2018年6月29日金曜日

『一人旅の友は自由』~孤独な鳥の条件~(2/3)

以下、YouTubeに公開されている動画と、あたしの拙い翻訳です。



●ジュディ・ウッドルフ(PBSメインキャスター)

今、これをご覧になってる人の中には家族や友達と過ごす夏休みの計画を立ててる方々もいると思います。
でも、もうひとつのアイデア、もしかするともっといい休暇の過ごし方があるかもしれません。
一人旅の話です。

今夜は、ニューヨークタイムズの旅行記事担当、ステファニー・ローゼンブルームが目的地に着くことより大切なことについて「私の素朴な意見」を話します。

●ステファニー・ローゼンブルーム

私の仕事は旅行記者です。

私の職業を知ると誰もが、自分が旅したい場所について話を始めます。
「そうね、ポルトガルかローマに行きたいわ。でも一緒に行ってくれる人がいないの」

私のこたえ? 「だから? 一人で行けばいいじゃない」

昔、編集長が私を一人で一年間、パリの探訪に行けと命じたの。
たった一人。家から遠く離れて、とてもゆっくりできたわ。
同行者とおしゃべりする必要もないし、付き合う必要もない。だから一人でどっぷりと毎日素晴らしいことに気がつくことができた。ルクセンブルク・ガーデンの緑色の椅子に木漏れ日が差し込むところ、カフェの軒先の日よけに落ちる雨の音とか。

私はいろいろ素敵なものに集中できた。だって誰にも邪魔されないから。
誰も私を急かさないからバルザックの家の近くにあった静かな道でのんびりできた。

一人で出かけなさい。そうすればあなただけが興味を持っていることに接する自由があるんだから。自分のペースで自分のセンスを磨くことができる。好きな美術やデザインの店を探したり、見知らぬ場所を発見したり新しい趣味や冒険のヒントを見つけることができるかもしれないし。ひょっとしたら残りの人生の過ごし方が決まるかもしれない。

一人。これまでの殻から出られる。昔、東京の茶室でお茶を体験した日みたいに自分を見直せる。
秋の午後、フィレンツェの丘に登って生きてることを実感できる。
これからどう生きていくかを考えることができる。他の人が周りにいたらできない体験。

でも、あなたはこう思ってるかもしれない。
「そうね。いいかもしれない・・・でも寂しいでしょ?」
そう、私たちは寂しさからは逃れられない。いつだって寂しさは訪れてくる。
たとえ親しい人たちに囲まれたパーティーにいる時だって寂しくなることはあるから。

それに、もし人と会うのが好きなら、なおさら休暇は一人でとった方がいい。あなたが一人でいるときの方が、見知らぬ人々は話しかけやすいから。それに今は、現地の人たちや旅人たちと親しくなれるチャンスがたくさんある。
料理教室、見学ツアー、ウェブのサービス。

もうひとつ言いたいことがあるの。
もしあなたが女性だったら一人で旅ができるってことはすごいことだってこと。
私たちの先輩の女性たちが長い時間をかけて勝ち取った権利だから。
私の故郷、ニューヨークでは長年、女性には旅行もそうだし一人で散歩したり食事をする権利がなかったんだから。

私が一人で行動するとき、これまで数えきれないほどの女性たちが努力してくれたおかげでできるようになったんだって思う。
だから、誰か友達がアレンジしてくれたり予定を組んでくれるのを待つのではなく自分の人生を楽しんで。

いますぐ航空チケットを買って。ホテルを予約して。
一人で旅に出よう。

●ジュディー・ウッドラフ

ステファン・ローゼンブルーム、素敵なアドバイスありがとう。
家ですごく休暇でも同じことがいえるわね。

(続く)

2018年6月28日木曜日

『一人旅の友は自由』~孤独な鳥の条件~(1/3)

近年、自分の孤独性(solitude)について自覚することが多いです。
(『ひとりメシの話』)

現役時代には、それなりに会社や社会にしたがってほどほど過ごしてきましたが、まるで論語でいう70歳のように「心の欲するところに従って則を超えたい」なんて思い始めているなと。

いまだに同じ職場で働いている身ですが、現役時代では付き合いで顔を出していた社交関連や夜の誘いについてはいろいろ理由をつけてパスするようになってきました。
健康問題もあるし、お酒に時間使うくらいならハーモニカの練習の方が大切だしね。

また周囲も事あるごとにあたしが自分の孤独重視キャラクターを訴えてきたせいか彼らも尊重してくれているようでありがたいことです。

孤独性は自由で時間も好きなように使えるのでメリットはあるのですが、逆に自分がどこにも所属していないような感覚にもなります。

自分のベースが職場でもなければ家庭でもない。友人たちでもなければ趣味の集まりでもない。
寂しい( loneliness )というのとも違う、どちらかというとアイデンティティの問題のような感覚。
ごくごく平凡なあたしが感じている感覚だからたぶん全部の人間が持っている感覚なのかもしれません。

そもそも、どこかにどっぷりと所属したくないわけなのだから所属してなくて結構なことですが、人はどこかにコアとなるホームグラウンドが必要なのかなとも思う時があります。(それは過去の自分かもしれないし)
いずれにせよ、なんだかんだいって人は一人では生きられないわけですから。

とかつらつら考えていたらPBSニュースの連載企画で毎回ゲストが「My Humble Opinion(私の素朴な意見)」という短いスピーチをするコーナーでぴったりの話題がありましたのでご紹介したいと思います。

最初にMC(ジュディ)が紹介して、本人(ステファニー・ローゼンブルーム)、最後にジュディがまとめ、となってます。

素晴らしいトークだったので訳したんですが、あたしの素人訳になると全然雰囲気が伝わりませんがご容赦を。

(続く)

2018年6月27日水曜日

Hoochie Coochie Man

今、調べてみたら「ゲイン・ミュージック・スクール(過去記事)」のブルースハープ教材を練習していたのは、2011年。
かれこれ7年も前なんですね。はぁ~。

あの頃は、真夏の炎天下でも車の中に籠って汗だくで課題曲の「セロリ」とか一生懸命やってたなぁ。
まさか車内練習ができない身体になるなんて思ってもみませんでした。

もしかすると会社でも座りっぱなしなのに車の中でも長時間座ったりしてたので前立腺がまいっちゃったのかもしれませんね。

それはさておき、そうした課題曲の中に表題の「Hoochie Coochie Man」があります。
ゲインの課題の原曲はマディ・ウォーターズではなくてエリック・クラプトン版でしてハープはジェリー・ポートノイのプレイです。

ブルースハープに手を出すと一度は演ってみたい曲なので課題にあるのはありがたかったです。

で、なんとか覚えた後、二回ほど人前でやったことがあります。
一度目は、セッション。

まったく未経験の頃の話で、お店も完全「外様」。たった一人で知り合いもいない。
(というより度胸試しであえて一人で初めての場に行ったんですが怯えて後悔したものです)

ビビりながらハーモニカとマイクを握りしめてますとフロントを取るギターの人が「”フーチークーチーマン”やりたいと思います。よいですか?」と声をかけてくれました。

学んだばかりの曲だったので、ひとまず助かった!と思いました。
アドリブなんて全然ダメですから(今も)、教材にあった通りのソロを吹きました。
お客さんがお情けで拍手してくれたのが嬉しかったなぁ。

(二曲目は、ストーミーマンデイでビビっちゃって全然メタメタでした。今思えば、ストマン進行だって別に恐れなくてもよかったのに・・・。ま、何事も体験ですよね)

その後、2013年に今度は知り合いのいるセッションの場で自分がフロントで演らせていただきました。

前回は、歌は別の人ですのでちょうど本音源のハーモニカパートだけでしたが、今度は歌も歌います。ところが、途中で数箇所歌詞を忘れ真っ白に!!

今思えば、別に元歌詞だってめちゃくちゃな内容なんだから適当に歌えばいいのに。

ホストバンドの方々がなんとかフォローしてくれたので終えることができましたがガックり。

この曲の歌とハーモニカを独りでやると歌とオブリガード(ハーモニカ)をすばやく交互に演るので一旦乱れるときりがないといいますか。リズムも崩れちゃうし。

それと歌詞ですが、内容が非常に男っぽいというか精力絶倫男の歌ですので、あたしの芸風にまったく合わない(笑)

B.B.Kingみたいに友達に「お前、頭おかしいんじゃないか?」(B.BKing自伝参照)ぐらい精力持て余している人の歌ですよね。

とまぁ、そんな経緯でこの曲をしばらく敬遠していたのですが、最近、ふと久しぶりに演奏してみようかなと試したらまったく忘れてる!

これはまずいってんで、あらためてゲインの教材を取り出して思い出しつつなんとか戻してますが、冒頭で述べたかつての練習風景が思い出されてなんだか甘酸っぱい思いが胸の中に蘇る今日この頃です。

2018年6月26日火曜日

TOEIC体験記(12)最終回

●その後、また受けるのか?

繰り返してますように、準備を進めていく内にTOEICの「本番試験」ってあんまり英語の学習と関係ないんじゃないか?という疑問が出てきた上、TOEICのスコア自体が趣味・目的になったら本末転倒だなと思いました。

よく楽器のコンテストで優勝した人が、そこで満足して楽器辞めちゃうことがあるような感じになったり、逆にいつまでも満点とれなくて精進辞めちゃうみたいになったりも嫌だなと思いまして、もう受けるのはやめようと思いました。

老眼がえらい疲れるし、首凝るし(笑)

とはいえ「究極のゼミ」シリーズについてパート3・4以外は、買わなくてもよかったかなぁと前にいいましたが、受験後に『TOEICテスト究極のゼミPART 5語彙・語法【超上級編】』を追加購入しました。
TOEICのおかげで「語法」について理解を深めたいなと思ったので日常の継続学習の友として買いました。

なんだかんだ言ってもも久々に試験受けて楽しかったな。
なにより終わった後の解放感が良かったし。

●スコア
930点でした。
(950点はいけるだろうと思っていたのですがミスが多くとらぬ狸でした)

●収支勘定

今回の受験でかかった費用を積み上げてみました。

受験料、参考書、リスニング会場として使ったカラオケボックス代から回答用紙のコピー代、試験当日の交通費までで総額約3万1000円でした。

半年で3万円。月5000円の授業料という換算ですね。

2018年6月25日月曜日

TOEIC体験記(11)

さて、(10)でご説明しました図表問題の「性質」を踏まえてのあたしの「先読み」方法を書いておきます。

まず、パート1(写真問題)の説明時間。これは例題も含めた説明なので30秒くらいあると思います。

一般的な参考書に書いてある先読みは、この30秒の間に、パート3の最初の問題、つまり32番~34番を先読みするのですが、あたしは、ここでそのあたりはすっ飛ばしてパート3と4の図表問題の「Look at the graphic.」の設問を先読みします。

最新の図表問題は、パート3で3問。パート4で2問の図表問題が出ています。
あたしは、このパート1の30秒で、それら5問の「Look at the graphic.」設問(と図表)だけ、つまり5つを先読みすることにしました。

これらの設問に対して前述の図表問題の性質を踏まえ、会話の中で何を聞き取らなければいけないかを事前確認しておくことにしたのです。

残りの設問の先読みについては、後で実際にこの図表問題に到達したときに対応します。
この方式をとってから図表問題でパニックになることがなくなりました。

放置しておいたパート3の最初の問題、つまり32番~34番の先読みは、パート2の説明の時に行えば十分です。

実は、「本番」についての項目で、

○自分のやり方が注意されるのかと気が気じゃなかった。

ということを書きましたが、あたしが心配していたのがこれで。
最初に後ろにあるパート4の図表問題を先読みしていて試験官にリーディングパートを先読みしていると誤解を受けるのでは?と心配でしたが、幸い誤解はされませんでした。

●リーディングパート(パート5・6・7)

リーディングパートは、参考書類が共通に書いているのは時間との闘いということです。
特にパート5をいかに速く終えるかというのが勝負の分かれ目になっていると書かれています。
あたしも『文法特急2急所アタック編』のおかげでスピードについてはそこそこの速さに到達できました。

とはいえ『でる模試 リーディング700問』のような難易度の高い模試ですと時間が足らなくなる。

特に、最後の問題は長めの文章が三つもあって時間が迫ってくると焦っています。
すると読解がうわっ滑りになって読み直したりして時間を無駄にして間違いも増えてしまいます。

ところが、これらの設問。後の見直しで時間に関係なく落ち着いて説いてみると三文章問題、二文章問題の設問は文章の量の割に答えが比較的簡単だということに気が付きました。

そこで問題を次のように後ろから逆に解いていくことにしたのです。

パート7を後ろから。
パート6を後ろから。
パート5を初めから。

このやり方にしてから時間オーバーをすることはなくなりました。
(間違いはありますけど(笑))

しかし、これはいったい英語の勉強なのか?

2018年6月24日日曜日

マーガレットの回想録、追加抄訳中にて

マーガレット・カスタネダの回想録のご紹介を一回中断して、TOEICのネタを書いていますが、回想録の後半の章の抄訳がいい感じで進んでいるので最後まで済ませてから続きをご紹介したいという魂胆です。

もう少しかかりそうなので、TOEICネタが済んだ後も少しかかりそうです。
しばしお待ちください。(って待っててくれる人がいればの話ですが(笑))

2018年6月22日金曜日

TOEIC体験記(10)

◎設問先読みと図表問題対策

さて、TOEIC受験者の間ではもはや常識となっている設問先読みですが、あたしはもうひと工夫することにしました。

パート3とパート4の最後に数問ずつ登場する図形問題は、設問に加えて図表を読み取る分、より多くの先読み時間が必要で、ややもするとパニックになってしまいます。

あたしの先読み方法をご紹介する前に、まず図表問題と設問、選択肢の「性質」について例示したいと思います。

ちなみに先読みしている段階では、ナレーションはまだ聴いていませんので、ナレーション内容は関係ありません。



設問1.Look at the graphic. Which product will be on sale this weekend?

(A) Red
(B) Green
(C) Yellow
(D) Blue

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グラフであれ、表であれ図示されている項目の順番と選択肢の順番は必ず同じになっています。そこはいじわるじゃないですね。

さて、上記の設問は、「何色」(横軸)かを聞いているわけですが、その場合、これから流れるナレーションの方は、必ずグラフの別軸つまり『数』に関しての話があります。色についての会話は絶対にありません。

選択肢と「」の要素についての話題が来るなと心(耳)の準備をしておくのです。
この例の場合は、おそらく「売り上げが一番少ない(高い)製品をセール対象にしよう!」みたいな会話が想定されます。

これが講演時間と講演者が載っている表であれば、選択肢の方が「時間」を選ぶ場合、会話は「僕は、Mr. Kingのレクチャーを受けるつもりです」のようになるし、逆に選択肢が「講演者」のリストだったら、「僕は10:30のレクチャーに行こうと思ってる」といった会話になります。

考えてみれば上記の解釈は、間違えさせるために作られている設問の設計上は当たり前なのですが、わからないうちは何から何まで「覚えておかなくちゃ」なんてなっちゃうのでスルーしていい情報は捨ててしまえると聞こえてくる音もしっかりしてきます。

2018年6月21日木曜日

TOEIC体験記(9)

■各パートの感想と攻略方法
●パート3・4の続き

選択した答えを忘れてしまう、あるいは覚えるために後の設問を聞き逃すといったミスを回避するためのテクニックが前述の『新TOEIC TEST 全力特急 絶対ハイスコア』にありました。
選択肢を覚えずに、その箇所を三本の指で押さえておくというものです。

この本では、三つの設問が完了した時点で解答用紙にサっサっサっと軽く印をつけておいて最後にまとめて塗るというアドバイスをしています。

練習問題で試したのですが、三本で押さえているためか指がつっぱって”ずれてくる”のと抑えている指の頭が丸っこくて指先がAさしてたのかBさしてたのかわからなくなっちゃって(笑)かえってパニックになってしまいました。

そこであたしが考えた改良案。

指は、一番目の設問の選択肢を「中指」。
二番目の設問の選択肢を「人差し指」の「二つだけ」を押さえる。これでつっぱりません。
三つ目の設問は、その問題の「最後(直前)」ですからどの選択肢が答えなのかさすがに覚えてます。中指・人差し指は済んでる問題なので「指に覚えておいてもらいます」。

で、三番目の設問についてのナレーションの該当箇所が読まれた段階で、三つ分の回答欄を瞬時に塗りつぶします。こうすると次の設問の先読み時間をかなり稼ぐことができます。

念には念をということで試験前日には、人差し指と中指の爪の形をとがらせておきました(笑)。

しかし、果たしてこれはいったい語学の勉強なのか?

この方法は、慣れてくると指の役割は補助的になってきましてナレーションを聞きながら三つの設問に対する選択肢を選んで忘れないようになってきました。

ナレーションの流れは、設問に対応する順番で該当箇所が読まれるから順に対応していけるから覚えるのも順番通りです。
三問目に対応する答えが一問目より先に読まれることはありません。(たぶん)


ただし、一問目に対応する答えが超冒頭で話されてしまい、うっかりぼーっと聞き逃してしまうことがありますので集中力は肝要です。
ぼ~っと生きてきたわけです。

また、本当にぼ~っとすることが多いのでこれだけ対策を講じてもうっかりナレーションが進んでしまうことが度々です。これはあたしの性格ですので、そうしたミスはもう仕方がないとあきらめることにしました。本質と関係ないし。

だって本当の会話の場面だったら、あれ?今、なんて言いました?って聞き返せばいいわけですからね。

先読みも慣れてきますと、三問分の設問と選択肢を読むと設問の傾向が浮かびあがってきて不正解の選択肢(ハナから考慮しなくていい)があらかじめ見えてくることもあります。

2018年6月20日水曜日

TOEIC体験記(8)

■各パートの感想と攻略方法

●パート1・2

パート1と2で一番苦労したのは、(オーストラリアを含む)ブリティッシュ系英語の聞き取りと、独特の「言い換え」(パラフレーズ)でした。
「言い換え」は、例えば「洗剤」をテーマにした日本語だとこんな感じ。

○設問:家の”台所洗剤”がなくなったのでスーパーで買おうと思っています。
○正解の選択肢:話し手は、小売り店で”家庭用の液体石鹸”を買う予定だ。

間違いを誘発するために持って回ったような言い回しがパート1・2に限らず3・4とやたらと登場します。

勉強を始めた当初は戸惑いましたが、消去法(明らかに間違っているもの以外を正解とする)と併用することで後半は”英語発音”への慣れもあってあまり悩むことはなくなりました。
この経験で反省し、今はBBCのポッドキャストも聞くようにしています。

●パート3・4

◎設問先読みとリテンション(記憶)

このパートは、あたしの一番の悩みでした。

設問の元となる会話やナレーションを聞いて、その内容に沿った設問が各ナレーションに対して3問出ます。

さて、やってみますと、TOEICに独特の用語に慣れてしまうとナレーターがプロということもあってリスニング自体はまったく問題なく、100%隅から隅まで聞き取ることができるのですが、設問の段階になるとすっかり何を聞いたのか忘れているのです(笑)

考えてみると、あたしは普段から人の話を聞き流すところがありますからね~。
おそらく、同じ問題を日本語でやっても同じように答えられないと思います。

そこで知ったのが、TOEIC受験ベテランの方々には常識だと思われる「設問の先読み」というテクニックです。

パート1の説明が行われている時に、パート3の最初の設問(設問32~34)を先に読んでナレーションでおさえるべきポイントを把握しておくというテクニックです。

たとえば、ナレーションで買い物の値段を言っていても値段を問う質問がないとわかっていれば、そこは気にせずスルーしちゃっていいわけです。

その変わり、「値引きする品物はなにか?」という設問があるなら、ナレーションでそこが出るところを聞き逃さず、解答を記憶に刻む必要があります。

ところが、ここで首尾よく答えをAとかBとか頭に刻もうとすると、頭がある種の考え事状態に入るので次の設問に対応するナレーション部分を聞き逃したりする間抜けな現象が発生します。(あたしだけかもしれないですが)

2018年6月19日火曜日

TOEIC体験記(7)

少しずつディテールに入ってきました。
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■勉強する場所

勉強場所ですが、家の他に公民館や図書館の自習室を活用しました。
図書館は平日は無理ですが、公民館は夜9時までやっているのでずいぶん助かりました。人の声や雑音もあるので集中力を高める練習にもなりました。
また、リスニングの模試は数回カラオケルームを利用しました。

家でも家人が留守の時には、イヤホンではなく音質を悪くする意味でもiPhoneのスピーカーで模試を行いました。

実際に本番に臨んでみると音質はかなりいいのでイヤホンで試験勉強してもあまり差異はないかなと思いました。ただスピーカーよりイヤホンの方が集中力が増す感じがあるので本番に近い環境になるにはスピーカーからの出力で実施する方がいいと思いました。

■テスト本番

ここまですべて独学でやってきたのですが、本番に際して参考書にまったく書かれていなかったことがありましたので書いておきます。ベテラン受験者の方にとっては、アホか?と思われてしまうかもしれません。

○問題用紙が、リスニングとリーディングが一冊でまとまっていた

事前に試験の心得やルールを読んでみるとリスニングをやってるときにリーディングパートを読んではいけない。というのがあって勝手にこれは「別冊」になってるんだな?と思いこんでいました。

○リスニング試験とリーディング試験は、リスニングを一旦やめるんではなくて連続して進めてよい

つまりリスニング終了時に一旦鉛筆を置かずに続けてリーディングに進めていいということですが、これができるとリーディングに避ける時間が30秒近く増えます。

(実は、本番のリスニング終了時まで、リスニングが終わると「一旦止め!」となるのかと思い込んでいました)

これは、後述する「設問先読みテクニック」によりパート4の最終問題でナレーションが選択肢を読み上げている内にリーディングを始められるということです。

でも、よく考えるとリスニング問題の間にリーディングをやってはいけないというルールに反するのではなかろうか?と思いますが、現場では構わずに先に進めました。

○問題用紙がシールで封緘されていた

うすうすそうなってるのじゃないかと思ってたのですが、単に知らなかったというだけです。破り方汚くなっちゃいました。

○机の上には筆箱もおけない

よほどこれまでに不正行為があったんでしょうね。
アジア系外国人の代理受験などが問題となってますからね。

○自分のやり方が注意されるのかと気が気じゃなかった

これは後で詳しく書きますが、リスニングのパートで一番最初に、パート3と4の「図表問題」の設問を先読みするというあたしが考えた独自のやり方です。

リスニングパートを読んでいる限りは注意を受ける筋合いではないのですが、図表問題はリスニング問題の最後にあるので試験官がリーディングパートを読んでいると勘違いして注意してきたら嫌だなという不安です。

2018年6月18日月曜日

TOEIC体験記(6)

ここまで何度か「テクニック」ということばが登場してきましたが、なんだか英語の勉強というよりは完全に試験対策の世界に入ってきていることに気がつきました。

また、設問なども、とんでもない言い回しやパラフレーズ(言い換え)が多用されていまして現実の世界とはかなり異なるな~というのがあたしの実感です。
言葉を学ぶというより、”TOEICの勉強”という感じ。

さて、2018年に入って追加で次々と参考書を買っていったわけですが、さすがに本物の模試も必要だなということで下記の三種類の「紙の模試本」を買いました。

===模試形式の本===
●TOEIC(R)テスト 新形式精選模試 リスニング(加藤優著、2,052円)
●TOEIC(R)テスト 新形式精選模試 リーディング(加藤優著、2,052円)



●公式 TOEIC Listening & Reading 問題集 3(Educational Testing Service、3,024円)

●TOEIC L&Rテスト でる模試 リスニング700問(ハッカーズ語学研究所、2,592円)
●TOEIC L&Rテスト でる模試 リーディング700問(ハッカーズ語学研究所、2,592円)
 

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既読の、「特急」シリーズのアドバイスによると、あれこれ買わずに一種類を何度もじっくりとやる方が効果があるそうなんですが、問題の答えを覚えてしまうので新しい問題をたくさん解きたいなと思いました。

『新形式精選模試』は、5回分。
『公式』は、2回分、『でる模試』は、なんと7回分あります。

当たり前かもしれませんが、この三つの内、『公式』が一番本番に近く、『でる模試』は、難易度がかなり高く感じました。
『でる模試』は、後述するテクニック(またか(笑))を編みだすまでリーディングを時間内に終えることができませんでした。(酷い時は、10分以上オーバー)

『精選模試』は、二つの間くらいの難易度。

どれかひとつにしろと言われれば、『精選模試』がバランスがとれていて一番オススメかと思います。(『でる模試』は、解説がほとんどありません)

あたしは、『特急シリーズ』他の個別参考書と並行して、週末中心に「模試」を実施しました。家の用事などもあり、まとめて二時間とるのがむずかしいので、土曜はリスニング。日曜はリーディング。ってな感じで進めました。

『公式』は、二回分しかないので”大事に”やることにして以下のような感じで進めました。

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『新形式精選模試』を5回分
  ↓
一回『公式』一回分をはさんで
  ↓
『でる模試』7回分
  ↓
『精選模試』の二回目を復習
  ↓
試験前日に『公式』の二回目
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2018年6月17日日曜日

TOEIC体験記(5)

各パートについての感想はひとまずおいて、購入した「特急シリーズ」(全部キンドル本)もリストしておきます。

===特急シリーズ===
●『パート1&2難化対策ドリル』
(森田鉄也著、Kindle版、724円)
●新TOEIC TEST 文法特急2 急所アタック編
(花田徹也、Kindle版、572円)
●新TOEIC TEST 単語特急2 語彙力倍増編
(森田鉄也著、Kindle版、617円)
●新TOEIC TEST 全力特急 絶対ハイスコア
(濱崎潤之輔, Dae-Kyun Kim著、Kindle版、670円)
●TOEIC L&R TEST パート3・4特急 実力養成ドリル
(神崎正哉, Daniel Warriner著、Kindle版、724円)
●1駅1題!TOEIC L&R TEST 読解特急
(神崎正哉, TEX加藤, Daniel Warriner著、Kindle版、756円)
●TOEIC L&R TEST パート3・4特急II 実践トレーニング
(神崎正哉, Daniel Warriner著、Kindle版、702円)
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上記の内、自分的に特に役に立ったのは、以下の三冊です。

●『パート1&2難化対策ドリル』
●『新TOEIC TEST 文法特急2 急所アタック編』
●『新TOEIC TEST 全力特急 絶対ハイスコア』

●『パート1&2難化対策ドリル』
”難化”という言葉にひかれて購入しました。聞けば、少し前にTOEICの出題傾向や出題構成が変わって難しくなったそうで、これに限らず”新形式”対応の参考書がたくさん出ています。
どうせやるなら最新がいいですからね。

既に書きましたが、この本で、自分の”ブリティッシュ英語”がダメというのを認識できましたし、テスト用の言い回しやパラフレーズ(言い換え)が独特で慣れる必要がありました。

●『新TOEIC TEST 文法特急2 急所アタック編』

『でる1000問』を少しやって自分が文法がダメというのを再認識した後、解答スピードを上げるためのテクニックがとても参考になりました。
この『急所アタック編』をやった後に、『でる1000問』の模試に戻ってみますと時間が足りなくなることがまったくなくなりました。

●『新TOEIC TEST 全力特急 絶対ハイスコア』

この本は、全パートに関するアドバイスが満遍なく書いてあって問題集というよりは心得のような感じの本でしたが、特に「パート3・4」の対策(テクニック)が参考になりました。設問自体の量は少ないので問題集としてはいまひとつです。

2018年6月16日土曜日

TOEIC体験記(4)

年に10回もあるとなると慌てて受けなくてもいいか~なんて怠け心も出てきますが、ここは堪えて、5月に受けることにし本格的に準備をはじめました。

当初、紙の本を増やしたくないのでkindle版で進めるつもりでしたが、一覧性や紙のサイズなど本番のシミュレーションをしないといけないので「模擬試験」系の本はさすがに紙版を購入することにしました。

参考書やドリルはkindle版で、模擬試験は紙の本で。
こんな感じです。

また、実際の解答はマークシートですので、それの記入にも慣れておく必要があると考え参考書に付属しているマークシートを多めにコピーしました。
さらにマークシートを速く塗れるように専用のシャープも買いました。

ぺんてる・マークシートシャープというやつで1.3ミリの芯です。
300円、替え芯が100円。これは買ってよかった。


話を参考書に戻しますと、一番はじめに偶然買った「究極ゼミ」はパート7用だったので、あらためてパート1から始めようと思いまして、このシリーズについては全部買うことに決めて一通りやりました。

結論から言うと、『パート3・4』以外は、買わなくてもよかったかな~。
先生と生徒の対話みたいな部分はまったく読まないし。

とはいえkindle版ということもあり締めて2629円だし。
TOEIC受験のきっかけを作ってくれた恩はありますしね。

===究極シリーズ===
●[新形式問題対応/音声DL付]TOEIC(R) L & R テスト 究極のゼミ Part 2 & 1
(西嶋愉一;ヒロ前田著、Kindle版、486円)
●[新形式問題対応/音声DL付]TOEIC(R) L & R テスト 究極のゼミ Part 3 & 4
(早川幸治;ヒロ前田著、Kindle 版、972円)
●[新形式問題対応]TOEIC(R) L&R テスト 究極のゼミ Part 5 & 6
(ヒロ前田著、Kindle 版、972円)
●[新形式問題対応]TOEIC L&R テスト 究極のゼミ Part 7 TOEIC L&R テスト
(ヒロ前田著、Kindle 版、199円)
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『パート3&4』だけは買ったかいがあったと思うのは、このパートの形式に向き合って自分がいかに苦手か(笑)ということを認識できたということです。

また、「問題の先読み」という英語力とはあまり関係のない”テクニック”についてもこの本ではじめて知りました。(後から知ったけど大学受験でもあるそうですね。あたしが無知すぎる?)

2018年6月15日金曜日

TOEIC体験記(3)

あたしは紙の本を増やしたくないところ『特急シリーズ』もうまい具合にkindle版がありましたので早速、一冊購入。

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●『パート1&2難化対策ドリル』(森田鉄也著、Kindle 版、724円)
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続いて、文法強化の意味で、同じ特急シリーズで、
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●『1駅1題 新TOEIC(R) TEST 文法 特急』(花田徹也著、Kindle 版、617円)
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の二冊を購入しました。
また後知恵ですが、参考書の出版形式から「1と2」、「3と4」、「5と6」、「7」という組み合わせで勉強するらしいということも知りました。

ということで、
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●『でる1000問』
●『パート1&2難化対策ドリル』
●『文法特急』
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の三冊を並行して、2018年の1月まで勉強しました。

『でる1000問』は、最後に、パート5の模試が13本ついて、少しずつ学習を進めるのにとても便利でした。時間を測ってやってみると全然足りないことに気が付きまして、対策が必要でしたが、『文法特急』をやってコツを学んでから再度やってみると時間内に収まるようになりました。

一方リスニングは、『パート1&2難化対策ドリル』をやってみて自分が「英語(British)」がかなり苦手だというのを実感しました。

あまりにも米語ばかり聞いていたからでしょうか。(米語だって全然ダメなんだけど)
これだけ綺麗な音声ではっきり発音している”英”語を聞き取れない時があるというのがかなりショックでした。
(これには他に言い訳めいた理由があります。設問が間違いを誘発するために、とんでもない言葉の言い換え(パラフレーズ)をしているからというのもあるのです)

1月が終わるころ、「ところで、本当に受験するの?」と迷いが生じました。
じゃ、いつ受けるの?覚悟を決めなくてはという気持ちになりました。

調べたら、年に10回も実施していると知り驚きました。
儲かりますなぁ~。

さきほど見つけたTOEICの解説ホームページによりますと2014年で240万人受けてるそうです。2018年で250万人と想定しますと。

250万人×5725円(受験料)=143億円

他にはライティングとスピーキングのテストもありますし、公式参考書の売り上げも馬鹿にならないと思います。
一人あたり、3000円相当の問題集を新規受験者を3割の人と想定し彼らが購入するとしますと、

250万人×3割×3000円=22億円

都合、165億円。

なかなかのビジネスですね~。

2018年6月14日木曜日

TOEIC体験記(2)

ここまでのあたしの書き方を読んでいただきますと、この人、TOEIC初体験?という印象ですが、実はあたしは前に、一度だけ受けたことがあります

留学直前に神田にあるELEC英会話(正式名忘れました)という学校でTOEFLとGRE対策の特訓を受けていまして、そこで英検とは違うTOEICという「社会人向けの」新形式の英語テストが開発されたらしいという話を聞いたのです。

その後、どういう経緯で受験したかはすっかり忘れてしまいました。
今、検索して見つけた『TOEICとは?TOEICの歴史とテスト形式について
というページから抜粋させていただきますと、

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1977年9月から、アメリカの大学への留学に課せられるTOEFLなど世界最大の非営利テスト開発機関として知られる米国のETS(Educational Testing Service)と折衝を開始し、2年の研究開発を経てTOEICテストが実現。

その後1979年にTOEIC運営委員会が設置され、12月に第一回TOEICテストが、(中略)実施された。
第一回テストの受験者は、わずか3,000人
その後のTOIEC受験者数は1990年度には332,000人、1990年度には332,000人、さらに2000年度には100万人の大台を突破。
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ここから類推しますと、あたしが受けたのは、たぶん1980年~1981年のことだと思います。

なにしろ40年近く前の話ですので自分が何点だったのか?(確か870点くらいだったと思います)試験結果の紙(ぺらぺらしたレシートみたいな感じだったと思います)もどこかにいっちゃったし、試験の形式も中身も、どこで受けたかもまったく記憶にありません。

もしかして運営母体に問い合わせれば、再発行してくれるのでは?と連絡したところ個人情報保護の観点から「破棄」してしまっているとのこと。
当の本人が欲しいっていってるんだから個人情報保護は関係ないと思うのですが、まぁここはあっさり諦めました。

ということで、今の自分の状態がどうなのか、これはますます気分を新たに受けなおしてみるしかないなと思い立ったわけです。

じゃ、とりあえず手元にある『でる1000問』からやってみるかとドリルをやり進めてみますと、あたしは「文法」能力がやたらと低いということを実感しました。

まとまった時間もなかなか取れないので小刻みに勉強できる本はないかと探したところ『特急シリーズ』という参考書があるのを知りました。

2018年6月13日水曜日

TOEIC体験記(1)

マーガレット・カスタネダの回想記の連載中ですが、ちょこっと休憩させていただき別ネタ行きます。

2017年の9月に『究極のゼミ Part 7 TOEIC L&R テスト』(長いので、以下、『究極パート7』とかと呼ぶことがあります)がアマゾンの日替わりセールだったので、クイズのつもりでもやるかな~と気軽に買いました。安かったし。
(こんな時、記録があるのでアマゾンは便利ですね)
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●[新形式問題対応]TOEIC L&R テスト 究極のゼミ
 Part 7 TOEIC L&R テスト
(ヒロ前田著、Kindle 版、199円←安売り)
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このシリーズ、フォーマットが『画像』なので実は、キンドルでは非常にみずらい。
文字の検索もできないし。少し読んだだけで、結局そのまま放置してしまいました。
(知らずに「画像kindle本」を買った時ってがっくり来ますよね)

この本を開いたとき、あたしは「パート7」ってなんだ? 程度の知識でした。
パートって、一回じゃなくていろんな種類のテストがあるのか?とか。

後から、TOEICのリスニング・リーディングテストが、全部で7部構成になっていて、世に出回っている参考書はジャンル別(パート別)に売られていることが多いということを知りました。(1~4がリスニング。5~7が読解)

パート7ってのは一回のテストの最後の部分で長文読解のテストだそうです。

それから、しばらくして2017年の11月に、またまた日替わりセールで、
『TOEIC L&Rテスト 文法問題 でる1000問』をまたまた懲りずに購入。

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●TOEIC L&Rテスト 文法問題 でる1000問
(TEX加藤著、Kindle版、1192円)
(以下、『でる1000問』と呼ぶことがあります)
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この本も「画像」なんですが、なぜか今回は、”やる気”がおきまして。
2011年から英語について意識が上がってきてるし一度、TOEICでも受けてみるかな~と思い立ちました。

ということで2017年の11月を初動としまして、約半年ハーモニカの練習を減らしてまでTOEICの受験勉強をしました。

この『でる1000問』は、買ってから「パート5と6」について解説したものだと知りました。あたしがTOEICの試験の仕組みをちゃんと知ろうと思ったのは、この本を買ってからです。

ん?パート7の本買って次が、5と6か?
じゃ、ちゃんと1から始めないといけないんじゃないか?みたいな感じで、まずは意識しはじめたと。

2018年6月12日火曜日

Maya(12)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』10

この章では『知覚の扉』の説明が続きます。
1886年、Lewis Lewinというドイツの薬理学者がLophophora williamsiiというサボテンからとれるメスカリンを体系だてる研究をしHavelock EllisとWeir Mitchelがメスカリンの実験をし、ハックスレーが関わってきた流れを説明しています。

カルロスは、LACCの第二学年の提出論文(学期末レポート)のテーマにハックスレーを選んだ。1957年の12月にカルロスは同級生のJennie Lavereに彼の論文のタイピングを頼んでいる。

オルダス・ハックスレーの本を読んだのは初めてでした。それから彼の本は何でも読んだわ」Jennieが回想する。彼女は今は、ノース・カロライナで主婦をしている。

論文は、ペヨーテ、幻覚性植物に関するものだったわ。その当時は、LSDについては知られてなかったし、ほかの幻覚性物質についても情報がなかったなかので論文はちょっとしたものだったわ。ハックスレーの実験は科学的な枠組の中で行われたことに感銘を受けたの

カルロスは、自分の思いついたことをたくさん記していてすごい量だった。私がタイプしている後ろから覗き込んで新しいアイデアが浮かぶと加えていくの。私ものちにハクスレーについてレポートを書いたけど彼のには到底及ばなかったわ

ハックスレーとベルグソン哲学にヒントを得ているが、カルロスは象徴と言語体系まで考えをひろげた。

1973年、カルロスはこのように述べている。

宇宙を神秘ととらえるのは死んだ馬に鞭を打つようなものだ。我々の前にはとてつもなく素晴らしい世界が広がっている。僕は”そこから”来たし、そこへ戻るんだ。
僕は、とてつもない円環、力の旅である命の中にいる。僕の身体が僕のすべて、知覚のためのすばらしい道具なんだ。僕はそれをとことん使い込むんだ

彼はハクスレーの他には、Talcot Parsonsの影響も受けている。

LACCの初期の頃、カルロスはあまり友達を作らなかったが、少しだけ仲間がいた。

1956年の秋ごろ私たちの仲はすごく近くなっていた。私はパシフィック・ベルで働いていて彼は学校に行った。夜、私が彼のところに行くか、彼が私のところへ忍んできた。(叔母の建物だったし、叔母は彼を好んでいなかった)
叔母は彼を怪しい南米人と思っていた。
それを感じ取った彼は人種差別と思った。彼はそのころ美術家としても自信を失っていた。

1967年彼が私にくれた手紙にはこうある。
些細なことで自分の輝きを失ってはいけない」「人生は数秒しかないんだ

1958年、私は仕事と両立は難しいと反対だったが私もLACCにパートタイムの学生として通うようにいった。

カルロスに半ば強引に申し込みをさせられロシア語の初級コースに入った。次の学期では、加えて英語、ロシア史、世界の宗教のクラスを取らされた。
私をいつかロシアのリーダーに合わせるのが彼の夢だった。

当時、カルロスと一番仲が良かったのは、Alan Morrisonだろう。LACCの学生だが郵便局でもパートタイムで働いていた。他にはコスタリカ人のByron Deford、同じくLACCの学生。それとSue(Childress)ぐらいか。私のアパートに集まって食事をした。

いつでもワインがたっぷりあった。たいていはMateusだった。クスリはまったくやらなかった。Byronは神秘的な話題が好きだった。

ある日、Byronがこんな話をした。
偉大な宗教のリーダーは、自分では書き物を残していない。ブッダもキリストも。みんな弟子など他の人間が記録したものを僕たちは信じているんだ。

私が言った「もし、私があるとき、究極の生き方を見つけたわ!と言っても信じないでしょ?でも、謎の先生に出会ったの。彼から究極の生き方を習ったのよ。と言った方が信じるんじゃないかしら?

それがドン・ファン”誕生秘話”?

『かみそりの刃』(サマーセット・モームのThe Razor's Edge)みたいに?」とアラン。
『シッダルタ』(ヘルマン・ヘッセ)みたいに?」バイロンが言った。

カルロスがうなずいた。考え込んでいるようだった。いつものように口数は少なく自分のアイデアを述べることはあまりなかったし、大きく賛意を示したり反対することもなかった。そのかわりマテウスのグラスを口に持っていくのだ。

Nevilleの夢についての話も出た。カルロスは夢に興味を持っていた。
またNevilleは、また自分の履歴を消すようにも言っていた。
カルロスは、実際、ドン・ファンに会う前に、Nevilleの本を読む前に自分で履歴を消すことを実践していた。
Nevilleは、人が光ビーコンだと言っていた。

当時(1958年)、この話を私がカルロスに言ったら笑っていた。

2018年6月9日土曜日

Maya(11)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』9(?)

原著では、編集ミスで第9章が抜けていますが、ここでは便宜上第8章の後半を9章としました。

1957年の3月。しばらく忘れていたこのエピソードを思い出した。

上記の「この」は、昨日のポストのカルロスが作り上げた?女性の名前がマーガレットの母親の旧姓だったという話です。

私は当時、Pacific Bell(日本のNTTに相当する通信会社)のオーディオ・ヴィジュアル部門で働いていたので電話のディレクトリーを使って、Sue Childressを見つけて彼女に電話した。

彼女はLACCのクラスにはいなかったし、彼女にはブラジル人の知り合いもいなかったがブロンドで彼女自身がライターを職業にしていた。

彼女と翌日、お昼を食べる約束をした。

カルロスにこの話をすると、あの名前は僕が適当に自分と君の母親の名字を組み合わせて作ったいたずらだよと言い、私のジェラシーを喜んでいた。
でも、もしかするとカルロスは私に本当の話をしていたのかもしれない。

それとも、カルロスの作り話を受け止めた私が、彼女を実在の存在として出現させたのかもしれない。

カルロスは、この現象よりも私の意志の強さに驚いていた。

カルロスが彼女のスケッチを描いて私に見せた。

Pacific BellのL.A.オフィスのそばのレストランでSue Childressと向き合った私は言葉を失った。彼女はカルロスが描いた人物とそっくりだったのだ。

だが、彼女はだれも南アメリア出身の知り合いはいないといった。
ただかつてLACCで陶器のクラスにいたことがあるといった。

彼女は、私の話を辛抱強く聞いて微笑んだ。すると、そこには!!
カルロスが言っていたとおり、彼女の糸切り歯(incisor)には、被せものがあったのだ。

二日後にカルロスは彼女と会ったが、彼が創造した女性の通りだが会ったのは初めてのことだと行った。
私は結局証明できなかったが、彼が彼女のことを知っているに違いないという印象を持った。

いつか」カルロスが手紙に書いた「きみがおこなったことの意味をわかると思う。今は理解の埒外だけど、いつかわかるはずだ

これはいったい何だったのだろう?
ひとつだけ確かなのはカルロスは自分のミステリアスなイメージを作っていたということだ。

今になって、あの日、Sueとカルロスと私があのアパートでこのエピソードを話し合ったことを思い起こしてみても、Sue Childress(今は、Sue Parrottだ)、彼女は私がいったいなにをしたのかわからないと言う。
Sue Childress ( Parrot )について新情報を書き加えました

不思議な事件で出会った相手とその後も付き合いを続けているというのが興味深いです。

カルロスは、私が強力な女性で私が望んだとおりの現実をアレンジして、実際のSue Childressを見つけ出したのだと考えていたようだ。

だが、彼女の名前を考えたのも彼女の様子を描いたのも結局のところカルロスなのだ。

1956年に彼があのLACCの狭いキャンパスで彼女を見かけていたこともあるかもしれない。彼女は忘れているが彼と一緒のクラスにいたことがあるのかもしれない。
いろいろな説明を思いつけるが、カルロスだけが真実を知っているのだ。

カルロスは、ごく普通の当たり前のことを意味深い神秘的なものに作り上げるのがうまい。

一年後に私がSueとアパートにいたときカルロスが電話を寄越した。

Susie、君のお母さんだけど、彼女は喉に問題が起きているよ」彼が言った「重大な問題になりそうだ

明らかに、彼はSueに自分が予言能力があるように見せたかったのだろう。これだけで彼女を怯えさせるのに十分だった。

私は母が今にも死んでしまうのではないかと心配になったわ」とSueが当時を思い出して語る。「母は隠れてタバコを吸っていたし喉がいつもいがらっぽかった。でも、今も元気で生きているしタバコもやめてないわ。あとみんな母の電話番号を知ってるから

おそらくカルロスは私が知っていたSueのお母さんと電話で話した経験を使ったのだと思う。

Sueがあたしの家にいるタイミングを知って電話をかけてきたのだ。
彼は、女性に印象づけるために自分が超常能力を持っているフリをしているようだった。

続いてSueの母親のディナーに招待されたとき不思議な行動をとって印象づけた話が披露されていますが割愛します。繰り返しますが、「友人になり度」がすごいですね。

この後、1956年ごろ、カルロスが、オルダス・ハックスレー『知覚の扉』を読んで大きな影響を受けていた話が書かれています。

ハックスレーは、まさにカルロスが目指している存在だった。

『知覚の扉』は、どうやらあたしも大好きなようでこれまで何度も登場しています。

至高体験(2007年10月25日木曜日)(初出:2005年11月14日)
七田式(2)(2013年2月17日日曜日)

カスタネダ関係の記事でのこれまでの言及はこちら。

”フォロワーズ(The Followers)”の話(前篇)(3)『ドン・カルロスの教え』(5)(2016年10月19日水曜日)
マーガレットの話(3)『ドン・カルロスの教え』(10)(2016年10月24日月曜日


2018年6月8日金曜日

Maya(10)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』8

1957年の9月、私は、Nevilleの教えをカルロスに伝道しようとしていた。

その週のはじめ、彼はWilshire Ebell TheatreでI AM(God in Man)に関する定例講義を行った。

カルロスは、私が彼にあげた”The Search”を持っていて少しずつ興味が増していた。

とはいえ、彼はNevilleのようなLaguna Beach(高級住宅街)に住んでいるエキセントリックな新しい神秘哲学者による本や金額の高い講演会やテレビのショーをうさんくさいと思っていた。

そんなカルロスが同じ顛末になるなんて・・・。

界隈の書店にはNevilleの本が超心理学を研究しているJ.B. Rhineの本と一緒に並んでいた。

1957年にはRhineは落ち目になっていた。H.L. Menchkenはじめとするジャーナリストの批判によるものだった。


とはいえ、1950年代半ばはまだまだオカルトブームは続いていてカルロスも少し試してみる気になった。

二人でESPカードを使ったテストをした。
カルロスは非常に几帳面に記録をとった。
結局、二人ともESPの才能がなかった。

二人は多くの時間を過ごしていたが、私は彼が他の子ともデートしていると疑っていた。
彼はいわゆるハンサムではないが、非常にチャーミングで女子にもてた。

彼は話も得意だったが女性の話を聞くのがとても上手だった。

カルロスのクラスのあまり知らない女性が彼にクリスマスプレゼントをくれるといっていると話した。私は嫉妬にかられ受け取っちゃダメといった。
カルロスは、彼女が前歯にかぶせものをしているといったディテールを語った。

だが、彼が話したブロンドの女性は、彼のクラスには存在しない架空の人物だった。
ある日、彼は彼女は学校をやめて山かどこかへ行ってしまったといった。
彼が作った人間はどこかに消えてしまった。

ある日、ハリウッドを彼の1954年型Chevyでドライブしていると彼が通りを指さして言った「ほら、例の彼女がいるよ!

人込みの中にはブロンドは山ほどいるしだれかわからなかった。
彼女の名前はなに?

彼は、「Sueだよ。Sue Childress

Childressは私の母の旧姓だった。

2018年6月7日木曜日

Maya(9)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』7

カルロスは私と付き合うようになった。

Lydetteとは違い私は彼の経歴を尋ねた。

彼は、1931年のクリスマスの日にイタリアでスイスの花嫁学校に通っていた16歳の少女の子供として生まれた。彼の父親は、大学教授で彼の母親Susana Navonaと出会ったのは世界中を旅行していたときだった。

母方のおばが訪ねてきてカルロスを引き取り、ブラジルのサンパウロにある家族農場で育てることになった。彼が大きくなるまで農場で過ごしやがてイタリアに渡った。そこで美術学校に入った。その後、ニューヨークに移った。

彼はモントリオールとニューヨークの美術学校に通ったと話したが、詳しくは言わなかった。

この時点でこうした嘘をつく合理的な理由はなかったように思える。
でも、こうした嘘が彼を国際的な人物に見せたし彼の絵画や彫刻に箔をつけた。

しかし、これらの嘘にその後の大きな計画性はなかったと思う。特別な理屈もなかったし彼の過去をごまかすための哲学的な意味もなかった。

それは後に、ドン・ファンに経歴を消すように言われてからの(後付けの)話だ。この時点では単に嘘を話すのを楽しんでいただけで、彼はそうして生きていたのだ。

カルロスが落ち込むのは珍しくなかった。いつもまじめだった。

カルロスは、彼が軍隊にいた時のことを話してくれた。腹と鼠径部にあるアザはその時の傷のあとだそうだ。深刻な傷で死の瀬戸際だったそうだ。

敵が来たときは暗くなっていた」彼はスペインだか韓国だか、一度もはっきりとしたことは言わなかったが、その情報機関のために働いていたのだそうだ。敵に襲われて木につらされて腹を切られた。気が付いたときはベッドの上だった。

そのとき、もし生き延びたら違う人間になろうと決めたのだそうだ。

もう一度だけ彼が軍隊経験のことを話したことがある。二人で家を買おうと思っていた時、かれはGI Billローン(退役軍人が受けられる資金援助)が受けられると言ったのだ。

結局、ローンは申し込まなかったが、かれを信じることにした。細かいことだが、彼が鏡とハサミで自分の髪を切る姿とかを見たからだ。
一度大失敗したのを除けば、彼の散髪の腕前は大したものだった。

彼は、自分の服の修繕も得意だった。自分の着ているシャツの襟を裏返して縫って長い間使うのだ。

この技を彼が軍隊で習ったのか、イタリアでジプシーと暮らしていた時に覚えたのか、その時々で話が変わった。

防衛省には、カルロスが軍についていた記録は残っていない。

とにかく彼はカリフォルニアで過ごし大学に行くための金を稼いだ。そのころ、実家には時々手紙を出していた。(妹の)Luciaはその手紙を持っている。そこには彼が軍隊に入ったがちょっとしたケガのためか”神経的なショック”で除隊になったと触れているが、彼女はどちらか定かではないと言っている。

彼の話はいつでも自分を大きく見せようとする自信のない男のようだった。

でも全部が嘘だったわけでもない。母親に対する思慕、彫刻家への夢、自分の内部矛盾している性格について、これらはみな本当だし正確だった。

しかし、かれは嘘の話によって徐々に自分の過去の詳細を消していった。

2018年6月6日水曜日

Maya(8)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』6

1955年の夏、カルロスは、カルロス・カスタネダの名前でLos Angeles Community Collegeに入学した。

彼のLACCの入学記録には、彼が1931年の12月25日にペルーで生まれたとなっている。彼がいつから出身について嘘をつくようになったのかは不明だが、ペルー出身を恥ずかしいと思っていてブラジルの方が洗練されていると思ったのかもしれない。

アメリカの教育レベルは高かったが自分の美術の才能について疑いを持ち始めていた。空いている時間に、詩とロマンティックな小説を書き始めたがそれらについての才能も自信はなかった。

彼は内輪の仲間では魅力を発揮したが知らない人々の間では内気だった。パーティーにはでかけず、美術展に行ったり勉強をしていた。彼が先行していた人文科学では一般の科学や文学に加え最初の二年間はジャーナリズムの科目もあった。
それらに加え、二科目、ライティングのクラスを受講していた。

Vernon Kingという先生が彼の小説や詩を評価してくれた。

LACCの最初の二年間は、Madison Streetのそばのアパートに住んでいた。私は、彼の部屋にカーテンを持っていきしつらえた。友達は少なく、部屋に戻って勉強したり書き物をしていた。
このころはたまにデートをした。

彼はLimaのころよりも成長し、静かで、内省的になっていた。LACCのほかの学生よりも大人びていた。というのも、学校には24歳と届けてあるが、実際には彼は29歳で入学したからだ。

彼の目標は、UCLAかUSCかスタンフォードかどこかの美術で学位を取得しアソシエイトになることだった。カルロスもはっきりとはわからなかった。もしアーティストになれなければ、大学の教師になろうと思っていた。おそらく心理学の、彼はプレ心理学を専攻していたので。もしくは考古学、あるいは文化人類学、または文学。

教えることも悪くないと思っていたが、教授になるための競争を考えるとうんざりした。
カルロスは、Lydetteは過去を詮索しないので、彼女と過ごすことを楽しんでいたが、彼女が支援を申し出るとその気を失ったようだ。

1956年の中ごろには私と会うことが多くなり美術展によく行った。
ほかにはバレエ、コンサート、講演会、大学で催される文化イベントに出かけた。
カルロスは映画に魅了されイングリッド・バーグマンの映画とロシア映画が好きだった。
上記の付き合いは、彼が絵を持って私の家に初めて来た時が始まりだった。
私は良いと思ったが彼の中では自分の才能に疑問があるようだった。

私はキッチンへ行ってMateusワインのボトルを持ってきた。このワインはカルロスのお気に入りになって、よく冗談で彼のもっとも大切な先生だと言っていた。

この下りは他の記事でよく言及される有名なエピソードです。ドン・ファン・マトゥスという名前はこのワインにちなんでつけたのではないかとマーガレットは考えています。

私は、彼の絵よりもNevilleのテクニックが実際に効果があったことに驚いていた。
私は、彼にNevilleの”イマジネーションのコントロール”について話をした。Nevilleは夢の力、夢ができることについて教えていた。

カハマルカでは子供たちはみな学校で「Life is a Dream」という本を読むのでおなじみの発想だった。Pedro Calderon de la Barca(劇作家?)も人生は影だと書いている。

カルロスは納得はしないようだがNevilleに興味をもったようだ。
Nevilleも経歴がよく知られてなく謎めいていた人物だった。当時のカリフォルニアでは、彼に限らず多くのニューエイジ関係者たちが勃興していた。

例えば1920年代からサイキック(ESP)研究をしているJ.B. Rhine。
彼はデューク大学に研究室を持っていた。

学生たちもSci-fi映画を製作していた。

カルロスは、故郷でCuranderoを知っていた。未開の知が生んだオカルティズムとして遠ざけていたが、ここカリフォルニアの大学では教育を受けた学生や中流階級がこうした超心理学に夢中になっている。そして、目の前の私、痩せた合理的そうに見える女性が、バルバドス生まれの神秘家をまるでブッダのように話している。

この流行はカリフォルニアだけで起きていたわけでなく全国のごく一般の人たちが何かを求めていたのだ。だれもがオカルトビジネスに夢中になっていたし、私たちも例外ではなかった。

2018年6月5日火曜日

Maya(7)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』5

カハマルカで3年間中学校に通ったあと、カルロスは家族と一緒に大都市Limaに移った。
Jiron Unionという有名な繁華街だった。カルロスは、この町でColegio Nacional de Nuestra Senora de Guadalupeを卒業し絵画・彫刻を学んでアーティストを目指した。


Colegio Nacional de Nuestra Senora de Guadalupe

カハマルカの店の修行で貴金属の扱いには慣れていたし、この町には多くのアーティストたちが活動をしていた。
歴史ある美しい建物もあった。
中でも歴史美術館はカルロスに強い印象を与えた。

カルロスの母、Susana Castaneda Navoaは、1949年に亡くなった。
妹によるとカルロスの悲しみはとても深かったそうだ。自分の部屋に三日間こもって食事もとらず葬式にも出なかった。

彼は世界恐慌のころ(1929年、カスタネダ4歳)、父の宝石店に訪れていた太った女性たちのイメージに取りつかれていた。私はまさにそんな女性に似ていたのだ。
彼は、そんな自分のことを「僕のまがい物(trinkets)に対する執着」と言っていた。

彼は自分の母に対する執着の強さを断ち切るためにすべてから遠ざかることを考えた。

彼の本では、ドン・ファンが自己憐憫と内省を断ち切ることの大切さを秘儀として伝えているが、母の死で受けたような苦しみを二度と受けないためのものだったのだ。

閉じこもっていた母の部屋から出て、自分は家を出るといったカルロスを妹が覚えている。

カルロスは、National Fine Art School of Peruで美術をまなび、やがて(南アメリカ文化について詳しくない人々が暮らしている)アメリカにいくことを計画した。

そのころ、ちょうどOswald Aranhaが国連の活動から戻ってきた。彼は、それに先立つ4年間、ブラジルの大使としてワシントンに駐在していた。そうしたアメリカの話をカルロスは目上の連中から聞いていたのだ。

美術学生時代、カルロスは自分の才能に不安を持っていた。特に第二次世界大戦後のアメリカにおけるアーティストの競争は激しかった。カルロスは、絵画よりも彫刻の方が自分に才能があるだろうと考えた。

年がたつにつれ家族とはますます疎遠になり、以前のひ弱で寡黙な人間からより自信家でアグレッシブな学生になっていた。
人々とのつきあいも上手になりボヘミアンのような生活をしていた。

当時の同級生のJose Bracamonteは、彼が自由で気楽な生活をしていたと言っている。Bracamonteは、カルロスが当時、ギャンブルで生計をたてていたようだと言っている。
彼は、トランプ、馬そしてサイコロが得意だった。

Bracamonteはいう「みんなカルロスのことを好きだった。ウィットと想像力がたくましく、朗らかだった――大ウソつきで、本当の友達だった」
彼はカルロスは、アメリカに渡ることに取りつかれているようだったと言っている。

カルロスは制作活動だけではなくペルーや南米の美術をよく学んでいた。彼が訪れていた博物館には、呪術関係の展示も多かった。

カルロスは、アメリカの友人にOswaldoからアメリカに行かされたといっていた。その話によると彼が中国人女性と親しくなりOpiumu(阿片)をやったからだという。カルロスによるとこれが彼が初めてドラッグに接したときだそうだ。

カルロスはニューヨークに来たと言っているが、1951年にサンフランシスコに来て後にロスアンゼルスに移った。

Lydette Maduroは、ハリウッドで両親と暮らしていてカルロスの初期のロス生活の仲のいい友人だった。
カルロスは、彼女のことをNaneccaと呼んでいて、1955年の終わりまでは頻繁に会っていた。

1955年の12月にLydetteがカルロスを私のアパートに連れてきた。Angela Maduro夫人、Lydettoの母が私に二着のカクテルドレスを作ってくれてLydetteが私のところに届けにきたのだ。カルロスは、そのお使いについてきたのだ。

私は、西8thストリートの5301の叔母が所有するビルのアパートで暮らしていた。


マーガレットが当時暮らしていたアパートの場所




右正面の建物の場所ですが、この建物は当時のままなのでしょうか?

彼らがきたとき、試着するので少し待つように頼んだ。カルロスは、部屋の隅におとなしく座っていた。Lydetteは、仕上げのチェックをした。
帰り際にLydetteが彼を紹介してくれた。

そうそう、Margarita、私の友人のカルロス、南アメリカから来たの」Lydetteが言った。
(彼の容姿の話は省略します)

彼はシャイであまり話さなかったが、なぜかとても興味がわいた。

数日後、仕上がったドレスを受け取りにMaduroの店を訪れた。カルロスに会えることを期待して、”The Search”というNeville Goddardという神秘家が書いた本を持って行った。

彼は店にいて私のプレゼントをとても喜んだ。二人でサンパウロの話や美術の話をした。彼は自分は美術家で彼の専門分野である私のテラコッタの胸像を作りたいと言った。
これは彼が女性を口説くためのいつものテだった。

The Searchの表紙に私の名前と住所、電話番号を書き込んだ。

Introductionで書かれている内容と詳細が少し違いますね。

その場では時間がなくあまり話せなかった。カルロスは本を読んで返すといった。

バルバドス生まれのGoddardは、米国に移住したて西海岸では教師として知られるようになった。(ゴダードの概要省略)

私は、ゴダードの講義には全部参加していた。(ゴダードの思想紹介省略)

私はゴダードの教えに従って毎晩寝る前にカルロスからの連絡が実現することを祈った。

半年待った。1956年の6月の土曜の夜9時にカルロスから遂に電話が来た。彼が仕上げた絵をみてもらいたいので少し寄ってもいいかという連絡だった。

その時、Lydetteが一緒にくるか聞いたが、彼がまるで彼女のことを知らないようなそぶりを見せたのに驚いた。

最初は、冗談だと思ったがのちに、これがカルロスの性分だということがわかる。ある日、人との関係に突然飽きてしまいまるでその人を知らないようなふりをするのだ。

僕は狂ったように恋に落ちるんだ」カルロスがいった「かわいそうな女の子に。そして、パっと終わってしまう。そして新しい女の子を探すんだ。これを繰り返して年をとりそして最後に””もう愛はない、もう新しい喜びはないんだそして死ぬ準備ができた”という日まで」そういうことで、ほかには可能性がないんだ

ドン・ファンは、”そんなことをやめろと僕に言った。ロマンスを唯一の目的にするのはばかげている。もちろん、そんな出会いがあることもあろうだろう。だが、そうしたことには軽く触れる程度にしておき全部をささげることはない”

ドン・ファンのアドバイスはもっともですが、これがカルロス自身の創作逸話とすると「わかっちゃいるけどやめられない」の典型ですね。

2018年6月4日月曜日

Maya(6)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』4

カルロスは、子供のころ凧を飛ばすのが得意だった。後にタカを操るようになり獲物の鳥(彼の家族はどの鳥もキジと呼んでいた)を取ってくるので家族に喜ばれた。

白いハヤブサが鶏を捕っていくので、みんなが悩まされていた。カルロスの祖父は戦いを挑んだが、捕まえることができなかった。

白いハヤブサについては、こちらを参照してください。

ある日、カルロスがユーカリの木のてっぺんにいるのを見つけたがライフルの引き金を引くことができなかった。

ドン・ファンに会う20年前に起きたことだが、ようやくそれが予兆だったということがわかった。

アメリカに来てから数少ない友人に、昔いとこにいじめられていて自信を失っていたということを話していた。

彼といろいろ話した中でボタン鼻の少年の話がある。これは後に『分離したリアリティ』に登場する。

それは1934年の秋、カハマルカの小学校3年生の時の話だ。
彼の名前はJoaquin(ホアキン)。

彼はクラスでいじめられていた。
カルロスが黒板を彼の上に倒して彼の鎖骨を折ってしまった。彼が痛みに苦しむ様子が耐えられなかった。
本に書かれた通りの話だ。

いつもそうだったが、このような私との日常の会話では話の「寓意」については触れなかった。友人たちも後にカルロスの本に登場するたくさんの話を聞かされていた。

批評家たちは、こうしたエピソードは、単なる寓話でカルロスが超常的な人物というよりも詐欺師であるだけではないかと言っている。

しかし、これらの著書に登場する逸話が教訓的であるというだけでそれらが実際に起きたことではないとは言えない。

カルロスの本に登場するすべての素材は実際に起きたことでありすべて真実だ。

例の日本語版ウィキペディアに記載されている有名な記述の違いを確認してください。

1960年の夏、カルロスは実際にあるインディアンに出会っている。

実際には、彼は幾人かの情報提供者に出会っている。それらの何人かからシャーマニズムと幻覚性植物に関して習ったのだ。

彼はメキシコで数年に渡りインディアンの話を聞き、彼らの生活を学んだ。

彼は、ブラジルではなくペルーで生まれたがそれは大きな違いではないと思っていた。
彼はとにかく南米で生まれていたのだ。

僕の人生を”統計”で測るのは呪術を科学で解き明かそうとするのと同じだ。マジックと僕たちの目指しているものを奪い取るだけだ

彼の父親が大学教授だというのは確かにウソだが、彼が言っている父親・母親というのはよりシンボリックなものだととらえなければいけない。

彼の話と実際の出来事は入れ替えることができる。
彼の父親が意思が弱いという話は、彼自身のことなのだ。

僕は自分の父親なんだ。ドン・ファンに会う前は何年も鉛筆を削るだけで何も書けなかった。ドン・ファンがそれはおろかなことだと教えてくれた。人が何かをしたいときは完璧にやらなければならない。ただそれだけだ

1967年の夏、彼が手紙をよこした。「Valley(Topanga Valley)の昔のアパートに戻ってきた。感慨深いよ。Margarita、君は僕の大切な家族だ。僕の心は空っぽになってしまった

1950年代は、よく父親のことを教育を受けているが平均的でつまらない男だとけなしていた。

その一方、カルロスはPh. Dを取るなど教育を受けて学歴による保証のある生活を望んでいた。そして自分がつまらない人間になることを恐れてもいた。

それを防ぐために彼はくだらない人間のモデルを作ったのだ。それがかれが本に書いている彼の父親だ。

母親のイメージは、実際の母親の通りである。彼の本に登場する女性で”とても美しく子供のような”という女性は母親のイメージだ。

カリフォルニア大学アーバイン(UCI)校でカルロスが1972年に教えていたとき母親の話をしたそうだ。
そのことをJohn Wallace(当時の学生?)は、こう述べている。

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彼の母親が、こう言った。
「だれも私に何かを与えてくれたことがない。私はダイヤの指輪を持っていない」

彼女が泣き出した、彼も一緒に泣き出した。カルロスがドン・ファンにこの話を話した時、ドン・ファンは、
「もし誰も彼女に何も与えなかったのなら、彼女は世界を受取ればいい。もしも人が生きている恐怖から逃れて自由になりたいのなら、ひとはそれで充分なはずだ」
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しかし、そのエピソードの女性は彼の母親のことではない。それは私のことなのだ。彼は、そのエピソードを1960年よりも前に話してないはずだ。だから、そのネタは私だと思っている。

彼を指輪で困らせたのは、Susana(母親)ではなく私なのだ。アーバイン校の午後の大学院のクラスでその話をしたのは私のことなのだ。彼の父親は宝石商なのだから、彼女の母はいつでも指輪くらい持てたはずなのだ。

『分離したリアリティ』で、カルロスはペヨーテの幻覚で母親が何か告げていることを書いている。
彼は、母親の笑い声、家の中をペタペタするスリッパで歩き回る姿を思い出すのだ。

これもまた、実は私のことなのだ。1958年の春、私はペタペタする銀色のスリッパを買ったのだ。カルロスがこれを嫌がっていたので余計記憶に残っているのだ。

彼は私が部屋を音を立てて歩き回るのを嫌っていた。

そのスリッパはひどい」ついに彼が言った。「それを僕の実家にもっていっちゃうよ」と彼はブラジルにあるという52部屋ある大邸宅に持ち去ってしまうといっていた。

そのスリッパのイメージは彼の頭の中に残っていたのだろう、彼はそれを母親の描写に拡張したのだ。

この母親とマーガレットの交錯の下りは非常に面白いですね。

2018年6月3日日曜日

Maya(5)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』3

Time誌が1973年3月に明らかにするまでは、カルロスがペルー出身だということは知られていなかった。(ブラジル、アルゼンチン、イタリー出身などとと言われていた。(自分でもいろいろ言っていたのです)

カルロスを疑う人たちは、カルロスがうそつきである証拠だといい、彼を信じる人々は、それが履歴をけすための実践だと言った。

カルロスのペルーでの略歴については、この本が一番詳しいと思いますが、彼の誕生日が一般に知られている1925年ではなく1926年となっています。

カルロスが自分の公式な過去を固めるまでどれくらいかかったかはわからない。
ブラジル生まれ。大学教授の息子。ブエノスアイレスの格式の高い寄宿学校~ハリウッド高校~UCLAなどなど。だが、事実はもう少し平凡なものだ。

Carlos Cesar(eの上に点)Salvador Arana Castanedaはペルーのカハマルカに1926年のクリスマス、時計と貴金属職人の家に生まれた。父の名前は
Cesar Arana Burungary。市のダウンタウンに小さな店を持っていた。



彼の母親は、Susana Castaneda Navoa。痩せていてアーモンド色の目。カルロスが誕生したときは16歳だった。

カルロスの父親の一家はイタリアからの移民で、ブラジルのSao Paolo出身だが、カルロスの直接の家族はカハマルカで暮らしていた。

カルロスの妹は、Lucia Aranaという。
子供のころはいつも一緒で、ビジネスマンと結婚して今もペルーに住んでいる。

彼の苗字のスペルについては少し混乱があるようだ。

1951年にアメリカに来た時の記録によると、Carlos Cesar(eの上に点)Salvador Arana Castanedaとなっている。しかしアメリカで暮らし始めると彼は、Carlos C. Aranhaとhをつけはじめた。

たとえば、1957年のことだが、私と交際をしているころ、私が電話会社の組合からお金を借りるとき保証人のサインには上記のスペリングで書いた。

これは、1959年くらいから彼がブラジルの英雄、Oswaldo Aranhaとの関係をほのめかしはじめていたからだ。

Aranhaというミドルネームを使わなくなった後も、Oswaldo Aranhaとの縁戚関係については言及し続けた。

ここでオズワルドについての解説がありますが省略します。

しかし、カルロスに最も影響を与えた人物は、オズワルドではなく祖父だった。
この祖父は、発明家で面白い話をするのが好きだった。まさに、あのドン・ファンを想起させる人物だった。

彼がThe National Fine Arts School of Peru(Lima)で学んでいたころ、Limaの美術館を訪問している内に考古学の展示に夢中になった。
中には呪術師たちの文化財に関する展示もあった。

少年時代、カルロスは治療師に関する話題をたくさん耳にしていた。
家は典型的な中流家庭だったので自分たちが病気になったら「医者」に診てもらっていたがインディアンや貧しいMestizos(白人とラテンアメリカの先住民の間に生まれた人々)たちは治療師たちの世話になっていた。

市場では多くの治療師たちが薬草を売っていたが、本物の治療師はわずかだとカルロスは思っていた。たいがいはぶらぶらしている老人だ。

治療師たちは、San Pedro(Mother Cactus)の幻覚成分がメスカリンであることを知っていた。
Starr 070320-5799 Echinopsis pachanoi.jpgペヨーテほどは強力ではないが、キロあたり1.2グラム。ペヨーテは38種類のアルカロイドを持っている。

San Pedroの学術的歴史についての記述がありますが、割愛します。

近代ペルーの治療師、Eduardo Calderon Palominoの写真がUCLAのDouglas Sharonの机の上に貼られていた。Eduardo Palominoは、Sharonの先生だった。

Eduardoは、Mother Cactusのことをよく知っている本物の呪術師だった。Eduardoの教えは、カルロスが言っていることに非常に似ていた。

Sharonは、カルロスと類似の研究を行っていた文化人類学者です。

UCLAで学んでいたカルロスは、Eduardoの教えとドン・ファンの教えに非常に多くの共通点があることに気づいた。

ドン・ファンのキャラクターがヤキ族よりもカハマルカの治療師に似ているというのは興味深い話だ。

ここで、意識の変容に関するEduardoの説明がありますが割愛します。

Eduardoに代表される変成意識の取り扱いや”活用目的”についてカルロスは、ペルーで育ったために精通していたはずだが本人はそのことを認めてはいない。

1961年の8月、ドン・ファンの友人の家では、カルロスは幻覚性植物や”メスカリト(mescal)”に関してはなにも知らないふりをしていた。

50歳くらいのインディアンが、カルロスに南アメリカのこと、the Quichas(地名?、それともサボテン)のことをたずね、その地方にmescalがあるかどうか聞いたがカルロスは知らないと答え、最後まで初心者(Novice)のフリをした。

2018年6月2日土曜日

Maya(4)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』2

Salasというペルーの町には、幻覚性植物を扱う治療師(curanderos)がたくさんいた。
さまざまな植物を扱っていたが、なかでもSan Pedro(Mother Cactus)は強力だった。

カルロスが生まれた町(カハマルカ)から50マイル西には、the Temple of Brujo(呪術師の寺院)と呼ばれるピラミッド状の建物がある。

The Temple of Brujo(エル・ブルホ・アーキオロジカル・コンプレックス)


San Pedroは、Mother Cactus(母なるサボテン)と呼ばれていたが、そのスピリットは奇妙な男(hombre)、Mescalitoと呼ばれていた。

カルロスのドン・ファンの教えの原型は、ペルーの呪術にもとづくと示唆しています。

ドン・ファンの教えの「履歴を消す」に従い、1960年9月、カルロスは私と別れた。
(正式な離婚は1973年です)

1965年には膨大な原稿を用意していた。『ドン・ファンの教え』はその3年後に出版された。1974年の秋に『力の話』が出版された。
『力の話』には、カルロスの71年~72年の体験が書かれている。

1973年の10月。カルロスが言った。

僕は(呪術を)実践しようと思う
彼らが言っていることを確認したいので、きちんとやろうと思う。すごく重要な事柄について書かなくてはならないんだ。僕は何も持ってない。下着とズボンしかこの世で持ってないんだ

70年代でもっとも謎めいた男の言葉にしては変な話だ。彼のファンの数はどんどん増えていて、大金が銀行にあり、3冊も本が出版され、書きかけの4冊目のラフ原稿がデスクの上にあるのに。

このダメな頭をめちゃくちゃ使わないとだめだ」とうめき声で言った。

彼を悩ませているものは膨大な書き物だけではなかった。カルロスは自分が書いたものすべてを自分で信じ始めていたのだ。

Salas, Peru

2018年6月1日金曜日

Maya(3)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』1

第1章は、カルロスが自分の体験を回想している体の内容で書かれていて彼の出身地が呪術になじみのある土地だったという考察をしています。

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1974年春、カルロスが夜、悪夢でうなされています。
NannyというUCLAの学生が一緒にいてC.J.(カルロスお息子)をもとめて悲しむカルロスをなぐさめているの様子が描かれています。

この下りは前年マーガレットと正式に離婚し離れ離れになった息子のC.J.を求めてうなされている場面ですから当然、そこには別れたマーガレット、つまり著者はいません。

このエピソードが本当ならその場に居たNannyと本人以外にこの場面は語れないわけなのでここはドキュメンタリーライターの仕業とあたしはみています。

ちなみにこのNannyについては詳細が書かれていませんが、場所がWestwoodの家とのことなのでエイミーの生活から推測するに弟子(愛人)の一人と思われます。

でも、誰がその場面を見たのだ?あるいは聞いたのか?というのが書かれていません。

この章は、こうした導入部に続いてカスタネダの著作・業績について概要を説明する内容になっています。

最期に、彼の呪術との出会いはアリゾナでもソノラでもなく生まれ故郷の南米にあるといって次章につないでいます。