2010年1月30日土曜日

奴らは渇いている ~ロバート・マキャモン~

以前のエントリーで、伝(つて)をつかって『色褪せた太陽』や『東の帝国』本を手にいれたエピソードを書きましたが、こんな風に外聞もはばからずコネ使うなんてのは、めったにありません。
サザンだってちゃんとファンクラブ入ってるし(笑)。

コネではありませんが似たような話があります。

アッシャー家の弔鐘 」(ロバート・マキャモン著、扶桑社文庫)

買った本が落丁だったのです。
読み始めたら止まらなくて、突然「落丁!」。乱丁なら(でもだめだけど)まだしもページが欠落しているのだからたまりません。めちゃくちゃ面白いし。
なんと、出版社に電話入れて自分で取りにいっちゃいました。

盛りを過ぎてすっかり落ちぶれて呑んだくれているエドガー・A・ポーの下を一人の男性が訪ねてきて、あんた(ポー)が書いた小説のおかげで私の人生はめちゃくちゃになった。どうしてくれるのだ?!となじる。

面食らったポーが「いったいどういうことですか?」と尋ねると、男は「私は、アッシャー家のものだ」と答える。
ポーが描いた「アッシャー家」が実在していたという設定の「シェアドワールドもの」でテンポのいい語り口調でぐいぐい読者をひっぱっていきます。

マキャモンの別の作品「奴らは渇いている 」では、吸血鬼の貴公子が主人公。昼間は活動できないので「吸血鬼化」させない「人間」の僕(しもべ)を代行として雇っています。
全編、ロックのような雰囲気で吸血鬼パニックというか、とにかくカッコイイ。

マキャンモンってば、その後、ホラー卒業して、純文学路線に転向してしまいました。

安部公房もカルヴィーノもヴォネガットもキングも半村良も筒井康隆も歩んだ道です。
かつてアダルト向けの映画撮ってた監督がやがて大御所になるように、アダルト向けマンガをステップに本来描きたいものが書けるようになるマンガ家といったような出世魚的流れがあるのかも。


不可思議で懐かしい
小説家にとってもホラーやSFは、作家にとってもそんな踏み台扱いなのかなと思うとSFファンにとってはちょっとせつない。

ま、でも”転向後”の彼の『少年時代 』は傑作です。

父子が目撃したとある事件で彼らの生活に少しずつ変化がおきていく。彼らをとりまく不思議な人々。現実と虚構がまじりあった不思議な世界というと陳腐な説明だけど、全編に流れる「あのころ」の懐かしさ。読書なのに頭の中にロックが流れるようなマキャモンの語り口。文庫になっているハズなのでまだの人は一読あれ。


2010年1月27日水曜日

スターシステムとシェアドワールド

ウォルト・ディズニーや手塚治虫のマンガに登場するキャラクターたちは、「スターシステム」といって、創造したキャラクターが、別々の作品に異なる役柄で登場したりします。

ある時は、ギャング。ある時は、医者といったようにおなじみの顔ぶれがさまざまなシチュエーションで活躍します。

古くは「ルパン対ホームズ」のような異なる作家が別のヒーローを借りてあらたな作品を作り上げたりもします。
ルパンやホームズ、二十面相、ドラキュラなどは、キャラクターそのものがパブリックドメインと化していて世界中のクリエータたちが「活用」しています。

京極夏彦の小説に登場するキャラクターたちは、このスターシステムになっているので読者的に劇中内輪ネタを楽しむことができます。

同じ「役者」が「同じ役柄」で別の話にでるのだから、どちらかというと「シェアドワールド」という用語の方が正確かも。

ひとりの作家のシェアドワールドで、みんながよく知っているのは松本零士の各シリーズ。999にハーロックが登場したりする。(実は、あまし詳しくないのだけど)

読者がその作家の作品に精通してくれていないと楽しんでもらえないので、うっかりすると自己満足になっちゃいますがファンにとってはたまらないですよね。

2010年1月17日日曜日

コリン・ウィルソン

電車の中で、おっさん二人が「アバター」の話で盛り上がっていました。
なんだかんだ言ってたいしたもんです。

あたしの知人が、キャメロン監督の大ファンで、「タイタニック 」のPRで監督が来日した時、自前のタイタニックの模型持参でプレス発表に出かけたそうです。
(ちなみに彼は、出版で食っていて関連本を発行しています)

んで、監督に出くわすとすかさず「ほれっ!」ってその模型を見せて監督のハートを射止め仲良くなっちゃった。
挙句の果て、主演男優を連れて某チェーン(「…瀧」)系居酒屋に繰り出したもんだから大騒ぎ。
男優さんも後で関係者から大目玉をくらったとか。
「ディ…」in「…瀧」ですよ。まるで「跳ねる子馬亭」に入り込んだフロド・バギンズではないですか。

ま、人の武勇伝自慢してもなんだってなところですが、ま、彼はあたしのSFの師匠ですし、許していただきましょう。

オマケに、監督からお墨つきもらって「テクノアール」って名前の飲み屋まで開いちゃった。
「テクノアール」ってのは、「ターミネーター1」でシュワちゃんが暴れまわるバーの名前。景気がいい頃、あたしも何回かお邪魔したことがあります。

ターミネーター1。

小説でもマンガでも映画でも、初期の頃の作品の方が予算から自身のネームバリューからなにからなにまで条件が悪いんだけど、条件が良くないほうが、モノとして良かったりするって傾向にあるのでは?なんて思ったりするわけです。

アウトサイダー
難解です
あたしがはじめて住宅をデザインしたのは、川崎の「山岳地帯」にあるもうどうしようもなく大変な土地。なんてたって地所の方が道より数メートル低いんだもの。予算だってそりゃ若いご夫婦だから枠は決まっている。でも、状況が不利な分、土地が変な分、クリエイティブなココロは、燃えたりするんですよね。若いってのもあるけど。それから、場数をふんで条件が良くなってくると、なんかココロに隙が出てくる。作品にもなんか締まりがない―――すべて自分の責任なんですがね。

ビジネスの分野でも「不況こそチャンスだ!」なんてよく云うけど、これは、負け惜しみなんかじゃなくて、もしかするとホントかもしれないなって思います。
条件が厳しい時の方が肝となる「何か」が生まれるっていうか。

賢者の石
ドルイド出てきます
オカルト
自炊業者に
無くされました
さて。「アバター」のエンドロールを観てたら、ど頭にコリン・ウィルソンと来た。
あたしは、映画関係の人名に疎いので、え??これってあのコリン・ウィルソンかよ?「アウトサイダー」の?「オカルト 」の?
そういえば、「宇宙ヴァンパイア」って映画にもなっていたよなぁ。
と思い、後で調べたらほんとにあのコリン・ウィルソンだった―――いまも元気なんだ。コリン。SF小説は下手だけど、おいらは「賢者の石 (創元推理文庫 641-1) 」や「宇宙ヴァンパイアー 」好きだぜ。

2010年1月15日金曜日

クイサッツ・ハデラッハ ~DUNE~

こうなったら、デューン( 砂の惑星)について書かねばなりますまい。


やはしポールは少年でなくちゃ
あたしも石森イラストの文庫本で原作に出会いました。
今もカビくさい文庫ですが大切に持っています。

映像美を満喫
そして、映画版の「砂の惑星」嫌いじゃないです。
メランジ(麻薬)によって変貌をとげた宙航士なんてイメージ通りだったし、スチームパンクの美術も美しかった。音楽もよかった。そっかぁ、確かにブライアン・イーノでしたね。
スティングもカッコよかった。

そんで、なにより、ジェシカ(主人公のポールの母親)が美しかった。フランチェスカ・アニスという女優さんで、劇場で見たとき、なんて美しいのだと思っていて、あらためてビデオ(TV放映用長尺版)で見たら、あれ?と思ったことがある。自分の中でイメージを思い切り増殖させていたのだと思う。恋なんてみんなそんなもんだからなぁ。

では、ナニがあたし的に問題か?と申しますと、これはポール・アトレイデ(昔の翻訳のままアトレイデスではなくてアトレイデってことで)。
役者さんの、カイル・マクラクランには罪はないのですが、あたしの中でポールは「少年」――それも石森章太郎描くところの少年というイメージが固定されちゃってる。だけど、映画のポールはオトナなんだもん。映画館で予告編を見た段階でがっかりしていた。
石森章太郎が描いていたジェシカも美しかったなぁ。そういえば。

リンチ監督が実現するまで、何度か「SFマガジン」でデューン映画化の噂を目にしていて、すっかり忘れた頃映画化されたのでビックリしました。
あらためて世の中のブログを逍遥してみるとリメークの噂があるとかないとか。

原作が長編の作品を映画化するのってほんとにむずかしいのだろうなぁ―――なんて話を書いていると、ついつい「指輪物語」についても触れたくなっちゃうけど、これは場をあらためて。

ところで「少数民族」テーマだと「アニミズム(原始宗教)」ってのが重要な要素になっています。
「砂の惑星」では、砂虫に「乗る」というのがフレーメン(砂漠の民)の「イニシエーション(大人になるための儀式)」になっているし。

アバターでは、ドラゴンに「乗る」ってのがイニシエーションの儀式に位置づけられていたけど、このテのイベントってなぜか映像化されると醒めちゃうのは自分だけ?―――たぶん、彼らの宗教観、自然観にそこまで同化されないので、その部分で急に地に戻っちゃうのかも?

オームじゃない

2010年1月10日日曜日

アバター ~ポカホンタス~ ★★☆☆☆


サウンドトラックも
買ってしま
った
敵役の若者が
いい味出してましたな
 『ポカホンタス 』。

いや、ダンス・ウィズ・ウルブス 』(Dances with Wolves)だった―――じゃなくって『アバター』(Avatar)観ました。

 『デューン」(Dune)』(あのアニメの元ネタですな)は、脇においておきまして、あたしが好きな少数民族系のSFは
、なんといってもC.J.チェリィの『色褪せた太陽』三部作です。
・ケスリス(1982年) Kesrithk (1978) 

・ションジル(1982年) Shon'jir (1978) 
・クタス(1982年) Kutath (1979) 

今はなかなか手に入れにくい本です。


実は、この三部作、読んだのはだいぶ遅くて、すでに早川さんでは絶版。なぜか『ケスリス』も『ションジル』も本屋さんで売っていて、どうしても三巻目の『クタス』だけが手に入らない。で、どうしたかというと、もうこれは本当に恥じも外聞もなく知り合いの伝てを頼んで某所からコネで手に入れていただいた物なので、この三冊はあたしの宝物です。

そうそう。同じくらい入手に苦労したのが、フレッド・セイバーヘーゲンの『東の帝国 』三部作。これも、三冊のうちのどれかが手に入らなかっのを、本屋さんが探しに探してくれて手に入れることができました。

セイバーヘーゲンの『バーサーカー皆殺し軍団 』は、マイベストSFなので、きっと『東の帝国』も面白いに違いない!と思って、意気込んで読んだら、これはあいにく駄作。
政治的駆け引きが複雑
でもね。いいのセイバーヘーゲンだから。これも宝物。

・西の反逆者(The Broken Lands) 
・黒の山脈(The Black Mountains) 
・アードネーの世界(Changeling Earth) 

そうそう、C.J.チェリィというとヒューゴー賞の『ダウンビロウ・ステーション 』が有名だけど、プロットに懲りすぎちゃって、くどくてくどくて読んでてぜんぜん楽しくなかった思い出あり。(友人のジュビロがだ~い好きなダン・シモンズよりゃマシか……)それに比べ、「色褪せた…」は、いいっすよ。やっぱり話くどいけど。

「色褪せた・・・」で先住民族が手なずけている獰猛な動物は、「ダス」という大型の狼みたいな生物。

このテのSFだと、このような現地生物と仲良くなるためには、それなりの凝った手順があって、それがイニシエーションの儀式だったりする。
映画「アバター」のように「竜」を飼いならす話といえば、(これまたDuneの砂虫はわきにおいておいて)やはりアン・マキャフリイ(Anne McCaffrey)『パーンの竜騎士』シリーズでしょうか。惑星パーンの不思議な自然と竜に似た生物が生息する必然性の描き方がうまい。

ま、すべてフィクションなんだから必然性もへちまもなくて、すべてストーリーなんて、ご都合主義でかまわないのだけど、読者・観客はワガママなものでお話の流れがなめらかでないと不機嫌になっちゃう。

「アバター」を見た人の多くが「ま。おはなしはともかく」と書いていますが、あたしはおはなし優先なのです。


2010年1月8日金曜日

アランの幸福論

無人島に持っていくなら絶対この本!なんていう人も多い、アランの「幸福論 」。

プレゼントで何冊も
買ってきました
なんかすっとぼけていて「あくび」についての項なんて思わず吹き出しちゃうくらいの脱力系哲学本。特に「(狭義の)うつ」傾向にある人は、ぜひとも読んでもらいたい。最近、書店で抜粋を解説した啓発本が出ていたけど、ここはオリジナルを読むべし。

「幸福論」では「身体を動かす」――本文では「体操」という言い方をしています――こととココロの問題について多く触れています。
ま、よーするに身体を動かすとスッキリするってことなのですが、身体の方を愉快にさせることでココロも愉快にさせるといった、バイオフィードバック的な発想にもとづいた見解が随所に見られます。

あたしの住まいの方では、ラジオ体操がこの上なく盛んです。年中無休で、あたしの町内の体操会は50年以上の歴史があると会の人がいっていました。ラジオ体操をやらないと肩身が狭いので自然とみんなやるようになっております―――それでアランの云っていることが正しいということを身をもって体験しています。

ラジオ体操には、第一と第二があって、さらにいま流行らそうとしている「みんなの体操」というのがあります。
順に”きつく”なっていくので、第一を通さずにいきなり第二なんてやろうものなら背スジを痛めることがあります。「みんなの…」なんて苦行に近いものがあります。

オープニングは、「ラジオ体操の歌」に合わせて、みんなでその場足踏みをします。あれはなんなんだろう?

ラジオでも「唄いながら足踏み!」なんて号令はかからない。ひょっとして騙されているのでは?と思い、たまに催される「かんぽ生命」主催の地方大会に参加したことがあります。
すると、やはり足踏み!――「その場行進」を。知らないとキミ悪いです。

で、これに慣れてきますと、行進も準備体操のひとつのような気がしてきて、足踏み行進を抜かすと気持ち悪い。そんで、さらに慣れてくると今度は歌も唄っちゃうんだ。これが。

行進がすむと、第一。で、第二に行く前にインターミッションとして必ず「首の運動」があります。
これには、二つバージョンがあって夏休み版とそれ以外版。夏休み版は、それ以外版にくらべて一個運動が少ない。そのワケは、夏休み版は、聴取者参加番組なので時間押しを気にして運動を短めに設定しているためです。

首の運動の時に流れる「曲」(日替わり&季節感)を事前に推測する訓練を行うとESP能力も強化できるので一石二鳥。


あたしは第二が好きです。

特にのっけの「ジャンプ(全身をゆする)」から四番目の「胸をそらす」までの一連の動作が大好きだ。一般(ってだれだ?~特に女)の人にきくとみな第二は好きじゃないという。
なぜなら、図の動作で「足をがばって開く」のが「恥ずかしくて」イヤ。だそうです。

なんでだろう?
なんで恥ずかしく感じるのだろう?
どうしてだ?
みれば、体操会に参加している女性たちもみな、足を開く動作では膝を軽く屈伸させる動作に変えています。

話をアランに戻します。

ラジオ体操第二で、オープニングからの流れで四番目の動作。腕を空に向かって広げ「胸をそらす」動作。これを実行するととにかく気分が一新する。ラジオ体操の歌にある「喜びに胸を開け 大空あおげ」のフレーズそのものです。

ここは、動作が、「気分」を創り出す。まさにアランが指摘する、犬のあくびそのものだと思います。
ま、くよくよしても仕方ないよね、って感じになります。