2016年9月30日金曜日

旅16 力の輪

1962年4月14日。
食料がつきてきたので今回の旅を終えるとドン・ファンが宣言します。しかし、「ソノラのドン・ファンの家へはもどらず、国境の町へ行くと言った」(旅276)そうです。

どこなのでしょう。気になりますな。

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溶岩山の高原を北西に向かって歩きはじめた。
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途中、峡谷でまた山を見つめさせられます。

ここまで読み込んできますと、ドン・ファンによる呪術のトレーニングはとにかく「知覚の拡張」あるいは「知覚のパラダイムシフト」を行うものだと言えるのではないでしょうか?

「目」を使うことが多いですが、逆に「音」だけで知覚する訓練も集中して行ってきています。

さて目をこらしてますと突然山が輝いて見えます。
じっとみているとどどろきが聞こえた。それはつけてきた盟友(山の実体)がたてた音だと言います。
ドン・ファンが小石を指示し、それを掘り出し、カルロスの力の物にするように言われます。子供もよく石を宝物にしますな。

二人が歩き続けると、途中南から四人の若い男のインディアンたちがこちらへ向かってきました。彼らはドン・ファンに恭しく接し、力の水晶を捜しているといいいました。
四人は呪術師の弟子だそうです。

若者たちの坐る方角が奇妙なのに気付いたカルロスにドン・ファンが「力のある物を狩りに行くときは、輪をつくって二人がその中心で背中合わせになるのが規則」だと言います。(旅280)
同じ弟子なんだからカルロスにも教えておいてほしいですよね。カルロスはきまりが悪く感じます。

ドン・ファンが若者たちに、二人が盟友につけられてきていると話したところ、みな左足首を尻の下にしてすわりなおしました。(旅281)(体術)

その姿勢はものごとが定かでないときに呪術師が使うものだ」とドン・ファンが言います。ふーむ。

片方の足をお尻の下にはさむ坐り方はこれまでも登場しています。「瞑想用の体勢?」それとも「敵を見張る時の体勢?」それともここでいうように「ものごとが定かでない時の体勢?」。

ドン・ファンが水晶は、呪術に使う武器だという説明をします。
水晶を武器にする話は、タイシャ・エイブラーの著書『呪術師の飛翔』に詳しく書かれています。可『飛翔』のエントリーまでペンディングとさせてください。

ドン・ファンが見せるものがあるというと彼が起こしたたき火がいきなり高く炎をふき上げました。

すると、たった今いた場所と違うところからドン・ファンが海賊のようなコスチュームを着て現れたのです。後から皆で話し合うと全員がちがう姿のドン・ファンを見ていたことがわかりました。

若者たちと別れる際、彼らの姿が暗黒を背景にした一列の真っ黒な影にみえ、急に背すじに悪寒がはしり、怖くなり小走りで「力のあしどり」で走って去ります。

後に、彼らがもしかすると盟友だったのかとカルロスが尋ねますが、たしかに呪術師の弟子たちだが彼らが(カルロスより進んでいて)「しないことの力」に触れられていたからだとドン・ファンが答えます。(旅290)

そして1962年4月15日の日誌になります。
この日は『教え』の98ページで「四つの敵」についての話を聞いています。同じ日にこなせるかどうか確認しましたが大丈夫でした。・・・・あたしはいったい何やってるんだか。

さて、若者たちと別れ、ふともについてから車にのり、地名が明かされていない国境の町へ着きました。

ドン・ファンの変装は「しないこと」の効果だと言います。

食事をしながら人が生まれたときから持っている「力の輪」と「しないこと」の関係を話します。
出会った若者たちにくらべ自分が劣っていると感じ、自分が呪術師になる資格はないといじけてしまいます。

2016年9月29日木曜日

旅15 しないこと

1962年4月11日。「力のあしどり」の訓練の際まとわりつかれた謎の「実体(entities)」の影響から逃れるべく二人は、カルロスの「お気に入りの場所」に行きからだを休めます。
陽が沈む前に回復して、それから「溶岩の山」へ行くと言われます。

1962年4月12日。溶岩山(the lava mountains)のふもとについて一泊します。
「ようがんやま」という言い方がホビットの「はなれ山」みたいでいい響きです。

ドン・ファンがこっそりと木にかけた黄色い布が山の一部のように見える幻想を体験します。

1962年4月13日。溶岩山の峡谷。山々を眺めているうちに反射光の影響で峡谷が光でいっぱいになる光景に心を奪われます。
ドン・ファンは、ここでカルロスに「しないこと」を教えるために来たと言います。

『旅261』から「しないこと」に関する濃密な説明がはじまります。引用すると長いので簡単に解説します。

”すること”というのは人が規定の知覚で世界を認識している方法で、”しないこと”により知覚の自由を手に入れることができる。そして戦士の資格を手に入れることができる」というような話です。

練習で小石が落としている影を見て、ニカワに見えたと報告すると上出来だと言われます。(旅264)同様に少し後の記述でも大きな石の影をつかった説明があります。(旅270)
ドン・ファンが戦士が自分のからだから病とか不快感といったものを出してしまいたいときの動作を教えてくれました。(旅266)
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彼はわたしを横にし、右手をとってひじのところで曲げた。それから、彼はわたしの手のひらが前を向くようにまわし、指を曲げた。それで、わたしの手はドアのとってをつかんでいるような格好になった。それから彼は、ちょうど車についているレバーを押したり引いたりするのに似たように、わたしの手を輪を描くように前後に動かしはじめた。(体術)
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溶岩山に出発する前に、ドン・ファンがカルロスの場所で作ってくれた「ひものベッド」も”ひも(string)”ですが、人間も身体を物に結び付けている無数のひもがあるのだと言われます。
ドン・ヘナロが滝渡り」した時につかったのもこの”ひも”ですね。

「しないこと」の練習は、だれにとっても動いている手から出てくるひもを感じる手助けになるそうです。

「知者は耐久性のあるひもを作るのに、知者はからだの別なところを使うんだ」「知者が作るひものうち一番耐久性のあるやつは、からだのまんなかから出てくるやつだ」(旅267)

ここまでうっかり記していませんでしたが、随所にドン・ファンが「鳥のような目」をする記述があります。
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彼はひと息つき、好奇の目でわたしをせんさくした。そしてまゆを上げて目を大きく見開き、またたきした。それは、またたいている鳥のような目立った。(旅268)(体術)
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この目つきは例の焦点をさだめない目をするとき、その人物を外から見るとそんな目つきをしているのかもしれません。
あたしの家人は瞬時に立体視ができるのですが、どうやるのか尋ねると「まばたく」のだと言っています。

ドン・ファンはカルロスがその日、溶岩山に向かうにあたり、影のひとつに後をついてこられたと語ります。(旅269)他の箇所でこれを盟友と言っています。(旅274)

ようするにあたしたちの通常の知覚では存在を確かめられない「生命」はみな盟友であり守護者であり門番であり、それらをひっくるめて非有機的存在と称しているのだと思います。

ドン・ファンに指定されて探した細長い石を二つ使って影を見る練習をします。
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ほとんどあっという間に、目を動かすとその二つの影がひとつに混じり合うように見えたのだ。わたしは、二つの像をひとつに集めるように見ないことで信じられぬほどの深みとある種の透明感のあるひとつの影が得られることに気づいた。
(中略)
わたしは、あまりにも不安定なその像をうしなってしまいそうで、またたきもしたくなかった。(中略)
そのときに、それがまるで、それまで一度も見たことのないような世界を計りしれぬ高さから見おろしているような感じなのに気づいた。(旅272)
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上記の引用の最後の部分「それまで一度も見たことのないような世界を計りしれぬ高さから見おろしているような感じ」は、まさに「立体視」をしているときの感覚そのものです。別の世界が目の前に広がっているような不思議な奥く行き。

つづいて「夢見の訓練」と「しないこと」の関係についての講義が続きます。とにかくこの章は長いです。
そしてドン・ファンは、カルロスが自分を堕落していると感じていることに対して、しばらくの間、自分は完全にその逆だと”すること”をしてみることをアドバイスします。

2016年9月28日水曜日

多聴の果て 『風の電話』 ~Wind Telephone~

果ててませんが、以前、英語のリスニングを300時間やりました、という報告をしました。「多聴」ってんですか。

2014年の1月末から2015年の8月末まで。

以降も、日常的に続いていますので丁度、2016年9月末でいったん締めますと、プラス13カ月。

ひと月30日、毎日30分として、

( 30日 × 13カ月 × 30分 ) ÷ 60分 =  195時間

要するに、累積で

500時間を超えたと思います。

LearnABCアプリでは、PBSのニュースとAOL。
最近は、聴き取り能力の歩留まりはバラつきがありますが、「This American Life」もラインナップに加わっています。

そして、最新の「This Amrican Life」のプログラムが”One Last Thing Before I Go”というタイトルでして、まぁ「土壇場でいうひとこと」って感じでして、一話目(Act 1)が大槌町にある「風の電話」を訪れた人々の様子をアメリカ人の目でみたレポートになっています。

番組は、日本に親せきがいるディレクターが語り部で、NHKの全面協力を得た内容になっています。

自然に涙が出てくるドキュメントでして、ディレクターが言っていて印象的なのは、「この人たちは、ひとこともI love youといわないのに、”寒くないか”とか”ぼくたちは大丈夫”という言葉の中に全部入っている」といっているのが印象的でした。

さて、この番組でひとつ気がついたことがあります。電話を訪れた人々の日本語をディレクターがかぶせて英語になおしてくれるのですが、音質やアクセントの影響があるにせよ、はっきり聞こえているのに日本語の意味が聞き取れないことが頻繁におきるのです。逆転現象ですな。

とまぁ、それなりに上達してきてはいますが、いまだにからきし聞き取れない英語がやまほどありまして、中でも「This American Life」にたまに登場するライブのスタンダップ・コメディーの収録模様です。肝心なところでほとんど笑えません。映像があると少しはマシかもしれませんが、あと、どれくらい努力すれば楽しめるようになるのでしょうか? 

また数百時間後に、ご報告します。ドン・ファンの第四の敵、老化との競争ですが。

2016年9月27日火曜日

旅14 力のあしどり(3)

カルロスは、ドン・ファンについてしばらく「力のあしどり」の練習を続けますが、合図のフクロウの声を出しすぎたので他の存在(精霊など)にまねされる危険がある。
だから、いますぐ山を去ろうと言われます。

遅めに走るのでついてこいといわれドン・ファンを追いますが、途中で不気味な存在に並走され、ニセのフクロウの声に翻弄され、しまいには四角くて黒い扉のような存在を見ます。

怯え切ったカルロスがなんとかドン・ファンとめぐりあい以上を報告するとカルロスが遭遇した存在は、夜の実体あるいは山の実体というものだといいます。
それらは昼の間もそばいるが夜になると簡単にわかるようになるのだそうです。

カルロスは、まだ力が十分でないのに、それらの存在とかかわったのでしばらくは闇で一人にならないように言われます。
自分のベッドならいいが山では夜一人になるのはだめだと言われます。

うーむ、じゃやはり、水の精霊につけまわされてもロスで歯を磨くのは構わなかったのですな

「夜の実体はおまの左側を動いとった」
「奴はおまえの死と溶け合おうとしてたんだ。とくにおまえの見たあのドアはな」

あの四角くて黒いのはドアだったんですね。『宇宙の旅』のモノリスでしょうか。

本当は、ドン・ファンが仲間と共謀してカルロスを脅かそうとしているのではという疑念をあらわすと、自分の理解を超えたことにいちいち説明をつけようとして自分を苦しめないように言われます。

カルロスは、それなりに力をつけはじめていて「力の戦い」と対面した思い出を得たってことが重要だと言います。

「あの晩おまえが見た橋とかほかのあらゆるものは、いつかおまえが十分な力をもったときにくりかえされるだろうよ」(pending)

ドン・ファンは今後の修行のために「わしはもうおまえのために相応の敵を見つけてやったぞ」と身体を伸ばし(体術)ながら言います。(旅250)

「ぼくのためにどんな敵を見つけてくれるつもりなの?」
「残念だが、わしらの同胞しかふさわしい敵はおらんな」(旅250)

この「相応の敵」というのはラ・カタリーナのことですね。

デミルは、ラ・カタリーナとの対決の日付を明らかにしないことを指摘しています。カルロスが発表する内容と日付を絶妙に前後させてあたしたちを混乱させているのだと書いています。(pending)
この一文で判明したことをメモしておきますと、

1961年11月23日 ドン・ファンがラ・カタリーナに脱臼させられた(フリ)
1961年12月3日  捻挫がすっかり治っている。カタリーナを狙うが失敗。

それから数か月後に”対決”があったと書かれています。
1962年4月8日に、この「力のあしどり」事件があって、その段階で「相応の敵」を見つけておいたのですから、ラ・カタリーナとの対決は4月9日以降ということがわかります。
さらに同じ4月8日は「四つの敵」に関する議論があって4月15日には「四つの敵」の議論が続きますので、おそらくカタリーナとの対決は、4月16日以降かと思います。

1962年6月23日は、キノコ探しの旅(ペヨーテ探しだったという)に出ますので、「対決」は、それより前、つまり、

4月16日~6月22日までの間におきていたかもしれません。

実は、途中、5月14日に呪術師サカテカ(ドン・エリアス)を訪問して邪見にされますので、「対決」は、

4月16日~5月13日
5月15日~6月22日

の二つの期間に絞られたのでは?どうでもいいですか?しつこいですね。
実は、このあと17章にさらなるヒントがありまして対決はもっと後に起きているようです。
しかし今回は仮の設定としておきます。

しばらく黙り込んだあと、ドン・ファンが口を開きます。
「前に、強いからだをつくる秘密はなにかをすることじゃなくて、しないことにあると言ったろう」
「そろそろ、いつもしてることをしない時期だな。ここを発つまですわって、”しない”んだ」
とわけのわからないことを言いだします。
いきなりカルロスのノートを取り上げやぶの中に放り投げてしまいます。

それから木の葉と葉のあいだの空間を見るようにいいます。
これはいわゆる「図と地」(figure and ground)というやつですね。

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まず一本の枝の葉の陰に焦点を合わせることからはじめ、最後には木全体に進めて、目が葉にもどらないようにするのだ、というのも、自分の力をためるための大事な第一歩は、からだに『しないこと』をさせることだからである。
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と伝えます。

その指示に従い、実際に目を使いだすとカルロスはあっという間に、ヤブに投げ込まれたノートを見つけます。

それは『しないこと』のおかげなのだそうです。

2016年9月26日月曜日

旅14 力のあしどり(2)

丘の頂上にのぼり、いつものように焦点をあわせずにあたりを見て、良い場所を探すように言われ、ドン・ファンがその場に生えているかん木から用意した葉を利用して苦労して見つけだします。

ドン・ファンが機械仕掛けの僧のおもちゃのように目の動きと同時にくるっと一回転します。マジカルパスでしょうか?(体術)(旅232)

「今日は、おまえは闇のなかで力を狩ることになるだろう」
「今夜、おまえはこの未知の丘を探検するんだ。闇のなかじゃ、それは丘じゃないんだ」

カルロスは、ドン・ファンがいつも気味の悪いことをいって怖がらせると不平をいいます。
同感です。

「世界は神秘なんだ」
「だから、おまえが頭に描けるようなもんじゃないのさ」

あたりが暗くなるまでの間、二人はまたまた乾燥した「力の肉」を食べます。

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ドン・ファンが立ち上がり、腕と背中をのばした。そして、わたしにも同じことをするようにいった。彼によれば、眠ったり、すわったり、歩いたりしたあとでからだをのばすのは良い運動なのだ。(体術)
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ドン・ファンによらなくてもそうですよね。アップルウォッチもたまに体を伸ばせって言いますから。

これから暗闇の中を歩くが、少し先をドン・ファンが行ってフクロウの声を出すからそれを頼りについてこいと言います。
そして闇の中を”走る”ための歩き方『力の足どり』(体術)と呼ぶ、特別な歩き方をやって見せてくれます。

どのような態勢かカスタネダははっきりと書いていません。
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ドン・ファンの胴体はいくぶん前へ曲がっていたが、背すじはまっすぐだった。ひざもいくらか曲がっていた。
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一歩足を踏み出すたびに、そのひざがほとんど胸のところまで上がっているのがわかった。
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ドン・ファンは暗黒の中へサっと走り去り、やがてまたもどってきます。
カルロスは信じられないことがおきていると思いますが、ドン・ファンはカルロスにもやるように指示します。

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彼は、しばらく一カ所で足ぶみのようなことをしていた。彼の足のあげ方は、短距離走者のウォーミングアップを思わせた。(旅239)
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怖がって転んでしまうカルロスの姿勢をドン・ファンが直します。
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彼は、両手の親指と人さし指はまっすぐのばし、他の指は折って手のひらにつけておかねばいけないと言った。(旅240)
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そのすぐ後に、目の使い方が詳しく書いてあります。面白いので長いですが引用します。
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『力の足どり』というのは、休憩の場所を探すのに似ていた。その両方に、身を任せたり信じたりする間隔が伴っているからである。
『力の足どり』をするには、どちらかの横に目をやると動きの流れが変化してしまうので、まっすぐ前だけを見ている必要があった。彼は、目の位置を低めるためにからだを前に曲げ、一歩一歩を短く確実にひざを胸まで引き上げる必要があるのだ、と説明してくれた。そして、最初は何度もつまずくだろうが、それを練習しているうちに昼間走るのと同じくらい速く、安全に走れるようになる、と保証してくれた。(旅240)
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だれかやってみた人いますか?

ところで、実は以下が、この章の本題なのですが、「力のあしどり」は原文ですと”gait of power”となっています。
gaitというのは文字通り「あしどり」という意味だそうです。

ところがあたしが初めて読んだ1978年当時、gaitという単語を知りませんでした。
しかもペーパーバックをざくざくっと読み流していますからgaitをgateと読み間違えて覚えていました。

「真っ暗闇の中で走る技って”力の門”っていうんだ。かっこいいなぁ」と完全に30年間勘違いしていたのです。

で、この度、おめでたくも『イクストランへの旅』を日本語で読むにあたり「ゲイト・オヴ・パワー」という章のタイトルをどのように訳しているのだろうと思ってみたら「力のあしどり」となっている。

これは翻訳者の真崎氏が気をきかせてこんなタイトルにしたんだぁってまだ思ってまして。
でもなにか変だなと思い再度英語版をチェックしたら・・・・スペルが違うじゃないですか。

世界は思い込みです。

2016年9月25日日曜日

旅14 力のあしどり(1)

「力のあしどり」もついつい分量が増えたので小分けします。

1962年4月8日。
死について二人の会話は続きます。
死は人間みたいなもんじゃない。むしろひとつの存在だ。だが、それは無であり、しかも全てだとも言える。どう言っても正しい。死ってのは人が望むすべてなのさ

死についての考えは育った部族によって違うのかとユマ・インディアンとヤキ・インディアンを引き合いに出しましたが、それは問題じゃないと一蹴されてしまいます。(旅223)

上記のユマ(Yuma)・インディアンについていつものようにWikiをひもといてみますと、エントリーはなくQuechanという別の部族名がかかってきます。
どうも、この呼び名にはいろいろいきさつがあるようですが、カルロスはYuma居留地に暮らしているインディアンをそのように呼んでいるようです。




さてドン・ファンによると死に対する考え方は部族のような育ちではなく決めるのは当人の力で、その総和が生き方や死に方を決めるそうです。

「それじゃ、力ってなんだい?」
「それは感覚だ。幸運に似とる。あるいは、気分と言ってもよかろう。力ってのは自分の出身とは関係なく得られるものだ」(旅223)

つぎに知者の意味を尋ねます。ドン・ファンも言いますが本当に質問しますな。

「知者ってのは、学ぶという苦しい道を心から歩む者だ」
「あせったり気持を変えたりせずに、できる限り深く自分の力の秘密を解いてゆく者のことだ」

対話がすむといきなり「力の場所」へ長い旅にでるぞと言われます。
ちなみにこの1962年4月8日は、『教え』では、知者の「四つの敵」についても会話しています。こちらの『旅』でもここで知者の定義を尋ねているので完全に整合性がとれていることがわかります。

(おそらく当日の)午後3時過ぎに、西シエラ・マドレ山脈のふもとにつき夕方まで過ごします。
また地名がでました。なんとなくなじみのある響きの地名ですが「シエラマドレ」で検索すると一番上にはフィリピンの地名が出てきます。前述のドライブルートと読み比べてイメージを膨らませましょう。

Geographic Map of Mexico.jpg




ここでも強行軍でへとへとになってあおむけにひっくりかえったカルロスをドン・ファンが施術します。
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ドン・ファンが大声で笑い、しばらく、わたしを前後に転がした。その動きで呼吸が楽になった。(旅226)(体術)
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カルロスが、どうしてそんなに体力があるんだ?と尋ねると、自分をしっかり扱っているから、疲労とか具合が悪いとか感じる理由がないのだと答えます。

その秘密は、自分になにをするかより、なにをしないかってことにあるんだ

ここでドン・ファン理論の新たな重要フレーズ「しないこと(not doing)」が登場しました。(旅227)

2016年9月24日土曜日

君の名は。 ★★★★☆

『君の名は』は、ラジオドラマ化されたとき、オンエアの時間になると女風呂に客がいなくなるという伝説的すれちがい男女ドラマで「真知子巻き」というストールのファッションが大流行したという大ヒット作品ということだけくらいの知識でした。

『風立ちぬ』(堀辰雄)というタイトルでジブリのアニメが作られて。こんどは『君の名は』(菊田一夫)か~、というのもあり昭和の小説の名を借りた新作なんだろうなぁと流していました。

あたしは既報の通りカラオケのDAMチャンネルのヘビー視聴者ですからDAMチャンネルで繰り返し流れる『君の名は。』のプロモーションビデオを繰り返し見てます。
おそらく日本人でもっともこの映画のPVを見ている人間の一人かと思います。

ヘビー視聴者と言いましたが、ボリュームを消してハーモニカの練習をしているので見てはいますが音はめったに聞いていません。なのでヘビー視者が正確かも。

音のない映像で主役は現代の高校生みたいだから、やはりお話は「真知子巻き」ではなくて今の「すれちがい系」の純愛物語なのかなぁとぼーっと見ていました。

映画の音楽を担当しているRADWIMPSというグループのPVも同じくDAMチャンネルで繰り返し流れています。

Feedly(RSSニュースリーダー)に登録している「TAP the POP」という音楽評論サイトの9月2日の記事で「時を超えて、時を駆け上がって、希望を伝えてくれる『君の名は。』」という紹介がされまして。音楽の使い方についてとても好意的な記事が書かれてまして初めて興味を持ちました。(このサイト、いい記事が多いんですよ)

そしたらこんどは『シンゴジラ』と競合して大ヒットになっているアニメ映画だっていうじゃないですか。これは観ておくかなと遂に思いました。

ちなみに監督の新海誠という方の『言の葉の庭』という短編を見てたのですが今回の『君の名は。』の製作者だとは直前まで知りませんでした。『言の葉の庭』は知人から映像がすごく美しいという話を聞きまして見たところ、CGの美しすぎる部分とキャラクターの差異がちょっと気になるかなという印象を受けました。

今回は、その差異が目だたずに、両者が自然に溶け合っているなと感じました。
風景描写、水の描写などはこの監督のこだわりなのだなと思います。よかったです。
それと『言の葉の庭』でも感じたことで、ローアングルのショットが非常に多いです。
場面転換でも繰り返し使います。

PVの映像用に本編からピックアップされているものは「見どころ」に決まっているわけですが、「本編で教室で自分の悪口を言われているのを聞いた主役の女子高校生が腹を立てて机をけとばすシーン」、「同じ女子高校生がバスケでゴールをした後の正面のシーン」この二つが好きではありませんでした。
前者は、蹴った足元からミニスカートの太ももの付け根が映像で強調されています。後者はジャンプしたあとの正面からのショットで高校生の胸が揺れる映像です。

商業的には必要なのかもしれませんが、男性アニメファンに媚びるようなショットはどうにも好きになれません。(個人的な好みですのでお許しください)

幸いにもこのアニメではありませんが、主役の女子が猛烈に可愛いのに、男勝りの性格でおてんば、でもストーリー進行にしたがって実はとても(男の理想とするような)乙女ごころを持っているという性格付けも類型的で受けつけがたいです。

このタイプのキャラがはしゃいで好物(お菓子とか)をほおばって「きゃはは」っと甘ったれた声をだす場面も気持ち悪いです。(だから『あの花』10分しか耐えられなかったんだけど)
ま、これから女子と付き合いたい男性にとっての女性の理想像?なのかもですが女性像の掘り下げ方が浅すぎるように思えてしまうのです。
あたしはフェミニストではありませんが、でもついついそう感じちゃうんです。

というわけで映画見ると決めてから直前にはじめて音つきでPVを見たら、なんと!男女が入れ替わるっていうじゃないですか。上記のあたしが嫌いなサービスショットも男が中に入っているときのものだったのです。

映画鑑賞の結果は、ストーリーがあたしの趣味性にぴったりあっているのでとても気に入りました。
だって『リプレイ』⇒『君がいた未来のために』の系譜の話だからです。
好きなんですよ。そうそう、『僕だけがいない街』もそうでしたし、さらに古いところではロバート・ハインラインの『夏への扉』(山下達郎が歌にしたやつ)ですな。

ちなみに『君がいた未来のために』の主人公(堂本剛)が人生を繰り返すタイミングも『彗星群』の飛来でした。

女子高校生の一家は、夢見の技術に長けている呪術師の一族ですな。巫女(シャーマン)だし。そうした整合性は見事です。神社の本殿はもっと近くてよかったんじゃないかな。
監督は総武線沿線好きなんですね。

あたしの趣味にはぴったりで文句ないのですが、でも、なぜこの映画が格別に大ヒットするのか今もわかりません。
公開してだいぶたっているのに、シアターは結構カップルで賑わっていました。いつもはいついってもどの映画でも平日はガラガラなのに。(スターウォーズ、シンゴジラ比べ)

2016年9月23日金曜日

旅13 戦士が最後に立つ場所

1962年1月28日、ふたたび二人は、力を探しにいく旅に出ます。
ここのところずっと力探しの旅です。

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北の方へ600キロほどのんびり気分で車を走らせ、それからパン・アメリカン・ハイウェイを離れて、じゃり道を西へ向かった。(旅201)
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そういえば、パン・アメリカン・ハイウェイって名前だけは聞いたことがあります。
今回は、手抜きで日本語版WIKIでメキシコ内のルートをざっと確認しました。
ひもといてみますとパン・アメリカン・ハイウェイはいわゆる「東名高速」みたいにはっきりとした区分けがないのでなんともつかみどころのない感じです。

これまで、ドン・ファンの住まいはエルモヒージョとトリオの間の農村(里)と推定したことがありますが、ここに掲載した地図は遠く離れています。
地図に出ているこれまであたしたちが知っている登場地区でいうとドン・ファンとドン・ヘナロが一緒に暮らしていたことのあるオアハカだけです。
(またカルロスはメキシコシティにも通じていることがわかっています(Amy102)

もしオアハカを出発点にするとなんとなくつじつまがあいそうです。

地図のグラフィックに200キロのスケールを合わせてつけておきますので上記の600キロと照らし合わせて推理を楽しむのも一興かと。



前回、「戦士の気持ち(1)」では、
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家から100キロあまり南の方へ、そこから東へ向きをかえて山の傾斜地へ
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でかけています。これは家を前述のトリオあたりに想定するといい感じになります。

夜の11時に暗闇の中を二人が歩きます。前を歩くドン・ファンの足元だけを見るようにいわれ猛烈なバイタリティのドン・ファンについていくのでへとへとになります。ついに地面にひっくりかえってしまうと、
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ドン・ファンが横になったままのわたしの腕をつかみ、その場でクルクルまわした。そして元気をとりもどしたければ、頭を東に向けろ、と言った。少しずつリラックスしはじめ、痛むからだも休まっていった。(体術)(旅206)
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その場で太陽を待って、”まえぶれ”を待つことになりましたが、理由はわからないけれど、どうやら失敗してしまったようです。(旅206)
(まえぶれを見るために地平線の上にある雲のかたまりを例の焦点を合わせない目で見るように言われていました)

このあと、カルロスはなかなか見つけられないかん木に生えている薬草を捜しまわされたり、なぜか「ひも」と呼ばれる石を18個、輪の形に並べ、それを一個一個、ドン・ファンが投げてそれを捜させられて元の場所に戻したりわけのわからない修行をやらされてへとへとになります。

最後に、その輪の中にドン・ファンが用意した寝床に倒れこむように眠り休みます。
目覚めると非常に気分がよくなっています。

ドン・ファンが言います。「この丘の頂上はおまえの場所、おまえの最後の場所だ。この、おまえのまわりにあるものはみんな、おまえの保護のもとにあるんだ」
「この丘のてっぺんは、おまえがこれから生涯使うおまえのものだ」
「あらゆる特徴を、記憶に刻み込んでおくんだ。ここは、おまえが”夢”でやってくるところなんだからな」

この「カルロスの場所」はこの後も登場してきたと思いますので記録しておきます。(pending)

夕陽をみつめて瞑想めいたことをしているとドン・ファンにいきなり立たされて「足ぶみ」をさせられます。

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彼がわたしからとびのいて、強制的だが切迫した声で、わたしの立っているところで走るような足ぶみをしろ、と言った。
ひとところで足ぶみをしているうちに、暖かみがからだに浸透してくるのを感じはじめた。
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ドン・ファンは沈む太陽がカルロスを覆ったのはすばらしいまえぶれだったと言います。
そしてまた夢の進捗を尋ね、夢の中で移動をするためのテクニックを指導します。(詳細は割愛します)

この丘は、カルロスが死ぬ場所になるのだそうです。
なんべんも一人で来ているうちにこの丘のてっぺんは「おまえの最後の踊りの場所になるだろうよ」
自分の最後の踊りってなんのことか尋ねますが、ドンファンは「おまえがどこにいようと、ここで死ぬんだ」とぜんぜん話がかみ合いません。

先まで読み進むと、さきほど猛烈に足踏みをしたのはその踊りではないようです。

カルロスは、1998年4月28日、ロスで亡くなります。ロスにいても、カルロスの魂はこの丘にきて最後まで壮大な踊りをしたのでしょうか?(pending)

「おまえが死ぬときに踊るのもここ、この丘のてっぺんで、夕暮れどきだろう。そして最後の踊りのときに、自分の苦闘、勝った戦いや負けた戦い、力と出会ったときの喜びや当惑を語るだろう。その踊りは、おまえがためた秘密や驚くべきことについて語るんだ。そして死がここにすわって、おまえを見つめるのさ(旅220)」

2016年9月22日木曜日

ミュージックライフ近況

最近は、すっかりカルロス・カスタネダ専門おさらいサイトと化しているこのブログですが、あれだけ夢中になっていたハーモニカや歌、ウクレレはどうなっているのか?と思われるのもしゃくなので書いておきますとハーモニカと歌については完全に日常のルーティンに組み込まれてしまってまして特別なものでなくなってきているというのがあります。

ウクレレだけは練習時間があまりとれていませんので上達していませんがとにかく触るようにこころがけています。ハーモニカとは異なり伴奏しながら歌えますので捨てがたいです。

さて歌については、いい感じで進歩してきていますが、持病の喘息のために吸入薬を常用するように医者に指示されてしまいました。

その結果、薬の副作用で極度の声がれが生じ、ひところは歌うと声がつっかかってひっくりかえってしまいまったくダメになってしまいました。

そこで医者に相談して薬を「フルティーフォーム」というものから「レルベア」に変えてもらいました。
これまでフルティーフォームを朝二回。夜二回、吸っていたものをレルベアですと一日一回なので副作用の影響も小さいだろうというのが医者の判断です。

それと薬の服用後は、副作用防止のため念入りにうがいをするのですが、うがいに加え「食事の前」に吸うことで食事の嚥下にも薬の「掃除」を兼ねさせるというテクニックで一層、喉に薬が残らないような工夫をはじめました。

声がれが、朝よりも夕方ひどくなる傾向にあるので、さらに副作用以外の要因(がんやポリープ)もあるといけないと思い、耳鼻咽喉科では内視鏡で声帯周りを確認してもらいました。
こちらは異常なしでしたので、現時点では声がれの犯人はほぼ間違いなく吸入薬ということです。

さて上記の薬の変更と吸入を食事前に行うことで声がれがだいぶ改善してきまして、歌も絶好調とまではいきませんが、吸入の常時実施以前に近い状態になってきましたように思えます。

歌の師匠のおかげで新しいユニットも組ませてもらい、ブルーズ以外の分野にも挑戦をしています。めったに褒めないハーモニカの師匠も昨今はときたまお褒めの言葉をいただきます。

ギターのついでにハーモニカを買い、ハーモニカのついでにはじめた歌ですが、ここまでコモディティ化するとは思ってもみませんでした。

ドン・ファンのいう通り世界は謎めいています。

2016年9月21日水曜日

旅12 力の戦い(2)

自分は幻の洞穴にいたのだろうかとすっかり動転しているカルロスを落ち着けるためにドン・ファンは彼を山の頂上付近にある力のある石に座らせました。

カルロスが不機嫌そうにぞんざいに座ったのでドン・ファンが注意をします。

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わたしが不機嫌に行動して力に対して不注意であり、それをやめないと、力がわたしたち二人に襲いかかってきて、生きてその丘を離れることはできなくなる、と言った。
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また、なにかというと命があぶなくなります。その通りだとすると本当に世界は恐ろしいところですね。

ここでもまた夢見の進み具合について尋ねられます。

手を見ることがなかなか進みが悪いのでドン・ファンは、効果があるので特別なヘッドバンドをつけることを勧めます。それは自分で作らなくてはならなく作り方を習いますがあたしたち読者には明かされていません。

力の肉を食べて元気を出すように言われたカルロスは、もしかするとこの肉に幻覚剤がしみこませてあったので幻覚を見たのではと疑います。

カルロスがそのことを告げるとドン・ファンはあきれます。

「まったくだめになっちまったな」
「肉のなかには、力以外なにもありはせん」
「夕べおまえに起こったことは冗談でも悪ふざけでもない。力と出会ったのさ。霧も、闇も、稲妻も、雷鳴も、雨も、ぜんぶ偉大な力の戦いの一部なんだ。ものすごい幸運をつかんだんだぞ」

昨晩の嵐が、本章のタイトルでもある「力の戦い」なのだそうです。

昨日、カルロスがみた橋もリアルで、もしドン・ファンがとめなければカルロスはそのまま渡っていただろうといいます。そして力がまだ十分にないカルロスは(こちらの現実の)峡谷に落ちていただろう、と言います。

ドン・ファン自身はカルロスが見た橋は見てなくて”力”を見ただけだといいます。カルロスとドン・ファンの知覚は似てないからだそうです。

ドン・ファンが最初の「力の戦い」のときは、当時、憎しみに満ちていたので自分の敵をみたのだそうです。(そんなに何回も「力の戦い」を体験するのでしょうか?)

カルロスの本当の戦いは、「おまえがあの橋を渡ったときに起こるだろう。橋の向こう側になにがあるかって?そいつがわかるのもおまえだけだ」
力と世界を止めることについての談義は続きます。

「橋」のイメージはシリーズ後半でも登場しますのでここに記しておきます。(pending)

霧に囲まれるのを待って、二人は逃げるように山を下ります。

2016年9月20日火曜日

旅12 力の戦い(1)

短くしようとしているのに、ついつい章を二つに分割するハメになりがちですいません。
ま、酔狂な方しか読まないと思うので大丈夫でしょうね。

1961年12月28日、二人は「力を狩る」ために山へ旅に出ました。

そこでドン・ファンが恩師について語ります。
わしの恩師は(力の使い方を知っていたので)ただ誰かを見つめるだけで、そいつを死ぬほどの病気にすることもできた
わしの恩師は、激しい気性の人だった。その感覚を通して力をためたんだ

あたしたち一般人がイメージする通りのブルホ(呪術師)がナワール・フリアン(ドン・ファンの恩師)だったんですね。

ドン・ファンは旅の支度としてカルロスに「力の食料」を持たせます。
独特なシカの肉だそうです。これがあれば必要とあらば何カ月ももつと言います。

カルロスは、8月17日にもこの「力の肉」を食べていますので4カ月ぶりになります。

二人は風の向きに注意しながら進みます。
山の頂上に近い岩のバルコニーに着いて仮小屋のような覆いを作ります。ドン・ファンが教えるまでなにげなくノートをつけるように言われます。何事もなかったかのように振る舞うのが重要らしいのです。やがてドンファンがカルロスをつつきささやきます。

あの霧のかたまりにそって、目を前後に動かすんだ」彼が言った。「だが、直接見るんじゃないぞ。まばたきするだけで、焦点を霧に合わせちゃいかん」(体術)

いつものあの目ですな

しばらくすると霧の間に「橋」が見えます。
見とれているとドン・ファンに水をかけられて我に返ります。ぞっとするような長い鳥の鳴き声が聞こえます。

ドン・ファンがあの叫び声は鳥のものじゃないと言い、そこを去らなければならないと言います。ほうほうの体で平地まで逃げると、ドン・ファンにそこにあるほら穴に逃げ込むよう言われます。その後、稲妻の大軍に襲われます。

カルロスが目ざめると(12月29日)、一晩ほら穴にいたと思っていたのが密生したヤブの中だったとわかり驚愕します。

この後、カルロスが必死にノートをとる場面がありますが、山の中の雨に振られても大丈夫なのでしょうか?どこにノートを仕舞って歩いていたのでしょうか?

持ち物といえば、ドン・ファンとカルロスはこうしたフィールド・トリップ(遠足)に出向くとき、ヒョウタンに食料(この場合は、シカの肉)や水を入れたヒョウタンを持ち歩きます。

原文ではヒョウタンはgourdというそうです。

水を入れるのはわかりますが、ヒョウタンにどうやって肉を入れるのだろう?と不思議に思ったので調べてみました。

いろんな形状のものがあるようですが、文中にもときどき出てくるように腰にぶら下げるためには、やはりあたしたちがまっさきに思い浮かべる中がくびれている形のものでないと按配が悪いのではないかなと思います。

干し肉だから細く切ってあるとは思いますが、液体なら「栓」でいいと思いますが、蓋はどうなっているのでしょうか?まさか「おみくじ」みたいに振って取り出すわけもないし。

2016年9月19日月曜日

旅11 戦士の気持(2)

続く、1961年9月3日の日誌です。

山でアメリカライオン(ピューマ(クーガ))で恐怖の体験をしたカルロスは猛獣との遭遇について反芻をしています。

Panthera atrox.jpgそういえば、アメリカライオンと単純に検索すると何十万年も昔に生息していた古代のライオンが引っかかってきました。

日本語版の翻訳としては、ピューマにしておけばよかったのかなと思います。

カルロスは、もしかしてドン・ファンに一杯くわされたのではないかと疑っています。

あれは本当は、クーガじゃなくてドン・ファンが動物のフリをしてたのでは?とか。はたまたもっと小型の生き物におびえただけだったのでは?とか。

実際にドン・ファンがカルロスをだました強烈な「ワナ」だった「ラ・カタリーナ事件」が起きるのは1962年のことですから、この時点でのカルロスの疑念は前にもやられたからなではなく自然な発露によるものです。

カルロスの疑いを聞き、ドン・ファンはアメリカライオンの実在性にこだわる必要はなく、その時、自分を捨ててコントロールし恐ろしさが自分を戦士の気持ちにしたということが重要だと言います。
(じゃ、やっぱり脅かされただけかも)

戦士は、傷つけられることはあっても、感情を害されることはない」とドン・ファンが言います。
戦士は、ちゃんとした気持ちで行動しているかぎり、まわりの人間のすることに侮辱的なことなどなにもありはせん

たとえ騙されていてもドン・ファンは深いです。

ところで、この日、カルロスがドン・ファンの家で起きるとドン・ファンは家にいませんでした。戻ってきたドン・ファンと一緒にお昼を食べます。

実は、『教え』ではこの同日の午後、ドン・ファンは午後、カルロスを伴ってダツラの採集にでかけます。(教え66)
上記の会話はお昼時ですから、その後、でかけたのですね。見事な整合性です。

余談ですが、若い男をつぎつぎと餌食にする中年女性のことを英語でクーガといいますな。
「アメリカライオン」っていうより雰囲気が伝わりますね。

英語の俗語辞典のUrban Dictionaryにリンクを張っておきます。

2016年9月18日日曜日

旅11 戦士の気持(1)

1961年8月31日到着するとすぐに「力の場所」まで急ごうといわれます。

家から100キロあまり南の方へ、そこから東へ向きをかえて山の傾斜地へ。それから広大な荒地を歩いて低い丘の頂上を目指して一泊します。

日付は、9月1日に変わり、東への旅を続け、絶壁につきます。
そこが「力の場所」で昔、戦士たちが埋葬されたところだといわれます。

絶壁に登ると真下に自然にできた丸い石の輪で囲まれてる場所がそこであることがわかります。
大昔から、円というのはなにか神秘的なものがあったのでしょうね。自然であれ、人工的なストーンサークルであれ世界中に存在するわけですな。

ところで戦士たちは埋葬されてませんが千葉県の行田って知ってます? 



円形が完全なほど力が強いそうです。行田めちゃ強いですな。

ドン・ファンいわく「埋葬された」というのは言葉通りの墓地という意味ではなく、戦士たちがそこに身を隠したということだそうです。

当初、ドン・ファンはその場所でカルロスに一晩過ごさせようと思っていましたがカラスの予兆から今回は見送ることにします。
その代わりほんの少しのあいだだけ隠してみることにします。お試し入会ですね。

そこで過ごす間、動物に襲われることはないのか?と尋ねますが戦士は、不屈の目的でやっとるんだから、ネズミも、ヘビも、アメリカライオンも、そいつのじゃやまはできないといいます。(旅161)

こんな理由ではデミルはナットクしないかもです。(pending)

力の場所での内省の結果、泣き出してしまったカルロスを手作りのかごから引っ張り出すとドン・ファンが歌をうたいます。

ここではドン・ファンの歌の歌詞が記されています。
またまたデミルの批判の中に、カルロスがインディアンの歌を具体的に示してないと指摘があるのでここにメモを残しておきます。(pending)

ドン・ファンがカルロスに夢のコントロールの進み具合をたずねます。
自分の手を見ることから始めつづく段階へ進むための細かい指導をしますが、割愛します。

夢のコントロールの目的がわからずイライラするカルロスの頭をドン・ファンが動かします。
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彼は片手でわたしのあごを、もう一方の手でわたしの後頭部をおさえ、わたしの頭を前後に動かした。首の筋肉はひどくこっていたが、そうして頭を動かすと、こりもひいていった。(体術)(旅168)
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ドン・ファン流の整体ですね。

ふたりはその場所を立ち去り、次についた場所でアメリカライオンを狩るためのワナの作り方についての講義がはじまります。

ドン・ファンは囮にするためのリスのようなネズミを捕まえてアメリカライオンを待ちつづけると本当に獣が現れます。

それがアメリカライオンなのか他の動物なのか、カルロスは怯えきってしまいます。

ところでアメリカライオンってなんだ?

Cougar range map 2010.png
赤が生息地
橙が絶滅した場所
原文ではmountain lionとなっています。
調べてみたところピューマのことだそうです。といってピューマがなんだか知ってるのかと言われてもそちらも知識がないのであらためて調べてみますと英語版ウィキペディアには「ピューマ(puma)」の項目がなくて「クーガ(cougar)」で立っています。
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クーガ (Puma concolor)は、マウンテンライオン(mountain lion)、ピューマ(puma),パンサー(panther)、カタマウント(catamount)などの名前でも知られている。
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数が少なくなっていて絶滅している場所も多く保護活動が行われているそうですが、ドン・ファンたちが狩りをしてたからですな。


2016年9月17日土曜日

旅10 力が自分に近づきやすくなること(2)

1961年8月19日の日誌ですが、前日の8月18日のことを記しています。

ややこしいですが『教え』の方では20日の日誌に19日の夜、ドン・ファンと話した弟子の心得や盟友についての話題が記されています。連泊しているわけです。

その18日の朝、ドン・ファンを車に乗せて町のレストランに行って食事をします。ドン・ファンが暮らしている農村は、町からそれほど遠いところではないということがわかります。

その後、再び峡谷にいき大声で話しながら精霊を誘い出そうとします。
ここが力の場所だから、ここでは力についてだけ話そうといい説明をはじめます。
ドン・ファン・シリーズには『力の話』というタイトルの本がありますので説明の整合性については後の課題としておきます。

次にドン・ファンは力への第一歩として『夢を使う』方法を教えてやるといいます。

今夜、おまえは夢のなかで自分の両手をみつめねばならん」(体術)

これはドン・ファン・ファンならよく知られている夢見の初歩の初歩ですが、カルロスは、実はこの時、ドン・ファンに本当は「自分のペニスを見るように」言われたのだが出版社にやめさせられたのだとエイミー(後の恋人)に言っています。(Amy78)

しかし、これはエイミーを虎視眈々と狙っている(女たらしって意味の)ドン・ファンのカルロスですから少しずつ卑猥なフレーズで彼女を慣らしていくためのジョークだと思います。
なぜなら夢の中では裸でいるとは限りませんし、来ている服を脱ぐのであれば初心者向けのテクニックではありえないと思うからです。

実際に話を『旅』に戻しますとドン・ファン自身が「もちろん、なんだっておまえの好きなものが見られる―つま先とか、腹とか、ちんぽこ(pecker)とか、その点ではな。わしが両手と言ったのは、それがわしには一番見やすいからだ」(旅149)

でしょ?

ところで『コンシャス・ドリーミング』という本の中で著者のロバート・モスは、ドン・ファンの夢のコントロールテクニックについて夢の自律性を損なうといった観点で批判しています。(「夢見」について少し知識を得ようと一冊買ってみたところ記載があったのでコメントしておきます)(pending)

この後、夢見の入門テクニックがドン・ファンの口から語られていますので興味のある方は本編をご覧ください。

夕暮れになり再び歩き始めた二人。途中、ドン・ファンが何かの予兆に合うごとに方角を変えて丘のそばにたどりつきます。

ドン・ファンが「あそこだ!」と声をおしころしていった先に見えたのは死にかけた不気味な動物の姿でした。(旅154)

この下りは猛烈に映像的で語り口も素晴らしくカルロスの体験談としては白眉と言えます。

その後動物の正体をつきとめて調子にのるカルロスですが、ドンファンは、それはカルロスの勝利ではなく、「すばらしい力、あの乾いた枝に命を吹きこんだ力をむだにしちまったんだ」と言います。
カルロス「にとっての勝利というのは、そのままにしておいて、世界がその存在を止めるまで力の後をついて行くことだったのだ」言いました。

あれは「本当の動物だったんだ。そして力がそれに触れた瞬間、そいつは生きとった。それに命を与えたのは力なんだから、そのコツは、”夢”の場合と同じように、その光景を持続させるってことだ。わかるか?

うろたえたり、興奮や恐れで混乱することなく、自制をきかせて必死に『世界を止める』努力をするべきだったのだ。
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カルロスが「世界を止める」ってどういうこと?
とたずねます。

ドン・ファンは、
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恐ろしい顔をして、それは力を狩る者が使うテクニックであり、それによってわたしたちが知っている世界を崩壊させるテクニックだ、と答えた。
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いよいよ、この巻の最重要課題である「世界を止めること(Stopping the World)」が登場しました。

この章に以下の描写があります。
場面は動物の正体がわかったあとドン・ファンがカルロスをすわらせて話そうとするところです。
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ドン・ファンが小枝を使って、凹地の底にたまった土をかき出した。
「ダニを追っぱらわにゃいかん」と、彼がいった。(旅155)
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またまたデミルの指摘に呼応する内容なのでメモしておきます。(pending)

2016年9月16日金曜日

旅10 力が自分に近づきやすくなること(1)

1961年8月17日、カルロスはドン・ファンのところにつくやいなや気分が悪いといいました。
すわれ、すわれ」とやさしくポーチに連れていき、ニコっとしてカルロスの背中をたたきました。

ドン・ファンやドン・ヘナロがカルロスの背中を叩くたびに「高められた意識状態」の関係を確認したいと思いこうしてコメントを差し挟んでいるわけですが、「高められ」た後、かなり長時間にわたる「活動」が行われていて、その間のことは通常の意識に戻っても忘れられているという設定ですので今回のように連続してドン・ファンとの通常状態の記録が書かれているときは「高められて」いないと推測されます。――高められた状態が本当にあるとしたらですが。

さて、カルロスが具合が悪いのは、去る8月4日に初めて体験したペヨーテの副作用です。(犬と戯れた話)
車にノートを忘れたので代わりにドン・ファンがブリーフケースを持ってきてくれましたが、手にものをもって歩いてはだめだと注意します。

カルロスは、自分はいつも三つ揃いのスーツを着ているので、その格好でナップザックを背負って歩くなんてとんでもない格好だとさからいます。
いま(2016年)だとスーツにリュックなんて見慣れた光景ですが、たしかに1961年では考えられないことですよね。時代を感じます。

追記2017/5/30)今、Margaret Castanedaの『A Magical Journey with Carlos Castaneda』を少しずつ読み進めています。その中で、カルロスが三つ揃えのスーツを欲しがって、三年待ってようやく契約にこぎつけた『ドン・ファンの教え』で入った金でスーツを買うエピソードがあります。この契約は1967年の出来事です。
1961年には三つ揃えのスーツを持っていなかったのでカルロスは欲しかったのです。
自分の夢を著書に書いたのでしょうか?

先のペヨーテ体験の結果、メスカリトがインディアンでないカルロスを受け入れたことでドン・ファンはとまどいを覚えましたが、自分が師から受け継いだ秘密の知を伝えることにしたといいます。(旅137)

これまでドン・ファンが狩りを教えてきたように戦士になる方法を教えようと思ってるといいます。(旅138)
カルロスは、ペヨーテの副作用のためかひどい夢・悪夢に悩まされていると訴えます。
カルロスが悪夢をとめる方法はないのか?とたずねると、

「ないな、放っておけ」
「もう、力に近づけるようになるべき時期だな。まず”夢を見ること(dreaming)”とわたり合うことからはじめるんだ」(旅139)

ここでドン・ファンが夢見について語り始めます。
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戦士は、力を探すんだ。力へたどりつくための道のひとつが、”夢を見ること”なのさ。
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”力”のせいでカルロスがメスカリトとふざけあうことになったし、バスの停留所(depot)でカルロスと出会ったことも”力”の導きだったといいます。
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道化(clown)がおまえをわしのところへ連れてきたんだ。おまえを示した道化、完璧なまえぶれだ。
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ビルは、道化呼ばわりです。
デミルは、カルロスがビルのフルネームを明かさないことを責めていますが、あたしだってハチ公の本名明かさないですよ。(pending)

戦士は夢を現実として扱うのだそうです。

そんなのは変だという議論をしながらカルロスはドン・ファンがこしらえてくれたトウモロコシのおかゆ(corn gruel)を食べます。
「現実」とはこういうことだよ、と示したいがためにカルロスが言います、
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「いまこうしていることを、なんて言う?」
「食う、というな」と言って、彼は笑いをこらえた。
「ぼくは現実と呼ぶよ」
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おれはそれをうつつというね。(みうらじゅん嘘)
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食後、散歩に出て「力の場所へ行くんだ」と言われます。
カルロスが逡巡していると、
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「さあ、来るんだ。バカげた恐れに甘えとるだけだ」彼は、私の背中をたたき、
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やさしくニッコリします。
「背中をたたいた」のでこちらも一応メモっておきます。(旅142)

谷の奥につくと大きな岩の上に座らされ乾燥肉を渡された。
それは「力の肉」だといいます。

何時間もそこで過ごして、ドン・ファンが変な行動をとるので不審に思うと、そこが「特別な水たまり」でそこの力に近づけるように自分たちの存在を知らせるようにしたのだといいます。(旅144)

水たまりと言われても、そこには水などないが、ドン・ファンはここには水があり、力もある、ここにいる精霊を誘い出さねばならない、と言います。

この水たまりは、おそらく『分離』の「水たまりの精霊」の場所です。
そのエピソードでは、1969年6月29日の話でドン・ファンがスピリットキャッチゃーを使って精霊を呼び出します。
なんと、今回のエピソードから8年も経ったあとの話です。

2016年9月15日木曜日

旅9 地球上で最後の戦い

1961年7月24日の日誌です。
ドン・ファンは、カルロスが狩りのことは大分覚えてきたが、もっと変わらなければならないと言われます。
そしてカルロスを鍛える「戦術を変えることにしたよ」と言います。
いい狩人は必要なだけやり方を変えるのさ
といって話を続けます。

このフレーズは、ちょっとわかりにくいですが日付を再確認すると、この後にペヨーテを服用するので幻覚性植物を使うことにしたということだということがわかります。

カルロスが「自分の命が永遠に続くとおもっとる」 だが、実際には時間がない。誰にも時間がない「これが、地上での最後の戦いだと」思って生活様式を変えなくてはならないと言います。その変化は少しずつ起こるのではなく突然ガラっとひっくりかえる変化なのだと言います。

カルロスができる限り幸せに生きたいというと、どのような連中が幸せに生きているか知ってるか聞かれます。

「わしは知っとるぞ」
「自分の行いの本質にとても注意深い連中がいる。彼らの幸福ってのは、時間がないということを十分知ったうえで行動することなんだ」

なるほど、あたしは戦士でも知者でもありませんが時間がないということだけは知ってるからまぁ幸福なのかもしれませんな。

カルロスの死に対する意識を変えさせるためにドン・ファンはカルロスに捕まえさせたウサギを殺すように言います。
ためらうカルロスに言います。

このウサギの命は終わったんだ」(旅133)

なかなか決心がつかず自棄になりウサギを逃がそうとカゴを壊したら中のウサギが死んでいてショックをうけるカルロス。

このエピソードで一件、ノドまで出かかっているのに出てこない話があります。
本なのかテレビ番組なのか、ある人が子供のころ妹が飼っているウサギの小屋を修理?しようとしてウサギを中に入れたまま釘を打ち付けたらウサギが死んでしまったという話です。なんとなく大槻ケンヂさんだったような気がするのですが勘違いだったら大変もうしわけありません。

ドン・ファンが伝えます。

あのウサギには、おまえのワナが地上最後の戦いだったんだ。言ったろう。このすばらしい荒地をさまよい歩く時間が、やつにはもうなかったのさ

毎日が最後の戦いかもですな。

2016年9月14日水曜日

旅8 生活の型をこわす

1961年7月16日は、一日中太ったリスのような齧歯類の動物を見て過ごしたそうです。

デミルも書いていますが、意図してか、出版のなりゆきかカスタネダは、時間軸を前後させてエピソードを書くので読者の事象把握の感覚がマヒしてしまう傾向にあります。

シリーズも三巻目なので読者はドン・ファンの語り口や彼らの修行パターンに慣れてきて「だいぶ後のエピソードなんだなぁ」とついつい考えてしまいますが、この「リスのような齧歯類」を見て過ごしたのは弟子になってまだ日が浅い時期でカルロスはペヨーテも未体験です。

さてこの齧歯類のことをドン・ファンは「水ネズミ(water rats)」と呼んでいたそうです。
第一印象では続く、水ネズミの行動様式から「プレーリードッグ」のことを言っているのかなと思いまして。でも、その場合、ドン・ファンはさすがに「水」ネズミとは言わないのではないでしょうか?

最初、日本語でGoogったのですが、みなさんはやめておくことをおすすめします。
捕まえたネズミを水に・・・の画像が山ほど出てきます。
英語でGoogるのは大丈夫です。

このネズミの正式な名前を明かしていないのをまたまたデミルは非難していますが齧歯類は非常に種類が多いので結構むずかしそうですね。
ま、文化人類学者なら標本を捕まえて種類を明らかにしろというところなのかもしれませんが、生物学者じゃないですからね。

Muskrat Foraging.JPGさて、英語でwater ratをひくとまっさきにマスクラット(Muskrat)がかかってきました。たしかに太ったリスでビーバーに似ています。しかし、ドン・ファンたちの活動の中心はアリゾナやソノラの砂漠地帯ですよね、水と縁の深いネズミがいますかね?
でもドン・ファンの家の裏手には農地によくある灌漑用水路があるので水もあるにはある地域です。

マスクラットの生態を英語版WIKIでひもとくと「マスクラットは、北米カナダ、米国そしてメキシコの北部の一部の地方にいる」と書いてあります。
ここではマスカラットにしておきましょう。


検索作業の流れで素晴らしい本を見つけました。
A Field Guide to Mammals of North America, North of Mexico
(北アメリカ、北メキシコの哺乳類現地調査図鑑)

まさにあたしたちのための本じゃないですか。
これを買えば水ネズミの正体がわかるかもしれません。がんばってください。

ドン・ファンはワナのしかけかたを教えていましたが。お昼のサイレンのまねなどを突然はじめてカルロスをからかいます。
生活のきまりきった型にしばられているカルロスに型をこわすジェスチャーしたのでしょうね。

決まりきった生活パターンで過ごすと狩人ではなくて逆に狩られる獲物のようだといいます。

シカは、生活にきまった型を持たないので出会うことがとてもむずかしい生き物だそうです。ドン・ファンは不思議なシカに出会ったときの話をします。(旅119)

不思議なシカに追われるのが怖くなりドン・ファンは逆立ちをしてしくしく泣いていたらシカに話しかけられたというのです。
もちろんカルロスは信じません。万城目学は信じると思います。

でも、鹿に追われるのって怖いものなんですか?その不思議な鹿が怖かっただけなのかもしれませんが。この理不尽な感じってかえってリアルな印象を持ちます。

この章でドン・ファンの容姿に関するコメントがありますので記しておきます。
ドン・ファンが「水ねずみ」の様子をまねたのが可笑しかったときの話です。
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ドン・ファンの容姿で頭が丸くてプレーリードッグに似ていることがわかった。(旅117)
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え?!やっぱりプレーリードッグだったのかな?


2016年9月13日火曜日

旅7 近づき難いこと(2)

ドン・ファンは、カルロスがいつも知らず知らずのうちに自分を手近(available)においている、それをやめなければいけないといいます。

この章のタイトル「近づき難いこと」は原文ではBeing Inaccessibleです。
英語だとスっとわかるのですが日本語にするといきなりわかりにくくなりますよね。
同じく、「手近」もavailableでしてこちらはもっと日本語の文脈になじまない言葉です。
かといってカタカナ語にもなりにくいし。

カルロスは、ちゃんと言われているとおりに、自分の生活がどんどん秘密の生活になりつつあると反論します。
しかしドン・ファンは秘密というのでなく「近づき難く(inaccessible)」なることだと言います。
おまえがかくれとるのをみんなが知っとったら、かくれたってちがいはあるまい

なるほど。

ひと付き合いの話の流れからいきなりグサっときます。
おまえのブロンドの友だちはどうしちまったんだ?おまえががほんとに好きだったあの娘(こ)だよ

なぜ知ってるのだとカルロスは驚きます。
ドン・ファンはカルロスが自分で話したといいますが、記憶にありません。

以前、おまえには女、それもひどく大事な女がいた。しかし、あるとき、彼女を失ってしまったんだ」(旅107)

彼女が去ってしまったのは、カルロスが自分をあまり手近に置きすぎたのだといいます。
「だれもがおまえら二人のことを知っとったな」
「それが悪いのかい?」
「そうとも、致命的だ。彼女はすばらしい人だった」

要するに自分を「近づき難く」して「控えめに会えば」失わずにすんだと。
来る日も来る日も、べったりいっしょにいた」からだそうです。
そんなもんですかねぇ。
そうか!! だから結婚って致命的なんですね(笑)

ところでこの女性は誰でしょう?

この時期(1961年)であたしたちが知っているカルロス関連の女性といいますとだれでしょう?
後にカルロスの仲間になる「魔女(フロリンダ・ドナー、タイシャ・エイブラー、キャロル・ティッグス)」やAmy Wallaceとはまだ知り合っていません。

あたしたちが知っているそれらしい女性は二人。

1)カスタネダの妻、マーガレット・カスタネダ
2)ペルー時代の婚約者(※本邦初出です。出典はAmy Wallaceの著書です。いずれ)

Googleで検索するとマーガレットは、ブロンドではありません。そしてペルー時代の婚約者は画像がないので残念ながら知ることはできません。おそらく現在もスイス在住のCharoというその相手の娘さんはまだ存命でしょうから財力と根性と誠意があれば調べることができるでしょう。

たとえばあたしがカルロスでその女性のことをぼやかして書くとすると、あえてブロンドでない女性でも文中のドン・ファンに「ブロンド」と言わせることがあると思います。

そこで仮にその女性がマーガレットとしますと、彼女とカスタネダは1960年の1月に結婚。なんとその年の7月には別れてしまいます。(正式な離婚は、1973年の12月17日です)(Maya217)
この記録によると実質的な別れは1960年の7月ですから、本エピソードが起きた1961年6月29日には”悔やんでいる”かもしれません。

マーガレットの自伝『A Magical Journey with Carlos Castaneda』(Maya)は、未読ですのでカルロスがそれほど惚れ込んで別れたことをくやんでいるのかは現時点のあたしは知りません。(pending)

いずれにせよ、カルロスはあなたやあたしレベルでは太刀打ちできない部類の女好きですからこれ以上の詮索は時間の無駄かもしれません。

ちなみに(2)の女性の娘、Charoさんの父親はカルロスです・・・・

いきなり俗っぽくなったのでドン・ファンの言葉に戻ります。

近づき難くなるってことは、まわりの世界に控えめに触れるってことだ

ほんとにいいこというなぁ。
ちなみに、ここでもカルロスの背中に軽く触れる場面がありますが、叩きません。

カルロスが人付き合いをしつつ近づき難くなんてなれるわけない矛盾だというと、わかっとらんと一蹴されます。

そいつが近づき難いのは、自分の世界を調子が狂うほど無理強いせんからだ。それに軽く触れ、必要なだけ留まり、やがて気づくこともできんほどの速さで去って行くのさ」(旅111)

2016年9月12日月曜日

旅7 近づき難いこと(1)

1961年6月29日。

この一週間ちかく、ドン・ファンに動物の行動について教わってきたとあります。

これは『教え』の方ではカルロスの「最良の場所」事件の後の話ということです。

「うずら」(quails)の捕獲と料理に関する薀蓄はじめドン・ファンの自然に対する接し方についての話から宇宙にはいろいろな姿があるといった話になります。

この世に、おまえが考えとる世界しかないなぞとどうして言える?だれがそんなことを言う権威をおまえに授けてくれたんだ?
「この世界が別なふうに存在するという証拠がないもの」とわたしは言い返した。

この時点では、メスカリトとも会っていませんし、カルロスはこの後、いやというほど不思議な体験をしますが、いつまでたっても納得しないところがありまして、ドン・ファンもいいますが頑固者です。

ドン・ファンはカルロスを丘の上に連れていき、「風」にまるで意志があるかのような現象を体験させます。風のなかにかくれていてぐるぐるまわるうずまきや、雲や、霧や、顔みたいなものを見させようとします。

「自分で考えているようにしか世界はありえないなどと信じこむのは、まったく愚かだ」と彼が言った。「世界は神秘だ。とくに夕暮れどきはな
彼はあごで、風の方向を示した。「こいつは、わしらについてくることもできる。わしらをくたくたにすることも、殺すことさえできるだろう」
「あの風が?」
「今ごろ、つまり夕暮れにはな、風なぞないんだよ。あるのは力だけだ」

1961年6月30日(旅103)

昨日の「風」がカルロスを狙っているということで家にこもっていました。
ドンファンが『強情な風』といったように擬人化した表現を使うことに強い違和感を持つカルロスですが、あたしはわかります。(「怒っている風」)

狩人は夕暮れと、風にかくれている力を利用し、その力が狩人を庇護の下おくといいます。
その庇護は、マユみたいに狩人を密封するのだそうです。

だから「狩人は原野にだって寝ていられる。しかも、ピューマやコヨーテやかぶと虫(slimy bug)だって、そのじゃまはできんのだ」(旅105)

かぶと虫は、原文では上記のようにスライミーバグですからぬらぬらしたムシです。とにかくなぜドン・ファンたちが屋外にいるそうしたものたちに煩わされないのか説明(?)されています。(pending)

2016年9月11日日曜日

旅6 狩人になる(2)

荒野の散策途中、ガラガラ蛇を一匹捕まえてさばいて食べたそうです。

ドン・ファンは、ヘビを殺すとき謝る。ヘビも自分たちも平等だといいます。
生き物を殺生して自分が生きる際に、感謝するというのは世界中共通の作法ですね。
これは、ドン・ファンに限らずけっこう知られている考え方なのでカルロスが他の宗教や民族を引き合いに出して語らないのは文化人類学の研究者としては不思議な感じがします。

動物を殺して料理したので昔、カルロスのおじとおばが袋につめた鳥をなんでも『キジ』(pheasants)と呼んでいたことを話しました。

ドン・ファンはカルロスに狩人の才能があると言います。
自分の良い場所、悪い場所を簡単に見つけることができたのは「狩りのコツを知っとるということだ」そうです。

狩人談義の中で、ドン・ファンも人に教わって狩りのやりかたを学んだといいます。
カルロスはドン・ファンの先生に興味を持って突っ込みますが詳しく話してくれません。

ドン・ファンが狩人が男のなかでも最高だといったことを受けカルロスがいいます。
「ヤキ・インディアンは、狩人のことをそう感じてるの?そこが知りたいんだ」
「かならずしもそうじゃない」
「ピマ・インディアン(the Pima Indians)は?」
「ぜんぶがそうじゃないが、一部の連中はそうだ」

ピマの一族というのは、アリゾナ南部で暮らしているネイティブアメリカンの部族だそうです。

あたしは男のなかで最高なのは重量鳶だと思います。

さて、なぜドン・ファンは自分のためにこういうことをするのか尋ねるとドン・フアンは「おまえにジェスチャーをしとるんだよ」と言います。

「こういうこと」ってなんでしょう?自分が学びたい植物のことをストレートに教えてくれずに戦士になれとか狩人になれとか履歴を消せとか一連の作法や考え方を伝えて指導することを言っているのでしょう。
カルロスの父親の水泳のエピソードから推測すると、ドン・ファンのいう「ジェスチャー」は、日本語でいう”範を示している”と取っていいのかもしれません。

いきなりドン・ファンが「ええと・・・わしらは平等か」と聞きます。
ふいをつかれたカルロスでしたが「もちろん平等さ」と答えます。
実は内心は自分たち西洋文明人の方がインディアンよりいろいろ勝っていると思っています。

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「いいや、ちがう」彼は静かに言った。「わしらは平等じゃない」
「なぜ、ぜったいにそうだよ」わたしは言い返した。
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カルロスの否定は、心の内から考えますとドン・ファンを持ち上げて言っているわけですが・・・
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「ちがう」彼はやわらかい口調で言った。
「わしらは平等じゃない。わしは狩人だし戦士だが、お前は下郎(pimp)だからな」
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いきなりドーンっとガケから突き落とされます。

原文のpimpってのは「ポン引き」です。翻訳するとなると往生しますね。
ここではドン・ファンは人に仕えている者という意味で言っているようです。

あたしたちは、シリーズの中の殊勝な若者(実際は中年男性)のイメージに縛られていますが、実際のカスタネダは下郎というか、今後少しずつ書いていきますが、あなたやあたしたちより最低の下衆野郎です。

ドン・ファンは、まさにそれを言い当ててるわけですが、ドン・ファンが架空の存在とするとカスタネダは自身のことをわかって書いているってことですよね。

2016年9月10日土曜日

旅6 狩人になる(1)

1961年6月23日の日誌です。

カルロスがペヨーテのことを教えてくれとせがんだ際、ドン・ファンがはじめてメスカリトという言葉を使ったそうです。

この日は、実は『教え』で、ドン・ファンの家で自分の最良の場所を探させられた日です。

『教え』でこのエピソードが記されたのは6月25日の日曜日の「日誌」でして、そこに「金曜日」の事件として書いてあったので「最良の場所」の日は23日のことだろうとあたしは推測して自分の「ドン・ファン年表」に記してありました。

この『旅』に至って、その推測が正しかったこと(大したことではありませんが)がわかりました。
虚構だとしてもこの時間的整合性のとり方は感心します。

そして翌日の日誌(1961年6月24日)ですが、二人が荒野散歩に出ますと荒れ野で「良い」場所と「悪い」場所を見つけるのは重要だとドン・ファンに言われます。

この本(『旅』)の1961年6月23日の日誌部分では、一切、「良い場所」、「悪い場所」について言及していないのに『教え』で書かれた「最良の場所」とシームレスに話がつながっているわけです。
こうして熟読する前は適当に流していた内容ですが、あらためて見事だと思います。

このあたりは本当に「インフォーマント(ドン・ファン相当の人間)」が存在し実際に「記録」をとっていたのではないかと思います。

ドン・ファンは、「カラスが予兆を示したとき」カルロスが怒りっぽかったのはあそこが悪い場所だったからで、カラスが悪い場所を教えてくれたのだと言います。
この話は、『旅』の42ページ、1960年12月28日のエピソードのことを言っています。
(このブログでは上記のリンク先「旅3 自尊心をなくす」にさらっと書いてあります。)

「悪い場所」に限らず、カルロスはシリーズを通して結構、師匠のドン・ファンに対してすぐ感情的になって怒りを表すことが多いようです。「ドン・ファンシリーズ」が大ヒットしていた時に、あるジャーナリストがなんでドン・ファンは、こんなバカ(カルロス)を弟子にしないで自分に声をかけてくれなかったのかと嘆いたといいますが同感です。(Amy 7。Adam Blockのエピソード)

あたし自身があまり怒りをあらわさない質なので、ラ・カタリーナの事件以外ではカルロスの怒りの場面があまりピンとこないなと思っていました。純朴な入門者のようなふるまいをしていながら、ちょっとした議論で簡単に怒りだします。

今回、Amy Wallaceの本でカルロス・カスタネダの実像を知るにいたり彼が非常に怒りっぽく、そして相手をコントロールする際に怒りを利用することを知りました。(エイミーの本は途中です)

この『旅』の20ページには、カルロスがかなり強引な性格であることがわかるくだりがあります。以前は完全にスルーしていました。ドン・ファンにインフォーマントになってもらおうと交渉した際、いとも簡単に負かされてしまったという話の流れです。
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わたしが人類学の研究を始め、こうしてドン・ファンに会ったときには、すでに『取り入る』術をすっかり心得ていたのだ。(中略)なにかを断られるといつもうまくまるめこんだり、ゆずったり、議論したり、怒ったりした。そしてどれもうまくいかないと、なきごとや不平を言ったりしたものだった。
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ところが、ドン・ファンには通じなかった、と。
エイミーの本を読んだいまこのカルロスの性格描写の意味がはっきりわかりました。正直に書いてあったのですね。

ところでカルロスの砂漠生活の中で、虫に煩わされる描写がないのは不自然だという指摘があります。デミルの指摘だと思いますが、いまその個所を見つかられないのでペンディングとしておきますが、下記のような記述があります。(pending)
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その日は暖かく、ハエがたくさんわたしのまわりをとびまわってとてもうるさかったが、ドン・ファンをうるさがらせている様子はなかった。彼がただ気にせずにいるだけかな、とも思ったが、彼の顔にはぜんぜんとまっていないことがわかった。(旅82)
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そして、ドン・ファンが「良い場所」を見つける方法を伝授します。

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休むのにふさわしい場所を見つけるためには、ただ目を一方の端から他方へ動かせばいいのだ。(旅82)(体術)
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両目で、少しずつ、同じ像を別々に見るようにしてゆくというものであった。見ている像を変えるということをしないので、世界を二重に知覚することになる。この二重の知覚は、ドン・ファンによれば、ふつうでは気づくことのない周囲の変化を判断するチャンスを与えてくれるのだ。(体術)
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その目をつかって良い場所を探してみろと言われ、たまたま坐った場所が「悪い場所」だったのでドン・ファンが猛スピードでカルロスをその場所からひきずる場面があります。
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そのとき、彼が全力をふりしぼったということが見てとれた。彼はわたしの背中を軽くたたいて、わたしが選んだのは悪い場所で、すわっていた場所がいまにもわたしの感覚を支配してしまいそうなのを見て、大急ぎで助けだしたのだ、と言った。(旅85)
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背中をたたいていますな。

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ものを二つに見ることを学んだら、次は、二つの像のあいだの部分い注意を集中させなければいかん。その部分ではだな、目をみはるような変化が起こるだろうよ。(旅86)(体術)
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試した人、世界にどれくらいいるのでしょうか。

2016年9月9日金曜日

旅5 責任をもつこと

1961年4月11日の日誌は、二日前の4月9日の早朝訪問から始まります。

三か月間、ドン・ファンを訪れてなくその間、白タカのことが頭を離れなかったそうです。

こうした訪問時期を自分のドン・ファン年表を埋めてみますと確かに、『ドン・ファンの教え』で空白になっていた時間が埋まっていくのが不思議です。
虚構に満ちたドン・ファンの語りの中からわずかな真実が浮き上がってくるような気がします。

ドン・ファンにさっそく、最初にノガレスで出会ったときの神秘的な視線や自分しか知らないはずの白タカの話を指摘したこと。自分に見えた影が死であるといった神秘的なことなど一連の不思議なことを挙げて自分にいったい何をしたのだ?と聞きます。

ドン・ファンに説明を求めるといつも少しだけ論点をずらされてけむにまかれてしまいます。

おまえの悪いところは自分のしとることに責任をもちたがらんことだ

責任にかんする話題への導入としてカルロスと父親の関係に話題が移ります。(旅70)

カルロスの父親は肉体を鍛えることが健康な身体が重要だといつも説いていたそうです。
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わたしが八歳のとき、彼はまだたったの27歳だったのだ。だいたい夏になるときまって街(そこの学校で教えていた)から戻り、少なくとも1カ月はわたしの住んでいた祖父母の農場で過ごしたものだった。わたしにとっては耐えがたいひと月だった。
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既報の通り、この父親の話は作り話ですね。またタイム誌へのインタビューでは、彼の父親が17歳の時にカルロスが生まれたと言っていますので上記の父親の年齢とも齟齬があります。

帰省したカルロスの父親は、毎朝六時に水泳に行こうと決めておこすくせに、いつもなんだかんだ理由をつけては中止し10時まで二度寝してしまう。毎朝、この儀式を繰り返し、最後はカルロスが目覚ましのセットをこばんで彼の気分を害するという繰り返しだったと。

自分の父は弱く、一度も理想のために実行することができなかったというとドン・ファンは父親が実行できなかったのならカルロスがやるべきだったと言いました。
それはカルロスが自分の決断に責任をもたないから、いつも不平ばかり言っているのだというのです。
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自分の決断に責任をもつってことはだな、そのためになら死んでもいいという覚悟ができとるってことだ。
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そんなバカげたことのために喜んで死ぬものはいない、と反論しようとすると
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どんなことだってほかのことより重大だとか、そうでないとかいうことはないんだからな。死が狩人であるような世界では、決断に大小なぞないんだ。避けられない死の面前でする決断しかないんだよ(旅74)
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なぜこんなこと話をするのか?と尋ねると、ドン・ファンはおまえに”ジェスチャー”をやったといいます。これはドン・ファンの新たな「呪術用語」でしょうか?
続く章でも登場します。なんとなく、「ある行為をしかけて影響を及ぼす」みたいにとれます。
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おまえだっておやじさんのために泳げば彼にジェスチャーができたのに。(旅75)
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これは、カルロスが自分で行動を起こせば父親に「影響」を及ぼせたということではないかと。それがカルロスがとるべき責任だったということでしょう。

午後に散歩に出ます。
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彼は歩きながら話をするのをいやがるということに気づいた。わたしが話しかけると、それに答えるためにいつも立ち止まるのだった。(旅75)(体術)
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B.B.キングも歌う時はギターから手をはなしてますな。

ドン・ファンはそこでカルロスにインディアンの逸話を語って聞かせます。
ある若者がそれと知らず呪術師の老人と出合い、自分の決断に責任をもたなかったことにより自分の行動の結果に不満しか持てなかったという舌切り雀系の話です。

2016年9月8日木曜日

旅4 死はアドバイザーである

1961年1月25日の日誌です。

カルロスは、ドン・ファンに友達関係を切り離せと言われます。例の「履歴を消す」話ですな。

この後、ドン・ファンが奇妙な目つきでカルロスを見つめます。
ドン・ファンの目が鷹の目に見え、しまいにはドン・ファンの姿がタカに見えます。
そのことをカルロスが告げると、ドン・ファンは、「鳥さ、すごくおかしな鳥だ」といいます。(旅54)

カルロスは少年のころ、よくタカを狩ったそうです。カルロスの祖父はレグホンの養鶏場をもっていたので少年時代、ニワトリを襲うタカを退治する役目を仰せつかっていたのだそうです。

もちろんドン・ファンがそんなことを知るわけないですが、いきなり「妙なタカ」のことを話せといいだします。

そして突然「白いタカ」のことを思い出します。とても賢いタカでカルロスはきりきりまいさせられますが、ある日今なら撃てるチャンスが訪れますがカルロスは引き金を引きませんでした。(旅59)

シートン動物記の『狼王ロボ』と映画『ディアハンター』を思い出すエピソードです。


ドン・ファンは、白いタカを撃たなかったのは、おまえの死がちょっと警告をあたえたのさと言います。

興が乗ってきたところで水をさすようですが、このエピソードは「ボタン鼻の少年」のエピソードと同じく、おそらく作り話です。
カルロスの両親が若かったために祖父母の養鶏をしている農場に6歳まで預けられたというのは彼がタイム誌に語った偽の履歴です。

ところで「ボタン鼻の少年」のエピソードは、『分離したリアリティ』で先に読んでいる話ですが、登場の時間軸でいいますと、この白いタカが61年。「子供のころの約束」の方は69年4月のエピソードです。
『分離したリアリティ』と『イクストランへの旅』の出版の時期は三年ほどなのでまぁつじつまを合わせやすいとは思いますが、とにかくカルロスの話の整合性の取り方は見事です。

ドン・ファンは言います。
「死はわしらの永遠の仲間だ」
「それはいつでもわしらの左側、腕をのばせばとどくようなところにいるんだ。おまえが白タカを見はっているとき、それはおまえを見はっていただんだ。それが耳元でささやいたとき、今日みたいに、その寒気を感じたのさ。それはいままでずっとおまえを見はっていたし、おまえをぽんとたたく日までずっとそうだろう」(旅61)

死はこのシリーズの核心となるテーマですね。少し前にアップした「死とのカーチェイス」のエピソードは1968年6月10日ですので、これまた出版順序とエピソードの登場が入れ替わっていて不思議な感じがします。

「がまんできないときは」
「左を向いて自分の死にアドバイスを求めるんだ。(中略、そうすれば)山ほどのとるに足らんことなどすぐに切り捨てられる」

真理ですな。

追記)日本語版のこの章で「タカ」となっている原文はfalconです。
著者のカスタネダが厳密に鳥の種別を区別していたかはわかりませんが、一応「ハヤブサ」が正しいかもしれません。
ハヤブサとタカ(ワシ)は生物の分類で違うそうで前者が「ハヤブサ目ハヤブサ科」、後者が「タカ目」だそうです。

2016年9月7日水曜日

旅3 自尊心をなくす

ドン・ファンに引きあわせてくれた友人にドン・ファンとの近況を報告すると『その老インディアンはただの変人だ』といわれます。

この友人というのは例の「ビル」ですな。

そういわれても、ドン・ファンの言い分には腹がたつものの、後から落ち着いて考えてみれば自分の人格に対するコメントは図星だったと思い直し、もう一度訪ねることにしました。

それが1960年12月28日です。

行くとさっそくドン・ファンに散歩に誘われます。

ドン・ファンとカルロスの付き合いをみますと結構、歩き回りますね。ドン・ファンも自分は散歩が大好きだと言ってます。

「わしはたくさん歩くのが好きでな」(旅22)

どれくらい周りが自然なのか里なのか不明ですし、アリゾナの住まいなのか、ソノラの住まいなのかカルロスがぼやかして書いてあるのでわかりません。

さて、その散歩でドン・ファンがカルロスに『適切な歩き方』を教えてくれます。(旅41)
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歩いているときに道や周囲に注意を払えるように、指をかるく曲げていなければいけない。歩くときにはぜったいに手に何かを持っていてはいけないと言った。どうしても何かを持たなければいけないときは、ナップザックやショルダーバッグを使うべきだと言うのだ。
手を特別なかたちにしておくと、より多くのスタミナや注意力が得られるのだ。(体術)
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カルロスは、言われたとおりにしますが、注意力もスタミナも別にいつもと変わりはなかったと少し馬鹿にした気持ちになります。

途中、カラスを予兆だといったり、いきなり一陣の風をドン・ファンの発言に関する同意だといってまどわせるドン・ファンにイライラして腹を立てたカルロスに対し、お前は自尊心が高すぎる。
自尊心を捨てるようにいいます。

またまた人格攻撃されて腹の立つカルロスですが、ドン・ファンにへとへとになるほど歩かされると、さきほどの怒りをすっかり忘れているに気づいたカルロスが言います。

「ぼくはいったいどうなっているんだろう。あれほど怒っていたのに、なんで今は腹が立たないんだろう」
「わしらを囲む世界はとても神秘的なのさ。そう簡単にその秘密はわからんさ」

自尊心をなくすための練習だということで植物に話しかけるように言われます。

困惑するカルロスに言います。

「なにを話しかけるかってことは問題じゃない。ただなにか話しかければいいんだ。大事なのはそれが好きだという気持と、それを自分と平等に扱うということさ」

こんまりさん(”片付け”の人ね)と同じですね。

植物にあいさつをするやりとりはまさに西欧人が未開の文化に期待するアニミズムそのものですな。だから『片付けの魔法』もヒットしたのかもですね。

散歩から帰る行程で、不思議なことに「適切な歩き方」をしたらドン・ファンのすごいペースの歩き方についていけたと感心するカルロスでした。

「適切な歩き方」は簡単なのでやってみると効き目はどんなでしょうか?

2016年9月6日火曜日

旅2 履歴を消す

1960年12月22日の訪問は、履歴を消すためのやりとりをします。

実は、あたしは、このブログでドン・ファンシリーズのおさらいをしながら平行して日付や事件を記して年表を作成しています。
すでにいろいろな方がやられていて珍しくもないと思いますが、自分の確認作業としてはとても有効です。

また、今回日本で発売されていないAmy Wallaceやマーガレット・カスタネダの著書も手に入れたので事実(虚構も含め)関係の並べ直しができて新たな発見があり楽しんでいます。
この年表はいずれこのサイトで公開する予定です。(飽きなければ)

履歴を嫌うカルロスたちの履歴を埋めなおしているわけですな。

「履歴をもたないという考え方は、ヤキ・インディアンがみんなしていることなの?」
「わしがしとることだ」
「どこでそれを学んだ?」
「わしの人生でだ」
「父親が教えてくれたの?」
「ちがう。わしは自分ひとりで学んだんだ」(旅34)

ここでもデミルの指摘を打ち消すかのようにヤキの文化とドン・ファンの作法が異なることを念押ししています。

「少しずつわしとわしの人生のまわりを霧でつつんでいるんだ」
「誰もわしの履歴を知らん。誰もわしが何者で何をしているか知らん。わし自身でもな」(旅35)

「でもそれはウソをつくことになるよ」
「わしは嘘とか本当とかのことを言っとるんじゃない」彼は厳しい口調でこう言った。
「履歴をもっているときだけ、嘘が嘘になるんだ」
わたしは、わざと人を煙にまいたり欺くのは好きではないと言い返した。

(だが、)ドン・ファンはカルロスが人を欺いているといった。
なぜ、彼は自分がいつも人を煙にまいていたことを、なぜ知っているのかいぶかった。
(旅37)

つまりカルロスが自分の経歴に関してウソをついていることは履歴を消すこととは違うということなのでしょうか?
ドン・ファン自身はどうやってウソをつかずに履歴を消したのでしょうか?少しずつ霧で包むとは?・・・・ウソは言わずにのらりくらりとはぐらかすのかな?

履歴消しのやりとりに疲れたのでドン・ファンを乗せて車で町へいく途中。ドンファンにリラックスしたいなら道路の横の小さな丘のてっぺんに登って、頭を東に向けてうつぶせになるといい、と言われます。(旅39)(体術)

カルロスの場合、いつも南東なのに、今回は東です。

2016年9月5日月曜日

旅1 わたしたちを囲む世界からの再確認

1960年12月17日、ドン・ファンの家をへとへとになってようやく見つけた」というエピソードから始まるこの本は、要するに時間を巻き戻して『ドン・ファンの教え』のスタート時点からこれまでスルーしてきていた重要な事柄をおさらいするという流れです。

ちなみにこの「へとへと」の詳しい話は後に『無限の本質』の中で詳細に書かれています。(pending)

西洋人の上から目線で無知なインディアン・インフォーマントとみなしてギャラで釣ろうとするカルロスにドン・ファンは痛烈な一撃をみまいます。

わしの時間に対しては・・・おまえの時間で支払ってもらおう」(旅23)

またまたちなみにですが、フロリンダ・ドナーの本にも魔女メルセデスに同様にギャラ提供のシーンがあります。(メルセデスはドン・ファンより断然優しいです)

そんな対話のさなか、「空軍のジェット機が低空飛行したために、そのあたり一帯がゴーっとうなりをたてた」という記述があります。(旅25)

想定されるドン・ファンの家のあたりを飛ぶ飛行機の履歴ってわかるのでしょうか?
さすがのデミルも空軍の飛行記録までは調べていないのでは?(pending)

ここでカルロスは、「アリゾナの出身ですか?」と尋ねてます。
そしてドン・ファンはうなずきました。

お!これはタイシャ・エイブラーのドン・ファン(ジョン・マイケル・エイブラー)が言った出身と整合性がとれています。

と書いたものの、実はいったん、エントリーを投稿してから待てよと思い念のために英語版を調べなおました。

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“Were you born in this locality?”
He nodded his head again without answering me.
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Are you from Arizona?ではなくて「このあたりで生まれたのですか?」でした。
とすると、うなずいたドン・ファンは日本語訳と異なりアリゾナ出身にもソノラ出身にもとれるような言い方をしたわけではありませんね。

今はここに住んどるが、本当はソノラで生まれたヤキ・インディアンさ」(旅25)
"I live here now but I'm really a Yaqui from Sonora."

さて、これはどう考えますか?
ドン・ファンのいう”ここ”ってどこ?
日本語訳のアリゾナはというのは違っていたのですから、”ここ”がいったいどこなのか?ということです。もちろん「アリゾナ」ということもありえます。

”ソノラ”は、メキシコの州であり地方の呼び名です。

例)僕は今はここに住んでますが、福岡出身です。

この例では”僕”は、今は福岡には住んでいませんよね。

つまり、へとへとになって探したドン・ファンのこの家ってどこなんでしょうか?
もちろん日本語訳が意訳したようにアリゾナということも十分ありえます。

アリゾナにはツーソンのそばにデイビス=モンタン・エアー・フォース・ベースという基地があります。アリゾナ側のノガレスにも割と近いです。(といっても120キロくらいだけど)
ソノラ近辺にメキシコ軍の空軍基地があるかどうかは確認できていません。(pending)



飛行機の轟音を自分の意見に対する「同意」だとカルロスをからかうドン・ファンはパーコレータまで自分に同意しているといいます。

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パーコレーターのお湯がふっとうして大きな音をたてた。
「ほら聞いてみろ!」
「湯がわしに同意しとるわ」
「人はまわりにある何からだって、同意を得られるんだ」(旅27)
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カルロスは取材に写真とテープレコーダーを使いたいといいますが問題外だと言って断られてしまいます。(旅28)

でもカルロスはドン・ファンに内緒で録音したと思いますよ。
テープレコーダーについても検証したいなぁ。
追記2017/5/25:一応、検証しました。まさかチャック・ベリーが手がかりになるとは(笑))

そうそう、ここまでブログでしょうもないおさらいの途中ですが、ここまでの「検証ごっこ」であたしは、「ドン・ファン」は「実在」した単数あるいは複数の人物だという意見に傾きつつあります。

このあたりどうでもいいよと言われそうですが、ま、趣味ということでいずれまとめてあたしの勝手な推理を書きたいと思います。

※ある国の王様の虐待のエピソードが語られますが、割愛します。

2016年9月4日日曜日

イクストランへの旅 序文

ようやく第三巻『イクストランへの旅』です。
先は長いですが、後期作品群の方はさくさく行けるのでは?と思っています。

カルロスは、この著書で博士号を取得しています。本のタイトルにもなっている「イクストランへの旅」のエピソードは感動的で一連の著作の中でも珠玉の出来かと思います。

1971年5月22日の訪問です。

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彼は自分がヤキ・インディアンだといっているが、だからといって、彼の呪術についての知識がヤキ・インディアンのあいだで一般的に知られているとか、行われているというわけではない。(旅9)
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と書かれています。
ドン・ファンの著作が偽作であることの証拠としてペヨーテの服用をはじめドン・ファンの呪術や習慣がヤキでは行われていないというデミル(虚実)の指摘があります。

上記の記述はデミルに対する「牽制」として書かれたのでしょうか?

『イクストラン』は、1972年に出版されています。一方、デミルの『カスタネダの旅』(虚実)は、1976年に第一版が出されています。
「虚実」の中でデミルは、1975年9月6日、カルロスに「昼食」を誘う手紙を出しています。(虚実97)
返事はありませんでした。
デミルは調査に1年かかったと言っています。(虚実117)
発行時期と執筆期間を考えると調査自体は、昼食を誘う手紙より前に始まっていたはずですが『イクストラン』の”執筆時”よりも前ということはありえません。

なぜならデミルは、1975年の春までカスタネダの本を読んだことがなかったと言っているからです(虚実104))
したがって、上記の記述はデミル(の批判)に対する反論で書かれたものではないことがわかります。

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わたしが彼の弟子だったころの会話には、すべてスペイン語を使った。そして、彼の信念体系の複雑な説明を得ることができたとすれば、それはまったく彼の語学力のおかげだ。
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この下りもデミルの中に二人の会話はハナから英語で構成されているのではないか?というワッソン(幻覚性植物の専門家)の指摘が紹介されています。(虚実148)

タイシャ・エイブラーの『呪術師の飛翔』には、ジョン・マイケル・エイブラーという名前でドン・ファンが登場します。そちらのドン・ファンは自分はアリゾナ生まれだから英語が達者なのは当然だと言っています。(飛翔214)

ちょっと脱線しますが、あたしは、タイシャ・エイブラーの著作は、カルロス自身の手によるものではないかと疑っています。これについてはタイシャの著作のエントリーのところであらためて書きたいと思っています。

タイシャの本に登場するドン・ファンの名前は偽名なのは当然ですが、上記のようにすっかりアメリカ人っぽい響きになっています。
ドン・ファンの正体をぼやかすための攪乱戦法かもしれませんが。

でもね。そもそもどうしてドン・ファンが英語で話しちゃいけないんでしょうか?
インディアンの神秘的なムードが壊れちゃうから?

ところでエイミー・ウォレスは、『Sorcerer's Apprentice』の中で、カルロスの文章力に疑問を呈しています。(Amy24)また、そのことから誰かが手伝ったのではないかと疑って出版社のSimon and Schusterにプロ”のライターがいたことも突き止めています。

デミルは、『虚実』の中でカルロスの英語を皮肉っぽい調子で褒めていますが、プロのライターが手を加えたから上手に決まってますな。(虚実108)

カルロスとドン・ファンの二人が何語で会話したのか?カルロスの一人二役だったのかはさておき、上記の対話の言語についての説明もデミルの著作を読んでから正すために書いたものではありません。

さて、カルロスは、序文でこれまでは幻覚性植物にばかり重きをおいていたためにドン・ファンの教えについて過去の著作で大切なことをスルーしてきていたので「世界を止めること」についてこの巻で扱うと述べ、その概要を「世界についてのわたしの知らなかった呪術的見方があった(旅15)」と述べています。

※カルロスの友人の子供の教育方針について「戦士のやり方」を使うエピソードが語られていますが割愛します。

2016年9月3日土曜日

分離 訳者あとがき

訳者の真崎義博氏のあとがき,も、日本語版発行時の情報や独自の解釈などが載っていますのでエントリーとして立てておきます。

あとがきの冒頭に、カスタネダは最近(発行時)サム・キーンとの対話で「世界を止めることによってパラダイムシフトがはじまる」のようなことを言っていると書いてあります。

出展は、中山善之訳『人間・この未知なるもの』とあり、もちろん著者はサム・キーンでしょう。
アマゾンで検索してみましたが、このタイトルでは見つかりませんでした。

原著の方は、おそらくこちらかと。
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Voices and visions Hardcover – 1974
by Sam Keen  (Author)
Hardcover: 218 pages
Publisher: Harper & Row; 1st edition (1974)
Language: English
ISBN-10: 0060642602
ISBN-13: 978-0060642600
Product Dimensions: 8.2 x 5.6 x 1 inches
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どうみても日本語タイトルと一致しませんが、直訳タイトルを作ってみますと

「発言とヴィジョン ~サム・キーン対談集」

表紙のグラフィックには確かに、対談相手の一人がカルロス・カスタネダとあります。

現在、この本は英語版も絶版のようでamazon.comでもマーケット・プレイスでしか手に入りません。

元の対談は、「Psychology Today」という米国で発行されている雑誌でのインタビューです。
こちらはたしかエイミー・ウォレスの本でも言及があります。(あたしのブログでは割愛しました)

幸いにも、あるサイトに「Seeing Castaneda, by Sam Keen」というタイトルで対談のテキストが転載されていましたので、一応リンクを設けておきます。元のインタビュー記事そのものとの整合性については現時点では調査できないのでそのまま掲載されていると信じることにします。
内容は、未読です。(pending)

有名な「タイム」のインタビューでもカルロスは経歴については口からでまかせを言っているようですのでキーン氏との対談もそのあたり前提で読もうと思います。

真崎氏のあとがきでは、そのタイム誌に掲載されたインタビューも紹介していますので、その部分だけ”ママ”で引用させていただきます。

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タイムのインタビュー「ドン・ファンと呪術師の弟子」("Time" March 5,1973)
ドン・ファンは1891年生まれ、両親は1890年代から1910年にかけたの戦いで殺された。彼はあちこち放浪した。彼の呪術がいくつかの文化のシャーマニスティックな信仰の組み合わせであることもこれと一致する。それらのいくつかはヤキ・インディアンを代表するものではない。ヤキ・インディアンはペヨーテを使わない。

カスタネダは1935年にサンパウロで生まれたと言っている。(アメリカへの移民登録では1925年ペルー生まれになっている)その時父は17歳、母は15歳で若かったので母方の祖父母の所へ6歳まで預けられた。母は彼が六歳の時に病死(記録によれば二十四歳の時)した。アメリカへ渡ったのは1951年(記録と一致)である。1955年から59年にかけてUCLAで社会心理学を学び、後人類学へ。
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Amy Wallaceの本ではカルロスの母親は25歳の時に亡くなったとありますが、これはどうやら24歳が正解のようです。(pending)

●オマケ
あたしは、二見書房の1998年8月25日21版の『分離したリアリティ』をテキストとして利用していますが、カバーに印刷されている初版がなんと1949年10月22日発行と書いてありました。実際には1974年10月発行ですね。

2016年9月2日金曜日

分離17 ひとつの移行期

『分離したリアリティ』のいよいよ最後です。

前回訪問したあと、数か月メキシコを訪れてなかったカルロスのフィールドノートは、1970年10月6日の最後の部分にはいります。

ドン・ファンの家につくとドン・ヘナロが一緒でした。
カルロスが前回、盟友との出会いに失敗した話をすると「ドン・ジェナロが二、三回わたしの背中をたたいた」(分離308)とあります。(体術)

彼はわたしの肩に腕をまわしてわたしを見つめ、それがわたしに落ち着いた安心感をあたえてくれた。

これはひょっとして、「肩甲骨の間」でしょうか?
そうだったらいいのですが。

と思っていたらヘナロが背中に石のような重みをかけたように感じ、最後には重くて横に倒れて頭を床にうちつけてしまいます。

「子泣き爺の技術」でしょうか。

ジェナロは、藪の中に入っていき。また山をゴロゴロと鳴らします
するとその巨大な石が転がっているような音を聴くと、その石が実際に「見えた」ように思います。カルロスは音を”見て”いたのです。
ヘナロが戻ってきて「見たか?」と聞きます。

この体験後、数時間一人にさせられた後、ドン・ファンとドン・ヘナロが夕方戻ってきます。二人がカルロスを見つめると二人の目が巨大なプールの水のようにみえます。
ドン・ヘナロの目が普通の人間の四、五倍もあるように見えて恐ろしくなって戦闘態勢をとってしまいます。(体術)
ドン・ファンはヘナロが目でいじめただけだといいますが、カルロスはいじられっぱなしですな。

ヘナロが「隠れ身の技術」を見せてくれるというので一同は散歩に出ます。
前を歩いているヘナロに追いつこうとしますが、いつまでたっても追いつけません。そして、いつの間にか自分の後ろにいるように思えてきます。

1970年10月8日は、「隠れ身の技術」のおさらいです。
ヘナロはずっとカルロスの後ろにいたと聞かされて驚くカルロス。

その仕組みを説明するためにドン・ファンが地面に八つの点を描きます。
最初はここ第一の点にいる。そしてここからここへ第二の点移動するんだ。
人間の扱える点は、さらにもう6つあるのだと言います。

わしの知っとる限りじゃ、人間に扱える点は八つしかないのさ。

この映像強烈に覚えてます

次に、カルロスは同じ木から同じ葉が何度も同じように落ちるのを見させられて、いまそばにいたはずのドン・ヘナロが16キロも離れた向こうの山のてっぺんにいるのが見えます。
そもそも十六キロも離れた人間が見えるはずはないと思った瞬間消えてしまいます。

あたしは、ウルトラマンの「富士に立つ怪獣」というエピソードを思い出しました。

一連の非日常体験をさせたのは、カルロスがなにもかも理解しようとするのがだめなんだと教えるためだそうです。

実践によってしか呪術師にはなれないのだから、金輪際わたしに説明するなどということはしないと言った。そして今すぐ帰れ、さもないとわたしを助けようとしているドン・ジェナロに殺されてしまうかもしれないと忠告してくれた。(分離324)

メスカリトも盟友も陽気なドン・ヘナロも、油断をするとすぐ殺すわけですか~
いったいどういう連中なのでしょうか。

ドン・ファンとドン・ヘナロの教育のかいがあってカルロスもようやく自分の知覚の不確かさを納得します。それにしても遅いですが・・・。

現実とは何かという思索も結局はわたしの知的操作にすぎなかったのだ。(分離324)
最後に、思わず泣きだしてドン・ファンを抱きしめた。

彼はこぶしで軽くわたしの頭をたたいた。それが脊髄を波打って下ってゆくような感じであった。酔いをさまされるような感じがした。(分離324)(体術)

これもひょっとして「高められた意識状態」関係の操作でしょうか?

2016年9月1日木曜日

分離16 音の洪水

1969年12月15日の夕方また谷に向かいました。

丘の頂上に着いたら正しい方角を決めにゃならん
谷に降りてから丘に登るのでしょうか?
カルロスの方角は南東です。

それからやおら丘についたらおこなう動作の説明が始まります。
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まず手のひらを下にし、親指を手のひらにつける以外、他の指は扇のように広げて腕を前にのばさねばならない。次に頭を北に向け、手も北に向けて腕を胸にあてる。それから左足を右足の後ろにあて、左のつま先で地面をたたいて踊るのである。そして温かみが左足からやって来るような感じがしたら腕をゆっくり北から南へ、そして北へ動かさねばならない。(体術)
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腕を動かしているときに手のひらに温かみを感じる所が坐るべき場所だ。

とか、この後もものすごく細々とした注意が続きますが、割愛します。
本文ではなんども復唱して覚えたとありますが、はたして覚えれられるものでしょうか?
ドン・ファンがおこした焚火を見つめているとカルロスの目の前を蛾のような影が横切りました。

するとドン・ファンが慌てたように撤収をはじめ家に帰ります。
カルロスがみた影は精霊の一種だそうです。

精霊にはは三種類あるそうです。

1)何も与えてくれないもの
2)恐怖の元にしかならんもの
3)贈物をくれるやつ

2番目のものはおとなしいやつのまわりをうろついている悪意の精霊で、今回はそいつがいたので急いで帰ったそうです。
そして三番目の精霊が本当の盟友で秘密を教えてくれます。
その精霊との出会い方をこまごまと教えてくれます。その中に、「打ち勝ちかた」についての言及があります。
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精霊と争った場合、地面にねじふせてそいつが力をくれるまでそのままがんばるんだ
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まるで精霊が人間のような言い方なのでカルロスは、精霊には実体があるのか?と尋ねます。
争うとき最初は固いがだんだんぐにゃぐにゃになるとドン・ファンは答えます。

1969年12月17日、今度はひとりでスピリットキャッチャーを手に入れるためまた谷に向かいました。

焚火をしてうっかり眠り込んだら大きな破裂音で目がさめ、いろいろな音に悩まされます。枝を踏みつけるような音。動物が水をのむときのような音。鳥の羽ばたくような音。
はじめドン・ファンのトリックだと思いましたが、ありえないとわかったとたんに恐怖でパニックになりペヨーテソングをうたって夜明けまで耐えしのびます。

気づくとドン・ファンが来ていて手当て川で体を洗ってくれます。
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かわいい友よ(マイリトルフレンド)、お前は何もしらんのだ。何もな。

ひと晩で戦士になるなんてことは誰にもできやせん。元気になって(自分の)裂け目が閉じるまで戻ってくるんじゃないぞ。
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結局、スピリットキャッチャーはどうなったのでしょうか?
ま、タスクに落とし前がつかないのはカスタネダの常ですな。