2018年8月31日金曜日

「慢性前立腺炎、自主治療の試み」のその後(2)

追記2019/11/19)さらに現況追記しました。
追記2019/1/23)その後、更に自主治療のやり方が変わっています。少し良くなってきた感じがありますが自分で納得(確証?得る)できるまで少し待とうと思っていますので、下記記事は少し古いという前提でお読みください。
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ということで、この記事アップ時点の自主治療のアイテムをご紹介します。
中には前立腺炎と関係の薄そうな思い込み項目もあるので、前立腺炎プロパーのアイテムにはをつけておきます。

最近では、八味地黄丸の効果も含め特効薬という発想はいったん忘れて「症状の緩和」という考え方にした方がよいのではと思い始めました。

■現状

自主カルテ
ザルティア

八味地黄丸(クラシエの市販薬で始めて医師処方のツムラの顆粒に)
 これまで試したアイテムで一番効果がありました。⇒その後中止していますが、効果あります。
スーパービール酵母Z:深い意味なく亜鉛入りだし程度。
ビーポーレン:効果不明。セルニルトンの原料だというので継続しているだけです。⇒その後中止しています。
○はなびらたけ(NEW):がん対策になるといううわさなので始めました。⇒その後中止しています。
○養命酒(NEW):冷え対策⇒その後中止しています

軟膏系:プリザエースとデリケアエムズ
痔でもなければ股間に湿疹やかぶれがあるわけでもないのに、なぜか肛門と会陰部に塗布すると症状が緩和する気がします。
もしかすると気分の問題だけではなく実際に皮膚に薬が浸透して痛み(不快感)を軽減してくれているのかもしれません。

シッカロール
慢性前立腺炎の主訴を以前、股間がべたつく感じがあると書きました。このべたつき感は、その後、臀部のたるみの部分でも感じることに気が付きました。自分が妙に気持ち悪いだけで実害はないのですがあまりにも不快なので緩和させるためにシッカロールを使っています。その後、この感覚はそういえば慢性前立腺炎の直接原因となった生体検査ではなくて放射線治療の副作用かもしれないと思い始めています。

そこで最近(2018年7月)、ふとシッカロールと放射線治療の関係を検索してみると、乳がんの治療をされた方がシッカロールを使っているという記事を発見したのです。

知らなかったのですが、放射線治療を施した部分は発汗しなくなるそうです。(医者は教えてくれませんね。そうしたこと)

で、ここからはあたしの素人判断ですが、発汗しなくなった部分をカバーするために近隣の皮膚(あたしの場合は、股間であり臀部の一部)が余計に発汗するようになったのではないだろうか?という推論です。

それが的を射ているかどうか別にして実際に症状があるわけなので少しでも気持ちが楽になれるのならとういことで使っています。

ストレッチ
○スクワット⇒その後中止しています
 慢性前立腺炎にはストレッチという記事をみかけますが特に効果を感じません。
 ただ身体にはいいのは間違いないので習慣にしました。
○肛門引き締め⇒その後中止しています
 これも軟膏と同じでたぶん緩和にいいのではないかと思ってやっています。
片足立ち⇒その後中止しています
 冷え防止
○階段上り
 ただの運動不足解消と冷えにいいのではないかと
○MBTシューズ
 冷え対策で履き始めました。始めたばかりなので効果は不明。
○足カイロ:寒い時期に実施
足の台症状緩和に必須です。
前立腺用の座布団:エクスジェル (EXGEL) たび・ざぶ円座:以前の記事の通りです。※

2018年8月30日木曜日

「慢性前立腺炎、自主治療の試み」のその後(1)

追記2019/11/19)さらに現況追記しました。
追記2019/1/23)その後、更に自主治療のやり方が変わっています。少し良くなってきた感じがありますが自分で納得(確証?得る)できるまで少し待とうと思っていますので、下記記事は少し古いという前提でお読みください。
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慢性前立腺炎の自主治療の試みについて書いてきています。

前回は、時間が空きましたが『病気(前立腺)の話(22)自主的治療の試み(8)』でした。
その後、かなり変化がありましたので書いておきます。

前回から変わった大きな点は、

○春ウコンを止めた。
○ノコギリヤシを止めた。
○漢方薬の『八味地黄丸』を服用し始めた。⇒その後中止していますが、確かに軽減します。

この3点が大きな変更点です。春ウコンとノコギリヤシについては効果を実感できませんでした。特に後者に関してはいろいろなメーカーのものを数カ月ずつ試しましたがあたし的にはダメでした。

新たな「八味地黄丸」ですが、これは慢性前立腺炎の遅々として進まない状況の中、つらつらネットで情報を探していたところ京都大学の泌尿器科が公開した1988年の情報を見つけました。

八味地黄丸なら薬局で買えるしというので、さっそくクラシエの八味地黄丸を買ってきて服用を始めたところ、不快感がかなり改善(軽減)されました!

このまま完治するのでは?ぐらいの感じもあったのでこの原稿の下書きをしながら完治したら最新情報をアップしようと思っていたくらいです。

ただそこはそれ医者も諦めるくらいの謎の病気です。軽減はいい感じですが完治はあったとしても先の話のようなので現時点で公開することにしました。

その後、デルタ病院の内科でたまたま足の冷えの相談をしたときに市販薬の八味地黄丸を飲んでいると話したら病院で出してもらえることになりその後も続けています。

デルタ病院は、がん治療のフォローアップと慢性前立腺炎の面倒を見てもらっている地元の病院です。
そこの泌尿器科の定期検診で別件で来た内科で八味地黄丸を出したもらったと報告したところ「僕たちもよく処方するんですよ」って・・・だったら先に試してくれてもいいのに。

他のこれまで行ってきた自主治療アイテムについてもおさらいをしておきます。

●効果を感じなくて中止あるいは変更をしたアイテム

○セルニルトン⇒中止。ザルティアとビーポーレンに変更 ⇒ これもその後中止
○ノコギリヤシ⇒小林製薬のものなど3種類を試してから、サントリーの「ノコギリヤシ+セサミンE」にしていましたが中止しました。早い段階で正直ノコギリヤシは効いてないと思ってましたが、どうせ効かないのならセサミン入りがいいやという発想でした。
最終的に中止。
○青汁 ⇒効果感じず中止。
追記(2019年3月5日)その後、青汁(キューサイ)に戻りました。効果あります。
 詳しくは記事にしたためますが、さしあたり。
○春ウコン ⇒ 効果感じず中止。
○生理用ナプキン ⇒中止。違和感軽減なしで面倒なだけ。
○枇杷の葉の湿布 ⇒中止。効果感じず。
○枇杷の葉茶   ⇒お茶の種類を柿の葉に変えたりどくだみに変えたりして継続。
 ※どのお茶も特に効果ないと思いますがリチュアル気分的な習慣で続けてます。
 ※柿の葉茶は、夢中になってがぶがぶ飲むと鉄分が極端に減ってしまいます。
  服用はほどほどに。
 ※枇杷の葉茶は旨い!でも「種」枇杷の種の件もありますので、ほどほどが良いのではと思います。

 ※このテのお茶に関しては昨今、毎晩煎じることに疲れてきました。「煎じ疲れ」(笑)ってんですか? いまある分使い切ったら止めようと思っています。

○会陰部にホッカイロ:以前良さそうだと書きましたがあまり変化がないみたいです

ということでくどいですが、あらためて次回の記事に最新の治療関係アイテムをリストします。

2018年8月20日月曜日

カスタネダの真実 ~ 堕ちた戦士 ~

自分の中で再ブームが起きて2016年の7月からはじめたあたしの「カスタネダ(再訪)の旅」ですが、ついにマーガレット・カスタネダ著『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』の紹介を済ませることができました。

もともとカスタネダの自著を全部おさらいするつもりだったのですが『力の第二の環』まで進んだところでエイミー・ウォレスの著書に寄り道して彼の実像に近づいたことで、後半の著書についてはおさらいをする意味があまりないなと思うようになりました。
(『無限の本質』については、それでも”おさらい”をする価値があるかなと思っていますので、また機会を見つけたいと思います)

以上をふまえ「デスクトップ・ディテクティブ」のヘナチョコ推理による暫定的結論を書いておきます。

カスタネダは、
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本当にフィールドワークを行い、何人かのネイティブにインタビューを行った。

時には、実際にリチュアル(儀式)に参加させてもらった。
メモもとったが人々の会話も録音した。

伝統的な知恵をもつ老インディアンたちに出会って仲良くなった。老インディアンは、商売をしている似非グルとは似ても似つかない本物の師匠だったが、高齢のため他界した。

カルロスは、呪術師の内弟子にはなっていないか、なっていたとしても免許皆伝はもらえなかった。

シリーズ3巻目くらいまでは、フィールドワークの内容を膨らませてネタがもったが、以降は、師匠不在となりオリジナルで創作していったので、ドン・ファンは急にニューエイジ用語をこねくりまわすインテリになってしまった。

2巻目の後半の「ヘナロの滝わたり」あたりから超常現象を織り交ぜていき、以降、巻が進むにしたがい虚構と東西神秘哲学を組み合わせて筆を進めていった。

文中、ドン・ファンやヘナロにもからかわれていますが、女好きが高じて自分のグルーピーを洗脳してハーレムを作った。

同時に、自分も女性たちも自分たちがついたウソを自身でも信じるようになっていった。

正しい指導を受けずに瞑想を実践していたためメンバーは精神にも少しずつ異常をきたしていった。

カスタネダ自身が高齢になりグループのリーダーたちが法人によるビジネスを推進した。

この動きはカスタネダ自身もコントロールできなくなり、自身の自由も奪われてしまい最愛の息子(養子)にも会わせてもらえなくなってしまった。


これがカルロス・カスタネダの真実だと思っています。

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『時の輪』のあとがきより

明かされた力 ~ 解題にかえて
北山耕平

一度知ったら戻ってこれない、そしてどこにも辿り着けない旅、それがカルロス・カスタネダを読むということなのだ。
危険だが、その価値はあるはずだ。
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リチャード・デ・ミルの言葉

カスタネダは、ただの詐欺師ではない。彼のウソは私たちを真実に導いてくれる。彼の話は本当の話ではないのに真実で一杯だ。これは呪術師の贈り物だ、まったく正反対のもの―知恵と欺瞞を同時に扱う曖昧模糊とした魔法の書である。

2018年8月17日金曜日

エイミー・ウォレスについての余談 ~Google検索のワナ~

最近、Googleの検索でカルロス・カスタネダの愛人だったエイミー・ウォレスを検索したところ誤った(というか興味深い)情報が出ましたのでご報告しておきます。

画像がその画面(はみでてすいません)ですが、いつのころからか検索を「まとめた概要」が右側に出るようになりましたよね。あたしはこれは基本Wikipediaから来てるのかなと思ったのですが、どうやら違うみたいでネット上の様々な情報をGoogleがまとめているようです。

「まとめ」コーナーのエイミーの情報については合っているのですが、写真が別の女性のものになっています。同姓同名のこの方は存命でライターのようですがカスタネダとは無関係です。間違われた女性も勝手に死亡したことにされてしまっていい迷惑ですよね。



カスタネダのエイミーについてのウィキ情報はこちらです

ちなみにGoogleで「カルロス・カスタネダの妻」と検索しても、この間違われた女性が出てきてしまいます。

ほんとうにネットの情報は慎重に受け取らないと大変なことになりますね。

BBCの例のドキュメンタリーに出演したときのエイミーの画像も掲載しておきます。
(2006年か7年のオンエアなので彼女が52,3歳の時のものです)



2018年8月16日木曜日

Maya(43)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』28~エピローグ

第28章はマーガレットの独白的な締めなので割愛します。

■エピローグ

ついに私はカルロスとはもう二度と会うことも話すこともないということを受け入れた。彼は、もう私の電話にも出ないし、彼の仕事場で頼んだ伝言にも返事を寄こさなかった。
David Christieが1993年の10月1日、カリフォルニアのサンタモニカのPhoenix Bookstoreで講演会をやるという連絡を受けて驚いた。

ガイア書店
書店でのエピソード:『C.J.カスタネダの話(3)『ドン・カルロスの教え』(27)』

彼の最新の著書、『The Art of Dreaming』(『夢見の技法 - 超意識への飛翔』)が出版されてひと月か二月経ったばかりだった。私は興奮を抑えられなかった。

ところでDavid Christieって誰でしょう?当たり前のように登場した人物ですが、これまで言及がありません。

絶対に行きたい。どうすればいい?」と私が尋ねると
招待客だけなんだ」とDavidが言った。

Davidは、書店のオーナーにゲストを連れていっていいかどうか聞いてみると言ってくれ、彼に付き添って出席できることになった。
すぐに私はAdrian(C.J.のこと)に連絡をとった。
彼も興奮し私と行きたいと言った。私が難しいかもしれないと言うと、彼は「大丈夫。僕は入るよ」と言った。

早めに着いて冷静になればカルロスと話すチャンスがあるかもしれないと思った。
でも、チャンスは訪れなかった。

私達はカルロスが現れる前に書店に入ることになった。
受付ではAdrian(C.J.)一人で入場を待っている人に自分をゲストとして一緒に入ってもらえないか頼み込んだ。彼女はイエスと言ってくれた。

カルロスが遂に登場した。首のところが開いたシルクのシャツに茶色の革のベスト、そしてカウボーイブーツだった。

彼の髪が完全に白髪になっているのをみてショックを受けた。私は彼がネクタイとスーツを着て現れると思っていたのに。
長い年月は私たちのつながりを完全に絶ってしまった。

彼は痩せていて体形も良かった。私は目を閉じて彼の朗らかなトークに耳を傾けた。そして目を開いてステージ上の彼を見つめた。彼は今も魅力的で聴衆を虜にしていた。彼は三時間しゃべり続け質問も受け付けた。

彼はステージを降りると書店の裏口から姿を消した。
一瞬でもいいから彼と話したいと思い急いで会場を出た。
彼はヴァンに既に乗り込んでいたが、Adrian(C.J.)がヴァンの窓を叩いた。

カルロスは車を止め「おぉ!私のChocho!」と言って降りてきた。
彼はC.J.を見て抱きしめて話し始めた。
C.J.は自分がカルロスに言われたように強い戦士だった、カルロスと一緒に戻れると何度も繰り返した。

C.J.が話しているあいだに私は近づいてカルロスのガードらしい背の高い女性に言った。(フロリンダかもしれませんね
カルロスがC.J.と話し終わったら私も話をしたいんです
彼女が答えた。
だめです
私が言った。「私が誰だか知ってるの?
彼女が答えた。「ええ
私はそこに立ち待ち続けた。

カルロスが私のところに来た。彼は私に腕を回し頬にキスをした。彼は嬉しそうだった。
彼は一歩下がって私を見つめた。私は彼に『夢見の技法』にサインをしてほしいと言った。
彼の答えは想定外だった。「ごめん。手が疲れているんだ
そして彼は彼の手を見せて本当に疲れているんだという身振りをした。

私はカルロスに言った。「大丈夫。革の想定の本をEaston Pressから注文したから。それはサイン本だし
彼はヴァンに乗り込むと私に投げキスをした。
車が去った。

彼はこれまでもずっとそうだったように謎めいた雰囲気のまま私から去っていった。

最後に、ウマル・ハイヤームによるルバイヤートから詩が引用されていますので原文(英語)のまま引用します。

Yon rising Moon that looks for us again――
How oft hereafter will she wax and wane;
How oft hereafter rising look for us
Through this same Garden――and for one(斜体) in vain

The Rubaiyat of Omar Khayyam

あの月が私たちをまたさがしている――
これからどれくらい満ち欠けるのだろう;
これからどれくらい私たちをさがしにあらわれるのだろう
このいつもの庭を――それはかなわないことなのに
  ―オマル・ハイヤームのルバイヤートより

2018年8月15日水曜日

Maya(42)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』27

カルロスはスピーチの最中に遅れて到着したが、C.J.は彼にすぐに彼に気が付いた。
C.J.は校庭で他の学生と一緒に座っていた。

カルロスは、私の妹のBetty Virziと夫のVictorを見つけて近づいて来た。
カルロスは、なんとか間に合った。

1975年の5月、アリゾナのTempe、Connoly Junior High School(原文のママ。実際は、Connollyが正しい)の卒業式だった。



C.J.の名前が読み上げられるとカルロスはにこりとしてうなずいた。

式が済んだあとタウンホールでの集いではカルロスは大盛り上がりだった。
知られている神秘的なイメージとは違い、小さな集まりでの彼のおしゃべりは全然違っていた。

Bettyがスナップ写真を撮ったときだけ「カスタネダ」の顔がチラっとよぎった。だが、彼は何も言わなかった。

カルロスはそろそろ場所を変えようととみんなに言った。
BettyとVictor、C.J.と私。古くからの友人のKay Quinnと彼女の二人の娘、KathyとPatricia、それに私の甥のMichael Magana。

みんなでフェニックスにあるGregory's Penthouseという店で夕食を食べようと提案したのだ。

道すがらカルロスはC.J.に夏休みにロスアンゼルスに来ないかという話をした。
ヨーロッパにも行こうと言ったがC.J.はあまり乗り気ではなさそうだった。
カルロスは言い募ったがC.J.は断った。カルロスはあまりあてにならないからだ。

前にもヨーロッパに連れて行くといったが実現しなかった。電話や手紙をよこす、会いに来ると言っていたがめったになかった。C.J.は電話や手紙を待ってつらい思いをしていたのだ。

ある日、傷ついた彼は、自分はカルロスがするように人を絶対に傷つけないといった。
カルロスはC.J.の心がわかったようだった。店に入る前に、夏休みの終わりに気持ちが変わっているかもしれないからまた連絡するとC.J.に告げたが本心ではなかったろう。

その夜の会話はカルロスの独断場だった。Katyにユタでの生活を訪ね、彼女の娘たちにはイギリス旅行の話を聞いた。Bettyと昔のロスの話をし、C.J.には卒業祝いに100ドルを渡した。たわいのない話が続いたが一度だけ修行生活の話が出た。私はドン・ファンについて尋ねた。

彼はいなくなったんだ。もういない」とカルロスが言った。
亡くなったの?」と私。
カルロスは私を見た。「ただいなくなったんだ」彼はそれ以上話したくないようだった。

このエピソードは重要です。
なぜならAmyの本では、1976年、カルロスが図書館のイベントでAmyの兄夫婦に出会った時、ドン・ファンが「去ろうとしている」と取り乱していたというエピソードがあります。

1975年に「去った」のが1976には「去ろうとしている」というのはどうでしょう?
ただ、はっきりしているのはこのあたりでカルロスとドン・ファンの付き合いが何らかの形で終わったことです。

ドン・ファン(の一人?)の年齢は、1975年で84歳、「何らかの形」というのはマーガレトが言うように亡くなったのかもしれません。

(根拠は不明ですが、ウィキなど一般的な情報には、ドン・ファンは1973年に亡くなったのではと書かれています。)

デザートが出るとカルロスは会計を済ませに席を立った。
レジで係りの女性が彼のマスターカードを受け取って手続きをしていたが、突然目の前の人物が誰かわかると目を見開き固まった。

あなたがあのカルロス・カスタネダ?あのライターの?あの神秘的なインディアンの本の?

カルロスがうなずいた。

これは失礼しました、最初から存じ上げていれば。というと彼女は厨房に引っ込んだが、奥の方で食器が倒れた音がした。

再び現れた彼女にカルロスはなにもかも素晴らしかったと言った。
彼のサインを求めて現れた店のスタッフたちに取り囲まれ私達はエレベータに乗るのに苦労した。
彼は快く応じていた。

2018年8月14日火曜日

Maya(41)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』26

今、この本を書いてるんだけど、まだ終わってないんだ」とカルロスが私に電話をかけてきた。「午前中にメキシコに戻る予定なんだ。本は”力の話”というタイトルだ。でもよくわからない書いてるけど難しいんだ。また(メキシコに)戻らなくては

どこに行くの?Oaxaca(オアハカ)?」と尋ねた。
うん。また戻ってくるまで連絡できないよ

私が離婚届について触れると「すぐに済むと思うよ。そしたらお金を弁護士に払ってしまう。あの連中とはもう付き合いたくない

カルロスは、ロスアンゼルスのWard & Heyler事務所のGuy Wardを弁護士に雇っていた。彼はWardとAlexander Tuckerをクビにしようと思っていた。おそらく彼のエージェントのNed Brownもだ。
カルロスは自分が稼げば稼ぐほど、そういった連中に依存するようになると嘆いていて自由を欲していた。

60年代に離婚したがっていたのは私だが、カルロスがメキシコの離婚手続きで私をだましたあとのらりくらりとそのままの状態にしておきたがっていた。
だが、1973年の秋になると突然、離婚手続きに前向きになった。
そろそろすべてのつながりを絶つ時期と思われた。

僕は、ぼうやを助けたい。ぼくとぼくの名前をそれから僕らの前のトラブルから。彼は名前がない。彼の名前はAdrian Gerritsen Jr.だ。(※C.J.の実の父親はAdrian Gerritsen)強力な名前だ

1973年の12月、ウェスト・ヴァージニアのKanawha County 家庭裁判所に行われた離婚の聴聞会で、私はC.J.に対する永続的な親権を得た。カルロスは出席しなかった。
数日後、彼が電話してきてすべて済んだと聞いてほっとしていた。
彼が何か問題はなかったかと尋ねた。

そうね。あなたの誕生日は25日、来週の火曜日よね・・・
ちがう。もう僕には誕生日なんてないんだ
裁判所には母が付き添ってくれたんだけど、彼らが尋ねた質問の中にあなたの年齢があったから。私は、つじつまがあわないことがあると答えたわ
カルロスがくすくす笑った。
僕は適当な数字を言ったからね。かまうもんか
カルロスはほっとた様子だった。
彼はたとえ裁判所が相手でも自分を秘密めかすことができたのだ。

私たちは友達のままよね?」私は聞いた。
僕はずっと友達であろうとしてたよ。これからどんな運命が待ち構えていてもだ

まるでLACC時代のカルロスに戻ったようだった。彼はいつも運命について話していたものだ。

カルロス。あなたはもうドン・ファンがあなたに自分自身を理解させようとしていたものにとうになってるのよ。いまだに疑問を持ち続けているのがわからない、だってあなたはもう大丈夫なんだから。あなたに必要なのはそれを確認してくれる相手だけだと思う。あなたはもうあなたが考えている人物になってるの

カルロスは少し黙ってから話した。
ぼくのことを理解してくれているのは君だけだ

この電話の数日後、彼は弁護士のGuy Wardから離婚証明書の写しを受け取った。そしてWestwoodの自宅に戻って『力の話』を完成させた。

※この後、『力の話』の中で彼がトナールとナワールの概念を導入した件について説明があります。

カルロスは初期の本でC.J.のことを「私のかわいいぼうや(my little boy)」と呼んでいたが、この本では「私がかつて知っていたぼうや(a little boy I once knew)」という呼び方に変えた。

彼は何も隠していなかった。彼はひとつ突き抜けたのだった。
1976年の秋、カルロスは、彼とC.J.がロスアンゼルスの北にある山にハイキングに行ったことを手紙で書いてきた。

君とchochoを考えない日は一日もない。これはよく言う決まり文句みたいだが本当にその通りなんだ。君たち二人といたときが一番幸せだった。またchochoと一緒にハイキングに行きたい。肩車に彼をのせて山を登るんだ。山頂についたとき彼がさけんだんだ。”太陽!、山だよ!。Kiki大好き”
彼の可愛い声はぼくが死ぬ時まで耳から離れないよ。もういちど君たちに会いたい。でも運命がそうさせてくれないんだ。僕にできるのは希望を持つことだけだ

彼はこの話~フィクションではない~も本に記した。

C.J.とのハイキングの話はいつ読んでも胸に迫るものがあります。
この時、カルロスは、51歳。このころから彼のWestwoodでの「教祖」生活が本格化します。Amy Wallaceが21歳。彼女一家との親密な交際が続いています。

この後、谷底へのジャンプの話、1974年、Meighanが彼と話したときは、まともだった話などが披露されています。

2018年8月13日月曜日

Maya(40)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』25-2

Nannyはいつもの調子でおしゃべりをしていたが、カルロスは、居心地が悪そうだった。彼は雑誌の話に触れてもらいたくないようだったが、Quebecは気にしなかった。
Quebecは、前から彼の出自について疑いを持っていたのだった。

以前、Quebecが南米からもどったときポルトガル語についてカルロスに教えてもらおうとしたことがあったのだが、カルロスは耳に手をやって断ったのだ。ポルトガル語は聞きたくないといったのだ。

変だなと思った。ブラジル出身ならポルトガル語を話すだろう。ブラジル人が嫌いなのはむしろスペイン語のはずだ。だが、カルロスはしょっちゅうスペイン語を話していた。
タイム誌の記事で謎が解けたと思った。

カルロスはブラジルについて何も知らなかったから触れたくなかったんだ。逆にペルーについては詳しすぎるからそっちも話したくなかったんだ」とQuebec。

ニューヨークの雑誌にはカスタネダのパロディが掲載されるようになった。
UCLAのHaines Hallでも騒ぎが広がった。
ニューヨークタイムズの書評担当には苦情が殺到しJoyce Carol Oatesはカルロスの本をインチキだと公言した。

カルロスは公の場にでるのを控えるようになり学校へも博士論文関係の用事のあるときだけしか顔を出さなかった。

カスタネダは、MeighanとGarfinkel、そしてDr.Philip Newmanとあと二人が彼の教官だった。

博士課程には論文のほかに、こまごまとした条件がある。その中には言語能力についてのテストもあった。Meighan教授は、面接で必ず聞くことになっていたのでカルロスが子供の時に何語を話していたか質問した。カルロスはブラジルに住んでいてイタリア語を話していた、のちにポルトガル語とスペイン語を覚えたと答えた。

Meighanの心配をよそにカルロスは言語能力テストをパスした。
そして筆記試験も無事合格した。
彼の博士論文は彼の若干手を加えた三冊目の著作だった。
スキャンダルに沸いていた1973年のことだったがMeighanは、カルロスの味方だった。

その年の春、カルロスが博士号を取得しそうだという話が広まり批判や議論がなどがおきた。カルロスの方法論は、従来の文化人類学のメソッドとまったく違っていたのもその理由だが、他にも教授たちが頭を悩ませていたことがある。それはカスタネダがあまりにも有名になってしまっていたことだ。彼のクラスはいつもあふれるほど学生が押しかけていて学校の実績に貢献もしていた。

教授会の議論はなかなか決着がつかなかったが、Meighanをはじめとする担当教官たちのサポートで認められることになった。

カルロス自身が文化のはざまにいる。そして彼の情報提供者(ドン・ファン)もだ。
カルロスの情報提供者は、一部はヤキ(Yaqui族)、一部はユマ(Yuma族)だと聞いている。そして二つの文化のはさまで生きてきた。ひとつは白人社会、アングロサクソンでプロテスタントの世界、もうひとつがメキシコのカトリックの世界だ。二つの文化は世界との接し方がまったく違う。カルロスと情報提供者の二人がぴったりマッチしたのだ。二人はどちらも知的でお互いに世界を理解しようとしている。彼の情報提供者は、呪術の伝統に則った知恵の体系を作り上げた。異なる文化と接するときに生じるあらゆる問題に立ち向かうということで二人は意気投合したのだ

これがMeighanがカルロスを推す理屈だったが、批判者たちは言った。二人が似た者同士なのは、ドン・ファンとカルロスが同一人物だからだ、と。

カルロスは教授会に自分がブラジルで生まれて幼少期にイタリア語を話したとウソとついたではないか、と。
Meighanは笑いながら「タイム誌の記事には驚かされたが、ぼくは彼が語ってくれたことを信じている」と言った。

教授会は、Meighanを信じて最終的にはカルロスの論文を承認した。
彼の博士論文は『イクストランへの旅』として出版され、カスタネダは億万長者になった。

この後、出版の反響などについての記載がありますが割愛します。

2018年8月10日金曜日

Maya(39)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』25-1

謎めいた生活を演じるカルロスをただ一つ俗世間とつなげているのがC.J.だった。

彼の本で寓話的に語られているエピソードの中には実話がある。
何人もの情報提供者(ドン・ファンを形作ったインディアンたち)から得たさまざまなエピソードに混じっているのがカルロスが実際に過ごしたロスアンゼルスでの平凡な生活だ。

カスタネダは最初からC.J.について触れている━だって著書を彼に捧げているくらいだから。
カルロスはC.J.にとり憑かれていた。

彼の著書に書かれていることが事実なのかどうかはメディアで大きな議論になっていた。Carleton Collegeの文化人類学者のPaul Riesmanがニューヨークタイムズの書評で絶賛すると、小説家のJoyce Carol Oatesは、彼の話があまりにも綺麗に作られていると反論した。

最初に長文の記事を載せたのはペントハウス誌だった。John Wallace( Amy Wallaceとは無関係)による記事だが、RosieやRuss、他の学生たちの協力を得て集めたUCIの教材を基にしたものだった。

Psychology Todayがカルロスのインタビューを企画した時、彼はついに長い沈黙を破ってインタビューアのSam Keenに録音してもよいという許可をした。

Ned Brownの勧めもあって『イクストランへの旅』の出版の前にはいくつかのインタビューも受けた。カスタネダは突然、どこにでも登場するようになった。

Harper's、ニューヨークタイムズ、ローリングストーン、the Village Voice・・・。
しかし、いずれも同じ間違いを犯していた。カスタネダの言葉をそのまま受け入れていたのだ。

タイム誌の記者がカルロスに彼のペルーにいる両親、CesarとSusanaなどについて尋ね始めたとき来るものがきた。タイム誌は、彼のArana一族がリマにいることを突き止めたのだ。

親戚たちはカルロスとは何年も音信不通で、彼のアメリカでの成功を聞いて驚いた。父親は記者に13年前にカルロスが送ってきたLACCの卒業写真を渡した。
記者たちは、これらの証拠がカルロスのブラジルでの叔母の家での生活との矛盾を指摘した。

私の生活を統計などの情報で判断するのは呪術を科学で分析するのと同じだ。マジックの力を奪ってしまうのだ」と彼は言った。

上記の調査を踏まえた記事が1973年5月のタイム誌に掲載された。懐疑派と信奉派双方の見解を載せ、ドン・ファンの実在性やカルロスの仕事の信憑性について書かれていた。
彼のあやふやな履歴、ブラジルやアルゼンチン、そしてハリウッドでの生活。
移民記録や学歴書類やArana一族の情報を駆使してカルロス・カスタネダがブラジルではなくペルーで1925年のクリスマスに誕生したことを明らかにした。

イタリアとブラジルではなくカハマルカとリマで教育を受けたことも突き止めた。
この記事はUCLAでちょっとした騒ぎになった。

Douglas Sharonは「初めて彼にあったとき彼はブラジル出身で後にイタリア、アルゼンチンを経てUSに来たと言っていた。だが、彼との話でペルーの話題が多いのでひょっとしてとは思っていたんだ」と言った。
南米人はなんとなくみんな似ているから。タイム誌の記事はびっくりしたけど、やはり噂は本当だったと思った

雑誌が発売されてからすぐ、Jim Quebecは、カルロスとカルロスのガールフレンドのNannyとキャンパスでばったりでくわした。
カルロスはなんとなくきまり悪そうにしていた。

2018年8月9日木曜日

Maya(38)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』24-8

食後、部屋に戻るとカルロスは落ち着きがなかった。カルロスはスーツケースから銀色のペンと鉛筆、それと外国の硬貨を私に渡した。C.J.にとのことだった。それからスーツケースも”chocho”(C.J.)にあげてほしいと言った。

私はシャワーを浴びた。出てくると彼は電話をかけていた。アメリカやメキシコなどいろいろな人たちに夜通し電話をかけていた。一人はカリフォルニアの誰だか教授だったし、Michael Harnerという彼の編集者だった。ある時は英語で時々スペイン語で。
私が眠りかけたとき彼はオアハカ(Oaxaca)かどこかに電話をしていた。

Oaxacaはドン・ファンか?ドン・ヘナロか?(笑)

翌日はもっとひどかった。彼があまりにも勝手なので私はthe Commodoreに部屋をとって出ていくと言った。彼は私についてきてC.J.にきちんとした教育を受けさせるように、歯医者に通わせるようにと言った。C.J.にウェスト・ヴァージニアでオートバイレースをさせることは危険だと注意した。彼はロビーにつくまでずっとその調子だったので、ついに我慢ができなくなった。

わかったわ、独裁者!もうわかったから!

彼は、その場で5000ドルのチェックを私に渡した。

cho-choにすぐに会いたいんだ。カリフォルニアに寄こしてくれてもいいし、いっしょに南米に旅行してもいい
私はうわのそらでうなずいた。
彼が言った。「cho-choに独裁者からよろしくって言っておいて

ウェスト・ヴァージニアのチャールストンの自宅に戻ると、すぐに離婚の手続きを始めた。長年ためらっていたのだ。やりなおせるかと考えていたが今回のニューヨーク訪問で無理だとわかった。

私からの正式な離婚の申し出に対して連絡が来たのは10月だった。彼は理由が分からないと言ったが、ニューヨークでの態度について話した。

まるで受話器を置き忘れたかのような長い沈黙の後、私にニューヨークで彼がどんな様子だったか話してほしいと言った。

カルロスは私の話を聞いてから彼がとても混乱していると言った。

ぼくは二月にthe Drake Hotelにはいなかったんだよ。ぼくは君に会っていない

私はこの話に付き合う気がなかった。

そう?私はニューヨークにいたしあなたによく似た誰かといたし、そのあなたは私の知っているカルロスとは全然違ったわ
ちがう、まじめな話なんだ、Maggie.この呼び方もするんですねぼくは二月にニューヨークにいなかったんだ」彼は真剣だった。

私は一瞬、彼がなんでこのようなウソをつくのだろうと考えた。私は一体、この頭のおかしな男と何をしているのだろう?

そしてはたと思い至った。彼が新しいレベルのトリックを人々にしかけ始めていることを。

もう誰も彼を捕まえることはできない。彼と話しても、もう彼は彼ではない、ダブル、分身なのかもしれないのだから。

2018年8月8日水曜日

Maya(37)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』24-7

1972年、彼がカルロスに出会った頃、なにかが起きるという予感に満たされていた。Johnは、夜、ピアノに向かって作曲をしていた。やがて疲れたので暖炉の前のカウチに横になっていた。

窓から暗い夜空を見上げていたら突然、恐怖におそわれ、霊気のような寒気を感じた。恐ろしくなった彼は寝室に行き寝ている妻の横にもぐりこんだ。

そして彼が横になるとすぐにそれが始まった。強風で木々の枝が折れ始めスコールのような大雨が降り始めた。風が吹き荒れ家を揺らした。まるでラグナ・ヒルズ(Laguna Hills)の半分が嵐の海の中に放り込まれたような感じだった。

彼の額から汗が噴き出した。なんとか落ち着こうとするとますます嵐は酷くなった。ついになすすべもなく諦め、このまま太平洋に流されてしまおうと覚悟した瞬間、すべてが静まった。完全な静寂!

汗だくになり、これはたぶん何かの幻覚だったんだと思ったときRuthが「静かになったわね」とつぶやくと寝返りを打つとまた寝息を立て始めた。

彼女も聞いたんだ!いやそうなのか?
彼の「分離したリアリティ」が見せた夢じゃなかったのか?

ライターのAdam Smithは、ある日ニューヨークでカスタネダのダブル(分身)に出会った。
カスタネダに会いたかった彼は、ニューヨークのSimon and Schuster(カスタネダの本を出している出版社)の階段を登っていた。Smithはカスタネダがエレベーターを嫌っていることを知っていたのだ。

何段か上ったところで彼はカスタネダと思しき人物に出くわした。彼は何とか話をしたいと思い本の話、文化人類学へのカルロスの貢献などについて話しかけた。
カルロスは終始うなずきながら早い足取りで階段を下りていった。

話しかけてる途中でSmithははたと思い立った。これがドン・ファンの秘儀の「ダブル」なのではないか?と。
そこでSmithは半ば冗談のつもりで、あなたは本当はカルロス・カスタネダのダブルなのではないですか?と尋ねた。

すると男は立ち止まり、うなずいて「そうです」と答えた。そしてニヤっと笑うとロビーの人ごみの中に消えていった。

カルロスは、『力の話』を出す何年も前からダブルについて考えており、人々にさまざまなトリックをしかけてきた。

1973年の2月、カルロスは『力の話』の出版の打合せをしにニューヨークに来た。
彼は私に数日付き合ってくれと言ってきた。私はもう何年もカルロスと会ってなかったので痩せた身体にダークスーツ、コートの姿に驚かされたが、笑い顔や魅力的な話し方は変わらなかった。

私たちはタクシーでDrake Hotelで夕食をとった。彼はアルコールを飲まなかった。
私は最近読み終わった『イクストランへの旅』について話をしたかったが彼は拒んだ。

2018年8月7日火曜日

Maya(36)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』24-6

これはダメだな」とカルロスが言った。「摘む前に乾いていなければならない
John Wallaceが手を伸ばし少しちぎって匂いをかぐとなじみのある香りがした。
彼は少し齧ると言った。「カルロス。これは野生のセロリ(wild celery)ですよ

カルロスがニヤっとした。「そうだよ。ワイルド・セロリだ。いいものだ。アンゼリカは凄い。前にUCLAの有名な植物学者に分析をしてもらったことがある。何も(幻覚性の物質が)入っていないそうだ。何もない無害なものだ。10ポンド食べても何も起きない。だが呪術師にとっては重要なものだ。その煙は偉大な明晰さをもたらすのだ

明晰さは「敵」じゃなかったっけ?

John Wallaceと妻のRuthは空港に用事があったのでそこで他のメンバーと別れて町に戻ったが途中でRuthが具合が悪くなった上、道に迷いVenice Boardwalkを車で走ってしまい交通違反キップを切られた。なんとか空港にたどり着いたが、その帰りロスアンゼルスは大雨に見舞われ車のワイパーが焼き切れてしまった。
ほうほうの体で家に近づいたときRuthの上着のポケットに枝が入っているのに気が付いた。

カルロスは、彼らに「力の場所」からは何も持ち帰ってはいけないと警告していたのだ。
「わざとじゃないわ」とRuthが言った。「いつの間にか入ってたのよ
どう入ったかなんてどうでもいいから、さっさとそいつを窓から捨ててくれ!今すぐ!」とJohnが言った。

この二人は、少しイってしまってるような連中ではない。だけど感受性が強く人に影響されやすいところもあった。だからカルロスの謎めいて言い方の「力の場所から何も持ちだしてはいけない」を真面目に取ってしまったのだ。

Russも真面目に受け取った一人だった。夜、自転車に乗って家に帰る途中、いきなりとんでもなく大きな野ウサギが突然現れて彼を見つめたのだ。

あまりに驚いたRussは、自転車から転げ落ちてしまった。そしてそのままじっと目を閉じた。盟友や予兆はどこにでも現れる。野ウサギはしばらくRussを見つめると飛び跳ねてどこかへ去っていった。

このような奇妙な事件に遭遇したのは彼らだけではない。

私の古くからの友人Linda Cornettはカスタネダの心棒者でサイン入りの『イクストランへの旅』を持っていた。彼女はそれをベッド脇のテーブルにいつも置いていた。

ある日、彼女の娘、Paula―彼女もまたカルロスの信者だった―が母親の寝室に入ったら本の上に大きなカラスが乗っていたのだ。
カラスはおそらく空いている窓から入ってきたのだろう。それにしてもカスタネダの本の上にカラスとは。

おそるおそるPaulaがカラスに近づいてみるとカラスは右足に銅のリングをはめていた。
そのリングには小さくアステカのシンボルが刻まれていたのだ!俗人ならなんとでも合理的な理由を思いつくだろう。だが、彼女たちはこれを予兆とみた。

だが、こうした話もJohn Wallaceが見た夢に比べたら驚くことの程でもない。

2018年8月6日月曜日

Maya(35)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』24-5

一時期、Rosieがカルロスのために風を見つけたといううわさが流れたことがあるが、話はそこまでで、彼の講義が終了した後、彼はまだシャーマンではなかったし、どのような形で結末が訪れるのかもわからなかった。

終了レポートは課題となっていなかったが、代わりに講義で使ったカルロスの論文を余白への書きこみやメモなどを残したまま彼に返すように言われた。

講義の最終回は、ロスアンゼルスの北にある山の上で行われた。

そこはカルロスが「力の場所(a place of power)」と呼んでいてヤキの呪術師たちが瞑想や儀式を行っていた場所だそうだ。そこはマリブ渓谷(Malibu Canyon)の上にある場所で低木の周囲に環状に石が置かれているのをドン・ファンが夢で見た場所だそうだ。

みんながShipsコーヒーショップに集合した。RussはRosieと、Wallaceは彼の妻のRuthと一緒だった。Wallaceは講義には正式に登録していなかったがたまに聴講していた。

彼らは二台の車で出かけた。一台は、カルロスの茶色のフォルクスワーゲンのミニバスで、もう一台は道がわかる誰かが運転するヴァンだった。

環状の石のある場所に到着するとカルロスは車を降りてヤキの呪術と思われる運動を始めた。全員がカルロスの周りに集まった。

この後、カルロスが行った奇妙な運動の描写とそれを真似てやる学生たちの描写が続きます。

ぽっ!」カルロスが叫んだ。「ほら、ここに世界の裂け目がある
全員が彼の動きを真似て試したが、彼らが何を見ようとしていたのか自分たちもわからなかった。

Gewone engwortel R0012880 Plant.JPG
アンゼリカ
続いてカルロスが呪術師がここでどうやって世界を止めるために瞑想したかについて説明し、次に、デンタルフロスの罠を使ったガラガラヘビの捕まえ方を話します。

その後、彼らはヤキが呪術で使う「シシウド(アンゼリカ、Angelica)」を探しに出かけます。

乾いたアンゼリカはヤキ族が大好きな植物で煙を吸うと心を明晰にする効果があるのだそうだ。


彼らは立ち入り禁止と書かれた谷に入り込んでようやくアンゼリカを見つけますが、乾いていませんでした。

2018年8月3日金曜日

Maya(34)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』24-4

1972年の早春、Dick Covett Showのプロデューサーが彼に出演交渉をしてきた。

これはなかなかのオファーだったが、彼は断った。カルロスは、テレビで道化のように扱われるのが嫌だった。たったの15分で彼のドン・ファンとの体験を話したら茶の間でどうとられるだろうか。

カルロスがDick Covett Showに出たくない理由は他にもあった。”連絡不能”にすることにはある種の力と自由があるからだ。
Ned Brownは彼の二冊目でもインタビューを受けるようにしたので今回の『イクストランへの旅』でも同じようにさせていたが、新聞か雑誌だけでテレビ出演は行っていなかった。

呪術師の詳しい話、ドンファンとの最後のエピソードは四冊目の本(『力の話』のこと)で書く予定だし、まだ一年以上先の話だ。

今、若くて生意気なエリート主義者のDick Covettに会って『分離したリアリティ』について根掘り葉掘り突っ込まれるのは得策ではない。

彼のセミナーの終盤では本に書かれた内容から次第に離れ、これまで誰も聞いたことのない呪術の領域に入っていった。

例えば”四つの風(the Four Winds)”の話。

それは呪術師が探し求めなければいけない四人の女性で、盟友との最後の戦いで必要となる者だと言った。
また呪術師の弟子がいよいよ本物のブルホ(呪術師)になる儀式に立ち会うことになっているそうだ。

北は、”盾”となり彼を守る。後ろ側の南には、暖かい風の”ジョーカー”。”ジョーカー”は、春の明るさと軽妙さを持っている。彼女は厳しい北風を和らげる。西は、内省が”スピリット・キャッチャー”で現わされる。

最後が”武器”で東だ。武器は、最も権威がある存在で、またの名を”光明の風”と言う。

カスタネダは、彼女たちがソノラ(砂漠)の草原で盟友からの攻撃を弱めてくれるのだと学生たちに話した。彼女たちはぞっとするようなバレエのような踊りをする。

盟友は、彼女たちを次々に攻撃し最後に呪術師の弟子と向き合う。そこで彼が盟友を地面に組み敷くことができれば盟友の力を得ることができる。

もし弟子が負けたら振り回されて文字通り空中にものすごい速度で放り投げられてしまう。
ドン・ヘナロ(Don Genaro)は、それで彼の人間としての一部を失ってしまった。彼は二度と家に戻れなくなった。彼の旅、故郷のイクストランに帰る旅は永遠に続くのだ。

学生たちの多くは、カルロスの風や盟友の話がシャーマンが一人前になるための儀式について隠喩的な話だと受け取っていたが、それにしても怪しげな話だと思った。

ぼくはまだ四つの風を持っていなので、自分で追い求めなければならない。自分がその段階だと感じたら実行するつもりだ」とカルロスが言った。

これは、エイミーの本を読んだ後だけに、カルロスが女性をものにするネタだと思っています。

2018年8月2日木曜日

Maya(33)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』24-3

あなたに盟友をお見せしたいのです」カルロスが言った。
あぁ、かまわないよ、カルロス」とGarfinkelが言った。「大丈夫、盟友がここにいることを信じるよ

Grafinkelの目が「次に何が起きるのか」という表情で部屋を見まわしてカルロスの頭がおかしくなったのではないかと疑うような感じだったそうだ。
研究にのめりこんでおかしくなる文化人類学者はめずらしくないからだ。

もし、このエピソードがただのジョークだったとしたら、わざわざクラスで話さなかったろう。彼はすでに”カーネル(種の芯)呪術”という呪術の次のステージに進んでいたのだ。
この呪術については彼が著書に詳しく記している。

呪術師は、殺したい相手の呪術師から48粒のトウモロコシの種の芯を盗んで相手が歩く道にこっそり隠す。できれば黄色い花の中がよい。相手の呪術師が間違えて種を踏むと種が相手の体の中に入り込み死に至る。

ドン・ファンは、ぼくのためのトウモロコシを探してくれている。強力な呪術師は、自分のためのトウモロコシを育てるんだ。ドン・ファンが僕のための種を選んでくれるんだ

授業が済むと彼はロスアンゼルスに戻りNed BrownとSimon & Schusterと『イクストランへの旅』の出版について打ち合わせをした。
そして私に電話をかけてきて、小切手(生活費)を送ったことを伝え、C.J.の様子を尋ねた。

C.J.は、勉強はよくできていたが教師たちは彼が他の生徒たちとうまくいってないと言っていた。彼は静かで不機嫌で真面目すぎると言った。
私はC.J.が他の生徒たちと比べて大人なだけだと答えた。

カルロスは家に帰ってから私との会話を思い出して憂鬱になった。
なぜならC.J.の問題は彼に起因しているからだ。C.J.には父親がいない。父親の名前もないからだ。

繰り返しになりますが、このような”観察者のいない状況における”カルロスの内面を描く書きっぷりがこの本の弱点だと思います。”マーガレットがそう思った”というニュアンスにすればよかったのに。

彼は教室ではやり残していることがないと言っている。彼は教室で「僕にはもうやり残したことはない。いますぐ永遠に行けるのだ。僕を留めるものは何もない

これがカルロス・カスタネダなのだ。執着から自由になった男。ウィルシャー大通りのShipsコーヒーで家族と過ごしている一般市民、住宅ローンや結婚や子育てをしている連中とは異なる存在なのだ。

彼の名前は魔法になっていた。

レストランでは誰もが彼にサインを求めた。

Sally Kempton(スピリチュアル業界で有名な指導者)が町に来てカルロスについての記事をエスクワイヤ誌に寄稿すると言った。カルロスのエージェントはタイム誌と特集記事の交渉をしていた。彼は、もはや謎の教授でもなく半端な小説家でもなかった。

もっと特別なもの。彼は・・・カスタネダだった。

2018年8月1日水曜日

Maya(32)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』24-2

古代のエジプトやインドの神学体系ですら不十分なものだったんです。それは主観的な原理に基づいていて現実の生活にはまったく役に立たなかった。結局、外側には本当の物理的な世界が存在しているのです・・・

カルロスはうなずくと「うん、そうかもしれない

初期の神学は思考と感覚に限られていたからだね? 僧侶たちは多神教を捨てて一神教になったが、呪術は存続した・・・

・・・そうかもしれない。たぶん・・・

と、こんな調子で誰かが、1964年のドン・ロベルト(Don Roberto)のペヨーテ儀式などカルロスの著作のエピソードについて質問を始めるまで10分くらい続くのだ。

ここで書かれているペヨーテ儀式とは、カルロスが参加したミトテのエピソードです。

学生たちがする質問は「盟友(ally)」(カルロスがいつも書いていた形のない力)だったり砂漠での生活やドラッグの力だったりした。

Russがオーラや知り合いの魔女、はたまたオカルト関係者について話さない時は、西欧の宗教とドン・ファンの思想の共通点について話をしていた。

”見る”ことは、例えば、禅でいうところの”悟り”に近いんじゃないかと思います。どちらも世界を把握するための深い洞察に基づいている。禅の心は「戦士」の生き方と共通しているものがあると思うんです。どちらも煩悩からの解脱や無の境地に達するための訓練が必要だし。禅とドン・ファンの哲学はどちらも自然との調和が重要、だからとても似てると思います

カルロスはまた同様に答える。「面白いね。もっと教えて欲しいな

東洋神秘学の本には呪術の世界と驚くほど似通っていることが書かれています。例えばYogi Ramacharakaの『Fourteen Lessons in Yogi Philosophy』がそうです。その本には人間のアストラル体から発する光が人の周りを囲んでいて卵の形になっていると書かれています。その光を体から分離すると驚くような力を発するそうです。あなた(カスタネダ)が著書に書いてある話が出てくるんです

カルロスは、学生たちのフィードバックを歓迎していた。

Russの発想は馬鹿げていることもあったが、東洋と西洋の関連性というトピックには興味をもったように見えた。カルロスは、その発想をはじめて聞いたような感じに見えた。だが、カスタネダはアメリカインディアンの呪術の原形がアジアに発するものだと知っていたし、彼らの祖先がアジアから渡ってきていたことを知っていたのだ。

ある日、教室でカスタネダはHarold Garfinkel教授の家に招かれたとき、その場に「盟友」を呼ぼうとした話をした。

Garfinkelはまじめなユダヤ人の教師でPacific Palisades(高級受託地)に住んでいた。
Garfinkelは、現象学の権威で固い人物だったがカスタネダの研究に興味を持っていたので彼を自宅に招いたのだった。

話の途中でカルロスは、いきなり「盟友」がそばに来ているから部屋に呼び込んでもいいかと尋ねた。 いつものカルロスのやり方だ。