2010年11月30日火曜日

デンタルライフ(5) ~プロはいつ生まれるのか?~

「デンタルライフ(4)」で、親知らずの話をはさみましたが、今回は(3)の続きとなります。

あたしの担当になったCさんが、非常に可愛いかったので患者のあたしとしては、もちろん歓迎なのですが、きっと長続きしないんじゃないのかなぁ、なんて今から思えば本当に失礼なことを思ってしまいました。ごめんなさい。

実は、それから10年以上、ずっとあたしの担当をしてくれています。しかも、N歯科に時折ゲストで登場する専門医の先生からは「スーパー衛生士」と呼ばれるほどの腕前になっています。あたしが10年の間、彼女と話した雑談時間は、おそらくトータル1時間にもなっていないと思いますが、少しずつ少しずつお互いを知っていくわけです。

もちろん、先方は商売ですので営業トークもあると思いますが、(このN歯科は、「営業」が非常に上手なのです)ちょっとした対話の内に素の表情もお互い出してしまいますよね。

人が職業を選ぶのは、子供のときに「これだ!」って決めて一心に実現する人もいれば、成り行きでなんとなくなんて人も多いですよね。
というか、ほとんどの人が、その時の就職状況だったり、アルバイトの延長だったり、成り行きで職についているのではないでしょうか?

Cさんも別に、子供の時に衛生士になることは決めていたわけではないそうです。たまたま学校に入って、たまたま就職先がここだった。
でも、いつの間にか、その道のプロとなり彼女の技を全国から見学に来たりするようになっちゃった。

映画「おくりびと」で主人公が、自分の仕事に誇りを持ち、プロとして目覚めていく過程が描かれていますが、このように実務経験を積んでプロになるって姿に、自分が生涯半可通だけにしびれます。

Cさんがプロになったのは、もちろん本人の努力と研鑽の賜物ですが、院長の指導力も大きいです。
なにしろ、この先生、衛生士たちととにかく会話します。時には治療方針も一緒に相談します。ディスカッションの結果、衛生士の判断が採用されることも多々あり。これほど賑やかな歯科医って他にないのではないだろうか。

ある日、先生に組織運営のコツを聞いたことがあります。
「うーん。やはり、ポイントは、患者さんとスタッフに対する誠実さかなぁ。」なんて得意げでした。


2010年11月26日金曜日

口伝の力

いやぁ、ギター復活してから1年くらいたつけど、まったく上達しないなぁ。

ま、半年くらいは練習方法模索でうろうろしてたから、まだ6ヶ月くらいだと思えば、こんなもしれませんね。
今の練習方法で方向性は、間違ってないと思うけど、所詮、独学は独学だし。

楽器の先輩に聞くと、楽器はやはし先生につかないとダメよってなアドバイスを受けます。

YouTubeとかもありますが、やはりフェイストゥーフェイスのほんのちょっとしたアドバイスでいきなり上達するってのがありますな。確かに。

昔、オートバイの限定解除(※注)を受けてました。

合格をめざす連中は、中型でも比較的車体のでかく重量のある400CCを買って練習します。
もちろん、公道ではできないので、自動車教習場が主催する「練習コース」を借りて訓練をします。
あたしのホームグラウンドは、埼玉のレインボーモータースクールという学校で、プロの先生たちの指導をみっちり受けて試験に臨みました。
大型試験は月に一度しか受けられません。一回がとても貴重なのです。

なかなか受かりませんが、そこはそれ、日々たゆまぬ練習で、運動オンチのあたしでも上達してくるのです。
しかし、もう一歩!もう一歩!ってなとこでスランプに陥りました。どうしても「短制動」でうまくいかないのです。
ついこの間までは、むしろ得意な科目だったのに……。

短制動とは、急ブレーキのことです。ある一定スピードまで上げ、短距離でとまる。「急制動」は、イリーガルな用語なので公用語は「短制動」。

教習場に通い詰めていると同じ志の連中と親しくなるので自然と情報交換がはじまります。
練馬にも大型を訓練してくれる学校がある。特訓してくれるらしい。

そこは、「都民自動車教習所」というところで、でかけてみると教官たちがアウトローっぽい(笑)っていうか練習場も「馬場」のような感じの場所。
女性教官をはじめとして、なんだか、悪っぽくてかっこよいのです。
先生に、「短制動」でうまくいかないので特訓をお願いします。と頭を下げました。

バイクを動かす前。いきなり、先生が、あたしに短制動の仕組みを説明しました。言葉でです。
何キロのスピードで、この力を入れるとこのように減速する。みたいな。これが頭にスっと入ったとたん。自分の中ですべてが氷解しました。
身体の練習ではなくて、言葉で。不思議ですよね。これぞ口伝の力。

そして、翌月の試験で見事、合格。
夢のようでした。


※注:限定解除とは? 昔、結構長い期間、オートバイの大型免許(451CC以上)を教習所で取らせてもらえない時代がありました。
警察の試験場に行って直接試験を受けますが、「落とすため」のような試験で非常に難易度が高い。
関東では、神奈川の二俣川が特にむずかしいと評判でした。
東京は、府中と鮫洲の二箇所。コースに特徴があるので、どちらか一方に的をしぼって練習をします。
近年は、教習所で大型が取れるようになったので楽になりましたが、残念なことに、後ろからみると、みな足が開いてしまってます。
限定解除では受かりません。

2010年11月22日月曜日

デンタルライフ(4)~親知らず一気抜き~

職場に、N歯科であたしを担当している衛生士、Cさんに非常に雰囲気の似ている人がいまして。

仮に、彼女をMさんとしておきましょう。
朗らかで、声がよく通り、上司(院長)のとり扱い(ぞんざいな(笑))とかがそっくりでして、彼女にそのことを伝えてからというもの、なんとなくデンタルライフの話をするようになりました。
今朝、出勤時に彼女と会いまして、「親知らず」治療の話題になったので思い出しました。

あたしの「親知らず」は、N歯科に出会う前のエピソードです。
もちろん、四本ありますな。もともと。
20代で煩わされるようになってきました。

内一本は、実家の近くの歯医者さんで抜いてもらいました。そのとき、ヤットコみたいな器具でグイっと抜きますが、麻酔があまり効いていなかったらしく、あまりの痛さに気を失いそうになりました。
あぁ、痛いとき生き物は失神で身を守ると聞いたことがありますが、このことなのだと。幸い、気は失わずにソファーで横になって休ませてもらう程度で済みましたが、「親知らず恐怖症」になったのは言うまでもありません。

ところが!こともあろうに、滞米時に急激に痛み出したのです。残りの三本が!!

知人に歯医者を紹介してもらいまして処置をしてもらうことになりましたが、最初の面談時に、なんと「全身麻酔」で全部一度に、3本まとめて取り除くのがアメリカの流儀だってんで病院まで付き添いを頼み、帰路運転代行をしてもらってほしいと言われました。(公共交通機関がまったく発達していないので自家用車以外の術がないのです)

ルームメートが何かの用事で都合がつかなかったので、これまた知り合いの奥さんに無理をいって一緒にいってもらい、その日は結局、一晩そのお宅の世話になってしまいました。

さぁ!この後ですよ。なんてたって三本ですよ!一度に!豪勢にパァ~と!
麻酔が醒めた後の痛みったらもう半端じゃない。その一週間は地獄でした。

あたしのボロボロDusterを運転代行してくださった、Iさん。その節は大変お世話になりました。

2010年11月21日日曜日

馬鹿まるだし

あたし「あのさ、”バカまるだし”って知ってる?」
友人 「え?知ってるよ。バカまる出しでしょ?」

あたし「んじゃなくて、”バカまる出し”って流行語」
友人 「え、だから”バカまるだし”でしょ?普通によく使うけど」

あたし「いやね。”バカまるだし”ってフレーズにちゃんと”節(ふし)”があるの。”バカまるだし~”ってね」
友人「?!へ?なんすか?それ?"バカが見る~~"なら知ってるけど」

あたし「"バカが見るぅ~~"は、"ド ソ ソ ミ ソ~"だろう?"バカまる出しは、"ド ソ シ♭ ド ド ド~~"なんだよ。耳コピしたんだよ」(←まる出しそのもの)


昔よく使っていたのですが、マイブーム再来してます。いつも頭の中で、「バカまる出し~」のメロディーが流れています。
山田洋次監督の映画「馬鹿まるだし」がオリジナルなんですな。たぶん、昔見ているのだろうと思いますが、なにも記憶がないので早速借りてみなければ。


2010年11月17日水曜日

デンタルライフ(3) ~新人衛生士~

N歯科で、あたしの担当になったT先生のことを「歯鬼」と書きましたが、もちろん褒め言葉でして。

「歯」のことにしか興味がありません。

治療の椅子に座ると、もう「歯」にしか目がいきません。おそらくあたしの顔も覚えていないでしょう。
無駄口は一切無し。会話は、治療に関することだけです。
へ?歯医者さんなんだから、それで十分じゃない?ってお思いでしょうが、意外とお医者さんとは雑談してるものですよ。

治療に夢中になってくると、独り事が出てきます。「うーむ。ここはやっぱり、あれだったかな。まてよ。うん。そうだ、××にしよう」
そばに控えている助手にも目が行きません。
助手がもたもたしていると、サクションをひったくって自分で吸い取っちゃいます。かといって怒っているわけではなくて、ひたすら夢中になってるだけ。

悪いところを徹底的にねばって治します。
あたしの歯周病治療は、都合2年くらいかかりました。まずは、原因であるブリッジを取り除きました。
次に、歯肉の部分を少しずつぐるっと一周手術をします。
全部の手術が終了してから再度、取り除いた部分の歯を人工的に復活させます。

このとき、先生にインプラントにするか?お勧めはしないけど再度、ブリッジにするか?と聞かれたのですが、インプラントは、まだまだ一般的ではなかったのもありますが、金も惜しんでブリッジにしました。

先生のおかげで歯周病も完治しました。
この歯科では、治療と平行して歯科衛生士が担当でつきます。
あたしの担当は、ベテラン選手でT先生と治療の息もあっていましたが、あたしの治療開始後、ほどなく退職。

代わりに新人の衛生士さんがつきました。
はじめて紹介されたとき。む。この人との付き合いも短そうだな~と思いました。
なぜなら、このCさん。すっごく可愛かったからです。

2010年11月15日月曜日

「月光」禁止令

今日のタイトルは、「ピアノの発表会」で「月光」は禁止!
という意味です。

大人のピアノがはやっているので、呼ばれて聴きに行きますと「月光」演奏する人がいますな。
本人は気持ちよさそうなのですが所詮そこはそれなんなので、非常にかったるい。
「エリーゼのために」も禁止!

他にも禁止事項がね。ホームパーティで「運動会ビデオ上映」禁止とかもあるんですが。

さて、いきなり尾籠な話で恐縮ですが、週末、酒を飲んだ後、もどしてしまいました。

久々の快感といいますか、早めに済ませますと「拒んでいるアルコール」が体内に吸収されないさせいか、その後は結構快適になりますな。
スカっと。(なわけないか)
でも朝も割と大丈夫だったし。これを我慢して消化までもっていくときっと後がつらいのでしょう。

長年アルコールと付き合ってきているので、自分が飲める量、体調、などについては十分把握しているつもりです。
にもかかわらず具合が悪くなった。というワケは。

近所のいきつけの居酒屋さんに行きました。(実は、前日、前々日と酒席が続いて、いまひとつ気がのってなかったのですが・・・つい)
お酒というよりは、さくっと食事を兼ねて早めに上がり、ギターの練習でもしようかなと思っていたのですが、そこで知り合いにばったり会いましてね。
これは、あぶない予感。

案の定、店を出た後、「あにさん、おいらの家によって飲みなおさねぇか?」とこうきた。
近所にあるんですわ、やっこさんの家が。
ちょっとだけ。ちょっとだけ。ってんでこちらも久しぶりは久しぶりなので懐かしい。
じゃ、ほんとに少しだけってあがらせてもらったのがいけなかった。

「食事」のつもりで飲んでいると書きましたが、酒で気持ちが悪くなるのって、もちろん酒もありますが、実は「満腹」状態がよくないんですよね。
ほんとの酒飲みってあまり食べないじゃないですか? あれって酒飲みの本能なのでしょう。ほどよく飲んで、軽くつまんで、しかも日本酒にチェイサーで水でも添えれば金輪際悪酔いはしない。

ところが、満腹状態で追加でお腹に入れたものだからいけない。どんどん注がれるし。
~あ、このままここで飲み続けるとヤバイと思いまして、相手の酔いに任せた強引な引きとめを振り切ってなんとか帰宅しましたが、最後は降参してしまいました。

それとも、運動会のビデオ見せられたのが悪かったのかなぁ……。

2010年11月13日土曜日

デンタルライフ(2) ~ブリッジが災厄に~

前回のデンタルライフの記事に登場したカイロプラクターのH先生。今はどこで開業しているのだろう?とふと思い検索しました。

ありましたよ。HPが、写真つきで。あたしが出合った時は、日本橋のクリニックに勤めていたのですが、ちょうどN歯科に紹介していただいた時に赤坂で独立開業するという計画を伺っていました。
今も、赤坂、というか平河町で診療をされていることがわかりました。息災、よかったです。

さて、N歯科に通って顎関節症が完治した話を書きました。

N先生は、悪いところがあると全部治さないと気がすまないたちでアゴ治療が終わっても、歯磨き方法をはじめ徹底的にしごかれました。歯自体では、中学生の時に折った前歯の差し歯が古くなっていたのを新型のものに変えてもらいました。

というあたりで一段落しまして一通り健康になると、そこはそれ現金なもので定期検査も間遠くなり、その内に、稼業も変わったりして、いつともなく先生とは縁が切れてしまいました。

ただ、ココロの中では、歯医者といったらN先生だったよなぁ~なんて思いつつ。

その頃、あたしは新宿勤めでした。
入社して少ししたら左上の奥歯の様子がおかしくなったので会社のすぐそばにあった歯医者さんに通うことにしました。
そこにはあたしの勤務先の社長も来てましたので、社長もきてるくらいだし間違いないだろう・・・というのが大間違いでして(笑)

結局ダメになっていた左上の奥歯を抜歯(ばっし)して、その後をブリッジにしました。
今でこそ、歯医者さんたちは、ブリッジは最低!なんてたってインプラントでしょ!
なんていってますが、なんだったんでしょう?ブリッジを薦めるわけですよ。当時は。

ブリッジは、片持ち(キャンティレバーといいます。建築用語ですが、なんと!歯の医療用語でもあり)にしますので抜いた歯の他に健康な歯もキャンティの土台としていじめてしまうわけです。
そこまでして入れたブリッジがどうもしっくりこない。

先生に、たびたび不調を訴えるのですが、「まだ新しいので直なれますよ」なんて暢気なもの。とりあってくれない。
その内、不調が加速しまして歯茎全体がおかしなことになってきました。合わないブリッジのために完全なる歯周病になってしまったのです。

朝、起きたときの口の中の気分の悪さといったらない。

あぁ、もうだめだ。と、その時、心に浮かんだのがN歯科でした。
すでに通わなくなってから10年以上経過していたのでなんとなく敷居が高い――すると偶然、勤務先の社員がN医師の奥さんと友達であることが判明。お願いして、とりなしてもらいました。
師匠をしくじった噺家さんが席亭に仲介にたってもらう感じでしょうか(笑)

N先生。あたしのことを覚えていてくれました。先生、調子のいいところがあるので後で思い出してきただけかもしれませんが。

場所は多少ましなビルに移っていましたが、同じ町で診療を続けていました。
規模もやや拡大。なんてたってサブの歯医者さんまで雇ってましたから。院長はそれなりに名も通り、すっかり忙しくなってまして肝心な部分は院長が診て、現場はサブの先生があたしの担当になりました。
お医者さんが、このタイプの運営(さわりだけ院長で後は助手)スタイルになると大抵は品質低下するものなのであたしは当初ちょっとがっかりしたものです。

しかし、これはあたしの了見違いだということがすぐにわかりました。
担当になったサブのT先生。この人は院長を凌駕するほどの「歯の治療の鬼」だったのです。歯鬼です。

2010年11月11日木曜日

弥生式遭遇

夏の頃の話ですが、文京区の弥生美術館で催された「栗本薫/中島梓 展 ~書くことは 生きること~」に出かけてきました。
弥生式土器がみつかったというあの弥生。東京大学の裏側のあたりにある私立の美術館です。

栗本先生は、同窓の先輩ではありますが面識もなく、小説も数えるほどしか読んでおりませんが、大学の新入生(文学部)だったときに漫画研究会に入ろうと部室の門を叩いたという話をサークルの先輩から聞いたことがあります。

第二学生会館にあった部室のドアをあけたとたん雰囲気の悪いグラサン風情の部員にジロっと睨まれ、一気に入る気が萎えてしまったと。

でも入会しなくてよかったですよね。
わがサークルの諸先輩方は、はからずも日本の娯楽文学界に大きな貢献をしたわけですな。

ま、あたしも萎えましたけどね。直に慣れました。
そこが巨匠と凡人の違いでしょうか。

それはそうと、会場『グイン・サーガ』の表紙絵の展示が終わったあたりに、というかそのあたりだけに人だかりがある。

女だけワっとね。

といっても狭い会場だし5~6人。雰囲気の似たような生若い女性たち。ファッション用語を知らないのでどう表現してよいのかわかりませんが、なんとなくなんとなくな――そう、ちょうどあたしが所属していたサークルに多いタイプ(怒らないでね>>昔のみんな。)というか・・・。

ま、それはさておき何を熱心に見ているのだろうと近づくと、ありましたよ。BLですわ。栗本先生、BL漫画の原作を多量にてがけていたのですね。
(通の方々にとっては常識なのでしょうが)
そこは、ブロークバックマウンテン向きとお墨付きをもらっているあたしとしては放っておけない。

こっそり彼女らの背後に近づきながら突然はたと理解!
はは~ん。わかった!これが、いわゆる腐女子ってやつか。と。
初めて遭遇した!のか、昔から馴染みがあるのか!

2010年11月8日月曜日

デンタルライフ(1)~カイロから顎間接治療へ

建築設計に携わっていますと必ず腰を痛めます。
(今は、CADなので手描き製図時代の話ですが)

あたしの場合、設計作業をしているときに痛めたのは腰だけでは、ありません。
今となっては原因は不明ですが、おそらく図面を引いている時に歯を食いしばるせいでしょうか。
腰痛と併せて顎関節症というものにかかりました。アゴの筋肉が痛くて痛くてたまらない。

当時、そんな病気の名称は知らずにアゴが痛くてしかたがないってんで、きっと整体系の処置が効くだろうと日本橋にあるカイロプラクティックにかかりました。アメリカにいたときに肩こりでカイロプラクターに施術をしてもらっていたので当時はまだ珍しかったカイロ専門の治療院を探して訪ねたのです。

滞米時のかかりつけの医者だったDr.Beardは、マニュピレーションといいまして「手」だけで施術を行うタイプのD.C.(Doctor of カイロって資格があるのです)でしたが、日本橋であたしの担当になったH先生は、ドーソン方式といいまして、SFの手術台のようなマシン駆動のベッド―――ドーソン・ベッドといいます―――を使って施術する別の流派の先生でした。

人の出会いとは不思議なもので、このH先生は、ご自身が顎関節症だったのです。自分の商売のことを抜きにして彼は、自分が通っているアゴの専門医を紹介してくれました。

これまた、当時、日本では珍しい専門家で、しかも町場で開業していました。平日は、普通の歯の治療。アゴは、土曜の午後に予約診療で数回の検査とかみ合わせの矯正訓練。咬合を矯正するためのマウスピースなどいろいろな方法を使い、一年くらいであたしの顎関節症は100%完治しました。

この歯科医の先生は、N先生。顎関節症の研究でしょっちゅう外国にでかけるので治療は間があきますが、とにかくねばる。
アゴの治療のついでに普通の歯の検査もするので通常の歯磨きの訓練や歯の治療についても厳しいアドバイスがありました。

ここから、N先生との付き合いがはじまりました。
間、ブランクがありますが足掛け30年近い付き合いになります。

2010年11月4日木曜日

サナトリウム

 少し前に、母が入院していた「サナトリウム」の話を書きました

毎週、たずねようたずねようと思っているのについつい忘れてまして、ついに先週末、母に入院時期を確認できました。
当人的にも、さすがに大昔なのであやふやだそうですが、25歳から27歳の二年間、入院していたそうです。

母は、大正7年生まれですので、今年92。

さて、25歳から27歳というと、ちょうど1943年から45年、つまり終戦の年まで滞在していたそうです。

母によると入院の段階で医者には、結核ではないといわれたのですが、その時点では他の家族は疎開してしまっていて帰る家がなかったので無理を言ってそのまま居させてもらったということらしいです。

当時、母の実家は麻布(金持ちの住んでいる高台方面ではありません。念のため)にありましたが、空襲で火がつくと火事になるというので木造家屋を壊したそうです。父親(つまり、あたしの祖父)を除いた家族の残りのメンバーは、両親の故郷である秋田に疎開していた、と。

あたしの母だけが幸か不幸か病院住まいというか病院に疎開していたというわけです。
でも、父親だけが東京に残っていた?というと、家を取り壊してしまったというのに、どこで暮らしていたのでしょう?これを書きながら疑問が・・・。

27歳で退院ということは、終戦を機会に家に戻ったということですが、一旦壊した家の跡地に、バラック(掘っ立て小屋)住宅を作り直したそうです。

東京(都)が立てたと言っていましたので補助金なり公共工事で行われたのでしょうが、敗戦の中でも福祉や厚生活動が行われていたことがうかがわれて興味深いです。

追記2017年5月25日この母も今年亡くなりました