・グリムウッド著『リプレイ』、そして『リプレイ』を原案とした『君といた未来のために 〜I'll be back〜』。

『君といた未来のために 〜I'll be back〜』については昔書いたことがあります。
この作品については原案の『リプレイ』との間で権利関係でもめたことがあると読んだことがあります。
権利関係についてはその後、両者で解決したようなので今では個人ブログ以外にはこの件について触れている記事はないようです。

この『僕だけがいない街』も仕組みは『リプレイ』と同じです。
ただ、人生のやり直し方が微妙に異なるので素人的感想では権利関係ではもめないと思います。

さて本編ですが、主人公をめぐる家族、友情や恋愛(?)模様に関してはとてもよくできたお話だったのですが、犯人の描き方が・・・厳しかったと思います。

犯人は少女を狙って殺人を犯すサイコパスという設定なのですが、なにかしっくりこない。サイコパスなので動機に関してはこだわる必要がないのでしょうが、なんだか無理がある。
テレビアニメなので仕方ないと思いますが、犯人の目的が殺人だけで猟奇的な部分が描かれていなかったからというのもあると思います。(濡れ衣を着せられた男性のエピソードだけちょこっとそんなニュアンスが示されますが・・・)

と、あたしのような感想を持つ視聴者って多いようでギズモードに以下のような記事がありました。

映画で描かれるサイコパス、精神科医が思う最もリアルなキャラはコレ

----------引用----------
2014年にベルギーの精神医学教授のサミュエル・ルイステッド氏が10人の友人の協力を経て3年間かけて、1915年から2010年までに公開された述べ400本の映画を調査したことろ、サイコパスは126人、そのうちの105人が男性だったそうです。その中で最もリアルなサイコパスは以下の3人。
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というくらい描くのがむずかしいのでしょう。

ちなみに、この記事によると、わがコーエン兄弟のアカデミー賞受賞作『ノーカントリー』に登場するハビエル・バルデムが演じる殺人鬼、アントン・シンガーが栄えある本物のサイコパスに近いキャラだそうです。同じく、コーエン兄弟が描いたテレビ版『ファーゴ』のローン・マルヴォーは、サイコパスじゃないかもしれませんね。好きだけど。

この二人とも監督たちの描き方が素晴らしいのは彼らの殺人には個人的なモチベーションがまったくないことです。なにしろ二人ともプロの殺し屋ですから。趣味も人殺しなので趣味と実益を兼ねた理想の人生ですな。そのあたり設定が上手いです。

切り裂きジャックのように殺すのが楽しみという殺人鬼自体が稀な存在ですので、それにしたってジャックの場合は、売春婦に対する猟奇的な目的があったようですから動機付けはあるわけです。

現実の事件では犯人が多数の殺人を犯す場合は、連続ではなくて、その場で数人殺傷し、たいてい動機がありますからね。



2016年8月17日水曜日

『魔女の夢』フロリンダ・ドナー著(2)

『魔女の夢』後編です。

フロリンダ・ドナーの経歴の一部についてはおそらく日本語の情報では初めてのものになると思います。
威張っても仕方ないですが。

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□著者について

フロリンダ・ドナーは、もちろんペンネームですが、いろいろな名前を使っているのでこれもウィキの情報をベースに整理しておきます。

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Florinda Donner (originally Regine Margarita Thal, later Florinda Donner-Grau)
フロリンダ・ドナー(本名は、レジーン・マルガリータ・タル、後にフロリンダ・ドナー・グラウ)
1944年生まれで、この原稿を書いている時点ではカスタネダの死後、消息不明です。
日本語のサイトでカスタネダの妻と記してる記事を読んだことがありますが違います。
追記・修正)「妻」の件、間違いです。すいません。1993年10月1日にラスベガスでカスタネダと入籍をしたことを知りました。(Amy 413)
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読み始めて日が浅いエイミー・ウォレスの『Sorcerer's Apprentice』によると、ドナーとエイミーはドナーがまだ本名(愛称は”ジーナ”)で生活をしカルロスの仲間に入る前に知り合っていたそうです。

1970年代、ベストセラーになった『ドン・ファンの教え』には映画化のオファーが殺到し、あの巨匠フェデリコ・フェリーニ(※1)も意欲を燃やしていたそうです。

追記2017/05/12:あのフェリーニが、カルロスに会って感銘?を受けたというインタビューがこの本のエピローグで紹介されています。)


ハリウッドの社交界に華麗なデビューを果たしたカルロスは、フェリーニとも親しくなりましたが、ジーナ(後のフロリンダ・ドナー)は、そのフェリーニの愛人だったそうです。(カスタネダのハリウッドでチャラチャラしてるイメージが信奉者には幻滅かもですね)

当時、フェリーニは52歳なのでまだまだ現役で愛人との交際いけますな。
ちなみに93年に73歳で亡くなりました。
かみさんのジュリエッタは夫が亡くなった翌年亡くなっています。(※2)

ドナーは、1983年に『Shabono: A Visit to a Remote and Magical World in the South American Rain Forest』という人類学の著書を出版しました。
Alto orinoco5.jpg
ヤノマミ族(ウィキより)

最初はアマゾンのYanomamiインディアンの暮らしを取材した名著として高い評価を得ましたが、その後、剽窃が明らかになり、加えて創作という批判にさらされています。

炎上が落ち着くと、ハナから科学論文と言ってないのにそんなに科学界がムキにならんくてもいいだろうなんて話もあったとウィキにあります。百歩譲って創作だとしても剽窃はいけませんな。

カスタネダの作品はさすがに剽窃の批判はありませんが、ご承知のようにノンフィクション性を疑う声が多いです。(追記2017/05/12:シリーズ後半はあたしもフィクションと結論づけました)

お互いに似たもの同志、惹かれあったのかなぁ。

追記2016/11/24
「ヤノマミ族」について日本語の記事を見つけましたのでリンク張っておきます。

未だ外部と接触したことのないアマゾンの部族の姿が新たに撮影される。

 ※フロリンダは接触したのでしょうか?


□リンク(環)について

『魔女の夢』の本文にはカスタネダの著作の検証(あたしの趣味)に役に立つ情報はまったくありません。
カスタネダの序文もそっけないくらい淡泊なものですし、イントロとエンディングにおけるフロリンダ・マトゥス(クララ・グラウ)とのやりとりにもヒントはありませんでした。

※読み物としては、同僚?のタイシャ・エイブラーの『呪術師の飛翔』よりもオリジナリティが高く面白いです。

ところでカスタネダの著作にも多くあらわれる人や事柄のつながりを意味する『環』という文字について。あたしたちがよく知っているのは考古学や生物学で登場する「ミッシング・リンク」=「失われた環(わ)」です。

あたしがこの「ミッシング・リンク」を知ったのは小学生の時、学校の図書館で考古学の本を読んだときです。(子供は考古学の謎好きですからね)
あたしは、「失われた環」についているルビ「リンク」が小さい字というのと「環」を「わ」と読むので、20代になるまで「リング」だと思い込んでいました。

今は、ハイパーリンクも含め、リンクはすっかり日本語にもなっているので「つながり」という意味がスっと浮かびます。でもなんで「環」なのでしょうか?
「リンク(link)」とはもともと鎖を構成する一個一個の「輪」を意味するのだそうです。だから「つながり」の元の意味は「輪」なんですね。

□ベネズエラ呪術マップ

最後に、舞台となるベネズエラとその地方についていつものようにグーグルマップの力を借りましょう。メルセデス・ペラルタが暮らしているクルミナという町が本当はどこなのか推測してみるのも一興かと思います。



ドナーは、はじめ呪術師が多いといわれているベネズエラ西部ヤラクイ州にあるソルテス(仮名)という町に行くつもりだったそうですが現地の人のアドバイスにより行くのをやめました。



その代わり、ドナーは、メルセデス・ペラルタが治療をしているベネズエラ北東部ミランダ州にあるのクルミナ(こちらも仮名)を選びます。



※1:フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini, 1920年1月20日 - 1993年10月31日)はイタリア・リミニ生まれの映画監督、脚本家。「映像の魔術師」の異名を持つ

※2:フェリーニには妻のジュリエッタ・マシーナがいて添い遂げています。(Giulietta Masina, 本名: Giulia Anna Masina, 1921年2月22日 - 1994年3月23日)

2016年8月16日火曜日

『魔女の夢』フロリンダ・ドナー著(1)

『時の輪』以外のカスタネダ本人の著書を一通り読んだので既報の通りカスタネダ関係者の著作に手を付け始めていますが、やはり洋書より日本語の方が楽なのでつい一冊、Amy Wallaceの『Sorcerer's Apprentice』より先にフロリンダ・ドナー著『魔女の夢』を読んでしまいました。(2016年8月12日)

□本の概要

カスタネダがこざっぱりした「序文」を寄せてます。

オープニングでフロリンダ・ドナーがナグワル(ドン・ファン)と出会い、ナグワルにメキシコに連れていかれフロリンダ・マトゥスに紹介されたとあります。
フロリンダの勧めでフロリンダは―ややこしい―生まれ故郷のベネズエラへ自分探しにでかけます。
フロリンダ・マトゥスは、カスタネダの『イーグルの贈り物』でいきなり登場します。
また、彼女は、タイシャ・エイブラー著『呪術師の飛翔』では、クララ・グラウの名称でも登場しています。
追記)エイミー・ウォレスの本では、カルロスが彼女に告げた名前は「ビッグ・フロリンダ」として言及されています。
追記訂正)フロリンダ・マトゥスが『呪術師の飛翔』に登場するクララであるという説明はあたしの早とちりによる間違いでした。フロリンダ・マトゥス=ビッグ・フロリンダであるという点は合っています。(2016/9/25)

本書の主人公のフロリンダ・ドナーは、人類学者志望で、現地の魔女(治療師)メルセデス・ペラルタの元に「出向受け入れ弟子」として暮らすことになります。

本の構成は、メルセデス・ペラルタが治療する患者たちの人生がひとつひとつ完結したエピソードになっていて、ひとつのお話が終わるごとにペラルタによる解題と指導があるといったスタイルです。

カスタネダの本でいうと彼の最後の著書『無限の本質』に構成が非常に似通っています。そっくりです。
あたしの邪推ですが、出版社がカスタネダと同じSIMON & SCHUSTERですので、おそらく編集者と手伝ったライターが同じ人物なのでしょう。

追記・訂正)すいません。『無限の本質』の出版社は、カスタネダがSIMON & SCHUSTERと袂を分かったあとの出版でした。ちなみに発行は、Laugan Productions。さくっと調べたところクリアグリーン系の出版社(カスタネダのグループ会社)です。疑いすぎかもしれませんが、邪推の続きをタイシャ・エイブラーの『呪術師の飛翔』のところでやらせてください。

カルロスの本の(手伝いの)ライターの存在については、エイミー・ウォレスの本で明らかにされています

本のファクトを列挙しておきます。
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原著の『The Witch's Dream』(SIMON & SCHUSTER)は、1985年の出版。
日本語版は、『魔女の夢』~運命を超えて生きる力~(日本教文社)
初版発行 昭和62年(1987年)4月20日
フロリンダ・ドナー著/近藤純夫訳
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今では絶版なので今回、あたしは古書を手に入れました。

□日本教文社

余談ですが、本の後ろの自社出版物の宣伝ページをみると生長の家の創設者、谷口雅春の本を出していたので調べたところ同会とつきあいの長い出版社なんですね。
この『魔女の夢』は、生長の家とはまったく関係がないのでスピリチュアル系の本を好んで出しているようです。

ただ両者は今年(2016年)まで印税をめぐる係争があって、今はその関係は冷えてしまっているのかもしれません。

(続く)

2016年8月15日月曜日

分離6 ジェナロの滝渡り(2)

ジェナロの家に出発したのは1968年10月5日。
到着までどれくらい時間がかかるのでしょうか?
着いてからは、二日間植物集めに山へでかけ(分離120)、三日目の夕方に三人は自分たちの場所に座って座禅みたいなことをします。

いつものように方角について後の確認のため記録しておきます。
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ドン・ファン西の山並みを向いて
ジェナロ北を向いて
カルロスは南東を向いて
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家でドン・ファンとカルロスがいつもの問答をしているとドン・ヘナロはふざけて「腕も手も使わず頭だけで逆立ち(分離122)」をします。普通の人間の動作では不可能なまるで「頭で座っている」感じと書いています。

ドン・ヘナロは、ここで後の滝渡りにつながる超常的な現象を見せて予告しているのだと思います。

ドン・ヘナロは用を足しに藪に入っていくとドン・ファンが言います。
ジェナロがクソをすると山がふるえるんだ」(分離125)

これも超常現象というより芸?ですが、ヘナロは、

自分の生と死以外に人間には何がある?」(分離123)

といったような真面目な会話の最中にちゃちゃを入れるのが好きなようです。

続いて、ドン・ジェナロが『別の世界』について話だした。とあるのは1968年10月17日(分離125)の日誌ですが、この日あるいは数日前の記録とするとカルロスは結構長い間、ドン・ヘナロのところにいたことになります。

シリーズ内の整合性確認のためヘナロが語った世界の構造について記しておきます。

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支配的呪術師はワシで、自分もワシになることができ、他方黒呪術師は『テコロテ』(フクロウ)などである。また黒呪術師は夜の子供であり、そうした者にとって最も役に立つ動物はヒョウ、ヤマネコ、野鳥(フクロウ)である。さらに『ブルホ・リリコス』(叙情的呪術師)は別な動物――たとえばカラス――を好む。

支配的呪術師は弟子をつれて旅することができ、別な世界の十の層を通り抜ける。
支配者は一番下の層から出発し、それにつづく一連の世界を通って一番上まで行くが、黒呪術師と叙情的呪術師はせいぜい三つの層しか通り抜けられないのだと言った。
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仏教にも似たようなセッティングがありますな。

ドン・ファンは、既報の通り「カラス」を好みますので「叙情的呪術師」でしょうか?
でも、そうすると「三つの層しか通り抜けられない」のでしょうか?

ドン・ファンは時代に残された呪術師のリーダーですからそりゃないのでは?
実際、後にドン・ファンは弟子をつれて旅立ちますので、やはり支配的呪術師なのでしょう。

別の世界について話したその日、ドン・ファンとドン・ヘナロは、カルロスの他に、ドン・ヘナロの弟子の、ネストル(Nestor)とパブリト(Pablito)を拾って西の山にある滝に向かいました。(分離126)

これからドン・ヘナロは、滝渡り、というか登ってからもの凄い曲芸を披露するわけですが、滝に登る前に、ドン・ヘナロが身支度をします。

それまで被っていた帽子を脱いでヘッドバンドをつけてワシの羽を3本さしたとあります。
ドン・ヘナロは”マザテック・インディアン”です。この部族が羽飾りをつけるのかどうか少し調べてみましたが確認できる情報がありませんでした。

滝を登るドン・ヘナロを見ているドン・フアンの様子が書いてあります。

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ドン・ファン、彼の視線は動かず、まぶたは半分閉じていた。
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これは例の3D映像を見るための目の使い方でしょうか?
日本で座禅(?)を組むときによく目を半眼にしなさいと言われます。
(あたしの経験は、お寺の座禅ではなく剣道をやっているとき座禅をやらされるのですがその時の先生の指導です)
半眼にすると対象に対して焦点を絞り込まないので”見る”ことができるようになるのかもしれません。

後の反省会(1968年10月23日分離131)でドン・ファンはカルロスにヘナロが実際にやっていたことを説明します。
ちなみにこの日誌に記載された反省会では「また近いうちに中央メキシコに行こうと」と言っていますので、彼らはドン・ファンの居場所に戻っています。

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人間は光の繊維のようなものでできており、それがタマゴの形になるように身体にまきついているのだと言った。ヘソのあたりから一組の長い繊維が出てくる。その繊維がジェナロのバランスの秘密だ。(分離133)
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半眼にすると見えるのかなぁ。こんなニュースを見つけました。
「ヒトはこの世に出現した瞬間に光り輝く」


2016年8月14日日曜日

分離6 ジェナロの滝渡り(1)

※以降も、ジェナロとヘナロ、読み方混在で記事を書いてしまいます。

「こいの滝渡り」収録
さて、いよいよ『分離されたリアリティ 第一部』のメインイベント”滝渡り”です。

大瀧詠一先生は、滝渡りしてドボンと落ちますが、ドン・ヘナロは大丈夫です。

1968年10月5日ふたたびドン・ファンはカルロスを伴って中央メキシコへの旅に出ます。(分離118)
カルロスを友人のドン・ジェナロに紹介するためです。

その際、ドン・ファンは、呪術師の名前や居場所を人に明かしてはいけない。
友達の名前はジェナロと呼ぶようにと言われます。

ということでドン・ジェナロはあくまでも仮名で、ドン・ファンもあたしたちはすっかり呼び慣れてますが実は仮名ということになります。

あたしの推測では、ドン・ジェナロはオアハカに住んでいますから二人はソノラからオアハカに向かうのだと思います。

更に、ディテールまで推理を巡らせますと、ドン・ファンの本当の住まいはルシオたち家族が暮らす「トリム」(ソノラ州南部)にほど近い街でそこからオアハカに居るドン・ジェナロに会いに行く。こんな感じだと思います。
オアハカは山岳都市ですから、本章で繰り広げられる「滝行」にでかけるにはうってつけの土地柄であります。

ジェナロに会う時は、心に疑いをもってはいかんと言われ不安になるカルロス。

お前はもうヴィサンテという呪術師に会って殺されそうになったじゃないか」(分離119)

既報の通り、ヴィサンテは、ドゥランゴに住んでいる呪術師で以前、アポなしで訪れた時お土産に「魔法の草」をもらった相手ですが、「殺されそうになった」っておだやかじゃないですよね。

サラっと読む限り、ヴィサンテがカルロスを殺す動機や意志を持っていたとは到底思えない出来事です。
ヴィサンテの草の精たちはカルロスを殺すところだったのでしょうか?

手順を間違えるとダツラやメスカリトが命を奪うといった説明がこれまでも本文に出てきていますが、これによくにた感じでシリーズ後半になるとカルロスたち呪術師が割と頻繁に命を奪い合いそうになる場面が頻発します。

その割に、当事者たちが割と呑気で、そのギャップによる気味の悪さがいい味を出しています。

車を(おそらく麓に)とめてドン・ヘナロの住んでいる山の斜面にある小屋まで二日かけて歩きます。

カルロスは、ドン・ファンに本をもって行ったときに、ほんの少しだったが会ったことがあったとあります。本(『ドン・ファンの教え』)を持って行ったのはこの年(1968年)の4月です。

ドン・ヘナロは、ドン・ファンよりも若く、おそらく60になったばかり、とカルロスは見立てます。

2016年8月13日土曜日

ノガレスを訪ねて

ドン・ファンを最初に紹介した現地ガイドを兼ねた友人は、ビルという名前だということが二巻目で明らかになりました。
千束のステキなお店の名前も明らかになりました(笑)

じゃ、カルロスがビルに紹介されはじめてドン・ファンと会ったバス停も整理しておこうではないですか。
シリーズ後半で、その町の名前が「ノガレス」だったということが明かされます。

追記2018年5月6日「ノガレスの壁」というトピックをアップしました。

いつものようにGoogle Mapで検索しますと下図のように表示されます。


しかし、これですとノガレスはメキシコの街です。
カスタネダが出会ったのはアリゾナ州と書いてあります。地図を拡大しますと、

ノガレスは、アリゾナにもメキシコにもあるのですね。国境は人間が引いた線ですから。
万が一、ドナルド・トランプが大統領になったらここに物理的な壁ができて、「北ノガレス」、「南ノガレス」となってしまうのでしょうか?

あたしの旅は続きます。
次に、「Nogales Arizona Greyhound Bus」として検索しますと、停留所案内が出ます。
この近辺には、三か所のバスの発着所があるそうです。


場所を絞り込みたくて再度、グレイハウンドのサイトを調べたところ、下記の情報がありました。


表示された住所で場所をさらに絞りました。


上の地図の一番左側の場所候補でした。
残念ながら、ここは図からもわかりますようにクルデサック(行き止まり)になっていましてなぜかストリートビューがありませんでした。
少しでも雰囲気を味わいたくて既存のストリートビューでギリギリ近いところまで近づいて絵を切り取りました。


最期に、いつもの地図を入れておきます

2016年8月12日金曜日

子の親 ドン・ファン (分離5 管理された愚かさ)

1968年10月3日、カルロスは、エリジオのイニシエイションのおさらいのため再びドン・ファンの家に向かいます。(分離100)

この3日、4日と二日に渡って、ドン・ファンが切り出した「管理された愚かさ」についての問答が書かれています。

この話に限らず、「第二の注意力」だとか、「忍びよる者」とかドン・ファンの用いる用語はむずかしいものが多くて、気の利いた解釈を加えることができません。

ま、あたしのブログ記事はドン・ファンの「教えの内容や実践」についてはあまり立ち入らず「登場人物の関係」、「時間の経緯」、「場所」、「小道具」などの整理を愉しむ感じで進めさせていただければと思います。

と言い訳を書いたところで、

ドン・ファンいわく私たちが普段見ている知覚の方法は彼から言わせれば眺めている状態で知覚を訓練することで事物の真の状態を見ることができるようになるそうです。

事物を”見る”ようになると「わかっちゃう」ので暮らしを営んでいく際に、普通の人と同じような感じで喜怒哀楽をとらえないようになる。
なのでそれらの感情を「演じる」ような感じでふるまうようにしていて、それが「管理された愚かさ」というものだ、と――こんな感じでしょうか?多分。

カルロスが、では呪術師たちの行動が「誠実なものでなく、役者の演技にすぎないことを意味しているのか?」(分離102)と問うと、「わしの行動に偽りはない。だがそれは役者の演技のようなものにすぎん」と答えます。

続けて「だがわしにはもはや大事なことなぞひとつもないんだ、わしの行動もわしの仲間の行動もな。それでもわしが生き続けるのは意志があるからだ」(分離104)
と言います。

ここでシリーズ後半に重要なキーワードである「意志」について言及があるのは重要かと思います。

人が一度”見る”ことを学んだら何もかも価値がなくなるのかい」
「価値がないとは言わなかったぞ、大事じゃないと言ったんだ。あらゆるものが平等だ
カルロスが、悲しみについて尋ねるとこう答えます。
悲しませるようなものに出会ったら眺めるんじゃなくて”見る”方へ眼を変えるんだ。だが愉快なことにぶつかったら眺めて笑うさ」(分離107)

スイッチを切り替えるように知覚をコントロールするのでしょうか?
次の引用は長いですが、非常に示唆に富むので掲載します。

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知者は心のある道を選び、それに従う。そうして彼は喜びを笑い、”見て”知るんだ。彼は自分の生涯がすぐに終わっちまうことを知ってるし、自分が他の誰とも同じようにどこへも行かんことを知ってる。彼は”見る”からこそ他のものより大事なことなどないのを知っとるんだ。言いかえればだな、知者には名誉も尊厳も家族も名前も故郷もありはせんのだ。あるのは生きるべき生活だけだ。こういう環境で彼をその同胞と結びつけている唯一の絆が管理された愚かさなのさ。(分離109)

他のことより重要なことなどありはせんのに、知者はまるでそれが自分にとって大事であるかのように行動することを選ぶんだ。
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これがまさに「管理された愚かさ」ということなのでしょう。

莫大な財をなしたカルロスの友人が政治に巻き込まれた果てに自分の人生を40年無駄にしたと嘆いた話を聞いたドン・ファンが言います。
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彼にとっちゃ努力が敗北に終わったからそれには価値がないだろうが、わしには成功も敗北も空虚さもない。すべてが充実しとるし平等なんだ、だからわしの努力には価値があると思っとる。
知者になるには誰だって戦士にならにゃならん、鼻たれ小僧じゃない。”見て”ただすべてがどうでもいいことだと悟るまであきらめず不平も言わず、たじろぎもせずに努力せにゃならんのだ(分離113)
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「管理された愚かさ」の「愚かさ」は原文では名詞のfollyです。
もちろん「愚かさ」も名詞ですが、なんだか微妙に扱いが異なって感じます。
上記の文脈からControlled Follyは、「コントロールされた世の営み」と意訳してもいいのではと思います。

ドン・ファンの人生は次第に明らかになっていきますが、メキシコに暮らしているインディアンたちの悲惨な過去を少しでも知ると、悲しみや苦しみ、怒りなどに対して感情を押し殺して暮らしを続ける虐げられた人々の到達したひとつの境地のように思えますし――色即是空空即是色の心のようにもとれます。

「空」のイメージとの共通点はシリーズ後半でも「空っぽ」という言葉でしばしば文中に現れます。

日をあらためて1968年10月4日、「管理された愚かさ」の考え方がまだ納得できないカルロスが尋ねます。(分離115)

自分の愛する人が死んだとき知者はその管理された愚かさをどうやって使うの?

カルロスは、仮にの話でもし孫のルシオに何かあったらといいますが、ドン・ファンをカルロスを制止し、息子のユラリオ(Eulalio)が高速道路工事中の事故で亡くなった話をします。

ドン・ファンは瀕死の息子を眺めずに”見た”といいます。
普通に悲しまないように愚かさを管理したといいますが、泣きたいときに泣けないなんて呪術師は因果な商売です。

ドン・ファンの息子は、後に『無限の本質』にカルロスがバス停で会っただけのドン・ファンと再開する手がかりを求めてメキシコを訪ね歩くエピソードに登場します。

仮に息子が、一人だけとすると、ユラリオは1960年には存命、68年までの間に事故にあって亡くなったことになります。

2016年8月11日木曜日

エリジオの入門(分離4 ひとりひとりの道(3))

カルロスはドン・ファン訪問中にドン・ファンの孫のルシオとその友人たちのベニニョとエリジオから狩りに誘われます。(1969年9月6日、分離89)

若者たちは、ドン・ファンは、「焼きの回った」呪術師だと言います。

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「・・(ドン・ファンは)年寄りで小心で、自分のやってることがわからないんだ」
でも以前は本当の呪術師だったんだぜ」ベニニョがつけ加えた。「本当だぜ、オレの所の連中が彼は最高だったと言ってるからな。だがペヨーテ癖がついて誰でもなくなっちまったのさ。もう年を取りすぎてるよ」
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以前は本当の呪術師だったんだぜ」の部分ですが、以前、ドンファンが「今日、わしはもう戦士でもディアブレロでもない。(教え220)」と言っていたこととある程度整合性がとれますが、その後のシリーズを読んでいる限り、ドン・ファンは最後まで”戦士”を貫いたように思えます。
なぜ、ドン・ファンはもう自分は戦士ではないと言ったのでしょうか?(追記その説明?

若者たちの狩りの打ち上げにドン・ファンがひょこっと現れます。(分離92)

この集まり(狩りの後の打ち上げ)に呼ばれちゃいなかったが、カルロスがヘルモシロへ発っちまったかどうかききにちょっと寄っただけだ
カルロスは、ここで翌日立つつもりだと答えているので、予定通りなら9月7日にヘルモシロに向かいます。
今回はテキーラを買い求めるためにヘルモシロによってからドン・ファンを訪ねて、またヘルモシロに旅発つという経路です。どこへ行くところだったのでしょう?不思議な足取りです。

皆が小ばかにするペヨーテの文化にひとり興味を示したエリジオは、ついに体験をすることになります。1968年9月15日(日曜)の日誌(分離93)に土曜の晩9時とあるので、エリジオの儀式は、9月14日から翌朝の夜明けまで行われたことになります。

出席者は、ドン・ファン、カルロス、ベニニョ、ルシオそしてエリジオ。
メスカリトをまったく信じていないベニニョとルシオも付き合っているのが面白いところだと思います。

本当は孫のルシオに呪術師の伝統をついでほしかったのに、代わりにエリジオと出合ったドン・ファンは複雑な気持ちです。

呪術師ができることについてドン・ファンが次のように言います。

わしらはまず、わしらの行いは何の役にも立たんがそれでもそんなことは知らんというふうに続けにゃならんことを知るべきなんだ。それが呪術師の管理された愚かさ(controlled folly)なのさ(分離99)」

「管理された愚かさ」とは?いったいどういうことなのでしょうか?

わかっちゃいるけどやめられない・・・かな?

2016年8月10日水曜日

消えゆく伝統(分離4 ひとりひとりの道(2))

ドン・ファンの孫、ルシオと仲間たちとの宴会にのぞみ・・・

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小さなケースに入れておいたテープレコーダーを回した。
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テープレコーダー出ました!
ここではケースに入れています。やはりカルロスは、ドン・ファンとの対話も本当は隠し録りをしていたのではないでしょうか? 手書きのメモだけじゃ会話に追いつけないですよね。

(追記2017/5/10 テープレコーダーについては、こちらもどうぞ

家にはドン・ファンを入れて下記の8人がいました。

・ドン・ファン
・ドン・ファンの孫のルシオ
・ルシオの友達の一人、ベニニョ。
・キコリで小さい細身のバジェア
・ドン・ファンくらいの年の老人、エスケル
・中年のジェナロ(呪術師のドン・ジェナロではありません)
・若者ヴィクター
・若い農夫のエリジオ、ルシオの幼馴染。

カルロスが持ってきたバカノラの香りを嗅いで「豊かな香りからチフアフアの高山の産にちがいないと言った。(分離78)とあります。

新しい地名か?と思いましたが、またもやこれはチワワの英語読み?か日本語読みと判明しました。チワワのスペルは、chihuahuaです。ローマ字で読んでみてください。

一同は、カルロスがメスカリトを学んでいると聞いたこともあり、古い慣習や伝統についてちょっと小ばかにしたような話を始めます。

老人であるエスケルがドン・ファンに「知ってること(知者)」について尋ねる場面もあり、年配者であっても呪術の文化についてまったく知識がない人々がいることがわかります。
Huichol Woman artisans.jpg
Wikiよりウィチョル族
ジェナロやバジェアは、露骨にメスカリトをバカにした発言をします。
ジェナロいわくウイチョル・インディアン(Huichol Indians)が噛んでいるところをみたけど、くるってた。(分離80)動物以下だといいます。

このウイチョル・インディアンを日本語で検索してみますと、たしかにペヨーテに関する情報がたくさんかかってきます。

右の写真は、英語版ウィキからの引用ですが、同じページに掲載されているウィチョル族の居住エリアの地図をご覧ください。



Huichol.png



既出の地図と見比べていただくと今回、宴会が行われているエルモシージョよりは大分、南、グアダラハラ、ナヤリト、サカテカスという州が接しているあたり、中央メキシコの人々ということがわかります。

話が少しそれますが、途中、マカリオというアリゾナに住んでいるインディアンの話になります。

「(マカリオは)ヤキだがみなから嘘つきだ」という噂話ですが、この「ヤキだが」という言い回しから、この集まりの人々はカルロスを除いて全員がヤキ・インディアンだと思われます。

また、ヴァレンシオという男の踊りに関する噂が出て、エリジオがトリム(Torim)の街で踊り手だったという話題に転じ、踊りといえば、サカテカ(Sacateca)の踊りはどうだい?という話になり、ドン・ファンはサカテカは知者だというやりとりがあります。(分離82)

このサカテカは、カルロスが不意に訪問して冷たくあしらわれたあのサカテカです。

あたしの推測ですが、この文脈ですからサカテカの住んでいる町は、Torimではないのでしょうか?またルシオが暮らしているのはTorimではないけれど、遊びにいくのはTorimの町、という位置関係ではないかと思います。


孫のルシオも含め、みなが呪術文化を認めていない中、一人、エリジオだけはドン・ファンに真剣に質問を続け、エリジオは後にメスカリトを体験することになります。

ドン・ファンがいいます。

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バジェアはそれ(メスカリト)をかむやつはみんな動物のようになっちまうというが、わしはそうは見ない。わしにいわせりゃ、自分は動物より上だなぞと思ってる奴にかぎって動物以下の生活しかしておらん。
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2016年8月9日火曜日

バカノラをたずさえて(分離4 ひとりひとりの道(1))

カルロスは、バカノラというテキーラを頼まれてソノラを訪問します。(1969年9月4日の日誌。分離76)
バカノラを買い求めるために途中ヘルモシロに寄ったとあります。

またまた地図で確認しました。
「ヘルモシロ」と書いてありますが、Googleマップでは、エルモシージョ(Hermosillo)となってるのが読みでしょうね。(ついでにテキーラの名前の由来のバカノラの街にも青いピンを立てておきます)




バカノラは、ブランドというよりは、テキーラの種類のようです。

カルロスが買った、バカノラ(Bacanora)は、ウィキによると製造は1992年まで非合法で2000年に品質を定める法律ができるまで密造酒扱いだったそうです。
カルロスがドン・ファンへのお土産に買った当時は、一応非合法だったのですね。

ところでテキーラの原材料のリュウゼツラン(Agave)の種類によって「メスカル」と呼ばれるそうです。これってメスカリト、関係?って一瞬思いましたがスペルが違いました。

メスカリト:Mescalito
メスカル:Mezcal

お酒を飲まないドン・ファンが欲しがるなんて不思議だなと思っていたらバカノラを実際に飲むのは、ドンファンの孫のルシオだとわかります。

ルシオは、シリーズではここだけの登場ですが、ドン・ファンたち古い時代の伝統を受け継ぐ人々と近代化されたメキシコの若者たちとの関係がわかって興味深い部分です。

この様子は、あたしが80年代に習っていた「太極拳」の中国での扱いに似ているなと思いました。あたしたちは伝説の老師たちや伝統の技に憧れてはるばる中国を訪れてありがたがって習うのですが、現地の若者たちは、へ?太極拳?あんなの年寄りだけがやってるよ、みたいな扱いでした。

文中でも、ドン・ファンがカルロスを「カルロスはメスカリトの勉強をして、わしがそれを教えとるんだ」と紹介すると”みながわたしを見てニヤっとした”とあります。
このニヤは、「また馬鹿なニューエイジオタクの白人が来てるよ」ですね。

日本人が、”ZEN!”とか言ってありがたがる西洋人に対して抱く気持ちと同じですね。でも彼らを斜めにみるあたしたちが禅について多くを知っていて小ばかにしているわけではないですよね。
自分たちだって何も知らないくせになんだか変に思う。
これはどのような(料簡の狭い)心理なのでしょう?

カルロスは、孫のルシオに二年前に会ったことがあって当時、28歳だったそうです。
今、30歳。
逆算しますとルシオは、1938年生まれです。カルロスが13歳の時です。

ドン・ファンは、カルロスを伴っておみやげのバカノラを届けにルシオの家を訪ねました。
酒を飲んでだらしのない生活を送っている孫に、その酒を届けるのですからドン・ファンもやはり孫がかわいいのでしょう。
このあたりドン・ファンもやはり人なんだなと思って親しみを覚えます。

記述されているルシオの家は、とても素朴なつくりのようです。

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編み垣に年度を塗って作った家。メスキートの木の薄い梁で支えられていた。(分離77)
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ドン・ファンシリーズに登場する住まいの描写は様々で、掘っ立て小屋のような印象の家だったりパティオや中庭があるヨーロッパ風(スペイン?)の住宅だったり様々です。

後半になり明らかになりますが、ドン・ファンはいろいろな場所に家を構えていたようです。
追記:あたしの私的結論ですが、後半の作品は完全にフィクションなので各所に家を持っていたというのは怪しいです)

2016年8月8日月曜日

ドン・ファンの体術(案)

ドン・ファン・シリーズの10巻目は、『呪術の実践』というやつで、昨日の記事でも書きましたように、ようやく最近、読了したところです。

『実践』は”マジカルパス”と呼ばれる太極拳みたいな感じの体操をカルロスたちが開発して紹介している本ですが、正直、読むところが少ないです。実践しないだろうし。

この本を読む前、シリーズの他の本で時折書かれているドン・ファンが教える「体術」というか身体の使い方についての不思議な指導についてあらためて整理して書かれているのでは?と期待していたのですが期待はずれでした。

例えば、少し前に書いた「戦いの形」とか、後に出てくる「力のあしどり」とか、「疲れのとれる眠り方」とか。

いわく、実はドン・ファンにマジカルパスを長年教わっていたのだけど、秘密にしていた。というのが言い分ですが、ほんとかなぁ。マジカルパスは、かなりうさんくさいと思います。

そこでね。このブログを活用してあたしが期待していたような「ドン・ファンの体術」を目録として抜き出してみようかなと思うんですよ。

現段階では、まだ項目も少ないので、下記にリスト化していきたいと思います。

(追記)・・・・と書いたばかりですが、やはり便利のため別のブログとしてインデックスページを独立させました。

『ドン・ファンの体術』インデックス

2016年8月7日日曜日

『無限の本質』 (旧速報 読了)

遅きに失した感が否めませんし、この体たらくではとてもカスタネダの愛読者の資格がありませんが、『無限の本質 - 呪術師との訣別』を読了しました。(2016年8月6日)

『時の輪』を除いてシリーズ5巻目の『力の第二の環』から、この第三次マイブームをきっかけに一息に7冊連続して読んできました。
『力の話』まで読んだのが1978年ですから38年経てからの再開ですので感慨もひとしおです。

もっとも『呪術の実践』は、読みものの量が少ないので読んだ内に入らないかもしれません。

このブログを利用した「おさらい」は、現在、『分離したリアリティ』ですから、おさらいを『無限の本質』まで続けるのはなかなかタフそうです。

実は、おさらいはおさらいとして、カスタネダ以外の人が記したカスタネダに関する本がまだ何冊かありますので並行して読み進めて行こうと思いました。
絶版になっているものが手に入らなくならないように市場に出回っているものは一通り購入を済ませました。(もはや立派な趣味と化してますな)

どれから読もうか迷うところですが、二つの文献から進めることにしました。
一冊は、

Sorcerer's Apprentice: My Life with Carlos Castaneda


著者は、Amy Wallace。著名なベストセラー作家、Irving Wallaceの娘で近年(2002年)にカスタネダと恋人であったことを公表し、2003年に出版された本とのことです。あたしが手に入れたのは、改訂版の2007年のものです。日本の方から古書として手に入れましたので国内でもどこかに物好きがいるってことですね。読み癖がまったくついてない新品同様の本だったので読まなかったんじゃないかなあ。
彼女は、2013年、心臓病で58歳の若さで亡くなられています。

この本には、カスタネダの死亡証明書や、「カスタネダの妻」の稿で記したカルロスの元妻、マーガレットとの子(事情が複雑なので詳細はあらためて)との写真などが収められています。

分量が多く、英語なのと、今回は最初からメモをとりながら読み進めているのでかなり時間がかかるのではと思います。

もうひとつの文献も英文のもので出版はされていず()雑誌「ローリングストーン誌」に寄稿したものの没になったという理由でウェブ上に読み物として公開されているものです。

  ※追記)電子本で出版されていました。追って詳細を記します

これについては、国内のサイトではまだどなたも紹介されていないみたいですし非常に面白い内容のため抄訳を進めていますのでしばしお待ちください。(って誰も待ってないと思いますが)

2016年8月6日土曜日

閑話休題 メタ・ドキュメンタリーのドキュメンタリー化

昨日アップした「ロス・ヴィドリオス」の”探索”を行っていて自分のことで認識したことがあります。

あたしは、もともとメタ・ドキュメンタリー(フィクション)のドキュメンタリー(ノンフィクション)化が大好きだったのだということです。

SFやファンタジーが好きだってことは、きっと夢想しがちで空想の事象がどこかで現実になっていることを心の底で願っているのでしょう。

大分前に、半村良の『小説 浅草案内』について書いたことがあります。

タイトルにわざわざ「小説」と書いたのは題材にされた人やお店に余計な迷惑がかからないだろうという配慮と思い、作品で扱われているお店を実際に自分の足で確かめたことがあります。

浅草ROXの中に書店がありまして、そこでしか売っていない地元発行の浅草の地図というものを見つけました。

これを買い求めて、半村良の本とくびっぴきになってその内容から、この店はこのあたりに違いないとあたりをつけてフィールドワークに出かけました。

中でも忘れられないのが以前の記事にも書いた言問通りと千束通りが交わるところにある「正直ビヤホール」です。

小説の中でもビールの味が絶賛されていて”実在”しているのなら絶対に飲みたいというので万難を排して(要するに職場を早退させてもらい)一人ででかけたことがあります。

なぜ、早退かといいますと下見の段階で「とても入りにくい店だ」というのを認識していたからです。
そういう店は開店早々ですとお店の方々も余裕があるし常連も到着していないのでこちらも入りやすいというわけでして。(ドイツのライブハウスでセッション参加を目論んだときと同じ料簡です)

以前も書きましたように小説に登場するご主人はすでに亡くなられていまして、奥さんが後を継がれて店を続けていました。
『小説 浅草案内』を読んで来たことを告げると喜んで歓待してくれたのが忘れられません。

しばらく通ってずいぶんと良くしていただいたのですが、仕事が忙しくなってその後すっかり遠ざかってしまいました。初めて訪れたのが、記憶があいまいですが1997年です。

文庫の発行が1988年、元が雑誌連載記事なのでさらに数年前の執筆と想定すると、あたしが訪れたのは半村良が浅草の検番近辺に住んでいた時期から15年以上経っていたことになります。

昔のブログ記事を読み直してみると前に『浅草案内』に触れた記事ではあたしはお店の名前を明かしていませんでした。

そして今回は具体名を書きました。
これは一体、どういった心境の変化なのでしょう?

まるでカルロス・カスタネダの固有名詞の記述の変遷と同じ流れではないですか?

2016年8月5日金曜日

ミトテで給水担当(分離3 ミトテへの参加(2))

本稿では、後で見返すつもりで、カルロスの第二期修行時のミトテでの事実関係をさらっと記しておきます。

さて、そのメキシコ北東部に到着したカルロスは、現地のインディアンたちが主催するミトテに参加(手伝い)します。

カルロスが頼まれたのは、給水係。

日本のお祭りでもかならずありますな、給水車とか言って。
ミトテは四日連続で行われました。(分離72)これは、カルロスが四年前(1964年9月)に参加したミトテと同じ日程です。四日という「規則・様式」なのかもしれません。

今回、カルロスはペヨーテを服用しないので、「酔っていない」傍観者の立場です。そこでかねてから疑っていた参加者たちの暗黙の合意形成や動きのタイミングを出す合図などを見張っていましたが、そのような仕掛けはないと認めざるを得ませんでした。

このミトテでカルロスは幻覚性植物を口にしていないのにもかかわらず母親の声の幻聴をはじめ超常的ともいえる体験をします。(分離73)

いつものように、このミトテに関わった人々をメモとして書いておきます。
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・村落で二人を出迎えたのは二人の老インディアン女性(姉妹?)
・四人の少女
・二人の若者
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そして別の一団と別の家で合流します。そこでは、
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・ドン・ファンぐらいの年齢の老インディアン
・若いインディアン男女の一団
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この老人は、ドン・シルヴィオと呼ばれています。
シリーズ後半で登場する”シルビオ・マヌエル”は確か老人ではないので別の人間かと思います。

上記のメンバー全員かどうかは不明ですが、参加者がみなトラックにトラックに乗って別の小集落に移動します。

そこでは、更に若者三人がやってきます。その内の一人は四年前のミトテで会った男でした。(分離68)

・都合、女10人、男11人が家を出た。

とあります。大デリゲーションです。

・リーダーはモチョ(切り取られた奴)というニックネームで呼ばれている50代中頃と思われる男。
・モチョ、ドン・ファン、ドン・シルヴィオを含めた男性7人の参加者が車座になってミトテは行われました。(分離70)

2016年8月4日木曜日

シンゴジラ ★★★+0.5+☆

観に行こうと思っていた日に、ふと魔がさしてFacebookみたら、ハチ公が何か一人前の感想をアップしていたのですっかり行く気が萎えてしまいました。

いえね。別にネタバレがあったわけじゃないんですが、ハチ公が語るとあたしゃいっきに萎えるですよ。

ちょうど、中学生くらいの時に父親が人の聴いている音楽や読んでいる漫画をちら見して「ほほぅ。バンプオブチキンか?」とか「進撃の巨人かぁ」と言われるといきなり萎えるってやつです。

特にハチ公は、なんでも流行りのものはひとこと口を出しますな。自転車も乗ってるし(笑)
「ポケモン」についても何かはしゃいでいましたし、TwitterもFacebookもいい歳して出だしからくらいついていました。
Facebookはいまでもですが。するってえといきなりあたしは野暮に思っちゃうんですよ。だから今だにFacebookは使わない。

とはいえ、怪獣はあたしの必修科目なので白けた気分を押し殺して映画館に行きました。

あ、そうそう。ハチ公に加えて、いまひとつ気が乗らないのが監督だったんです。

昔テレビでエヴァンゲリオンのオンエアをみてたとき、ちょっとSFのネタが・・・なぜか見てる自分が恥ずかしくなっちゃって。(でも、映画館にも足を運びましたよ)
たぶん、あたしが中学校ぐらいの時に夢想したSFの設定とかを想起させるんでこっぱずかしく感じちゃうんでしょうね。特に「使徒」・・・とかね。こっぱずかしくて身もだえしちゃう。

ま、ところが今回は監督のSF扱いについては映画のSF設定として素直な感じで、さほど恥ずかしくなりませんでした。ごめんなさい、先入観で疑って。

ゴジラの生態なども、ほどほどの疑似科学に仕上がっていました。
失踪した謎の科学者があらかじめゴジラのこと知っていてヒント残しているってのがいただけませんでしたが、ハリウッド前作の渡辺謙の芹沢博士よりはマシかなぁ~。
そのような発見をわざわざダイイングメッセージとして暗号化してみんなを困らせるような動機付けがそもそも東野圭吾。

よくあるパターンで土地の伝説に怪物の退治方法があらかじめ残ってるってやつの類です。
これからは禁止ということで。

昨日、組閣が決まってちょうど女性の防衛大臣だったり都知事選挙の後だったりで映画の人々とリアルがマッチしていい感じでタイムリーでしたよね。

それと役所の本社の連中の働きっぷりが本物の連中とそっくりでリアルでした。
あたしも一緒に徹夜したことがありますが彼ら本当によく働きますからね。働きすぎでしょ。

アメリカの大統領に万が一があると次から次へと大統領の変わりが立つ仕組みになっていて冷戦のころの代理遂行の想定演習のドキュメンタリーが例の”This American Life”(”Amateur Hour”の回)で流れて感心したことがあります。

それと同じ日本の総理大臣の代理システムが扱われていて細かいところに凝ってるなと思いました。ま、この監督さんディテールから入る感じですよね。

映画で一番良かったところはエンディングのスタッフロールに入ったときの音楽とラスト。この数分は席に居残っちゃいました。ラドンのテーマもサービスで?入っているのも良かったし。
きっとこのディテールも最初から考えていたんでしょう。

こんなに褒めてる(のか?)のになぜ星が3.5なのか?

ひとつは、終始まじめすぎるかなぁというのがひとつ。
シリアスなアニメに多い、小難しそうで賢そうで教養があるように見えるセリフの数々が薄っぺらい感じ。『サイコパス』がまさにそれでしたよ。

スジに小道具含め伏線系の仕掛けや裏切りがないこと。(『ジュラシックワールド』比)
そのため進行に意外性がなく常に直線的なのです。

官僚・政治家の世界と自衛隊の扱いを面白可笑しく扱っていてよくできているのですが、たぶん子供はつまらないだろうなというのもひとつ。

そして最大のNGが石原さとみ演じるアメリカ人。テルマエロマエの阿部寛ならいざしらず。
主役の男性と恋愛関係を描くわけでもないのだから、キャスティングは「すみれ」の方が良かったのではないでしょうか?

サイコパス』の声優たちの英語とはいいませんが・・・石原さとみが気の毒に思いました。

それと、いまどきあんな態度のキャリアウーマン(死語)いないでしょ。
・・・というか昔からいませんよね。少なくとも優秀な人間では。

あの演出だと、いくら流ちょうな英語が話せるすみれに演じさせても気色悪いでしょうね。
あたしはフェミニストではありませんが、アニメにありがちな女性性が理想化された演出にも思えて苦手です。

そういえば、違うタイプの性格付けですが『あの花』ってアニメは、あなるという女性キャラクターの描き方が気味悪すぎて10分くらいでギブアップしたことを思い出しました。

真のキャリアウーマンと言える実力者に何回か会ったことありますが、一人は、紺のリクルートスーツみたいなの着てて一見、地味なのがかえって不気味でした。態度も別に普通の勤め人だし。

また竹野内豊はじめ主役の男性陣たちの英語も・・・。
流ちょうな英語を話させようとするから無理があるのですよ。
いいんですよ、たどたどしくても。というかそのほうがカッコイイ。

最近、いいなと思ったのは、少し前トルコの空港でテロ(2016年6月29日)があったとき居合わせた日本人の中高年の女性が朴訥な英語で切々と恐怖を語っている英語、粗削りだけどいい英語でした。あたしもあれくらいになりたいものです。(動画を探したのですが見つけられませんでした)

それと、またまたThis American Lifeのプログラムですが。

1990年代に起きたADMという調味料メーカーが犯した闇カルテル事件を扱った番組で、FBIが隠しどりした味の素の幹部社員の電話でのやりとりが素晴らしかった。(一応犯罪者です(笑))

ハワイで密談したい、というADMの幹部に向かって味の素が、「ハワイったって、そこアメリカでしょ?やばくない?」と答えています。
(※味の素側は、アメリカは、談合の取り締まりがめちゃくちゃ厳しいし、囮操作も盗聴操作もできるので第三国で会いたがっている)

電話の声、日本人の固い英語なんですが、味があっていいんですよ、訛り加減が。
・・・味の素だから?

アメリカ人と悪事の相談するくらいなんで相当な現場英語力なんでしょうね。
(『インフォーマント!』というタイトルでマット・デイモン主演で映画化されているそうです)

日本のインターネットの父、村井純さんの英語もいいですよ。←動画へのリンク

観てみました?ネイティブと比べて酷いでしょ?
でも、他人の英語を馬鹿にしている日本ネイティブのそこのあなた。
満場の開場で場当たりでこんな風に発言できますか?
福士蒼汰の英語もいいですよね。ようやく日本人の英語が生まれつつある感じがします。

ADMの陰謀を扱った"This American Life"の番組『The Fix Is In』の回への音源へのリンクも張っておきます
この音源の「14分25秒~18分22秒」あたりを聴いてみてください。味の素のMimotoさんの英語、抜群に現場です。まさかFBIに盗聴されてるとはね。

下は、YouTubeで見つけた同事件についての動画です。味の素の社員との電話の会話音源は聞けませんが談合の会議の様子がちらっと見られます。

FBIのスパイに盗撮されてるのも知らずに「一人はFBIかもよ。わっはっは」なんて言ってておかしすぎます。


『シンゴジラ』の英語の話に戻りますと、そんなペラペラ英語の役柄演出だもんだから、彼らが話している英語は字幕がないと何言ってるんだかまったくわかりませんでした。

数人、ネイティブの役者が出てるのですが彼らが話すといきなり明瞭でくっきりとわかります。
日本人だから日本人の英語の方が聞き取れると思いがちですが実に不思議なものです。
たぶん発音というよりは、リズムと抑揚、単語のアクセント、そして文章の切れ目の違いなのだろうと思います。

2016年8月3日水曜日

死とのカーチェイス(分離3 ミトテへの参加(1))

1968年6月10日、ミトテへ参加するためドン・ファンと長い旅に出ました(分離60)

カルロスは、もう幻覚植物は使いたくないと言っているのにどうやってドン・ファンが説得したのだろうと思っていたらミトテの助手としての参加なのだそうです。

あたしたちは、これまでの情報から、ミトテがチワワで行われたことがあることを知っています。

この旅は、どこへいったのでしょう?そもそもソノラが出発地なのでしょうか?
オアハカやチワワとの位置関係を見るに、カルロスとドン・ファンはメキシコ中を旅しています。

旅の手掛かりとして、途中、ロス・ヴィドリオス(los vidrios=ガラス)というドライブイン(トラックの休憩場)で食事をとったとあります。

両親の戸籍謄本の土地調べにもロマンを感じるあたしですから調べましたよ。
見てください。ストリートビューを!!


やばいでしょ。Googleありがとう。
この写真は、2016年1月とあります。すっかり朽ち果てた建物だけが強い日差しの中無言で佇んでいます。


『分離』には、道路の両側には低い山々が並びそれはまるで大噴火で流れた溶岩の固まりのように見えた。(分離63)とあります。

今(2016年)から48年前、ここでカルロス(43歳)がドン・ファン(77歳)と”ポークミート”を食べていたんだと思うと胸が熱くなります。ってあたしだけか?

ソノラ全体のヴィドリオスの位置からいうとどうやら中央メキシコ方面に向かったのではなさそうで、やはり、6月13日にメキシコ北東部についたとあります。(分離66)

またチワワ方面でしょうか?

道すがら、ドン・ファンはカルロスと死について語ります。(分離64~65)
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「ものごとがはっきりしなくなると、戦士は自分の死を考えるんだ」
「そりゃよけいむずかしいや。ほとんどの人にとって死なんてひどくぼんやりして遠いことだもの。一度もそんなこと考えたことないよ
「なぜだ?
「なぜ考えなけりゃいけない?」
「簡単さ、わしらの精神を和らげてくれるのは死の観念だけだからな」
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え??カルロスって43歳でしょ
この年になって死と向き合ってないっていい歳して幼稚すぎると思いませんか?
あたしなんてず~~~~っと考えてますよ、そりゃ、ドン・ファンみたいに真剣には向き合っていませんが。

(実は、彼らの年齢、いまごろ確認しました。カルロスの年齢についてはいずれ別稿をもうけます。)

次の下りは忘れられないエピソードです。夜道をずっと運転していると、後ろにずっとついてきているヘッドライトが気になる。
それをドン・ファンに伝えると、ドン・ファンはそれを死の頭についている光だといいます。すっかりびびるカルロス。

ふと気が付くと光がいなくなった。やはりあれは後続の車でそれが脇道にはいったのだというと、ドン・ファンが言います。

ちがう。死は決して止まりはせん。時々光を消す、ただそれだけのことだ」(分離65)
人が悪すぎます(笑)

最後に、ロス・ヴィドリオスを加えたマップを埋めておきます。

2016年8月2日火曜日

精霊・盟友・助手・守護者・・・・(分離2 見ることと眺めること(3))

1968年5月24日、1968年5月25日と呪術師ヴィサンテからもらった草とその精霊についてドン・ファンはカルロスとおさらいをしています。というかドン・ファンがカルロスが非常に重要な機会を無駄にしたと文句を言っています。

砂漠で出会ってカルロスにヒッチハイクを頼んだ三人は人間ではなく(分離51)精霊だというのです。

『分離したリアリティ』のP52では、カルロスが辞書で引いた精霊の定義付けを読んで聞かせます。

それによると精霊とは”特に(善良か邪悪な)性格をもった幽霊、あるいは特定の地域に住むとされている超自然的存在”だそうです。

定義を聴いたドン・ファンは、その三人を「精霊」と呼んでもいいかもしれない。
しかし、それらは守護者ではない、と言います。

でも、ドン・ファンは、いつもメスカリトは守護者だといいます。メスカリトもサボテンの精だと思っていたのですが、精霊にも「格」があるのでしょうか?

あたしのここまでの捉え方では、「サボテンが”変身した”またはサボテンの中にいるのがサボテンの精」といった感じで結びつけていますが、「煙」の盟友をめぐる議論でドン・ファンは、この「等号(=)」に関して異議を唱えます。
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盟友は煙の中にいない。煙が盟友のいる所へ連れて行ってくれるんだ。
そして一度盟友と一心同体になっちまえば二度と煙を吸う必要がなくなるのさ。(分離54)
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「煙」は乗り物のようなものなのでしょうか?
それにしては、材料の採取の際、サボテンにしろ草にしろやけに人格化するところが不思議です。

この後の流れでカルロスにはメスカリトを噛むミトテに手伝いとして参加する機会が与えられます。(分離72・分離93)ドン・ファンの言う通り、カルロスはペヨーテを服用していないのにメスカリトとコンタクトします――って単に中毒してるだけかもしれませんが。

ドン・ファンは言います。「盟友は力だ。ブルホが利用する良くも悪くもないただの力さ」辞書の説明では善良か邪悪なという言い方をしていますが、プロの呪術師は良くも悪くもないただの力さ、といいます。ツールそのものに善悪はないですからドン・ファンの解釈の方が肚に落ちますね。

でも、その流れで「いったい盟友ってのは何をするんだい?」と問うと「それは人間がいったい何をするのかって質問するのと同じだな」と返されます。(分離55)
盟友がただのツールなら「機能」があるわけですが、そうとも言えないということがわかります。

シリーズ後半であきらかになりますが、盟友は非有機的生命体なので「人間がいったい何をするのかと同じ問いだ」という答えの意味がそこでようやくわかります。

あたしたちが「道でみかける幾人かの人は人間ではない」(分離57)だそうです。
あたしもこれまで街で幾度もみかけてるのかもしれません。

ここでドン・ファンの師が、初めて盟友と接触したとき自分を焼く衝動にかられた、というエピソードが語られますが、記憶にないのでシリーズ後半で再確認する予定です。しばしペンディングとさせてください。(分離59)(pending)

2016年8月1日月曜日

知者ヴィサンテ(分離2 見ることと眺めること(2))

1968年5月23日、二人はオアクサカのことを話していた。とあります。

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わたしたちはオアクサカのことを話していた。わたしは、ドン・ファンに市場が開かれる日にその街へ着いたと言った。(分離41)
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むむ。オアクサカって?最初、人の名前かと思ったのですが、英語版で確認せずとも文脈から街の名前とすぐわかりました。最初に読んだ時は流してましたが、今回、ははぁ~。”オアハカ (Oaxaca) ”のことを英語読み?したのですね。

この本に登場するドン・ヘナロ(Don Genaro)も当初は、ドン・ジェナロでしたが後の巻では、現地の発音通りにヘナロに変えています。

すでにオアハカの場所は確認しましたが、街の説明をウィキから引用します。

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オアハカ (Oaxaca) またはオアハカ・デ・ホゥアレス(Oaxaca de Juarez)はメキシコの都市。オアハカ州の州都であり、州名と同じ名前の都市としては、国内で最大の人口を持つ。

南シエラマドレ山脈の中の標高1,550メートルの高地に位置している。人口は約519,660人(2005年)。市内歴史地区と共に世界遺産に登録されたモンテ=アルバンは市の郊外に位置している。

名称の由来は、ナワトル語のウァシャカク(Huaxacac)がスペイン語風に訛ったものであり、後に加えられたデ・フアレスは、初めて先住民族から大統領に選出された同州出身の国民的英雄ベニート・フアレスにちなむ。
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さて、そのオアハカの市場である男が薬草を売っていた。この男はドン・ファンの友人のヴィサンテ(Vicente)と一緒に調合薬を作っていたという話になった時、カルロスは、前に旅の途中で(ドン・)ヴィサンテ(・メドゥラノ)に会ったことがあるとドン・ファンに伝えました。(分離42)
カルロスはそれをドン・ファンに伝えるのを失念していたのです。

ドゥランゴの街を走っていた時、ドン・ファンに、そこに住んでいる友人を訪ねるといいと言われていたので立ち寄ります。ドン・エリアスの時とは違って今度は優しく接してくれた上に、お土産に植物がいくらか入った袋をくれ、そのうちのひとつを植え直す方法を教えてくれました。

それから、アグアス・カリエンテの街へ行く途中で泊まり、そこでもらった草を植え直したそうです。

毎回、地図の画像を作るのも面倒なのでマップを埋めることにしました。
だんだん凝ってきました。



地図を見ますと、ドゥランゴからアグアス・カリエンテ(地図ではアグアスカリエンテス)の道のりを見るとソノラからオアハカへの旅の途中だったのかもしれません。

さて草を植えている時、人に出会います。
一人は、水やりを手伝おうかと申し出たワーゲンに載った男。(分離43以降)
カルロスが断ると、カルロスの車のところに三人のメキシコ人がいます。
男が二人と女が一人。
男の一人は40がらみ。もうひとりは小柄できゃしゃ、50がらみ、そしてふとった女、40代。

車に乗せてほしいといわれたが断り、食べ物と水をせがまれたが手持ちがなかったのでこれも断った。やがていなくなりましたが、暑さの中、エンジンがかからなくなったカルロスの車を若い方の男が戻ってきて押しがけを手伝ってくれ、ヒッチハイクをむげに断った手前バツが悪い思いをしたとあります。

そのエピソードを聞いたドン・ファンはカルロスにお小言を言います。(分離46)
ドン・ヴィサンテは強力なブルホ(brujo)で、準備もなしに会いにいくとは何事だというわけです。
もらった草は貴重な贈り物で、ヒッチハイカーたちは、草の精だというのです。

「準備」ってのは物理的な準備ではなくカルロスの呪術師としての技量のことらしいのですが、会いに行けと言われていたら行っちゃいうよなぁ~。