2012年1月28日土曜日

ブトレリアン・ジハド

「ブトレリアン・ジハド」ってのは、「デューン、砂の惑星」の中に登場する歴史的事件でして、ある種の「産業革命」です。

ただ、この場合は産業や技術が「進化」するのではなくて、その逆。

「産業命革」?

コンピュータ文化があまりにも進みすぎたことに反発する運動が盛んになり、ついにあらゆるコンピュータ技術を破壊しつくすと。
「デューン」はその後の世界を描いています。

コンピュータがなくても高度な計算能力が必要なので人は、メランジという麻薬を使って計算能力を高めたり、宇宙飛行士のパイロット能力を飛躍的に高めたりします。

この貴重な麻薬を巡る陰謀を中心イベントにおいて人と生態・環境をテーマに壮大な物語が展開します。

先日、家でパソコンに来ているありとあらゆるメール、特にDMの類をゴミ箱送りにしてたら、なんだか急に気分がブトレリアン・ジハドになりました。

家の中に散在しているありとあらゆるACアダプターとかメディア変換アダプターとか・・・使ってきたアプリとか。

もういいんじゃないか?(That's enough)(笑)みたいな。


2012年1月24日火曜日

川の生活

サミュエル・ラングホーン・クレメンス。

・・・マーク・トウェインの本名ですが、彼もミシシッピーを愛してたそうで、外輪蒸気船での川のぼりにあこがれていたそうでして、当方気分だけは、マーク・トウェインです。

脱線しますが、東京ディズニーランドにトムソーヤの島がありますが、中に作られている砦は、彼の本名にちなんで「ラングホーン砦」になっています。次回、訪れたときはぜひ確認してください。

さて、そんな感じで日々橋から川を見ますと本当にたくさんの船が通りますな。
大きな、艀(はしけ)ってんですか? 小型の船に引っ張られた筏のでかいのみたいなのの端っこに。ぽつんと男の人が佇んでたりします。

この人には「恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情をも義理をも欠かない」人です。

東京側の芝浦近辺も実にたくさんの船が停泊していまして、もし川で働く男の子供に生まれたら、いちどは父親にねだって?あるいは父親の自主的なはからいで船に乗らせてもらうんでしょうね。

川の風に吹かれながら、父親の背中みてね。

それで隅田川をさかのぼったりして。 なんてね。 到着地点は、埼玉の秋ヶ瀬で、仕事が済んだ後は、浦和の居酒屋で一杯やって。
自分は子供なのでフライドポテトかなんか注文してもらってね。

艀に佇んで川を上っていく人にとっては、日常ですから実は、今日の昼飯のことを考えているだけかもしれませんが、こちらは妄想の鬼です。

国木田独歩は、船の上から。あたしは橋の上から「忘れ得ぬ人」を脳味噌にインプットするわけです。

給茶器の話から始まり長くなりましたが、ひとまず妄想の旅を終わります(笑)


2012年1月22日日曜日

川を渡る日々

モーソー同好会は適宜、進めておくとしまして。

晴海の周りは「海」なのですが半分「河口」みたいなものなのでいろいろ働く船が行きかいます。
そもそも、通勤時に文七元結(ぶんしちもっとい)で有名な吾妻橋を渡りますので、そこでもたっぷり川の風景を眺めます。

この辺りの人々は通勤に、厩橋、駒形橋、吾妻橋など好きなものを選べます、なんて贅沢なんでしょう。
川幅もこのあたりですと両国橋より大分狭くなっていて徒歩で通うのには最適の橋達です。

台東区に住む我が上司には、江戸扱いされませんが、やはり日常で橋を渡れるのは気持ちよいですよね。

心理学者カール・ユングに言わせると橋を渡る行為は、イニシエーション(通過儀礼)的な象徴なのだそうで、人としての成長のイメージだと。

・・・たくさん渡ってますが、ごらんのように実のところ成長してません。
ま、成長したつもりってことで。

それでも、ほろ酔い加減の時、橋を渡りながら夜の隅田川の空気をすいますってえと気持ちがシャキっとします。

北野たけし監督「菊次郎の夏」では、子供が「さくら橋」を走って渡る場面からはじまりますな。
監督は、知ってか知らずか、子供の成長物語を暗に示しているのだと思います。

(次回でしまいにします)


2012年1月19日木曜日

モーソー同好会

話が上品になってしまいましたので、少し戻します。

こんな具合に「水配給」の彼女の話をパッケージ化しつつありますので、ここのところ事あるごとに人に話しています。
話している内に、ネタが膨らんで作品(もちネタ)化(笑)していくわけです。

そんなあたしの妄想話に耳を傾けてくれた内の一人が、いいました。

「つかさん。彼女のほかにもう一人、同じ会社の人いるわよ。男だけど。これが結構いい男なんだ~(うっとりした目)」

「へ~。そ~なんだ。あたしゃ見たことないなぁ」

「一緒のトラックで来てるよ。地下の駐車場で二人みたときピンときたんだ。ありゃ、付き合ってるわね(←ホントは、もっと直截(笑)ないい方でした)」

「そっかぁ。好きな相手と働ければ、きつい仕事もなんのそのだよね。
ところで、あんた。ひょっとして、あたしと同じモーソー癖ある?」

大いにうなずく彼女(笑)
一緒に、モーソー同好会でも設立するかという話になっています。

(まだ続く・・・もうちょっとの辛抱です)



2012年1月16日月曜日

忘れえぬ人々(国木田独歩)

そんな「行きずり」の人々との出会いを描いた名作があります。
前にも紹介した「武蔵野」を書いた国木田独歩の『忘れえぬ人々』。同じ文庫に収録されています。

パブリックドメインになっていますので「青空文庫」さんから、少しだけお借りして掲載します。

小説家の主人公は旅をしています。宿で相部屋となった相手に書きかけ原稿の『忘れえぬ人々 』という小説を見られてしまい読んでくれとせがまれます。
根負けして話して聞かせてやることにしますが、まず「忘れえぬ人」の定義について聞いてくれと言います。

「忘れえぬ人」とは『必ずしも忘れてかなうまじき人にあらず』なのだそうです。

親とか子とかまたは(朋友知己そのほか自分の世話になった教師先輩のごときは、つまり単に忘れ得ぬ人とのみはいえない。忘れてかなうまじき人といわなければならない、そこでここに恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情をも義理をも欠かないで、しかもついに忘れてしまうことのできない人がある。世間一般の者にそういう人があるとは言わないが少なくとも僕にはある。恐らくは君にもあるだろう』と小説家は連れに言います。

はい。あたしにもあります。

続けます。
主人公が瀬戸内海を船でわたっているとき、海に浮かぶ島々をぼんやりながめていたのだそうです。
以下の引用は、読みやすいように、あたしが段落分けしてしまっています。

菜の花と麦の青葉とで錦を敷いたような島々がまるで霞の奥に浮いているように見える。
そのうち船がある小さな島を右舷に見てその磯から十町とは離れないところを通るので僕は欄に寄り何心なくその島をながめていた。

山の根がたのかしこここに背の低い松が小杜を作っているばかりで、見たところ畑もなく家らしいものも見えない。
しんとしてさびしい磯の退潮の痕が日に輝って、小さな波が水際をもてあそんでいるらしく長い線が白刃のように光っては消えている。

無人島でない事はその山よりも高い空で雲雀が啼いているのが微かに聞こえるのでわかる。
田畑ある島と知れけりあげ雲雀、これは僕の老父の句であるが、山のむこうには人家があるに相違ないと僕は思うた。

と見るうち退潮の痕の日に輝っているところに一人の人がいるのが目についた。たしかに男である、また小供でもない。何かしきりに拾っては籠か桶かに入れているらしい。二三歩あるいてはしゃがみ、そして何か拾っている。自分はこのさびしい島かげの小さな磯を漁っているこの人をじっとながめていた。

船が進むにつれて人影が黒い点のようになってしまった、そのうち磯も山も島全体が霞のかなたに消えてしまった。
その後今日が日までほとんど十年の間、僕は何度この島かげの顔も知らないこの人を憶(おも)い起こしたろう。
これが僕の「忘れ得ぬ人々」の一人である

短編ですが、まるでオー・ヘンリーの小説のような気の利いた展開も待っていますので、まだの方はぜひ一度お読みください。

(更に続く)

2012年1月13日金曜日

実存とわし

整体の先生曰く、「サーフィンがいつでもできるから海岸のそばに家借りちゃおうっていう人をたくさん見てきたけど。なぜか、いつでもできると思うからか、だんだんやらなくなっちゃうんですよ。遠くからでかけていって、天気がよかろうと悪かろうと、せっかくきたんだから短い時間でも集中してやろう!って方が長続きするし上達するみたいですね~」とのこと。

至言ですね。なんか「恋愛」と似てませんか?

あたしも落語が好きで浅草界隈に越してきたのですが前ははるばる演芸場にきていたのに最近はさっぱりです。

さてと話を戻しまして、日焼けの先生は「私」がめちゃくちゃ充実してます。規則正しい仕事ぶりと豊かな私生活。いいですよね。

水汲みの彼女に限らず、行きずりの人々の姿を見ながら彼らの「私」の様子を夢想するのがあたしのクセです。
千葉市住まいだとか、サーフィンだとかてな具合にね。

小規模の飲み会などですと、初参加の人の話を聞いてその人のことをいろいろ教えてもらうのも楽しみです。

自分の頭の中には、生涯、自分の見ている世界しかありませんので、その人とその場を分かれてしまうと、その人はその人の頭の中の世界と一緒に別のところへ行ってしまうわけですよね。だから、ほかの人の世界はその人に伝えてもらうか、勝手に想像するしかないわけです。

そんな意味のないことを考えて、と思う人も多いと思いますが、このテーマは古来、哲学や宗教、宇宙理解の基本なんですね。

さて「行きずり」の人ってのは、なにも直接コンタクトがある人とは限りません。

通りすがりの風景の中でポツンと発見した人なんてのもいますな。

(続く)


2012年1月12日木曜日

女性管理職の声

ボイトレのことを具体的に書く前になんですが、気づいたことがあります。
会議で、結構な割合で女性管理職の発言が非常に聞き取りにくいのです。

飲食店で注文を頼むときなど女性の連れの方が声が通るので、スタッフを呼んでもらうことがあるくらい女性の声は男性に比べて通りやすいという印象だったのですが、こと会議になると、声がこもって聞き取りずらい。

これは、推測ですが、緊張しているとかではなくて「堅苦しい会議」なので彼女らもそれなりに威厳をもったしゃべりをしようとしてるからでは?と思っています。
もっと普段の調子で発言してくれれば聴き取りやすいのに。

2012年1月6日金曜日

パントリー風景

職場にどこでもあるような「給茶器」があります。

とあるメーカさんのもので、緑茶のほかに紅茶などがでる仕組みになっています。
機械に据え付けられている水タンクに水道から水を汲んできて据え付けます。

どのような契約なのかわかりませんが、この水タンクの朝一番の一杯目だけは、業者の方が入れています。
今は、怪我の治療のため整体に寄ってから出社が続いているので始業丁度の出社時間になってしまってますが、通常は割と早く来てます。
会社が好きなんじゃなくて(笑)、習慣っていうんですか。習い性っていうんですか。
そんなわけで、この業者の人が水を汲んでいる現場に遭遇するわけです。

そうです。お姉ちゃんなんですよ。この人。

で、ある日話しかけたら、「朝いちばんの水」だけは彼女が汲んで入れています、と。重そうなタンクをいくつも台車に積んで。
(お姉ちゃんに気軽に話しかけられるのは、オヤジの特権ですな)

ふーん。後は、職場で汲んでるのだから、何も一杯目を汲まなくてもとは思ったのですが、見ていると隣の職場の水も汲んでいる。
いろいろな部署と契約してるんですな。

あたしの職場は、ビルがいくつにも分かれてまして、総務などはあたしのいるビルと違う片方にあります。
ある日、総務に打ち合わせででかけたら、なんと!彼女が同じように水を入れていたのです。

ようするに、渡り廊下などで行き来する広い建物の中を彼女一人で、水を汲んでいるんですな。
すごい!!
宅配便の超かっこいいお兄さんYさんのように屈強な体型でもなく、小柄な身体でね。

わかりました。白状すればいいんでしょ。
ちょっとカワイコちゃんなんですよ。
日焼けしてます。 週末は、なんでしょうか? 波乗りでしょうかね?

(続く)