2006年5月31日水曜日

スクーターの運転モラル

「単車の防衛運転」カテゴリで語るのは「単車」。またがって乗る二輪車についての話題に限っています。
スクーターは考慮しません。
両足を足台に乗せて走るので、そもそも危険な気がするし。(あたしはほとんど運転したことがないので語る資格もありません)

両足を車の両側にだらんと開いて乗っている姿もみかけます。
スクーターの場合、観察してみると多くが運転行動も荒くオートバイの運転手とスタンスがかなり違って、そもそも防衛運転をする気はないようにも見受けられます。

なぜ、同じ二輪の乗り物なのにこうも違うのでしょうか?
原動機付きの場合は、多分「無免許(オマケ)」だから仕方がないのかもしれませんが、排気量の多いタイプも原付と同じMEANな運転をして、四輪車はおろか歩行者に進路を譲る場面などお目にかかったことがありません。

単に、ここ数年スクーターブームということなので初心者が多いためかもしれません。(実際にオートバイ屋では、いわゆるオートバイは全然売れてないそうです)

今日(2005年6月1日)、歩道側が工事中の箇所を通過した。歩道が使えなくなっている部分、車道側にバリケードを作って歩行者に迂回されるケースに遭遇しました。
小工事のためかバリケードではなくパイロンをならべて頭を塩ビパイプでつないだ簡単なものでした。
信号の直前箇所でもあり車が信号待ちでとまるとパイロンがせってきているので二輪車も側道を通って先頭に出ることはできませんでした。

そんな状況になり乗用車の後ろで待っていると。突然・・。
あたしの左側をけっこうなスピードを出した250CCのスクーターが走って通過していきました。
なんと!件の歩行者用の安全通路を通過していったのです。そりゃいつもは車道の部分だからスピードは出せるはずですが、唖然。

次の信号待ちで運転手の様子をそっとみると中年男性でした。
昨日もとあるショッピングセンターで二人乗りの大型スクーターが店舗前の広場を猛スピードで横切っていきました。モラルの無さでは定評のある自転車の一種「原付き」の相似形なので勢いモラルが低いのかもしれないと思ったりします。偏見?(笑)


2006年5月30日火曜日

昔は俺も乗っていたんだよ…

※最下部に追記しました(2013年6月1日)

職場などであたしがオートバイに乗っている話が出ると、必ず中年男性が、「俺も昔は乗ってたよ。」という話をはじめます。
こちらの歳には関係なく、オートバイに乗っていたよという相手は、もう乗っていないので常に中年以上です。

このパタンに出会うと、いつも若い頃の喧嘩の自慢をする上司に似ているなぁと思います。
これが、「俺も一度は乗ってみたかったんだよ。」だと違いますな。余裕がある。
単車を降りたらオートバイの話はきっぱりやめたいものです。

さて、防衛運転に適した単車の排気量ですが、できれば最低400CCはほしいところ。
751CC以上は、とりまわしが俊敏に行えないのでせいぜい750CC。おまけに750を超えると、新米かもしれないと痛くも無い腹をさぐられるし。
(誰も探らないって(笑))

車検費用という欠点はありますが力のある400や600というのが一番なのかもしれません。低速時の安定性も250以下では心もとありません。

たとえば隣接車線にいる自家用車が不注意で急に車線変更した場合など短制動は危険です。そんな時、一気呵成に加速して瞬時に前に出て危険を回避するの がベストですが、原付き自転車や250程度では巻き込まれてしまいます。たとえ短制動をすることになったとしても大型のブレーキ力は頼りになります。
250クラス程度の場合、強風で一(ひと)車線くらい横に吹き飛ばされることがあります。
あたしは目で前を走っている250CCがひと吹きで対向車線に横滑りさせられたのを目撃したことがあります。

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この元記事は2006年ですが、その後本当にバイクを降りましたので、その後話をアップしてあります。

2006年5月29日月曜日

単車の防衛運転について

単車で町乗りして幾星霜・・・数十年。いつも乗るたびにバイクの防衛運転についてネットにアップしたいな思いつつ、これまた10年以上経ってしまいました。

運転しているときだけ(ネットの企画のことを)思うのはたぶんこのテーマに関しての問題意識が低いので自分の中でも本気ではないのではないか?と先送りにしていたのですが、今回ようやく実行に移すことに決めました。

「防衛運転」についてご託をならべると、ここまで無事故できているのに、それをあざわらうように事故が襲ったりするのもいやだなという気持ちもああります。
こんなこと書いても誰の役にもたたないかもしれないけど「場数」をふんだ技術(知識?)というのもあるはずなので、恥を覚悟の上で書き進めて いこうと思いました。

このテーマを立ててから、他にも「防衛運転」について書いている人がいるはずと今更ながら思い、各所検索してみました。
実に沢山のサイトで触れられています。
一般的な定義づけはないようだが「事故を起こさないための運転技術」のことを指しているようです。
オートバイに乗っている身からすると弱者側からの視点というのもあって「事故に遭遇しないための運転技術」も含まれます。

後に触れますが、ここ数年来の自動車の運転者たちは恐ろしいほど荒れています。(*1)性悪になっている気がします。
オートバイこそもっとも防衛運転が必要な乗り物だと思っています。

*1)悪質な犯罪の増加に比例している気がします。世の中が荒れてきている?

2006年5月28日日曜日

陳式太極拳

前回、中国の老師たちについて書いたとき、さらさらっと「陳発科、最後の弟子・・」とか「四天王」とか書きましたが、太極拳に触れたことのある人たちには、ははぁ、とか羨ましい!とか妬ましい!!半可通のくせに!!ときても一般の人たちにはとんと、そのありがたみ?がわからないなと反省しました。

マニアックなホームページはネットで検索すればいくらでもあるので簡単に補足説明をば。
太極拳にも日本の剣道のように流派があります。
創設者の名前をとって呉とか陳とか孫とか楊てな感じです。

太極拳が踊りのように見えるのは一つ一つの武術の技を連続した動きで覚えるからです。
いい例ではありませんが、剣道の素振りで小手・面・胴といった形を連続して動いているようなイメージです。
この一連の動きを太極拳では套路(とうろ)と呼んでいます。

さて、呉、陳、孫や楊を「創設者の名前」と書きましたが、実際は「創設」ではなくて、そのまた先生から習った武術を自分の代で革新的に改造して有名になった人といったほうがいいのだと思います。

お叱りを覚悟で書いてしまうと、陳式がゴシックで楊式はバロックというイメージ。
前者が古くて後者は近世。太極拳が日本で有名になったのは、先にも書いたとおり、楊式を短く、簡単にした簡化太極拳なので一般的には太極拳といえばみな楊式風のものを思い浮かべていると思って間違いありません。

陳式というのは、あまりテレビなど映像で見たことがありません。先日、テレビで長拳(いわゆるカンフー、・・あぁまたしかられてしまう。)の大会の模様が写されていましたが、陳式太極拳はおよそマスコミの注目を浴びたことがありません。

ま、要するに、太極拳をはじめると楊式系から入門するのですが、ハマりだすとどうしても陳式に憧れてくるという感じです。

ギョーザパーティーを一緒にした洪均生老師は、陳発科、晩年の弟子です。(古今亭志ん生と円菊師匠の関係に近い…といってもわからないか…。)

発科は、陳式太極拳の第17代目の正統な後継者であり近代に誕生した太極拳の天才といわれています。ネットであらためて調べると、1887-1957。なので終戦後しばらくの間存命だったことがわかります。

←陳発科

陳式は、陳家構(ちんかこう)という陳一族が暮らしている村の中で伝わっているもので陳発科は、この田舎から都会に出て陳式太極拳を広めた人物です。村ではいろいろ言われたことと思います。

一方、残された村の中でも太極拳は継承され続け、やがて四天王といわれた若手が第19世。陳小旺、陳正雷、王西安、朱天才、老師たちです。その後ってどうなっているのだろう。次の世代は育っているのでしょうか?

今はどうなっているかわかりませんが、あたしが訪れたときは、いやはやもう田舎。「七人の侍」に出てくる村のような印象です。

旅の疲れをねぎらってくれるために洗面器にお湯を入れておしぼりを渡してくれました。
料理も都会のように香料を使っていないのでほっとする味。すばらしいホスピタリティでした。(旅行費用もばか高かったけど。)

この項を書くにあたってネットでいろいろ検索してみたら、かつて「敦っちゃん」とか呼んでいた日本人の仲間が「老師」って呼ばれていました。やはり継続は力ですね~。
練習熱心だったもの。えらいなぁ。すごい!

その点、半可通の自分としては夜中にこんな戯言書いているのが関の山。
楊式については、長くなるのであらためて。

2006年5月27日土曜日

老師たちとの時間

日本で、あらたな老師に習い始めてわかったのは、ジェーンが教えていた型は、套路(動き方)や、個別の型の名称、順序は同じであっても本質的には正しくない動きだということでした。

後に、顧留馨老師や傳鐘文老師(楊澄甫の弟子)による本物の楊式太極拳を見ることができたので、あたしたちが習っている型については正しい動きである(生徒たちは、もちろん正しくはないのですが、ゴールは本物だという意味(笑))ことがわかりました。

とにかく、半可通の自分ですが、こうした著名な老師たちの太極拳を直に習った経験は何事にも勝る・・なんだろう?思い出といっては見も蓋もないですが。
自慢話のネタでしょうか。理由はどうであれ、老師たちとの時間はとにかく強烈なインパクトでした。

陳家構(陳式太極拳発祥の地)も訪れて、四天王といわれた若手の老師たちの指導を受けたことも貴重な経験です。

毎日、陳小旺から直接、ほんの数人で習ったなんて夢のような時間です。今でも拳を打ち出すときに陳小旺老師の顔の表面がぐにゃ~~となる様子が目に浮かびます。人間の身体があんなに波打つなんて!
また、王西安。老師というよりは兄貴という印象ですが、豹のような猫科の猛獣の足運びを思わせました。足先が遠くまで進むのですが、何か危険を察すると、すっと戻るような。とにかくイカしていました。

済南に陳発科最期の弟子、洪均生老師の下も訪れました。

ホテルの広間を借りて練習をするのですが、お年だけに歩くのもよちよちとした感じの老師がいったん太極拳の立ち姿になると、ピシっときまる。

休憩時間。お弟子さんと老師が推手をはじめました。ぼんやりみていると、老師が弟子に一声なにかかけました。(たぶん、「力を入れろ!」と言ったのだと思います)

そのとたん、パシっという音がしてフットボール選手のような身体の弟子がはじけとびました。「とんだ」というよりも、弟子が推した力そのまま自分に戻ってきてはじけたという印象です。

この、はじけとぶ感じ、陳家構の朱天才老師にも直接やってもらったことがありますが手加減したのか、当方がまるでへなちょこなのか、ただよろよろと部屋の外に押し出されたような感じでした。

ということで自分が「飛ばされた」わけではないのであくまでもイメージですが、これに近い体験をしたことがあります。
合気道(「養神館」です)の使い手に「入り身 投げ」をかけられたときにそっくりで、想像を絶する力で地面につぶれおちたような感じでした。息ができないくらいの衝撃でしたが、嬉しい。マゾか?

洪均生老師たちと夜、餃子パーティーをしたおり、仲間が先生に尋ねました。
「太極拳で一番大切なポイントはなんでしょうか?」
「それは。時間と方向だ。」
老師の応えは通訳がしているので時間といっているが、タイミングのことを意味したのだと思います。

練習に使うホテルの広間は授業が終わると現状復帰をします。たたんであったカーペットを元の位置に戻すのです。
あたしと仲間が廊下のカーペットを直そうとしたとき、老師が端っこに立っていることに気が付きませんでした。
ひょいっとひっぱったとたん、老師がこけました。
後にも先にも陳発科、最後の弟子をこかした日本人はあたしたちぐらいなものでしょう。
自慢にも何にもなりませんな。







 ←洪均生老師。ステキ!!
  この大先生をだましうちした罰あたりなあたしら


2006年5月26日金曜日

マーク・ロスコー

Tim S.が太極拳とともにあたしに伝道したものに画家マーク・ロスコーとクリストファー・アレキサンダー(建築家)がいます。
アレキサンダーについては項を改めて書きたいと思います。

ミース・ファン・デル・ローエ(建築家)の美術館、少し足を延ばせばフォート・ワースのキンベル美術館(ルイス・カーン(建築家))と見所にはことかかない都市のど真ん中にあったのがロスコー・チャペルでした。










ルイス・カーン作「キンベル美術館」

チャペルと言っても、文字通りの礼拝堂ではなく、多角形平面(8角形)のどうということのない安普請の建物で建築デザイン的にも、さして優れているものではありません。

しかし、間接的に入るトップライトの光と陰がロスコーのあの微妙に塗り分けられた絵に映えて、言うに言われぬ荘厳な雰囲気を醸し出していました。

そこには、東洋かぶれの様々な人種が座禅を組むか瞑想に入りきっていて東洋人のあたしには、なんだかこっぱずかしく思えました。

ページを開いたときに現れた気味の悪いアニメは、あたしの作品、「デジタル・マーク・ロスコー」です。


(※注:現在は表示されていません。ファイル探さねば。)
(※注の追記‘ようやく発見。大昔のファイルなので表示が変ですがご容赦を)

ロスコーの絵とは似ても似つかない作品だし、あたしもど素人ではないまでも半可通の身、専門家からお叱りを受けるかもしれません。

 ロスコー・チャペル

聞けば、ロスコーの絵は、目を閉じたときに瞼の皮膚を通した光を描いたものだそうです。

Digital Rothkoは、あたしたちが時に(例えば、熱い風呂に入ったときくらくらと)目眩がしたとき目をつぶったとき、朝目覚めて目が枕に押しつけられていた後、眼 球に血液がもどったときに紡錘型の文字通りレモンの形の光が現れやがて目が元に戻る様を再現したものです。
あれ、なんて言うのでしょうね?

ホームページ制作の観点からいえば、ただのアニメGIFだから見るべきものは何もありませんが、完成までは数年の気の無さと数え切れない貧血を費やしております。

2006年5月25日木曜日

カルロス・カスタネダ

太極拳に誘ってくれたTim S.は、西洋人によくいるニュー・エイジ、サブカルチャーファンで、その系列の本をよく紹介してくれました。

中でもカルロス・カ スタネダの本は、示唆に富み、そして面白く夢中になって読んだものです。
当時、カスタネダは存命で、一度だけラジオ番組に出演、生の声を聞いたことがあります。 謎につつまれた人物の声を聞けただけでもなにか得をした気がしました。

その時も、Timが「今夜、カスティネーダ(このように発音する。)がFMの番組に出演するぞ!」と興奮した声で電話をくれたのです。

脱線ついでに書きますと、カスタネダたちが用いたメスカリトは、ペヨーテというサボテンから採取するそうです。

カスタネダは、最初は単にインディアンのドラッグを試してみたいという不純な動機でドン・ファンに近づいたのでしょう。
彼の本の中では、メスカリトは「人格」を持つ神というか、トリック・スター(いたずら者)のようなふるまいをします。
ある折、伊豆のサボテン公園を訪れたとき園内の植物の専門家の方に「ペヨーテ」について教えを乞うたことがあります。

一般客からマニアックな質問を受けて興がのったのか面白い話を聞かせてくれました。ペヨーテは、国内では「****」という名前で普通に売られている観賞用のサボテンであること。そして、日本の風土では*****は作れないこと。どうやら砂漠と関係があるらしく、国内のサボテンの専門家の間ではペヨーテツアーを企画して訪米している人々がいるらしいこと。などなど。

実際に、園内の売店で売られていた可愛らしい「****」を買い求め、自宅で育ててみましたが、しばらくすると根が腐ってしまいました。
メスカリトに叱られるのでは?とちょっと心配になったものです。

関連記事あります(1)


2006年5月24日水曜日

簡化太極拳

日本に戻っても太極拳を続けよう、と思っていたので早速情報収集にかかると、とある団体の教室が一番盛んなことがわかりました。、スポーツクラブなどに必ずカリキュラムがあるのです。

早速見学に行ったところ、その教室で行われている太極拳はジェーンに習ったものとまったく違うのです。

似たようなポーズはあるのですが、何しろ型(套路)のステップ数が少ない。あっという間に一連の動作が終わってしまうのです。ひとつひとつも微妙に異なるのです。
この流派?は、違うと判断、他の教室をあたることにしました。

後からわかったのですが、この太極拳は「簡化太極拳」あるいは「24式」と呼ばれる国民の健康を高めるために”北京”で開発された新しい太極拳だったのです。
古い時代に作られたものは長くて覚えるのが大変なので重要な型だけを抜粋して作ったので「簡易」型というのです。

何事も半可通の自分ですが言わせてもらうなら、最大の違いは簡化太極拳が「つま先」を床から上げてしまうところでしょう。これを行うと動きが妙に楽になって地面との密着感が味噌である太極拳の醍醐味に根本的にかけるのです。

オートマティック車の運転のように物足りない(笑)。
さらに付け加えますと、日本で普及しはじめていたその「簡化太極拳」と本場の「簡化太極拳」とでもディテールがまったく異なっていることも後で知ります。全然違うのです。

そんな経緯で次にあたったのが青山にあったNHK文化センターというカルチャーセンターで開かれている中野春美先生のクラスでした。

当時のあたしは太極拳が武術だという認識はまったくなく、肩こりをとるための体操。白人がハマる神秘的なメディテーションかリラクゼーションの一種と思っていたのです。

青山の教室を見学してクラスがハネてから勇気を出して中野先生に話しかけてみました。外国で習って途中になっていること。各所にある教室のものは自分が習いたいものとは違うこと。などなど。

先生が言いました「ちょっとここでやって見せてくれる?」(つっけんどんなのです(笑))
あたしは、その場で太極拳を始めました。
(はじめは、Grasp Sparrow's Tailだな・・。)
Grasp Sparrow's Tailとは後に、攬雀尾(ランチュウウェイ)という動きの直訳と知りました。

先生は、あたしの動きをじっと見つめ、やがて言った。
「細かい部分が大分違うけど、あなたの習ったのは間違いなく楊式太極拳ね」
ジェーンの太極拳は楊式太極拳というものだったのか!

2006年5月23日火曜日

ジェーンの太極拳ワークショップ


太極拳。
これぞあたしの生き恥「半可通」にもっともふさわしいテーマではないでしょうか。

始めたのは、1979年の夏休み。それから約11年ほど集中してハマりました。その後は、仲間との合宿(=懇親会)にでかける程度でここしばらくは気はあっても体を動かしたことがありません。

79年。学業に熱心(ほんとうです。ハマってました(笑))だったせいか、ひどい肩こりに悩まされるようになっていました。クラスで一番親しかったTim S.に相談したところ、

「それには、t'ai chi chuanがいいと思うよ?」
「t'ai chi chuan?! なに?それ?」
「こういうものだ。」と身振り手振り。

ん?それはひょっとすると太極拳というものではないだろうか?名前ぐらいは聞いたことがあるけど。

「実は。何を隠そう。俺のお袋は太極拳の先生なのだ。毎週、木曜の夕方、お袋の家で教えているから習ってみないか?」
あたしは、Tim が勧めてくれるものはなんでも歓迎だったので早速、お袋さんのジェーンに紹介してもらい入門しました。

ジェーンは、サンフランシスコで暮らしていたときに彼女の師匠に出会い、太極拳にハマったそうです。
あいにく手元に本がないので、その師匠の名前を記せな いのですが中国系のアメリカ人で舞踊(コリオグラフィー(choreography))が本業の人でした。(西野バレエに通じるものがありますね)

ジェーンの教室では、毎回数ステップずつ型(套路といいます)を習います。
全体は相当に長いものなので本当にわずかずつ。レッスンの合間に休憩時間があって、みなで車座になり「老子」を読みます。「老子」を読んじゃうところがいかにも白人文化ですよね。

徹夜続きの学業に本当に疲れていた自分にとって身体を動かすことは喜びでした。すっかり太極拳が好きになってしまい夢中で覚えました。
ですが、わけあって全ステップのちょうど中間まで覚えた(といっても形だけ)ところで急に日本に戻ることになりました。

2006年5月22日月曜日

コンピュータ黎明期(8) ~ Happy Birthday! Computer Nurd ~

OSに詳しくなってきたので、コンピュータにまつわるすべての要素が「ファイル」になっていることも知りました。
「ディレクトリ」や「バージョン」という概念もようやくわかったし。
外部コマンド(ExCommand)を既存のコマンドから読み取らせることを学ぶ過程で、必然的にOSが持っている数多くの「ファイル」にふれる機会がふえました。

VAX/VMS(今は亡きOS)を作った人々は一般ユーザーの目に触れない様々なディレクトリに数多くのジョークや不思議な文書を残していました。多くは英文でしたが、システムの深い深い階層をめぐって歩くのは、まるでInterGraphの3次元世界の創造者の世界にふれるような気がしました。

InterGraphを販売していた代理店のMutohは、このマシンを多数のユーザーで利用することを想定していたので茅ヶ崎の研修に出向いたあたしたち初期利用者を「システム管理者」として扱いました。
システムのブートからシャットダウン、果てはMT(磁気テープ)によるバックアップ作業まで行うようになり日々の生活はデザイナーからシステム管理者になっていきました。

一方、会社の方はマシンを利用できるスタッフを増やさないことにはコストパフォーマンスが悪いと考えたのかあたしたちに弟子がつくことになりましたた。業務委託を請けていたトランスコスモスのスタッフたちで10代のとてもまじめな人たちでしたた。
メーカーの想定通り、あたしは管理者として彼女たち弟子にアカウントを発行する立場になったのです。

これまであたしが扱っていたアカウントは、いわば「ルート」。そして弟子たちのは「一般ユーザ」。権限にはとても大きな隔たりがありました。
一般ユーザーアカウントでは、あたしが経巡ったようなInterGraph創造者が残した謎のファイルを読むことができません。自分が与えられた世界から上層には出て行くことができないのです。
その時の一番弟子は、後で聞いたところによるとCADデザインで賞をもらったそうです。教えていた頃から見所があると思っていたが、さすが愛弟子!

本来は、デザインワークのために使うはずだったコンピュータ。そのOSの世界に入り込んだことで、時にOS自体を触ることだけが自分の目的になっていることに気がつきました。
コンピュータおたくの誕生です。ハッピーバースデー、オタク。

あたしの本質、すなわち半可通の入り方なので、本当のおたく(Computer Nerds(*1))やハッカーには笑われてしまいそうですが、でも、コンピュータへのハマリ方は、まさにオタクそのものでした。
3Dのデザインワークをやることよりも、マシンの起動の仕組みやオプション、OSのコマンド体系などにすっかり夢中になってしまいました。バッチファイルを作って自分用の起動環境を作ったりしていました。

CADの方もだんだんと本来InterGraphが不得意とする「丸い」ものを作り始めて、夜な夜なロボットやら動物のモデリングに挑戦するようになりました。仕舞いには、コマ落としのアニメを作るようになって病膏肓に至りました。
ある日、購読していた新聞に某社の求人広告が載っていた。募集している職種にコンピュータ・グラフィクスがありました。

今勤めている先には、特に不満はありませんでしたが、いつまでもコンピュータを触っていられるとは限りません。
当初は「干された」感だったのが、この変わりよう。人事異動とは気の持ちようですな。
雇ってる側は、あてがい仕事だと思っているわけなので、客観的にはショムニ状態なのですが、今となってはコンピュータから離れたくない。

それなら、それ専用の職場に移るにこしたことはない。不採用ならそれまでだし。と、ごく軽いノリで書類を提出したところ、なぜかとんとんと話が進み、先方から「では、明日お勤め先の上司の方に退職を”告白”してください。」と言われてしまいました。

*1)Nerdは、Nurdとも書きます。辞書ではなかなか意味がわからないだろうからスケッチで描いてやると友達が書いたのが、日本でいうところの 「ガリ勉」スタイルだった。もっともあたしがNerdという単語を教わったのは、コンピュータおたく文化が発展する前だったのでComputer Nerdという言葉はまだ無かった。ただのガリ勉Nerdがあっただけでした。

2006年5月21日日曜日

コンピュータ黎明期(7) ~ 外部コマンドに挑戦 ~

あたしが長い学生生活を選択した時、同窓の多くはフリーの選択をしました。

あたしから見れば勇気ある決定なのですが、彼らから言わせると、就職先に困っただけで成り行きだそうです。
言われてみれば、あたしが彼らの共同事務所を訪れると時にネクタイを締めた仲間が「これから面接だ。」と出かけていくことがあったので、たしかに勤め人になるつもりはあったのかもしれません。

彼らは一様に出版業界で飯を食っていて絵や文筆で、それなりに名前が売れるようになっていました。
あたしがCADに夢中になりはじめた頃、連中の一部がCG関係の仕事に関わり始めていることを知りました。自分もコンピュータに多少詳しくなったこともあ り、一時、疎遠になっていた人々と情報交換をしてみるとCGはまだいいほう(?)で、中には家庭用ゲームの作家として活躍している人も出ているということでした。

当時、家人は彼女が勤めている会社の同僚仲間でゲームが大流行しているというので、しばしばあたしにファミコンを買おうよ、と持ちかけていたのですが、あたしは興味がなかったので乗りませんでした。
なので、ゲーム作家?になったという先輩が作ったゲームの名前を仲間があたしに「ね?すごいでしょ?」(という表情で)言っても、あたしが、きょとんという反応だったので会話がつづかなかったことを覚えています。

しばらくすると、そのゲーム「ドラゴンクエスト」のことがニュースになったり、先輩を追うドキュメンタリーが放送されたりしたので、これはすごいことになったと思ったものです。
そして、どうして皆が皆、コンピュータに関係のある分野に転向しているのだろう?、と、とても不思議に思いました。

そんなある日、あたしの元に「楕円形」を使ったデザインワークの依頼がありました。
今でこそ楕円など別にどうということはないのですが、あたしのInterGraphには、指定サイズで楕円を作る機能がありませんでした。
正確な楕円を作るにはどうしたらよいだろう?とコンピュータ部門の人々やInterGraphのサポートスタッフに尋ねてみたところ「外部コマンド」を使えばできるといわれました。
「外部コマンド」?はて?、茅ヶ崎のセミナーで名前を聞いた覚えがあるのですが詳細はなにも思い出せません。

要するに、楕円計算する単体のプログラムを作って、その結果をグラフィック出力させるような仕組みがあるのだそうです。楕円の軌跡の座標を3D画面の適当な平面に描けばよい、「だけ」なのですが理屈はわかっても具体的にどうやるのかさっぱりわからない。

この外部コマンド。Fortranで作るのだそうで、(楕円の計算式そのものは、中学か高校で習う公式なので別にどうってことありません)InterGraphに入っているコンパイラで外部コマンド形式でコンパイルして実行する・・・のだそうです。

このような、コンパイルという方法も、オブジェクト・ファイル、実行イメージという言葉も何もわからず無手勝流で仕事を進めました。
そして、想定どおりプログラムが動いて三次元の空間にスっと楕円が出来たときのよろこびは、たとえようがありません。

その頃、三次元のオペレーターとしては自分で言うのもなんだがかなりの腕前になっていました。
脳裏に三次元の座標が自動的に浮かぶのです。何事も慣れですな。

しかし、それではアプリケーションユーザーにとどまっていたわけで、この楕円の外部コマンド(ExCommand)を動かす過程でコンピュータの本当のおもしろさを知ることになったのです。

2006年5月20日土曜日

コンピュータ黎明期(6) ~ 熱海屋の日々 ~

導入指導が行われる研修所が茅ヶ崎にあることに目を付けたコンピュータ部門の智恵者たちは、交通費計算など経費面で効率を雇い主にうったえ、なんと会社の熱海保養所に連泊する手筈を整えてくれたのです。
こうなったら海の幸の日々です。

熱海で一番旨いものを出す飲み屋はどこかと地元で聞いたら「熱海屋」という小料理屋だと誰もが口を揃えていいます。小さな居酒屋でカウンターと小上がりがありまして、二階に座敷があるのでそこで小宴会くらいは可能でした。

元々、良い物を食べたことがないせいか、熱海屋の日々は、魚がこんなに旨いものとは知らなかったというまさに極楽でした。
しかも、当然のことですが毎日が温泉です。

研修の方はゆっくり起きて東海道線で茅ヶ崎に。みっちりとコンピュータというものを習いますが、小難しいのなんのって。なにしろOSの「存在」すら知らない身だったのです。
中でもリレーショナル・データベースの講義を延々とやられた時は参りました。
CADでデザインするだけなのになんで、データベースなのだろう? たぶん、InterGraph製品におまけでついている機能なので、説明しなけ ればいけないことになっているのでしょう。
その後、あたしは3DCAD職人に変身するわけですが、最後の最後までデータベースを使うことはありませんでした。

熱海の夢のような日々が終わり、いよいよのコンピュータ漬けの日々が始まりました。
InterGraphのおかげで身に付いたコンピュータの「現場感覚」。そしてわかったことは、実践の場数を踏まない限り覚えることがないということした。
これに限らず、「現場」ですな。

その時代々々で、コンピュータの能力は異なり、あっと言う間に記憶量はじめパワーや機能がアップしますが、その時点では与えられたものを使ってなんとかしようと工夫をします。

たとえば、グラフィックに「グラデーション」を描く能力がなければ巨大な円筒に光を当てて疑似的に現したり(きわめて効率が悪いですが)といった「問題解決」 を重ねて行きます。デザインの現場からくる相談事をつぎつぎとこなしていく内にデザインそのものよりも問題解決の方が楽しくなってきました。

しまいには建築CADでは表現しずらい曲面に挑戦するようになってきました。曲面はすごい数のポリゴンを使うのでマシンパワーを必要とします。一大プロジェクトを 仕込んでは夜中の間、マシンを走らせておき、翌朝結果を見ると・・・画像が壊れていたりしました。
こんな失敗も含めた試行錯誤がまた楽しいのです。

そのころ、自分は知りませんでしたが学生時代の友人達が次々とコンピュータ業界に参入していたのです。

2006年5月19日金曜日

コンピュータ黎明期(5) ~ CAD担当拝命 ~

上司筋からの指示は、新型のCAD(Computer Aided Design)を導入するので専任スタッフとして関わってほしいというものでした。
当時、あたしはデザイナーとしては干されていたので(たぶん)、ちょうどあまっているのが居るという程度だったのだと思います。

CADというと前の記事の通り、使えないTSO上の図面といったイメージしかなかったのでモチベーションは下がりました。
状況的には干され具合に一層磨きがかかったというところ。
ところが、このプロジェクトがスタートしてみると、CAD担当をあたしに命じた指揮系統と上司の系列が変わることになりました。

そして、新しい上司たちがことごとくご機嫌な人々でした。
なにしろ、珍しいCADを大枚はたいて導入するのだから部屋ごとつくってしまえときました。家具から何から自分たちで選んで一般のデザイナーたちとは格段に違う環境が用意されました。

このCADとはInterGraph。VAX/VMSというOSで動く三次元CADのマシンです。
特別室に入ったInterGraphは二台。
ここに自分以外、数人、似たような(気の毒な)境遇の人材が配置されました。
InterGraphの姿を記しておきます。

大型のテーブルの上に二大モニターが並んでいる。テーブルはデジタイザー。今で言うタブレットの巨大なやつです。これらはFRPなり樹脂型で整形され た筐体で角丸に一体化されている。デジタイザの右端には、テーブルとモニターを上下、傾斜角をモーターで変えることができるボタンがついている。ボタンを押すとモーター駆動でブーンと全体が動く。
つまり宇宙司令官のテーブルなのです。椅子もデザイン部門の長ですら座ったことのないような超高級OAチェアー。天井にはアンビエント・ライトを配し気分はまさに昼寝!!


この豪華マシンを一人で専有して使うことができるのです。もうTSOでシステム管理者に待たされることもありません。
この巨大マシン、実はダム(バカ)端末で本体は隣に隔離されたマシンルームに鎮座しています。
部屋の一隅には、マシンをブートさせるためのコンソールが一台たたずんでいます。
「コンソール」はそれ自体がドットインパクト・プリンターでキーボードからコマンドを入力してVAX/VMSを起動(ブートアップ)します。

なんで端末からコンピュータを立ち上げずに、別においてあるタイプライターから起動するの?
今でも理由はわかりませんが、コンピュータを目覚めさせるためにやけに複雑な手順が必要で、そのすべてを自分で管理できるのが妙に嬉しいというオタクゴコロ。

もちろん、この時点ではOSというものが何か・・というよりOSとアプリケーションの違いも、・・・つまり何も知りませんでした。
それでも、これまで内線電話で専門家にお願いしていた作業が白日の下にさらされたのです。
あたしは自由になりました。

嬉しかったことはもうひとつあります。InterGraphを買うと、もれなく10日間(くらいだったか?)集中セミナーがついてくるのでした。

われわれ素人デザイナー(ユーザー)の導き手として社内のシステム部門から配置されたコンピュータ専門家二名は頭脳明晰で、またとないチャンスに一計を案じてくれました。

2006年5月18日木曜日

コンピュータ黎明期(4) ~ バッチ・ジョブの時代 ~

ビル・バビンジャーが遊んでいた人工無脳「イライザ」との出会いから、さらに昔の話。

高校時代、コンピュータの授業がありました。・・・と今書いてもなんの驚きも感じないと思いますが、当時としては画期的なことです。

ただし、高校にあったのはIBMの「パンチカード」に穴をあける機械で準備した束」を週に一回大学にあるコンピュータセンターに定期便で送ります。
紙の 「束」でまとめてやってもらうから「バッチ・ジョブ」というわけです。(後にパンチカードが無くなり、DOSなどでバッチ・ファイルによるバッチ・ジョブについて教えてもらったときは、ちょっとした驚きでした)

束に打ち込んだプログラムの結果は一週間後に戻ってきます。
もちろん、エラーがあるので、直してまた送り直しで所定の結果を得るのに何週間もかかります。
授業の課題なので「所定の結果」ということも理解した上の話とわかっていても、最初からわかってるならわざわざ機械にやらせなくてもと思ってしまいます。

だから隔靴掻痒にもほどがあるというのがあたしの最初のコンピュータの印象です。
これは大学生になってもまだ続いている環境だったので、コンピュータを使って「デザイン」をするといわれても何のことを言っているのかピンときませんでした。
(ドット絵をプリンタに打たせるのじゃあるまいし。)

だから後の時代、「イライザ」の擬似AI機能よりも「端末」に打ち込んだ結果がそのまま画面に現れる新しいコンピュータのインタラクティビティーには感動しました。

「バッチジョブ」のおかげで身についたコンピュータとは「不便なもの」という偏見は、ビル・バビンジャーのクラスのおかげでだいぶあらたまりましたが、先に書いたようにTSOという利用環境が立ちはだかっています。
当時は気がつきませんでしたが、バッチもTSOも根は一緒でした。

「好きなときに自由に使えない。」これに尽きます。
ちょうどその頃、ようやくパーソナルコンピュータが出回り始めていましたが、アナログ生活に浸りきっていた自分とは無縁のものでした。

そして学校から娑婆へ戻ると、世間は一変していました。

アナログ世界の住人だったはずの友人たちがみなコンピュータ業界にかかわっていたのです。
ある者はCG制作会社に。ある者はファミコン用ゲーム業界で活躍しはじめていました。

かく言う自分もTSOを使った職場のプロジェクトに巻き込まれていました。
それはデザインから見積もりまで一環して管理する統合プロジェクトでした。

でも、TSOはどうにもなじまない。コンピュータセンターの住人が帰宅してしまうと手も足も出ないのです。コンピュータの本当の姿を知りたくなってきました。
そんなとき、上司からお呼びがかかったのです。


2006年5月17日水曜日

コンピュータ黎明期(3) ~ 汎用マシンとビル・バヴィンジャーの思い出~

その頃のコンピュータ作業はというと、TSOを利用した汎用コンピュータ(メイン・フレーム)によその頃のコンピュータ作業はというと、TSOを利用した汎用コンピュータ(メイン・フレーム)によるCADシステムが一般的でした

TSOとはタイムシェアリングオぺレーション(だったかな?)、大型コンピュータを使うときのOS(仕組み)で、利用者は端末から同時にひとつのコン ピュータにアクセスして、ゆずりあって使うので「シェアリング」なのです。(旧・旧マックのマルチファインダーを複数の人間で使っているようなもの?)

今のネットワークに繋がっているパソコンを端末と呼ぶことがありますが、TSO時代の端末はまさしく馬鹿(ダム)ターミナル。ブラウン管だけの代物でした。
意味不明のコマンドラインにIDとパスワードを入れて、暗記した”モード”のコマンド体系を覚えて四苦八苦した挙句、よく止まる。

トラブルに遭遇すると、端末のそばにある内線電話を使ってコンピュータセンターに連絡、直してくれるよう依頼します。プロッタからのプリントもマザーコンピュータを介して行うので隔靴掻痒なことこの上ありません。管理者の意向にしたがわないと何ひとつできないのです。

ジョブスやウォズニアックがパソコンに「自由」を見出したのは、あたしのように大学のTSO環境で不愉快な思いをしたからです。そして彼らには才能があってあたしにはなかったという―――。
あたしが通っていた学校でもマシンを「シェア」している人間が比較的少ない夜を狙って使うので、コンピュータ講義も、なんと夜行われていました。

先生のビル・バビンジャーは、昼間寝て夜7時くらいから授業を開始します。学生も一旦、家に帰り、夕飯を食べてから学校に再集合させられます。
そのように時間帯を工夫してもコンピュータの反応がとろいのでなぜだろうと尋ねたら、大学のマシンを町内会にあるNASAのロケット基地に貸し出しているのだといわれました。

当時(79年ごろ)から大学ではインターネットが使われはじめていて通信には大学でもカプラーを使っていました。ある夜、ビルが鼻息もあらく教室に飛び込んでくると「今夜おまえたちにすげぇものを見せてやる。人工知能みたいなものだ。」と。

カプラーに電話をつないで画面に現れたのが、あの「イライザ。」マックなどに繰り返し移植されている、いけすかない対話をする人工無脳プログラムでした。
今思えば、ようするにビル・バヴィンジャーは、オタクだったわけです。

余談ですが、ブルース・ガフという超クレージーな建築家がいまして。ビル・バヴィンジャーは、そのガフが立てた家で育ったのだそうです。
なので、そのクレージーな建築家の作品集には、「バビンジャー邸」というビルの実家の写真が必ず載っていす。中でも、居間の写真が有名でクレージーな居間の真ん中におかれているテレビを見ている少年の後姿。
この少年こそが後のビル・バヴィンジャーなのだ。と友人が教えてくれました。
「だから、ビルは、あんなにクレージーなんだよ。」

みんな、ビル・バヴィンジャーが大好きでした。

2006年5月16日火曜日

コンピュータ黎明期(3) ~悪筆とワープロ~

実は手書きが苦手だった(おかげ?)のもワープロ打ちが得意になった理由のひとつです。

ワープロ講習会が開催される約2年前、東京に久々に雪がふった日、書類のバインダーを小脇に抱え上野の建設現場で「桟橋」を歩いていたときのことです。

桟橋というのは、木の板をななめに渡したシンプルな構造で、一応根太(ねだ)状のすべり止めの角材が横に渡されています。(本当の根太そのものは足場のパイプを使用。)

ですが、いったん雪でぬるっとなった板は雨のマンホールぐらい滑りやすくなっていて安全靴のゴム底もなんのその、ファイルを抱えたまま、すってんと転んでしまいました。

右手に走る激痛。

軍手をしているので手をみても、外傷は生じていません。
飯場(本当は現場事務所という。)に戻って軍手をおそるおそる脱いでみると右手の小指がイナズマの形状に!
根が腰抜けなので血の気がさ~っと引きました。

一番近いのが安達祐美が生まれたとテレビでいっていた永寿総合病院。
ここで素人がみてもわかる骨折という診断をうけ、治療に通いましたがリハビリが不真面目だったせいか自由に動かなくなってしまいました。

それからというもの、手書き文字がすらすらと書けなくなりました。(家人などは、悪筆は元からではないかと指摘しますが・・・。)
鉛筆やペンが以前のように持てなくなってしまったのです。

故障の無いときには気がつきませんでしたが、文字を書く際、人は小指を酷使しています。
てこのように小指の側面を軸にしてすらすらと縦横に筆記具を扱っています。
いったん自信がなくなるともうだめで、後の転職時の筆記試験などでは小指の痛みをこらえて作文を書いたため痛みに冷や汗が出ました。それにしてもあの悪筆でよく受かったものです。

そんなわけでワープロをあてがわれ、けたたましいドットインパクトプリンタから綺麗な文字が出てきたとき、自分の救い主が来たと思いました。

職場では、英文の手紙のほかに「バラ打ち」といって企画書を仕上げる際、写植の変わりの文字を作るためにワープロは大活躍。地味な職場のささやかなデジタル革命がはじまりました。


2006年5月15日月曜日

コンピュータ黎明期(2) ~わたしとオリベッティタイプライター~

ワープロにさかのぼること、さらに昔。

高校時代、英語会話が流行?したことがあります。
「英語」というより「留学試験」といったほうが正確かもしれません。

誰でも受けられるので英語力などからきしのあたしも同級生に誘われるままに参加しました。
落ちて当たり前なのですが、そこはそれ、試験というゲームの一種なので、次回は受かってやろうという気がおきてきます。

趣味とはいわないまでも、留学試験の勉強(普通の英語と違ってクセというかコツがあります)の一環でタイプライティングを独学しました。
両親に頼んで買ってもらったのがオリベッティ社のタイプライターです。
(MOMA(ニューヨーク近代美術館)の美術品にもなっているあれ)

タイプライターを手に入れたとはいえ、その後何年間も「タッチ・タイピング」(自分的にはブラインドタッチという用語の方がイメージ通りですが世の趨勢にて)ができませんでした。
タッチ・タイピングができるようになったのは社会人になってからようやく7年目のことです。

「ワープロは10本指で」という本を書店で偶然手に入れたおかげです。
とても薄い本で、ホームポジションを守って、ほんの数時間練習しただけで、なんと!おおむね10本指で打てるようになったのです。
自分でもそのあっけなさにびっくりしたことを鮮明に覚えています。

さて、そんなわけで「ワープロ講習会」に参加した時点ではキーボードが得意なわけではなくてもタイプライターに親しんでいたおかげでずいぶんと助かりました。
本物のタイプライターを使ったことがある経歴は後にDOSマシンからMacintoshを使うようになってさらに役に立つことになります。

今でこそ珍しくもないが、Macintoshのフォントは、当時の他のコンピュータやワープロ専用機と違って「プロポーショナル」といって文字ごとに幅が異なっていました。
アウトラインフォントが登場する前の話ですが、それでも一文字一文字幅が違っていて半角・全角という和製ワープロの理解を超えていました。

文書の体裁を整えるためにはタブやマージン、そしてインデントといった機能を使わなくてはぐだぐだになってしまうからです。

それまで一太郎くらいしか知らなかった自分が、はじめてマックのワープロに接したとき、「あぁ、これはあの「オリベッティ・タイプライター」の再現な んだ。タイプライターの紙をはさむ棒の上についていた金物というかつまみを画面で描いているだけなんだ。そういえばタブの位置を金物押しては、一個一個決 めていたよなぁ。と納得。

そうなるとしめたもので二度と日本製の「ワープロ」には戻れなくなってしまいます。

2006年5月14日日曜日

コンピュータ黎明期(1) ~ ワープロが職場に来た日~

80年代初頭の話。職場にワープロがやってきました。
エプソンの機械でブラウン管に黒い画面と緑色の文字。

そのころ、インドネシアやシンガポールの計画に携わっていたので英文の手紙を打たされることが多く、ワープロがくる前は、たしか手書きの原稿を「タイプ室」に持って行ったような記憶があります。(「テレックス」の原稿も本社にいるオペレータに頼んでいました。)

ある日、上司から「ワードプロセッサの講習会があるから参加するように」という指示がありました。
ワープロが何なのか?ということについては上司も理解していたのですね。

しかし、ふたを開けてみると講習会とは名ばかりで、オフィスの空きスペースにおかれたワープロのラックを人々がわさわさ囲んでいるという風景で、その集まりの中で男は自分ひとりでした。

画面サイズは14インチ程度。
上司から8インチのディスケット(フロッピー)を渡されてグループで共用するので、大切に使うように言われた記憶があります。

原稿を「太字」にしたり、いまは懐かしい「倍角」にしたりは「範囲」を指定するのでまさに「マークアップ言語」そのものです。
貴重なマシンはディスケット同様みなで順番に使います。
しばらくすると台数も増え、オフィスには「ワープロコーナー」ができました。(88年に転職しましたが、行った先でもまだそんな感じでした)

用事があると自分のデスクを離れて「ワープロコーナー」あるいは「ワープロ室」に出向きます。
そこには手書き原稿を渡された女性スタッフたちが鈴なり。
「これをワープロにしておいて」の世界であります。

この世界に甘えた男性陣たちは、のちのち臍(ほぞ)をかむことになります。
でもその時は一人だけ女性にまじってワープロにいそしむ自分を彼らは~女の中に男がひとり~奇妙な目で見ていたようです。
未来の肩身のせまさを知りもせず、いい気味です。

このときは、後のエントリーであらためて書きますが、長年タイプライターに親しんできた割には、タッチ・タイピングができませんでした。

しかし、キーボードを見ながらでも「かな打ち」で相当上達すると、原稿なしで場当たりに文章が打てるようになってきました。

(初出:2005年04月06日)

2006年5月13日土曜日

御託(ごたく)

95年くらいに書いたホームページの能書きに、ブログが登場した2000年代に書き換えたものです。懐かしいな。
インターネットにワクワクしていました。今(2012年)は、もうたくさんです(笑)

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とどのつまり、ホームページ製作は、自分の脳みそとスタンスの再確認だ。
Bring Your Brain. (c)voyager
脳みその一部を開いてはページにして公開。

それは、自身のための日記をつけている人が、どこかで読者を意識している状態の拡大版というか、日記と異なり明確に「公開」しているのだから断然読者の存在を意識しているのだ。では、もの書きのプロではない自分などが期待する読者というのはいったい誰なのだろうか?
昔読んだある作家のエッセイでものを書いて発表するという行為は「同質者」を探すということだと述べていた。報酬をもらわない素人のHP文章が対象とする読者というのは、これは誰に遠慮することなく「同質者の開拓」意外の何ものでもない。

ブログに興味の対象を日々公開する。
その時自分のHPであらためて続きを書きたくならないような項目は自分にとって本質的な興味対象ではなく、あくまでもその場限りのウケ狙いネタだったりすることが確認できる。
例)新聞記事を孫引きして、自分の見解を述べる類のホームページ。
つまり、ハレの傾向が強いほど自身から遠ざかるということだろう。
主婦の育児日記HPを見るまでもなく、そんな自分のケの部分を共有できる、どこの誰ともしれぬ相手に読んでもらい、共感を得るための満たされぬ自己顕示のほとばしりと半可通のはかない繰り言なのだ。

”ブログ”が国内ではまだ知られていない頃、人々はアプリケーションサービス(Geocitiesは別にして。)を使わずに手製のHTMLで日記を公開していた。
2003年の秋に常時接続環境の臨界点をむかえて膨大な数のユーザーが増え、ふたたび”ホームページ”ブームが訪れた。
独り言をつづりつづける私達はどこからきてどこにいくのだろう。

So what it is, what used to be
Where it shall we,
and if you build it,
he will what?
--J.A