2018年12月31日月曜日

Amazon Kindle アカウント結合の呪い

最近、kindle paperwhiteで購入したkindle本の購入履歴が存在しないという事象にあいました。

すぐにアマゾンのサポートにチャット方式で連絡しましたが、なぜかkindleのサポートがアジア系の外国人ばかりで話がどうにも噛み合わない。
業を煮やして電話サポートに切り替えたところかなり日本語が達者な中国人サポートに巡り合えてようやく専門部署につないでもらえ二度ほど調査で時間をとった結果原因が判明しました。

これはアマゾンkindleの「アカウント結合」のシステムトラブルによるものだというのです。
アカウント結合ってご存知でしょうか?
聞けば、もう行われていないサービスなんだそうです。
Amazon Kindle 3.JPG
kindle keyboard

kindleの初期の機種(キンドル・キーボード)は、国内では販売されずあたしたち日本人の新し物好きは本国から取り寄せて買いました。

当然、本もアメリカの本(洋書ですな)しかありませんし、本の購入にはamazon.com(米国のアマゾン)のアカウントを使って買います。

そののち、日本でもkindleが発売されてamazon.co.jpでもデジタル本を買えるようになりました。
ここで困ったのが初期のkindleユーザー。米国アカウントで買った本を国内販売のkindleでは読むことができないという事象につきあたります。

そこで考え出されたのが「アカウント結合」というやつでamazon.comとamaozon.co.jpのアカウントを「合体」させた状態を作りcomで買った本もco.jpで買った本も同一のkindle端末で買ったり読んだりできるようにしたのです。

ところが相当複雑なデータベースの取り扱いを行ったらしく、どこかとっちらかってしまったのでしょう。あたしが遭遇したような買ったのに履歴に残らないという症状が現れたと。

kindleには、「端末とコンテンツの管理」というPCインターフェースがあって、確かにそこには買った本が表示されるのに履歴にはないのです。

アマゾンのサポートからの連絡により、あたしのpaperwhiteのco.jpアカウントを一度解除しamazon.comのアカウントで再登録することで問題は解決できるということがわかり実施したところ無事治りました。

ためしに、comアカウントを解除して再びco.jpアカウントで登録しなおして(怖いので無料の)コンテンツを購入したところ無事履歴に反映されました。逆にcomアカウントで購入しても大丈夫なので、これぞ本当の「結合」がなされたと言えるのではないでしょうか。

アマゾンサポートの回答も相当手間どったので事例としては珍しいものだったのかと思います。

しかし今回のトラブルの最大の難関はやはりアマゾンの外国人スタッフとのコミュニケーションでした。さすがのあたしも途中で申し訳ないけど日本語が通じる人と変わってくれと泣きを入れました。

2018年12月13日木曜日

ボヘミアン・ラプソディー ~土曜日の夜にブルースでも演ってろ!~

追記記事アップしました。
ボヘミアン・ラプソディー追記
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映画の『ボヘミアン・ラプソディー』、話題になりましたね。

クイーンとリアルタイム世代のあたしですが、当時はまったく興味がありませんでした。(これに限らず、ツェッペリンもジミヘンもね)

人並みにウッドストックを映画で見たり、CSNYのアルバム買ったりしてましたが、所詮は半可通。いまになってみればもう少し突っ込んで沢山聴いていればよかったなと思います。

あたしの中学時代の同級生のM君はクイーンが好きで新しいアルバムが出るといつも嬉しそうに見せてくれましたが、あたしはろくに反応もしてませんでした。

その後、ベストアルバムは人並みに買っていますが、当時M君にきちんと応えていればライブなどにも誘ってくれていたかもしれません。ごめんね。M君。

特に忘れられないのが、クイーンのアルバム『世界に捧ぐ』 (News Of The World)』。
ジャケットのロボットの絵が印象的でM君のせまいアパートの一室で彼が大事そうにあたしに見せてくれた日が思い出されます。
(このアルバムのタイトルも知りませんでした。このトピックを書くので今回検索して知りました)

で驚いたのは、このアルバム。出たのが1977年とのこと。M君が中学の同級生なので在学中71~72年に見せてもらったと今の今まで思い込んでいたのですが、この日付ですと高校生時代ということになります。

M君との付き合いはその後も細々と続いていていまも年賀状のやりとりくらいはあるので高校生の時にアパートを訪れていたのだと思います。
人の記憶とは本当にあてにならないものです。

さて映画『ボヘミアン・ラプソディー』について。号泣したとか、そっくりですごかったとかという感想が大半ですがあたしが反応したのはまったく別のところでして(笑)。

後半、フレディーがソロ活動を企てて残りのメンバーから糾弾される場面があります。
フレディーは立ったまま、きまりが悪そうに独立を申し出て、責められるとある種逆切れ的にこんな感じで応えます。

「変わらないとダメになる。このままでいいのか。このままでいいと思うようなやつは土曜日の夜にブルースでも演ってりゃいいんだ!!

受けたなぁ。
そうなんだよ。ごめん、悪かった、趣味でブルースで(笑)
きっと映画見てここで反応した人って日本で二千人くらいしかいなかったんじゃないかしら。

考えてみりゃ彼らの音楽ってブルースと対極にありますよね。ぐだぐだとその場の雰囲気で進める音楽と彼らみたいに完璧に作り上げる「作品」とは。

クイーンは周囲の人たちがみな存命なので上のセリフは取材した結果、フレディは実際にこれに近い啖呵を切ったのではないでしょうか?

このセリフを正確にメモしたいのでDVD販売されたら買っちゃうかも。

「土曜日の夜にブルースでも演るしかない」
・・・そこがブルースのいいところなんだろうなぁ。

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追記記事アップしました。
ボヘミアン・ラプソディー追記




2018年12月5日水曜日

ジェームズ・コットンのインタビュー映像

慢性前立腺炎対策にかまけている時間やらもろもろで、ブログをここのところ更新してません。だってブログを打つには座らなくちゃいけないのでPC作業は前立腺と相反する存在なんですよね。

最近、フェースブックを見てたら知り合いが、表題の「ジェームズ・コットンのインタビュー映像」というのをシェアしてました。
あたしもコットン大好きで何曲か真似してます。

紹介されていた動画は大半が彼の演奏なのでハーモニカ好きは見て損はないかなと思います。

11分くらいから「ハーモニカをアンプリファイすることについて教えてください」という質問に彼が答えます。

ご存知ない方のために説明しておきますとアンプリファイとはアンプに接続したマイクを使ってハーモニカを演奏することです。

各種教本にも”アンプリファイド・ハーモニカについて”なんて項目が必ずあってかっこいいブルースを演奏する手法として紹介されています。

そんなことを受けての質問なんですが、コットンの答えが最高。

「うーん。そうねぇ。ぼくにとってね、そうね。アンプリファイするってのは・・・、音が大きくなるからね

やれこのアンプが音がひずんでかっこいいとか、これこれしかじかのイフェクターを組み合わせるとか能書きに走りがちなしろうとのあたしたちに猛省をうながす衝撃の一言(笑)

コットンのインタビュー動画はこちらへ


2018年10月26日金曜日

もしも、今から習うなら・・・(2)

あたしは一年、独学していたので先生に習った初回は、いきなりブルースの課題曲を言われましてそこからずるずるっと始めた感じですが、本当の初心者の場合は何の曲からやると楽しく学習できるのでしょうか?

できればキラキラ星とか赤とんぼみたいな童謡とかじゃないほうが嬉しいなぁ~。
(キラキラ星はたしかにすごい入門曲らしいのですが・・・)
とはいえ聖者の行進みたいな超スタンダードも平凡でやだなぁ~。

・・・とか言える立場じゃないので先生から言われた通りきっと上記のようなスタートになるのでは?

でも初心者といえどもどうせならもう少し見栄を張りたい。
あまり人が知らないけど渋くていい曲なら早めにレパートリーに加えられるし。

そこであたし考えたのがこれ!

■一曲目はこれ!『シェナンドア(シェナンドー)』by チャーリー・マッコイ

ということで本当の一曲目はやはりこれじゃないでしょうか?
ベンドもフェイクも無くて手のぱたぱただけだし。

巨匠チャーリー・マッコイも「おれが一番好きな曲」と言っているやつです。

下で引用しているYouTubeの映像は彼のアルバムに収録されているものなので(練習用とは)キーが違いますし途中で移調するのであくまでも参考です。

練習ではCのハーモニカで、出だしは低いソ。3穴の吹きから始めます。
(本当は2の吸いからと言いたいところですが、初めてという想定なので3の吹きを使います)

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ソドドーレミファラーソー
ドシラーソラソミソー
ソソララァミソミレードー
ドレミードミラソー
ソドレミードレーレードー
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出だしの「ソドドーレミー」の部分は、『赤とんぼ』と同じ。
でもなんとも言えないアメリカ開拓時代への郷愁を感じさせる旋律ですね。


もしも、今から習うなら・・・(1)

この記事のタイトルを正しく長めに書くとこうなります。

「もしも、あたしが今からブルースハープを習うのなら、こんな曲から教わったら進歩が早かったのではないだろうか?」

独学で初めて師匠に教わりセッションに出させてもらったりかれこれ10年近くやってきてますが、できるならもっと進歩が速くなりたいものです。

以前書きましたが音楽の先生たちは「師匠」です。さすがに生徒は師匠の技を盗むみたいな大時代な話ではありませんが、口伝やら指導の後の内省などで結局生徒は自分で練習して学んでいくしかないわけです。

また音楽の先生たちは民間の療法士と似ていて生徒のカルテをつけてくれませんな。
いい加減だとはいいませんが、基本的に場当たりですな。(あくまでも個人的な感想です)
前回どこまでやったか、何を宿題で出したか?、はたまた何を口伝として伝えたか忘れてたり、要するに体系だっていない。(笑)(あくまでも個人的な感想です)

ピアノみたいに先生の層が厚ければ中にはツェルニーやハノンのような几帳面な先生がいて体系だったものを残してくれるんでしょうけど、なにせブルーズマンたちですから、きちんとしてたら逆に沽券にかかわりますよね。

とはいえ習う側の心情としては苦行じゃなくて趣味なわけですから易行で楽に上達したいものですよね。できれば上達するおまじないがほしい。

で、あたしは考えましたよ。

さすがに魔法のおまじないはないけど、この曲からスタートしてくれる師匠がいたら上達が早いのではないだろうか?と。
もちろんあたしは人様に教えられうような知識も技量もないので、これは妄想です。

(つづく)

2018年8月31日金曜日

「慢性前立腺炎、自主治療の試み」のその後(2)

追記2019/11/19)さらに現況追記しました。
追記2019/1/23)その後、更に自主治療のやり方が変わっています。少し良くなってきた感じがありますが自分で納得(確証?得る)できるまで少し待とうと思っていますので、下記記事は少し古いという前提でお読みください。
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ということで、この記事アップ時点の自主治療のアイテムをご紹介します。
中には前立腺炎と関係の薄そうな思い込み項目もあるので、前立腺炎プロパーのアイテムにはをつけておきます。

最近では、八味地黄丸の効果も含め特効薬という発想はいったん忘れて「症状の緩和」という考え方にした方がよいのではと思い始めました。

■現状

自主カルテ
ザルティア

八味地黄丸(クラシエの市販薬で始めて医師処方のツムラの顆粒に)
 これまで試したアイテムで一番効果がありました。⇒その後中止していますが、効果あります。
スーパービール酵母Z:深い意味なく亜鉛入りだし程度。
ビーポーレン:効果不明。セルニルトンの原料だというので継続しているだけです。⇒その後中止しています。
○はなびらたけ(NEW):がん対策になるといううわさなので始めました。⇒その後中止しています。
○養命酒(NEW):冷え対策⇒その後中止しています

軟膏系:プリザエースとデリケアエムズ
痔でもなければ股間に湿疹やかぶれがあるわけでもないのに、なぜか肛門と会陰部に塗布すると症状が緩和する気がします。
もしかすると気分の問題だけではなく実際に皮膚に薬が浸透して痛み(不快感)を軽減してくれているのかもしれません。

シッカロール
慢性前立腺炎の主訴を以前、股間がべたつく感じがあると書きました。このべたつき感は、その後、臀部のたるみの部分でも感じることに気が付きました。自分が妙に気持ち悪いだけで実害はないのですがあまりにも不快なので緩和させるためにシッカロールを使っています。その後、この感覚はそういえば慢性前立腺炎の直接原因となった生体検査ではなくて放射線治療の副作用かもしれないと思い始めています。

そこで最近(2018年7月)、ふとシッカロールと放射線治療の関係を検索してみると、乳がんの治療をされた方がシッカロールを使っているという記事を発見したのです。

知らなかったのですが、放射線治療を施した部分は発汗しなくなるそうです。(医者は教えてくれませんね。そうしたこと)

で、ここからはあたしの素人判断ですが、発汗しなくなった部分をカバーするために近隣の皮膚(あたしの場合は、股間であり臀部の一部)が余計に発汗するようになったのではないだろうか?という推論です。

それが的を射ているかどうか別にして実際に症状があるわけなので少しでも気持ちが楽になれるのならとういことで使っています。

ストレッチ
○スクワット⇒その後中止しています
 慢性前立腺炎にはストレッチという記事をみかけますが特に効果を感じません。
 ただ身体にはいいのは間違いないので習慣にしました。
○肛門引き締め⇒その後中止しています
 これも軟膏と同じでたぶん緩和にいいのではないかと思ってやっています。
片足立ち⇒その後中止しています
 冷え防止
○階段上り
 ただの運動不足解消と冷えにいいのではないかと
○MBTシューズ
 冷え対策で履き始めました。始めたばかりなので効果は不明。
○足カイロ:寒い時期に実施
足の台症状緩和に必須です。
前立腺用の座布団:エクスジェル (EXGEL) たび・ざぶ円座:以前の記事の通りです。※

2018年8月30日木曜日

「慢性前立腺炎、自主治療の試み」のその後(1)

追記2019/11/19)さらに現況追記しました。
追記2019/1/23)その後、更に自主治療のやり方が変わっています。少し良くなってきた感じがありますが自分で納得(確証?得る)できるまで少し待とうと思っていますので、下記記事は少し古いという前提でお読みください。
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慢性前立腺炎の自主治療の試みについて書いてきています。

前回は、時間が空きましたが『病気(前立腺)の話(22)自主的治療の試み(8)』でした。
その後、かなり変化がありましたので書いておきます。

前回から変わった大きな点は、

○春ウコンを止めた。
○ノコギリヤシを止めた。
○漢方薬の『八味地黄丸』を服用し始めた。⇒その後中止していますが、確かに軽減します。

この3点が大きな変更点です。春ウコンとノコギリヤシについては効果を実感できませんでした。特に後者に関してはいろいろなメーカーのものを数カ月ずつ試しましたがあたし的にはダメでした。

新たな「八味地黄丸」ですが、これは慢性前立腺炎の遅々として進まない状況の中、つらつらネットで情報を探していたところ京都大学の泌尿器科が公開した1988年の情報を見つけました。

八味地黄丸なら薬局で買えるしというので、さっそくクラシエの八味地黄丸を買ってきて服用を始めたところ、不快感がかなり改善(軽減)されました!

このまま完治するのでは?ぐらいの感じもあったのでこの原稿の下書きをしながら完治したら最新情報をアップしようと思っていたくらいです。

ただそこはそれ医者も諦めるくらいの謎の病気です。軽減はいい感じですが完治はあったとしても先の話のようなので現時点で公開することにしました。

その後、デルタ病院の内科でたまたま足の冷えの相談をしたときに市販薬の八味地黄丸を飲んでいると話したら病院で出してもらえることになりその後も続けています。

デルタ病院は、がん治療のフォローアップと慢性前立腺炎の面倒を見てもらっている地元の病院です。
そこの泌尿器科の定期検診で別件で来た内科で八味地黄丸を出したもらったと報告したところ「僕たちもよく処方するんですよ」って・・・だったら先に試してくれてもいいのに。

他のこれまで行ってきた自主治療アイテムについてもおさらいをしておきます。

●効果を感じなくて中止あるいは変更をしたアイテム

○セルニルトン⇒中止。ザルティアとビーポーレンに変更 ⇒ これもその後中止
○ノコギリヤシ⇒小林製薬のものなど3種類を試してから、サントリーの「ノコギリヤシ+セサミンE」にしていましたが中止しました。早い段階で正直ノコギリヤシは効いてないと思ってましたが、どうせ効かないのならセサミン入りがいいやという発想でした。
最終的に中止。
○青汁 ⇒効果感じず中止。
追記(2019年3月5日)その後、青汁(キューサイ)に戻りました。効果あります。
 詳しくは記事にしたためますが、さしあたり。
○春ウコン ⇒ 効果感じず中止。
○生理用ナプキン ⇒中止。違和感軽減なしで面倒なだけ。
○枇杷の葉の湿布 ⇒中止。効果感じず。
○枇杷の葉茶   ⇒お茶の種類を柿の葉に変えたりどくだみに変えたりして継続。
 ※どのお茶も特に効果ないと思いますがリチュアル気分的な習慣で続けてます。
 ※柿の葉茶は、夢中になってがぶがぶ飲むと鉄分が極端に減ってしまいます。
  服用はほどほどに。
 ※枇杷の葉茶は旨い!でも「種」枇杷の種の件もありますので、ほどほどが良いのではと思います。

 ※このテのお茶に関しては昨今、毎晩煎じることに疲れてきました。「煎じ疲れ」(笑)ってんですか? いまある分使い切ったら止めようと思っています。

○会陰部にホッカイロ:以前良さそうだと書きましたがあまり変化がないみたいです

ということでくどいですが、あらためて次回の記事に最新の治療関係アイテムをリストします。

2018年8月20日月曜日

カスタネダの真実 ~ 堕ちた戦士 ~

自分の中で再ブームが起きて2016年の7月からはじめたあたしの「カスタネダ(再訪)の旅」ですが、ついにマーガレット・カスタネダ著『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』の紹介を済ませることができました。

もともとカスタネダの自著を全部おさらいするつもりだったのですが『力の第二の環』まで進んだところでエイミー・ウォレスの著書に寄り道して彼の実像に近づいたことで、後半の著書についてはおさらいをする意味があまりないなと思うようになりました。
(『無限の本質』については、それでも”おさらい”をする価値があるかなと思っていますので、また機会を見つけたいと思います)

以上をふまえ「デスクトップ・ディテクティブ」のヘナチョコ推理による暫定的結論を書いておきます。

カスタネダは、
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本当にフィールドワークを行い、何人かのネイティブにインタビューを行った。

時には、実際にリチュアル(儀式)に参加させてもらった。
メモもとったが人々の会話も録音した。

伝統的な知恵をもつ老インディアンたちに出会って仲良くなった。老インディアンは、商売をしている似非グルとは似ても似つかない本物の師匠だったが、高齢のため他界した。

カルロスは、呪術師の内弟子にはなっていないか、なっていたとしても免許皆伝はもらえなかった。

シリーズ3巻目くらいまでは、フィールドワークの内容を膨らませてネタがもったが、以降は、師匠不在となりオリジナルで創作していったので、ドン・ファンは急にニューエイジ用語をこねくりまわすインテリになってしまった。

2巻目の後半の「ヘナロの滝わたり」あたりから超常現象を織り交ぜていき、以降、巻が進むにしたがい虚構と東西神秘哲学を組み合わせて筆を進めていった。

文中、ドン・ファンやヘナロにもからかわれていますが、女好きが高じて自分のグルーピーを洗脳してハーレムを作った。

同時に、自分も女性たちも自分たちがついたウソを自身でも信じるようになっていった。

正しい指導を受けずに瞑想を実践していたためメンバーは精神にも少しずつ異常をきたしていった。

カスタネダ自身が高齢になりグループのリーダーたちが法人によるビジネスを推進した。

この動きはカスタネダ自身もコントロールできなくなり、自身の自由も奪われてしまい最愛の息子(養子)にも会わせてもらえなくなってしまった。


これがカルロス・カスタネダの真実だと思っています。

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『時の輪』のあとがきより

明かされた力 ~ 解題にかえて
北山耕平

一度知ったら戻ってこれない、そしてどこにも辿り着けない旅、それがカルロス・カスタネダを読むということなのだ。
危険だが、その価値はあるはずだ。
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リチャード・デ・ミルの言葉

カスタネダは、ただの詐欺師ではない。彼のウソは私たちを真実に導いてくれる。彼の話は本当の話ではないのに真実で一杯だ。これは呪術師の贈り物だ、まったく正反対のもの―知恵と欺瞞を同時に扱う曖昧模糊とした魔法の書である。

2018年8月17日金曜日

エイミー・ウォレスについての余談 ~Google検索のワナ~

最近、Googleの検索でカルロス・カスタネダの愛人だったエイミー・ウォレスを検索したところ誤った(というか興味深い)情報が出ましたのでご報告しておきます。

画像がその画面(はみでてすいません)ですが、いつのころからか検索を「まとめた概要」が右側に出るようになりましたよね。あたしはこれは基本Wikipediaから来てるのかなと思ったのですが、どうやら違うみたいでネット上の様々な情報をGoogleがまとめているようです。

「まとめ」コーナーのエイミーの情報については合っているのですが、写真が別の女性のものになっています。同姓同名のこの方は存命でライターのようですがカスタネダとは無関係です。間違われた女性も勝手に死亡したことにされてしまっていい迷惑ですよね。



カスタネダのエイミーについてのウィキ情報はこちらです

ちなみにGoogleで「カルロス・カスタネダの妻」と検索しても、この間違われた女性が出てきてしまいます。

ほんとうにネットの情報は慎重に受け取らないと大変なことになりますね。

BBCの例のドキュメンタリーに出演したときのエイミーの画像も掲載しておきます。
(2006年か7年のオンエアなので彼女が52,3歳の時のものです)



2018年8月16日木曜日

Maya(43)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』28~エピローグ

第28章はマーガレットの独白的な締めなので割愛します。

■エピローグ

ついに私はカルロスとはもう二度と会うことも話すこともないということを受け入れた。彼は、もう私の電話にも出ないし、彼の仕事場で頼んだ伝言にも返事を寄こさなかった。
David Christieが1993年の10月1日、カリフォルニアのサンタモニカのPhoenix Bookstoreで講演会をやるという連絡を受けて驚いた。

ガイア書店
書店でのエピソード:『C.J.カスタネダの話(3)『ドン・カルロスの教え』(27)』

彼の最新の著書、『The Art of Dreaming』(『夢見の技法 - 超意識への飛翔』)が出版されてひと月か二月経ったばかりだった。私は興奮を抑えられなかった。

ところでDavid Christieって誰でしょう?当たり前のように登場した人物ですが、これまで言及がありません。

絶対に行きたい。どうすればいい?」と私が尋ねると
招待客だけなんだ」とDavidが言った。

Davidは、書店のオーナーにゲストを連れていっていいかどうか聞いてみると言ってくれ、彼に付き添って出席できることになった。
すぐに私はAdrian(C.J.のこと)に連絡をとった。
彼も興奮し私と行きたいと言った。私が難しいかもしれないと言うと、彼は「大丈夫。僕は入るよ」と言った。

早めに着いて冷静になればカルロスと話すチャンスがあるかもしれないと思った。
でも、チャンスは訪れなかった。

私達はカルロスが現れる前に書店に入ることになった。
受付ではAdrian(C.J.)一人で入場を待っている人に自分をゲストとして一緒に入ってもらえないか頼み込んだ。彼女はイエスと言ってくれた。

カルロスが遂に登場した。首のところが開いたシルクのシャツに茶色の革のベスト、そしてカウボーイブーツだった。

彼の髪が完全に白髪になっているのをみてショックを受けた。私は彼がネクタイとスーツを着て現れると思っていたのに。
長い年月は私たちのつながりを完全に絶ってしまった。

彼は痩せていて体形も良かった。私は目を閉じて彼の朗らかなトークに耳を傾けた。そして目を開いてステージ上の彼を見つめた。彼は今も魅力的で聴衆を虜にしていた。彼は三時間しゃべり続け質問も受け付けた。

彼はステージを降りると書店の裏口から姿を消した。
一瞬でもいいから彼と話したいと思い急いで会場を出た。
彼はヴァンに既に乗り込んでいたが、Adrian(C.J.)がヴァンの窓を叩いた。

カルロスは車を止め「おぉ!私のChocho!」と言って降りてきた。
彼はC.J.を見て抱きしめて話し始めた。
C.J.は自分がカルロスに言われたように強い戦士だった、カルロスと一緒に戻れると何度も繰り返した。

C.J.が話しているあいだに私は近づいてカルロスのガードらしい背の高い女性に言った。(フロリンダかもしれませんね
カルロスがC.J.と話し終わったら私も話をしたいんです
彼女が答えた。
だめです
私が言った。「私が誰だか知ってるの?
彼女が答えた。「ええ
私はそこに立ち待ち続けた。

カルロスが私のところに来た。彼は私に腕を回し頬にキスをした。彼は嬉しそうだった。
彼は一歩下がって私を見つめた。私は彼に『夢見の技法』にサインをしてほしいと言った。
彼の答えは想定外だった。「ごめん。手が疲れているんだ
そして彼は彼の手を見せて本当に疲れているんだという身振りをした。

私はカルロスに言った。「大丈夫。革の想定の本をEaston Pressから注文したから。それはサイン本だし
彼はヴァンに乗り込むと私に投げキスをした。
車が去った。

彼はこれまでもずっとそうだったように謎めいた雰囲気のまま私から去っていった。

最後に、ウマル・ハイヤームによるルバイヤートから詩が引用されていますので原文(英語)のまま引用します。

Yon rising Moon that looks for us again――
How oft hereafter will she wax and wane;
How oft hereafter rising look for us
Through this same Garden――and for one(斜体) in vain

The Rubaiyat of Omar Khayyam

あの月が私たちをまたさがしている――
これからどれくらい満ち欠けるのだろう;
これからどれくらい私たちをさがしにあらわれるのだろう
このいつもの庭を――それはかなわないことなのに
  ―オマル・ハイヤームのルバイヤートより

2018年8月15日水曜日

Maya(42)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』27

カルロスはスピーチの最中に遅れて到着したが、C.J.は彼にすぐに彼に気が付いた。
C.J.は校庭で他の学生と一緒に座っていた。

カルロスは、私の妹のBetty Virziと夫のVictorを見つけて近づいて来た。
カルロスは、なんとか間に合った。

1975年の5月、アリゾナのTempe、Connoly Junior High School(原文のママ。実際は、Connollyが正しい)の卒業式だった。



C.J.の名前が読み上げられるとカルロスはにこりとしてうなずいた。

式が済んだあとタウンホールでの集いではカルロスは大盛り上がりだった。
知られている神秘的なイメージとは違い、小さな集まりでの彼のおしゃべりは全然違っていた。

Bettyがスナップ写真を撮ったときだけ「カスタネダ」の顔がチラっとよぎった。だが、彼は何も言わなかった。

カルロスはそろそろ場所を変えようととみんなに言った。
BettyとVictor、C.J.と私。古くからの友人のKay Quinnと彼女の二人の娘、KathyとPatricia、それに私の甥のMichael Magana。

みんなでフェニックスにあるGregory's Penthouseという店で夕食を食べようと提案したのだ。

道すがらカルロスはC.J.に夏休みにロスアンゼルスに来ないかという話をした。
ヨーロッパにも行こうと言ったがC.J.はあまり乗り気ではなさそうだった。
カルロスは言い募ったがC.J.は断った。カルロスはあまりあてにならないからだ。

前にもヨーロッパに連れて行くといったが実現しなかった。電話や手紙をよこす、会いに来ると言っていたがめったになかった。C.J.は電話や手紙を待ってつらい思いをしていたのだ。

ある日、傷ついた彼は、自分はカルロスがするように人を絶対に傷つけないといった。
カルロスはC.J.の心がわかったようだった。店に入る前に、夏休みの終わりに気持ちが変わっているかもしれないからまた連絡するとC.J.に告げたが本心ではなかったろう。

その夜の会話はカルロスの独断場だった。Katyにユタでの生活を訪ね、彼女の娘たちにはイギリス旅行の話を聞いた。Bettyと昔のロスの話をし、C.J.には卒業祝いに100ドルを渡した。たわいのない話が続いたが一度だけ修行生活の話が出た。私はドン・ファンについて尋ねた。

彼はいなくなったんだ。もういない」とカルロスが言った。
亡くなったの?」と私。
カルロスは私を見た。「ただいなくなったんだ」彼はそれ以上話したくないようだった。

このエピソードは重要です。
なぜならAmyの本では、1976年、カルロスが図書館のイベントでAmyの兄夫婦に出会った時、ドン・ファンが「去ろうとしている」と取り乱していたというエピソードがあります。

1975年に「去った」のが1976には「去ろうとしている」というのはどうでしょう?
ただ、はっきりしているのはこのあたりでカルロスとドン・ファンの付き合いが何らかの形で終わったことです。

ドン・ファン(の一人?)の年齢は、1975年で84歳、「何らかの形」というのはマーガレトが言うように亡くなったのかもしれません。

(根拠は不明ですが、ウィキなど一般的な情報には、ドン・ファンは1973年に亡くなったのではと書かれています。)

デザートが出るとカルロスは会計を済ませに席を立った。
レジで係りの女性が彼のマスターカードを受け取って手続きをしていたが、突然目の前の人物が誰かわかると目を見開き固まった。

あなたがあのカルロス・カスタネダ?あのライターの?あの神秘的なインディアンの本の?

カルロスがうなずいた。

これは失礼しました、最初から存じ上げていれば。というと彼女は厨房に引っ込んだが、奥の方で食器が倒れた音がした。

再び現れた彼女にカルロスはなにもかも素晴らしかったと言った。
彼のサインを求めて現れた店のスタッフたちに取り囲まれ私達はエレベータに乗るのに苦労した。
彼は快く応じていた。

2018年8月14日火曜日

Maya(41)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』26

今、この本を書いてるんだけど、まだ終わってないんだ」とカルロスが私に電話をかけてきた。「午前中にメキシコに戻る予定なんだ。本は”力の話”というタイトルだ。でもよくわからない書いてるけど難しいんだ。また(メキシコに)戻らなくては

どこに行くの?Oaxaca(オアハカ)?」と尋ねた。
うん。また戻ってくるまで連絡できないよ

私が離婚届について触れると「すぐに済むと思うよ。そしたらお金を弁護士に払ってしまう。あの連中とはもう付き合いたくない

カルロスは、ロスアンゼルスのWard & Heyler事務所のGuy Wardを弁護士に雇っていた。彼はWardとAlexander Tuckerをクビにしようと思っていた。おそらく彼のエージェントのNed Brownもだ。
カルロスは自分が稼げば稼ぐほど、そういった連中に依存するようになると嘆いていて自由を欲していた。

60年代に離婚したがっていたのは私だが、カルロスがメキシコの離婚手続きで私をだましたあとのらりくらりとそのままの状態にしておきたがっていた。
だが、1973年の秋になると突然、離婚手続きに前向きになった。
そろそろすべてのつながりを絶つ時期と思われた。

僕は、ぼうやを助けたい。ぼくとぼくの名前をそれから僕らの前のトラブルから。彼は名前がない。彼の名前はAdrian Gerritsen Jr.だ。(※C.J.の実の父親はAdrian Gerritsen)強力な名前だ

1973年の12月、ウェスト・ヴァージニアのKanawha County 家庭裁判所に行われた離婚の聴聞会で、私はC.J.に対する永続的な親権を得た。カルロスは出席しなかった。
数日後、彼が電話してきてすべて済んだと聞いてほっとしていた。
彼が何か問題はなかったかと尋ねた。

そうね。あなたの誕生日は25日、来週の火曜日よね・・・
ちがう。もう僕には誕生日なんてないんだ
裁判所には母が付き添ってくれたんだけど、彼らが尋ねた質問の中にあなたの年齢があったから。私は、つじつまがあわないことがあると答えたわ
カルロスがくすくす笑った。
僕は適当な数字を言ったからね。かまうもんか
カルロスはほっとた様子だった。
彼はたとえ裁判所が相手でも自分を秘密めかすことができたのだ。

私たちは友達のままよね?」私は聞いた。
僕はずっと友達であろうとしてたよ。これからどんな運命が待ち構えていてもだ

まるでLACC時代のカルロスに戻ったようだった。彼はいつも運命について話していたものだ。

カルロス。あなたはもうドン・ファンがあなたに自分自身を理解させようとしていたものにとうになってるのよ。いまだに疑問を持ち続けているのがわからない、だってあなたはもう大丈夫なんだから。あなたに必要なのはそれを確認してくれる相手だけだと思う。あなたはもうあなたが考えている人物になってるの

カルロスは少し黙ってから話した。
ぼくのことを理解してくれているのは君だけだ

この電話の数日後、彼は弁護士のGuy Wardから離婚証明書の写しを受け取った。そしてWestwoodの自宅に戻って『力の話』を完成させた。

※この後、『力の話』の中で彼がトナールとナワールの概念を導入した件について説明があります。

カルロスは初期の本でC.J.のことを「私のかわいいぼうや(my little boy)」と呼んでいたが、この本では「私がかつて知っていたぼうや(a little boy I once knew)」という呼び方に変えた。

彼は何も隠していなかった。彼はひとつ突き抜けたのだった。
1976年の秋、カルロスは、彼とC.J.がロスアンゼルスの北にある山にハイキングに行ったことを手紙で書いてきた。

君とchochoを考えない日は一日もない。これはよく言う決まり文句みたいだが本当にその通りなんだ。君たち二人といたときが一番幸せだった。またchochoと一緒にハイキングに行きたい。肩車に彼をのせて山を登るんだ。山頂についたとき彼がさけんだんだ。”太陽!、山だよ!。Kiki大好き”
彼の可愛い声はぼくが死ぬ時まで耳から離れないよ。もういちど君たちに会いたい。でも運命がそうさせてくれないんだ。僕にできるのは希望を持つことだけだ

彼はこの話~フィクションではない~も本に記した。

C.J.とのハイキングの話はいつ読んでも胸に迫るものがあります。
この時、カルロスは、51歳。このころから彼のWestwoodでの「教祖」生活が本格化します。Amy Wallaceが21歳。彼女一家との親密な交際が続いています。

この後、谷底へのジャンプの話、1974年、Meighanが彼と話したときは、まともだった話などが披露されています。

2018年8月13日月曜日

Maya(40)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』25-2

Nannyはいつもの調子でおしゃべりをしていたが、カルロスは、居心地が悪そうだった。彼は雑誌の話に触れてもらいたくないようだったが、Quebecは気にしなかった。
Quebecは、前から彼の出自について疑いを持っていたのだった。

以前、Quebecが南米からもどったときポルトガル語についてカルロスに教えてもらおうとしたことがあったのだが、カルロスは耳に手をやって断ったのだ。ポルトガル語は聞きたくないといったのだ。

変だなと思った。ブラジル出身ならポルトガル語を話すだろう。ブラジル人が嫌いなのはむしろスペイン語のはずだ。だが、カルロスはしょっちゅうスペイン語を話していた。
タイム誌の記事で謎が解けたと思った。

カルロスはブラジルについて何も知らなかったから触れたくなかったんだ。逆にペルーについては詳しすぎるからそっちも話したくなかったんだ」とQuebec。

ニューヨークの雑誌にはカスタネダのパロディが掲載されるようになった。
UCLAのHaines Hallでも騒ぎが広がった。
ニューヨークタイムズの書評担当には苦情が殺到しJoyce Carol Oatesはカルロスの本をインチキだと公言した。

カルロスは公の場にでるのを控えるようになり学校へも博士論文関係の用事のあるときだけしか顔を出さなかった。

カスタネダは、MeighanとGarfinkel、そしてDr.Philip Newmanとあと二人が彼の教官だった。

博士課程には論文のほかに、こまごまとした条件がある。その中には言語能力についてのテストもあった。Meighan教授は、面接で必ず聞くことになっていたのでカルロスが子供の時に何語を話していたか質問した。カルロスはブラジルに住んでいてイタリア語を話していた、のちにポルトガル語とスペイン語を覚えたと答えた。

Meighanの心配をよそにカルロスは言語能力テストをパスした。
そして筆記試験も無事合格した。
彼の博士論文は彼の若干手を加えた三冊目の著作だった。
スキャンダルに沸いていた1973年のことだったがMeighanは、カルロスの味方だった。

その年の春、カルロスが博士号を取得しそうだという話が広まり批判や議論がなどがおきた。カルロスの方法論は、従来の文化人類学のメソッドとまったく違っていたのもその理由だが、他にも教授たちが頭を悩ませていたことがある。それはカスタネダがあまりにも有名になってしまっていたことだ。彼のクラスはいつもあふれるほど学生が押しかけていて学校の実績に貢献もしていた。

教授会の議論はなかなか決着がつかなかったが、Meighanをはじめとする担当教官たちのサポートで認められることになった。

カルロス自身が文化のはざまにいる。そして彼の情報提供者(ドン・ファン)もだ。
カルロスの情報提供者は、一部はヤキ(Yaqui族)、一部はユマ(Yuma族)だと聞いている。そして二つの文化のはさまで生きてきた。ひとつは白人社会、アングロサクソンでプロテスタントの世界、もうひとつがメキシコのカトリックの世界だ。二つの文化は世界との接し方がまったく違う。カルロスと情報提供者の二人がぴったりマッチしたのだ。二人はどちらも知的でお互いに世界を理解しようとしている。彼の情報提供者は、呪術の伝統に則った知恵の体系を作り上げた。異なる文化と接するときに生じるあらゆる問題に立ち向かうということで二人は意気投合したのだ

これがMeighanがカルロスを推す理屈だったが、批判者たちは言った。二人が似た者同士なのは、ドン・ファンとカルロスが同一人物だからだ、と。

カルロスは教授会に自分がブラジルで生まれて幼少期にイタリア語を話したとウソとついたではないか、と。
Meighanは笑いながら「タイム誌の記事には驚かされたが、ぼくは彼が語ってくれたことを信じている」と言った。

教授会は、Meighanを信じて最終的にはカルロスの論文を承認した。
彼の博士論文は『イクストランへの旅』として出版され、カスタネダは億万長者になった。

この後、出版の反響などについての記載がありますが割愛します。

2018年8月10日金曜日

Maya(39)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』25-1

謎めいた生活を演じるカルロスをただ一つ俗世間とつなげているのがC.J.だった。

彼の本で寓話的に語られているエピソードの中には実話がある。
何人もの情報提供者(ドン・ファンを形作ったインディアンたち)から得たさまざまなエピソードに混じっているのがカルロスが実際に過ごしたロスアンゼルスでの平凡な生活だ。

カスタネダは最初からC.J.について触れている━だって著書を彼に捧げているくらいだから。
カルロスはC.J.にとり憑かれていた。

彼の著書に書かれていることが事実なのかどうかはメディアで大きな議論になっていた。Carleton Collegeの文化人類学者のPaul Riesmanがニューヨークタイムズの書評で絶賛すると、小説家のJoyce Carol Oatesは、彼の話があまりにも綺麗に作られていると反論した。

最初に長文の記事を載せたのはペントハウス誌だった。John Wallace( Amy Wallaceとは無関係)による記事だが、RosieやRuss、他の学生たちの協力を得て集めたUCIの教材を基にしたものだった。

Psychology Todayがカルロスのインタビューを企画した時、彼はついに長い沈黙を破ってインタビューアのSam Keenに録音してもよいという許可をした。

Ned Brownの勧めもあって『イクストランへの旅』の出版の前にはいくつかのインタビューも受けた。カスタネダは突然、どこにでも登場するようになった。

Harper's、ニューヨークタイムズ、ローリングストーン、the Village Voice・・・。
しかし、いずれも同じ間違いを犯していた。カスタネダの言葉をそのまま受け入れていたのだ。

タイム誌の記者がカルロスに彼のペルーにいる両親、CesarとSusanaなどについて尋ね始めたとき来るものがきた。タイム誌は、彼のArana一族がリマにいることを突き止めたのだ。

親戚たちはカルロスとは何年も音信不通で、彼のアメリカでの成功を聞いて驚いた。父親は記者に13年前にカルロスが送ってきたLACCの卒業写真を渡した。
記者たちは、これらの証拠がカルロスのブラジルでの叔母の家での生活との矛盾を指摘した。

私の生活を統計などの情報で判断するのは呪術を科学で分析するのと同じだ。マジックの力を奪ってしまうのだ」と彼は言った。

上記の調査を踏まえた記事が1973年5月のタイム誌に掲載された。懐疑派と信奉派双方の見解を載せ、ドン・ファンの実在性やカルロスの仕事の信憑性について書かれていた。
彼のあやふやな履歴、ブラジルやアルゼンチン、そしてハリウッドでの生活。
移民記録や学歴書類やArana一族の情報を駆使してカルロス・カスタネダがブラジルではなくペルーで1925年のクリスマスに誕生したことを明らかにした。

イタリアとブラジルではなくカハマルカとリマで教育を受けたことも突き止めた。
この記事はUCLAでちょっとした騒ぎになった。

Douglas Sharonは「初めて彼にあったとき彼はブラジル出身で後にイタリア、アルゼンチンを経てUSに来たと言っていた。だが、彼との話でペルーの話題が多いのでひょっとしてとは思っていたんだ」と言った。
南米人はなんとなくみんな似ているから。タイム誌の記事はびっくりしたけど、やはり噂は本当だったと思った

雑誌が発売されてからすぐ、Jim Quebecは、カルロスとカルロスのガールフレンドのNannyとキャンパスでばったりでくわした。
カルロスはなんとなくきまり悪そうにしていた。

2018年8月9日木曜日

Maya(38)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』24-8

食後、部屋に戻るとカルロスは落ち着きがなかった。カルロスはスーツケースから銀色のペンと鉛筆、それと外国の硬貨を私に渡した。C.J.にとのことだった。それからスーツケースも”chocho”(C.J.)にあげてほしいと言った。

私はシャワーを浴びた。出てくると彼は電話をかけていた。アメリカやメキシコなどいろいろな人たちに夜通し電話をかけていた。一人はカリフォルニアの誰だか教授だったし、Michael Harnerという彼の編集者だった。ある時は英語で時々スペイン語で。
私が眠りかけたとき彼はオアハカ(Oaxaca)かどこかに電話をしていた。

Oaxacaはドン・ファンか?ドン・ヘナロか?(笑)

翌日はもっとひどかった。彼があまりにも勝手なので私はthe Commodoreに部屋をとって出ていくと言った。彼は私についてきてC.J.にきちんとした教育を受けさせるように、歯医者に通わせるようにと言った。C.J.にウェスト・ヴァージニアでオートバイレースをさせることは危険だと注意した。彼はロビーにつくまでずっとその調子だったので、ついに我慢ができなくなった。

わかったわ、独裁者!もうわかったから!

彼は、その場で5000ドルのチェックを私に渡した。

cho-choにすぐに会いたいんだ。カリフォルニアに寄こしてくれてもいいし、いっしょに南米に旅行してもいい
私はうわのそらでうなずいた。
彼が言った。「cho-choに独裁者からよろしくって言っておいて

ウェスト・ヴァージニアのチャールストンの自宅に戻ると、すぐに離婚の手続きを始めた。長年ためらっていたのだ。やりなおせるかと考えていたが今回のニューヨーク訪問で無理だとわかった。

私からの正式な離婚の申し出に対して連絡が来たのは10月だった。彼は理由が分からないと言ったが、ニューヨークでの態度について話した。

まるで受話器を置き忘れたかのような長い沈黙の後、私にニューヨークで彼がどんな様子だったか話してほしいと言った。

カルロスは私の話を聞いてから彼がとても混乱していると言った。

ぼくは二月にthe Drake Hotelにはいなかったんだよ。ぼくは君に会っていない

私はこの話に付き合う気がなかった。

そう?私はニューヨークにいたしあなたによく似た誰かといたし、そのあなたは私の知っているカルロスとは全然違ったわ
ちがう、まじめな話なんだ、Maggie.この呼び方もするんですねぼくは二月にニューヨークにいなかったんだ」彼は真剣だった。

私は一瞬、彼がなんでこのようなウソをつくのだろうと考えた。私は一体、この頭のおかしな男と何をしているのだろう?

そしてはたと思い至った。彼が新しいレベルのトリックを人々にしかけ始めていることを。

もう誰も彼を捕まえることはできない。彼と話しても、もう彼は彼ではない、ダブル、分身なのかもしれないのだから。

2018年8月8日水曜日

Maya(37)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』24-7

1972年、彼がカルロスに出会った頃、なにかが起きるという予感に満たされていた。Johnは、夜、ピアノに向かって作曲をしていた。やがて疲れたので暖炉の前のカウチに横になっていた。

窓から暗い夜空を見上げていたら突然、恐怖におそわれ、霊気のような寒気を感じた。恐ろしくなった彼は寝室に行き寝ている妻の横にもぐりこんだ。

そして彼が横になるとすぐにそれが始まった。強風で木々の枝が折れ始めスコールのような大雨が降り始めた。風が吹き荒れ家を揺らした。まるでラグナ・ヒルズ(Laguna Hills)の半分が嵐の海の中に放り込まれたような感じだった。

彼の額から汗が噴き出した。なんとか落ち着こうとするとますます嵐は酷くなった。ついになすすべもなく諦め、このまま太平洋に流されてしまおうと覚悟した瞬間、すべてが静まった。完全な静寂!

汗だくになり、これはたぶん何かの幻覚だったんだと思ったときRuthが「静かになったわね」とつぶやくと寝返りを打つとまた寝息を立て始めた。

彼女も聞いたんだ!いやそうなのか?
彼の「分離したリアリティ」が見せた夢じゃなかったのか?

ライターのAdam Smithは、ある日ニューヨークでカスタネダのダブル(分身)に出会った。
カスタネダに会いたかった彼は、ニューヨークのSimon and Schuster(カスタネダの本を出している出版社)の階段を登っていた。Smithはカスタネダがエレベーターを嫌っていることを知っていたのだ。

何段か上ったところで彼はカスタネダと思しき人物に出くわした。彼は何とか話をしたいと思い本の話、文化人類学へのカルロスの貢献などについて話しかけた。
カルロスは終始うなずきながら早い足取りで階段を下りていった。

話しかけてる途中でSmithははたと思い立った。これがドン・ファンの秘儀の「ダブル」なのではないか?と。
そこでSmithは半ば冗談のつもりで、あなたは本当はカルロス・カスタネダのダブルなのではないですか?と尋ねた。

すると男は立ち止まり、うなずいて「そうです」と答えた。そしてニヤっと笑うとロビーの人ごみの中に消えていった。

カルロスは、『力の話』を出す何年も前からダブルについて考えており、人々にさまざまなトリックをしかけてきた。

1973年の2月、カルロスは『力の話』の出版の打合せをしにニューヨークに来た。
彼は私に数日付き合ってくれと言ってきた。私はもう何年もカルロスと会ってなかったので痩せた身体にダークスーツ、コートの姿に驚かされたが、笑い顔や魅力的な話し方は変わらなかった。

私たちはタクシーでDrake Hotelで夕食をとった。彼はアルコールを飲まなかった。
私は最近読み終わった『イクストランへの旅』について話をしたかったが彼は拒んだ。

2018年8月7日火曜日

Maya(36)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』24-6

これはダメだな」とカルロスが言った。「摘む前に乾いていなければならない
John Wallaceが手を伸ばし少しちぎって匂いをかぐとなじみのある香りがした。
彼は少し齧ると言った。「カルロス。これは野生のセロリ(wild celery)ですよ

カルロスがニヤっとした。「そうだよ。ワイルド・セロリだ。いいものだ。アンゼリカは凄い。前にUCLAの有名な植物学者に分析をしてもらったことがある。何も(幻覚性の物質が)入っていないそうだ。何もない無害なものだ。10ポンド食べても何も起きない。だが呪術師にとっては重要なものだ。その煙は偉大な明晰さをもたらすのだ

明晰さは「敵」じゃなかったっけ?

John Wallaceと妻のRuthは空港に用事があったのでそこで他のメンバーと別れて町に戻ったが途中でRuthが具合が悪くなった上、道に迷いVenice Boardwalkを車で走ってしまい交通違反キップを切られた。なんとか空港にたどり着いたが、その帰りロスアンゼルスは大雨に見舞われ車のワイパーが焼き切れてしまった。
ほうほうの体で家に近づいたときRuthの上着のポケットに枝が入っているのに気が付いた。

カルロスは、彼らに「力の場所」からは何も持ち帰ってはいけないと警告していたのだ。
「わざとじゃないわ」とRuthが言った。「いつの間にか入ってたのよ
どう入ったかなんてどうでもいいから、さっさとそいつを窓から捨ててくれ!今すぐ!」とJohnが言った。

この二人は、少しイってしまってるような連中ではない。だけど感受性が強く人に影響されやすいところもあった。だからカルロスの謎めいて言い方の「力の場所から何も持ちだしてはいけない」を真面目に取ってしまったのだ。

Russも真面目に受け取った一人だった。夜、自転車に乗って家に帰る途中、いきなりとんでもなく大きな野ウサギが突然現れて彼を見つめたのだ。

あまりに驚いたRussは、自転車から転げ落ちてしまった。そしてそのままじっと目を閉じた。盟友や予兆はどこにでも現れる。野ウサギはしばらくRussを見つめると飛び跳ねてどこかへ去っていった。

このような奇妙な事件に遭遇したのは彼らだけではない。

私の古くからの友人Linda Cornettはカスタネダの心棒者でサイン入りの『イクストランへの旅』を持っていた。彼女はそれをベッド脇のテーブルにいつも置いていた。

ある日、彼女の娘、Paula―彼女もまたカルロスの信者だった―が母親の寝室に入ったら本の上に大きなカラスが乗っていたのだ。
カラスはおそらく空いている窓から入ってきたのだろう。それにしてもカスタネダの本の上にカラスとは。

おそるおそるPaulaがカラスに近づいてみるとカラスは右足に銅のリングをはめていた。
そのリングには小さくアステカのシンボルが刻まれていたのだ!俗人ならなんとでも合理的な理由を思いつくだろう。だが、彼女たちはこれを予兆とみた。

だが、こうした話もJohn Wallaceが見た夢に比べたら驚くことの程でもない。

2018年8月6日月曜日

Maya(35)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』24-5

一時期、Rosieがカルロスのために風を見つけたといううわさが流れたことがあるが、話はそこまでで、彼の講義が終了した後、彼はまだシャーマンではなかったし、どのような形で結末が訪れるのかもわからなかった。

終了レポートは課題となっていなかったが、代わりに講義で使ったカルロスの論文を余白への書きこみやメモなどを残したまま彼に返すように言われた。

講義の最終回は、ロスアンゼルスの北にある山の上で行われた。

そこはカルロスが「力の場所(a place of power)」と呼んでいてヤキの呪術師たちが瞑想や儀式を行っていた場所だそうだ。そこはマリブ渓谷(Malibu Canyon)の上にある場所で低木の周囲に環状に石が置かれているのをドン・ファンが夢で見た場所だそうだ。

みんながShipsコーヒーショップに集合した。RussはRosieと、Wallaceは彼の妻のRuthと一緒だった。Wallaceは講義には正式に登録していなかったがたまに聴講していた。

彼らは二台の車で出かけた。一台は、カルロスの茶色のフォルクスワーゲンのミニバスで、もう一台は道がわかる誰かが運転するヴァンだった。

環状の石のある場所に到着するとカルロスは車を降りてヤキの呪術と思われる運動を始めた。全員がカルロスの周りに集まった。

この後、カルロスが行った奇妙な運動の描写とそれを真似てやる学生たちの描写が続きます。

ぽっ!」カルロスが叫んだ。「ほら、ここに世界の裂け目がある
全員が彼の動きを真似て試したが、彼らが何を見ようとしていたのか自分たちもわからなかった。

Gewone engwortel R0012880 Plant.JPG
アンゼリカ
続いてカルロスが呪術師がここでどうやって世界を止めるために瞑想したかについて説明し、次に、デンタルフロスの罠を使ったガラガラヘビの捕まえ方を話します。

その後、彼らはヤキが呪術で使う「シシウド(アンゼリカ、Angelica)」を探しに出かけます。

乾いたアンゼリカはヤキ族が大好きな植物で煙を吸うと心を明晰にする効果があるのだそうだ。


彼らは立ち入り禁止と書かれた谷に入り込んでようやくアンゼリカを見つけますが、乾いていませんでした。

2018年8月3日金曜日

Maya(34)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』24-4

1972年の早春、Dick Covett Showのプロデューサーが彼に出演交渉をしてきた。

これはなかなかのオファーだったが、彼は断った。カルロスは、テレビで道化のように扱われるのが嫌だった。たったの15分で彼のドン・ファンとの体験を話したら茶の間でどうとられるだろうか。

カルロスがDick Covett Showに出たくない理由は他にもあった。”連絡不能”にすることにはある種の力と自由があるからだ。
Ned Brownは彼の二冊目でもインタビューを受けるようにしたので今回の『イクストランへの旅』でも同じようにさせていたが、新聞か雑誌だけでテレビ出演は行っていなかった。

呪術師の詳しい話、ドンファンとの最後のエピソードは四冊目の本(『力の話』のこと)で書く予定だし、まだ一年以上先の話だ。

今、若くて生意気なエリート主義者のDick Covettに会って『分離したリアリティ』について根掘り葉掘り突っ込まれるのは得策ではない。

彼のセミナーの終盤では本に書かれた内容から次第に離れ、これまで誰も聞いたことのない呪術の領域に入っていった。

例えば”四つの風(the Four Winds)”の話。

それは呪術師が探し求めなければいけない四人の女性で、盟友との最後の戦いで必要となる者だと言った。
また呪術師の弟子がいよいよ本物のブルホ(呪術師)になる儀式に立ち会うことになっているそうだ。

北は、”盾”となり彼を守る。後ろ側の南には、暖かい風の”ジョーカー”。”ジョーカー”は、春の明るさと軽妙さを持っている。彼女は厳しい北風を和らげる。西は、内省が”スピリット・キャッチャー”で現わされる。

最後が”武器”で東だ。武器は、最も権威がある存在で、またの名を”光明の風”と言う。

カスタネダは、彼女たちがソノラ(砂漠)の草原で盟友からの攻撃を弱めてくれるのだと学生たちに話した。彼女たちはぞっとするようなバレエのような踊りをする。

盟友は、彼女たちを次々に攻撃し最後に呪術師の弟子と向き合う。そこで彼が盟友を地面に組み敷くことができれば盟友の力を得ることができる。

もし弟子が負けたら振り回されて文字通り空中にものすごい速度で放り投げられてしまう。
ドン・ヘナロ(Don Genaro)は、それで彼の人間としての一部を失ってしまった。彼は二度と家に戻れなくなった。彼の旅、故郷のイクストランに帰る旅は永遠に続くのだ。

学生たちの多くは、カルロスの風や盟友の話がシャーマンが一人前になるための儀式について隠喩的な話だと受け取っていたが、それにしても怪しげな話だと思った。

ぼくはまだ四つの風を持っていなので、自分で追い求めなければならない。自分がその段階だと感じたら実行するつもりだ」とカルロスが言った。

これは、エイミーの本を読んだ後だけに、カルロスが女性をものにするネタだと思っています。

2018年8月2日木曜日

Maya(33)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』24-3

あなたに盟友をお見せしたいのです」カルロスが言った。
あぁ、かまわないよ、カルロス」とGarfinkelが言った。「大丈夫、盟友がここにいることを信じるよ

Grafinkelの目が「次に何が起きるのか」という表情で部屋を見まわしてカルロスの頭がおかしくなったのではないかと疑うような感じだったそうだ。
研究にのめりこんでおかしくなる文化人類学者はめずらしくないからだ。

もし、このエピソードがただのジョークだったとしたら、わざわざクラスで話さなかったろう。彼はすでに”カーネル(種の芯)呪術”という呪術の次のステージに進んでいたのだ。
この呪術については彼が著書に詳しく記している。

呪術師は、殺したい相手の呪術師から48粒のトウモロコシの種の芯を盗んで相手が歩く道にこっそり隠す。できれば黄色い花の中がよい。相手の呪術師が間違えて種を踏むと種が相手の体の中に入り込み死に至る。

ドン・ファンは、ぼくのためのトウモロコシを探してくれている。強力な呪術師は、自分のためのトウモロコシを育てるんだ。ドン・ファンが僕のための種を選んでくれるんだ

授業が済むと彼はロスアンゼルスに戻りNed BrownとSimon & Schusterと『イクストランへの旅』の出版について打ち合わせをした。
そして私に電話をかけてきて、小切手(生活費)を送ったことを伝え、C.J.の様子を尋ねた。

C.J.は、勉強はよくできていたが教師たちは彼が他の生徒たちとうまくいってないと言っていた。彼は静かで不機嫌で真面目すぎると言った。
私はC.J.が他の生徒たちと比べて大人なだけだと答えた。

カルロスは家に帰ってから私との会話を思い出して憂鬱になった。
なぜならC.J.の問題は彼に起因しているからだ。C.J.には父親がいない。父親の名前もないからだ。

繰り返しになりますが、このような”観察者のいない状況における”カルロスの内面を描く書きっぷりがこの本の弱点だと思います。”マーガレットがそう思った”というニュアンスにすればよかったのに。

彼は教室ではやり残していることがないと言っている。彼は教室で「僕にはもうやり残したことはない。いますぐ永遠に行けるのだ。僕を留めるものは何もない

これがカルロス・カスタネダなのだ。執着から自由になった男。ウィルシャー大通りのShipsコーヒーで家族と過ごしている一般市民、住宅ローンや結婚や子育てをしている連中とは異なる存在なのだ。

彼の名前は魔法になっていた。

レストランでは誰もが彼にサインを求めた。

Sally Kempton(スピリチュアル業界で有名な指導者)が町に来てカルロスについての記事をエスクワイヤ誌に寄稿すると言った。カルロスのエージェントはタイム誌と特集記事の交渉をしていた。彼は、もはや謎の教授でもなく半端な小説家でもなかった。

もっと特別なもの。彼は・・・カスタネダだった。

2018年8月1日水曜日

Maya(32)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』24-2

古代のエジプトやインドの神学体系ですら不十分なものだったんです。それは主観的な原理に基づいていて現実の生活にはまったく役に立たなかった。結局、外側には本当の物理的な世界が存在しているのです・・・

カルロスはうなずくと「うん、そうかもしれない

初期の神学は思考と感覚に限られていたからだね? 僧侶たちは多神教を捨てて一神教になったが、呪術は存続した・・・

・・・そうかもしれない。たぶん・・・

と、こんな調子で誰かが、1964年のドン・ロベルト(Don Roberto)のペヨーテ儀式などカルロスの著作のエピソードについて質問を始めるまで10分くらい続くのだ。

ここで書かれているペヨーテ儀式とは、カルロスが参加したミトテのエピソードです。

学生たちがする質問は「盟友(ally)」(カルロスがいつも書いていた形のない力)だったり砂漠での生活やドラッグの力だったりした。

Russがオーラや知り合いの魔女、はたまたオカルト関係者について話さない時は、西欧の宗教とドン・ファンの思想の共通点について話をしていた。

”見る”ことは、例えば、禅でいうところの”悟り”に近いんじゃないかと思います。どちらも世界を把握するための深い洞察に基づいている。禅の心は「戦士」の生き方と共通しているものがあると思うんです。どちらも煩悩からの解脱や無の境地に達するための訓練が必要だし。禅とドン・ファンの哲学はどちらも自然との調和が重要、だからとても似てると思います

カルロスはまた同様に答える。「面白いね。もっと教えて欲しいな

東洋神秘学の本には呪術の世界と驚くほど似通っていることが書かれています。例えばYogi Ramacharakaの『Fourteen Lessons in Yogi Philosophy』がそうです。その本には人間のアストラル体から発する光が人の周りを囲んでいて卵の形になっていると書かれています。その光を体から分離すると驚くような力を発するそうです。あなた(カスタネダ)が著書に書いてある話が出てくるんです

カルロスは、学生たちのフィードバックを歓迎していた。

Russの発想は馬鹿げていることもあったが、東洋と西洋の関連性というトピックには興味をもったように見えた。カルロスは、その発想をはじめて聞いたような感じに見えた。だが、カスタネダはアメリカインディアンの呪術の原形がアジアに発するものだと知っていたし、彼らの祖先がアジアから渡ってきていたことを知っていたのだ。

ある日、教室でカスタネダはHarold Garfinkel教授の家に招かれたとき、その場に「盟友」を呼ぼうとした話をした。

Garfinkelはまじめなユダヤ人の教師でPacific Palisades(高級受託地)に住んでいた。
Garfinkelは、現象学の権威で固い人物だったがカスタネダの研究に興味を持っていたので彼を自宅に招いたのだった。

話の途中でカルロスは、いきなり「盟友」がそばに来ているから部屋に呼び込んでもいいかと尋ねた。 いつものカルロスのやり方だ。

2018年7月30日月曜日

Maya(31)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』24-1

講義はカルロスが書いた博士論文に基づいていた。論文を参照したり、学生たちのディスカッションのテーマとして使われた。

学生たちの中でも特に熱心だったRussとRosieが中心となりはなかなか写しを渡そうとしないカルロスに言い募って、少しずつコピーさせてもらい自分たちで教科書を作った。

Russは自分用に二冊作成した。一冊は緑、もう一冊は茶色のフォルダーで綴じた。それがカルロスのオーラの色だからだそうだ。

他の学生たちには、頭が変なんじゃないかと考えたがカルロスが社会科学棟の724号室に仮入室した時、彼のオーラの色をはっきりと見たのだ。

それは突然訪れた。彼と彼の仲間たちがカルロスを7階で待っていたときだ。壁がゆっくりとベリーダンスをするようにうねり始めた、風の乗って流れてくるブルーグラスミュージックのような感じに。

彼と仲間たちは、リノリウムの床に滑るようにくずれおち壁に背中をもたせかけたままカルロスを待つことになった。

少し経つと、廊下がライム色のゼリーでできたチューブのようになり光りだした。何百万マイルも伸びてゼリーの道をカルロスがいつものようにゆっくりと歩いて来た。
通路が放っている光はカルロスの体にあたると緑色に光った。

緑色だった。ネオンライトのような天井の下をRussはカルロスが歩くと彼が放っているオーラが弱くなったり膨らんだりした。

ついにカルロスが彼らの前に着いた。
床の上に座っている二人の若者を横目で見ながら事務所の扉の鍵を探している。

やぁ」カルロスはドアを開けながら言った。
どうも」とRussが答えた。
カルロスは軽くうなずいてまばゆく緑色の光のかたまりの中に立っていた。

教室にいるときのカルロスのオーラは茶色に思えたが、ここでは緑だとRussは”理解”した。

Russは、茶色のオーラはカルロスがすごく不思議な話をするときに出る力と関係があるとわかった。たとえば、バイリンガルのコヨーテと会話をしたエピソードや、ドン・ヘナロが一瞬で遠くに移動した話などをするときだ。どんなに馬鹿げて聞こえる話などこれまで誰も異論をはさんだことがなかった。

学生たちが合理的な答えを探すことは、カルロスは最も嫌っていた。
学生たちは、カルロスの体験を幻覚か催眠をかけられた体験ととらえていたが、カルロスは彼らが理解することを望まなかった。

クラスの中で最も疑り深い学生はいつもカルロスを実証主義や唯物論的な議論に引きずり込もうとしていた。

ドン・ファンのやり方というのは、神学の基本に内在している不完全で暫定的な仕組みに置き換えられることを目指しているのではないでしょうか?」(何言ってるかチンプンカンプンです)その学生は真摯さを装ってカルロスを見つめた。

2018年7月27日金曜日

Maya(30)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』23-3

カルロスの授業は、ただふらっと教室に現れて「オーケー、質問のある人手を挙げて」と言うだけだった。

学生たちはドン・ファンのことを知りたがり、世界を止める方法やリアリティを分離する方法についてたずねた。

ドラッグについて聞くと、カルロスはもう使っていないと答えるのだった。

ドラッグは呪術の重要な要素だと思っていたが、もうそうは思わない。ドラッグは補助的なものだ。ドン・ファンは、彼が教えたすべてのことは世界を止めることだと言った

カルロスは、ペヨーテ、キノコそしてジムソン・ウィードがドン・ファンが使っていたもの、正確にはドン・ファンの呪術のドラッグだったこと、そしてドン・ファン自身はもう何年も自分では使っていなかったことを話した。

ドラッグは、人をあるところへ連れて行くための地図のようなものだが、その場所そのものではない、と言った。ドラッグは旅の一部分だ。
人は、自分の奥深くに自分の世界に関する知識を蓄えていて、そこから流れ出てくるものを解釈しているのだ。
真実、つまり別の世界は、(同じ世界なのだが)、もっと重苦しくて夢幻的で永遠のものだ。それはまるでWilliam Blakeの洗い流された知覚の扉のようなものだ。

このあたりの訳は自信がありません。ご参考までに言及されているウィリアム・ブレイクの「知覚の扉」を下記に引用しておきます。
ちなみにこの「知覚の扉」は、オルダス・ハックルスレーの『知覚の扉』のタイトルとして採用されたものです。『知覚の扉』についてはこれまでも触れていますが、1954年の発行ですのでカルロスはもちろんこの本を読んでいます。

他の参照リンク)
”フォロワーズ(The Followers)”の話(前篇)(3)『ドン・カルロスの教え』(5)
ドン・ファンの教え~序文(2/2)~

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“If the doors of perception were cleansed every thing would appear to man as it is, Infinite. For man has closed himself up, till he sees all things thro' narrow chinks of his cavern.”
William Blake, The Marriage of Heaven and Hell
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余談ですが、このあたりのカルロスの発言に関して原文では「Carlos would」という表現になっています。ニュアンスにもよりますが「仮定法」の一種なので実際の記録としてなんとも言えないと思います。

これに続いて、カルロスがティモシー・リアリーの信奉者たちに出会ったときのエピソードが書かれています。
彼らが手順(儀式)を無視して無造作にキノコを食べておかしくなっているさまを見たドン・ファンが呆れていたという話です。

キノコは非常に慎重に摘まなくてはいけない。そして一年間ヒョウタンの中に保存してから、他の材料と混ぜるんだ。手順(儀式)は、どのように扱うかまで決まっている。最初に左手に取って次に右手に移してからヒョウタンに入れるのだ。キノコを選ぶ時にもとてつもない集中力が要る。ドラッグを使うということよりも”ヤキ”の実践の方が重要なんだ

彼は、自分の経験と関連していることを学生たちにも体験させた。
学生が腕につけている時計を指して
僕は、時計をつけてないと誰でもない。時計は僕の力の物体(Power Object)なんだ

学生は自分の腕時計を見つめて、じっと考え込んだ。そしてカスタネダ哲学の意味したことを理解しようと必死に頭をひねるのだった。

2018年7月26日木曜日

Maya(29)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』23-2

カルロスはSharonの話を熱心に聞いていたが、自分が話す番になると、いつものような感じで本題からはずれた逸話を話しはじめ「正しい生き方」についての自分の意見を披露した。少しは新しい部分もあったがSharonが前に聞いた話ばかりだった。

(当時のカスタネダブームの熱狂について割愛)

1972年の春、UCLAでは学生たちの熱望でカルロスが教授として招聘されることになった。

カルロスは、Irvineキャンパスで二つのクラスを受け持つことになった。ひとつは学部生向け、もうひとつは大学院生向けの「シャーマニズムの現象学」というタイトルだった。
どちらの講義も彼の博士論文と『分離したリアリティ』以降、彼が書きためたものに基づいていた。この新しく書かれたものは『呪術:世界を著す( Sorcery: A Description of the World )』というタイトルの論文になり、これが後の『イクストランへの旅(Journey to Ixtlan)』として出版される。

セミナーには12人の学生が登録していたが、初日には30人はいたと思う。

学生たちが本人が教室に登場した時、あまりにも普通の人が現れたので拍子抜けした様子が描かれています。

Rosemary Leeというカルロスのアシスタントが講座の概要を説明した後、カルロスが口を開いた。

私の修行は終わってしまった。ドン・ファンが私に教えるものはもう残っていない。私は呪術師の実践に必要な知覚をすべて持っている。知覚は変えられる。ドン・ファンは、私に別のリアリティを見る力をくれた。もう彼が教えることは残っていない。私はこれからは自分一人でやっていかなければならない

その後の授業でカルロスは、彼が最後にドン・ファンに会ったのは5月のことだったと説明した。

これは『イクストランへの旅』の中で述べている日付の通りです。

ドン・ファンの家で、ドン・ヘナロが不思議な体術を見せてくれた。腹を下にしてまるで床の上で泳いでいるようにすいすいと動き回ったと言った。
だが、本当の驚きは午後遅くにおきた。カルロスの車が消えたのだ。

この下りは、『イクストランへの旅』を参照

(車のエピソードを話した後)カルロスがニヤっと笑った。

二人の呪術師が世界について合意をしているので、彼らは他の人間にも彼らが見ているリアリティを見せることができるのです。
呪術師は理屈や物理的な力学のような感覚を分離することができるのです

彼の学部生向けのクラスはテストやレポートなどきちんと進めていたが大学院の方はまったく型にはまってなかった。
熱心な学生だったRussとRosieがカルロスの論文のコピーを手に入れるまでテキストすらなかった。

2018年7月25日水曜日

Maya(28)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』23-1

Douglas Sharonは、フリーの文化人類学者としてペルーで数年間過ごしたあとUCLAに来た。
1960年、Sharonは高校をドロップアウトして南米に向かった。

1965年、Trujilloの北部ペルーコミュニティ近くのChan Chanの遺跡で働いている時、Eduardo Calderonに出会った。彼は、地元のcurandero(治療師、ヒーラー)で古代の治療法に関する卓越した知識を持っていた。

Eduardoは、Sharonに(呪術の)実践を学ばせようとしたがSharonは多忙で1967年に現地を去ってしまった。

1970年に戻るとSharonはヒーリングの儀式に参加しcuranderoが行う”見る”方法について研究した。

Sharonは、Eduardoの教えを何時間も録音した。細部は異なっているが、カルロスが彼の情報提供者(ドン・ファンのこと)から教わった内容と同じだ。
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ドン・ファンは、カルロスにペヨーテを使って”見る”ことを教えたが、Eduarudoは、同じことをSan Pedro cactus(写真)を使った。

カスタネダの修行の最初の年、彼はDaturaの煎じ薬を飲まされたちまち頭が回転し目の前に赤い斑点が生じた。

Sharonに見えたものはremolino(渦巻)だった。彼の目の前に赤と黄色のうずが現れた。
UCLAのペルー考古学を教えていたChristopher Donnanは、二人の体験の類似性にきづきSharonとCarlosの二人に彼のクラスで発表するように頼んだ。

僕たちは二人ともシャーマニズムを実践している。だからDonnanはいいアイデア(二人が一緒に話すこと)だと思ったんだ。二人の内容が似ているのは別に驚くようなことじゃない。なぜならシャーマニズムを形作る中身はどれも似ているからだ。表面上は、言語が異なるような感じで違うところがあるかもしれないが、深層の心理的な核となる部分はとても似ているんだ。だから僕たちがしていることが似通っているのは偶然じゃないんだ。

僕はEduarudoが実践しているように率直に秘密を明かすやり方を信じている。彼はぼくの師匠に相応しい人だと思う。個人の歴史というのは彼が生きてきたものだ。彼は14歳だったことがあるだろう。でも今はもう14歳ではない。そして14歳だったときのことを語ることができるんだ。でもそのことは彼を一か所にとどめることはできない。なぜなら彼は彼の仲間たちと一緒に生きているからだ。それが彼の個性で彼のやり方だからだ

原文でもいきなり出てくる発言なので明示していませんが、「師匠」の下りからこの発言は、おそらくSharonのものです。いずれにせよ、あたしの英語力のなさのせいか発言の後半はチンプンカンプンです。

カルロスとSharonの二人は、Chris Donnanの授業の前にシャーマンの教えについて情報交換をした。

1971年の12月、カルロスの二冊目(『分離したリアリティ』)が出版された直後、Sharonがペルーの高地から戻ってきたところだった。二人の大学院生は、生協で落ち合って二人の仕事の共通点についてディスカッションをした。

Sharonは、ここ数カ月を北ペルーでEduarudoとナショナル・グラフィックのカメラマンと過ごしていた。彼らはまさにカルロスの故郷であり伝説のシャーマンたちのいる場所から数百マイルのところ原始魔術の世界観の中心にいたのだ。

2018年7月24日火曜日

Maya(27)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』21-22

■第21章

1969年、私は旧友たちに会うため、先延ばしにしていたロス旅行をすることになった。

カルロスは、私のためにHollywood Roosevelt Hotelのスイートを予約してくれた。
彼は私とC.J.に会えるのを喜んでいた。
私たちは7月上旬にロスに出かけた。

カルロスはちょうどこの時期、メキシコへ行き、ドン・ファンの家でシロシビン(Psilocybe)キノコを体験したことになっている。
私は一週間でワシントンに戻ったが、カルロスがどうしてもというのでC.J.だけ残ることになった。

C.J.は大学に近いところにあるカルロスの家に泊まった。スペイン風の平屋の家で、電話はなく、カルロスと暮らしていたNanny(UCLAの同級生)が電話をしたいときは表にある公衆電話を使っていた。

カルロスは電話が嫌いで、私と暮らしていた時も押し入れに突っ込んで鳴らないようにしていた。しまには解約してしまった。

滞在中、カルロスとC.J.は外出からの帰路、空手道場にいるNannyをピックアップした。
夜、NannyはOld Maid(ババ抜き)をしたりC.J.に詩を読んで聞かせた。

C.J.は、Casey at the Batアニメーションのことのようです)がお気に入りだった。(他にも参考リンクを設けておきます

別れ際、カルロスはC.J.にイタリアに行くといったが彼は本気にしなかった。
C.J.は7歳だったが嘘に慣れていた。

■第22章

Quebecは、カルロスをNed Brownに紹介した。
Separate Realityの頃の話だ。
これでカルロスはQuebecの手を離れ商業出版の世界へ入っていった。

C.J.に対する仕送りは、月75ドルから200ドル程度だったが、二巻目(Separate Reality)からカルロスの金回りがよくなってきた。
Alexander Tuckerという男が彼の金銭面の面倒を見るようになった。

この後、A Separate Realityの内容について説明がありますが割愛します。

2018年7月23日月曜日

Maya(26)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』20-2

カルロスは、Furstの授業でドン・ヘナロの滝登りについて話を披露した。この話でFurstはHuicholインディアンとの体験を思い出した。

1966年に彼が行ったフィールド・トリップで、Furstと彼の連れのhikuri(peyote)探索者であるRamon Medina Silvaが滝の淵で曲芸を行ったのだ。
それはHuichol族の小人数のグループに”バランス”について説明するためのデモンストレーションだった。

Ramonは、サンダルを脱ぐと、儀式を行った後、滝の上の岩から岩へ飛び移り、すべりやすい崖につかまったり、時には動きを止めた。そして突然、水の上を大きく跳躍した。
大きな岩に隠れたかと思うと再び現れ岩から岩へ飛び移るのだ。

その場にいた者たちで、心配そうにしているのはFurstと彼の妻だけだった。
Ramonの妻もいたが他の人間と一緒に静かに座っているのだった。

翌日、Ramonが、あれはばかばかし曲芸などではなく、”バランスを持つ”というシャーマンにとって重要な考え方を見せたのだと説明した。この普通の世界とそれを超えたところにあるものを結びつけるものがあってそのために必要なことなのだと言った。

抽象レベルでは理解できても西洋人であるFurstには受け入れがたいことなのであのようなデモンストレーションが必要なのだと言った。

この話は、Furstがフィールドワークから戻った1966年にはよく知られていたエピソードだったことも確かだ。

だから、その四年後に同じようなエピソードをカルロスがFurstの授業で話すと言うのは奇妙なことだ。

Ramonは、滝のバレエはシャーマンの特技だと言ったというから、もしかすると呪術師はどこでも皆同じことをするのかもしれない。

とはいえ非常に疑わしいこともある。同じようなケースで、ドラマッティックな話をカルロスは後に書いているのだ。

それはMichael Hanerがカルロスに、ヤキ族がダチュラのペーストをお腹に塗る話をしたことがあるのだ。

ヤキも麻薬を使うんですね。それともデミルの指摘は、彼らがペヨーテを使わないってことなのでしょうか?

カルロスは、後で本に書いたエピソードが、友達に話していたネタをもっと複雑にしたものだったことが多い。

オアハカのレストランでメキシコの少年たちが食べ残しに殺到したエピソードもその一つでQuebecの事務所で語った。

この話は、『分離されたリアリティ』が出版されるとドン・ファンによる教訓めいた話になっている。

こうした話は他にもたくさんある。

Douglas Sharonのカルロスについての思い出を省略します。

2018年7月22日日曜日

Maya(25)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』20-1

『教え』の商業的成功が見込まれたのでカリフォルニア大学出版局のニューヨークのマネージャーは大手の出版社との交渉を始め、Simon and Schusterへの再販がまとまった。

Ballantineは1969年にペーパーバックの販売をし10月には再版が決まった。

カルロスはM.A.を取得しなかったが、上級のクラスの授業を受けていて第二巻を書き始めていた。彼は一足飛びにPh.D.をもらうつもりだったが、なかなかむずかしいことがわかっていた。

カルロスはいきなりアメリカでもっとも有名な文化人類学者になったが学内ではそうではなかった。

Meighanだけが味方だった。
カルロスはMeighanが製作しているフィルムの手伝い(インディアンの手のモデルとして)にトパンガ峡谷にある彼の家にでかけたことがある。

Meighanはいう。「こんな助手をやってもらうのは気が引けたよ。でもピクニックだと思って楽しかったよ。彼はとても楽しい相手さ

このフィルムは学生用の教材として使われた。この同じ夏、カルロスはドン・ファンとの修行を再開したとある。

彼の本によると一旦1965年の秋に弟子を辞めて、この1968年の4月に再開している。

次の月にはカルロスはドン・ファンとHuicholインディアンのペヨーテ・セッションに参加するため北東メキシコへ旅をしている。(彼自身はペヨーテを服用しない)

カルロスはシラフの状態でインディアンたちの様子を観察したかったのだ。(詳細割愛)

続いて現象学についての説明がありますが省略します。

9月にカルロスが学校に戻るとちょっとした話題になっていた。Ballantineブックスは手広く出版することを決めたし、お金も少し入った。二冊目の執筆に取り掛かっており、Ph.D.取得が近づいた。

みなカルロスにドン・ファンのことを聞きたがった。
この頃からメキシコに出かけるときにつけられないように注意をするようになってきた。
この年の10月にカルロスは、ドン・ヘナロに出会い滝登り他の不思議な体験をする。

カルロスによればドン・ヘナロの滝行は1968年の話だが、1971年の出版まで知られていなかった。

それは文化人類学者のPeter Furstが同じような話をUCLAで行った一年間の授業の後の話だ。

このクラスにはカルロスの他に、彼の友人のDouglas Sharonも登場している。彼はペルーのシャーマニズムについて集中的な研究を行っていた。

2018年7月21日土曜日

Maya(24)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』19-3

彼はオアハカを去る一日前に連絡をよこして言った。「僕のchochoとカラスが正しい道に導いてくれると信じているよ。この本はなんていってもchochoのための本だからね

彼が変な比喩を使うことについてはあまり不思議に思わなかった。彼はここのところずっとこんな感じだったからだ。1960年より以前は、彼はこんな話し方をしたことはなかった。例えば「impeccable(完璧な)」とか「warrior(戦士)」や「invincible(無敵な)」といったたぐいのネオ・プリミティヴィズム的な言い回しだ。

だから私は、カルロスが実際にインディアンたちと暮らしていたことを疑っていない。こうした言い回しはそうした生活から自然に生じたものだと思っているからだ。

南メキシコにいる間もカルロスは出版に執着し続けていた。博士号を取れればこれまで批判した連中に一矢報いることができると思っていたからだ。
Oaxacaで三週間過ごしてUCLAに戻ってきたカルロスはQuebecに会って本がついに出ることと1968年に市場に出ることを知らされた。

9月23日にカルロスは、UCLA出版局と契約を取り交わしたことを手紙で書いてきた。

”文化人類学にとって重要な貢献をした”って書いてあるよ。どうだい?これで僕が1965年に中断していた試験をまた受けることができる。こっちの連中は石頭だったけど、ニューヨークのコロンビア大学は僕にPh.D.をオファーしてきているんだ。こっちはもううんざりだ

カルロスは、ニューヨークにも知り合いがいたので移ることを考えたいたが、カルロスを買っていたMeighanやGarfinkelたちは喜ばなかった。

契約が結ばれたことが知られると、みんなはもしもドン・ファンの話が無価値なもの(shuck job)だったらどうしようという恐怖に襲われた。

契約は標準的なものだった。本の著作権はthe Regents of California(評議員)が持ち、著者は出版によるロイヤルティを受け取るというものだった。

大学は本のことをまったく評価していなかったが、もしも本が売れればカルロスに多くの金額が入ることになる料率性になっていた。

契約を済ませるとカルロスは前からほしかったグレーのスリーピースのスーツを買った。
出版まではまだたくさんやることがあった。仕上げの編集にも数週間かかるし、表紙やカバーなどのデザインも決めなくてはならない。

Quebecは、それっぽい写真をあしらったデザインをいいと言ったが、カルロスは却下して大学出版の他の学術書のような、きわめてシンプルにクリームとグリーンの色のカバーにゴシック文字で『The Teaching of Don Juan:Yaqui way of Knowledge』と書いてあるものになった。

11月下旬、カルロスはニューヨークにでかける機会があり帰路、引っ越して1年になるワシントンDCに寄ってC.J.と私と一週間ほど過ごした。

『ドン・ファンの教え』は、早春に出版され、カルロスは例のスリーピースを着てサイン会などに顔を出していた。

本は飛ぶように売れた。これまでCalifornia大学が出したどの本よりも売れた。カルロスはたちまち有名になった。

こんなに売れているのに、カルロスは、まだハリウッドのデニーズでハンバーガーを食べているんだとQuebecに話していた。

カルロスは、Quebecに続編を書いていると話した。
Quececはカルロスが代理人を持つべきだと考えてNed Brownを紹介した。

Brownが言った「カルロス、君を有名にするよ
カルロスは、「そうじゃなくて、僕はお金が欲しいんだ」と答えた。
Brownは、ちょっとびっくりしたが謎の男と自分は波長が合うと感じた。

2018年7月20日金曜日

Maya(23)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』19-2

chochoがいたから頑張れたんだ。chochoが去ってからなにもかも無くなってしまった」と彼は1967年の1月に手紙をよこした。

chochoのために役にたてないならなにもやる気がおきない。でも、きっとまたいつかchochoの頭を撫でて寝かしつけることができると信じている。(後略)

(彼の手紙にはchochoのためにと何ドルか入れてくれた。)

chochoのためにもっとお金を送ることができるようになると思うし、またきっと会えることを信じている

編集委員会はなかなか判断を出さなかった。春早く、カルロスはドン・ファンや他の人々に会いに砂漠にでかけた。

4月に戻ってくると、彼は事態が好転していると感じた。
彼は自分の論文が認められて本が出版されると感じていると連絡をくれた。

彼は、ワシントンの私に手紙を出すときは(叔母をはじめ親戚に好まれていなかったので)Chalie Spiderという偽名を使った。Arana(という彼の苗字は)スペイン語でSpiderという意味だからだ。

春、カルロスは、MeighanとGarfinkelに昨年の10月に受け損なったテストを受ける許可をもらった。彼はAlbertaと共に電話交換手として働いていた。

Haines Hall(学部)では、たくさんの人々がカルロスの原稿を読んでいた。信じる者もいたし、疑い深いものもいた。

6月下旬から7月にかけて夏には両者による議論が高まった。

僕たちの旅は、長かった。驚異と謎に満ちていた。僕の話を喜んでくれて嬉しいよMayaya。ようやく先が見えてきた。君がいなくて寂しい。君は無敵の戦士だ。でなければ僕の論文は受理されなかったろうし学校に戻ることもできなかったろう」と7月に手紙をよこした。

大変なことになってる。ある連中は、この仕事が古典になるだろうと言ってるし他の連中はクソだと言ってる。でもとにかくみんな読んでくれているんだ。議論になってるのは例の呪術師というところだ。覚えているよね?それと呪術に対する僕のアプローチも議論になっている。とにかく試験に合格しないと。博士号を持つことができれば僕の発言がもっと信用されるようになる。(中略)みんなが大騒ぎしている様は楽しいよ。この本はchochoのために書いたんだ。だってchochoは、呪術師の中でも一番の呪術師だからね

編集委員は、本に感銘を受けて、ずいぶん待たされたが、いよいよCalifornia Pressから出版されることが決まった。

Bill Brightは、これが素晴らしい作品だと他のメンバーに伝えた。
最終的には、Meighanが皆を説得した。

委員会が出版を決定した時にカルロスは学校にいなかった。彼は、9月11日に南メキシコのOaxaca(オアハカ)に出かけていた。彼がいうところのマザテックインディアンのドン・ヘナロに会いに行っていたのだ。

出版の決定が遅れていたので彼は、じれてRandom Houseや他のニューヨークの出版社にも話を持ち掛けていた。彼はGrove Pressにも原稿を送っていた。

2018年7月19日木曜日

Maya(22)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』19-1

カルロスは、ノートをはじめイエローパッドで取ってから原稿に起こしていた。

『ドン・ファンの教え』の実際の原稿は彼のアパートで執筆された。1961年に初めてペヨーテを体験したあとGarfinkel教授に体験を分析して発表を行った。

しかしGarfinkel教授は学生による判断は欲しておらず直接の詳細を知りたがっていたので、カルロスは数年後に手を加えて再びGarfinkelに見せた。
しかし老人の態度はまだ変わっていなかった。

そこで彼は再び原稿に手を加えHaines Hallの三階に厚い紙の束を持って登って行った。
当時、彼は学校を辞めていた。
カルロスは、このころMeighanと呪術師についての話はあまりしたことがなかった。


Haines Hall

ある日、彼は原稿を持ってきて読んでアドバイスをほしいと言った。私は彼が大真面目だと認識していた。彼はこの原稿を大学の出版局から出版できないだろうか?というものだった。
内容は、当時非常にポピュラーだったドラッグや精神の解放について書かれていたもので、一般的な研究書のように第三者の視点ではなく本人の視点で書かれていて逸話に飛んでいた。
だから私は、この本は科学書の範疇で出版するものではないと思った

Meighanは、カルロスにHaines Hallの向かいにあるPowell 図書館の地下にあるUniversity of California Pressに相談しにいくことを勧めた。

現在は、「カリフォルニア大学出版局」は別の場所にあります。

また文化人類学の本ではなく一般の商業向けの出版という形で話した方がいいともアドバイスした。

UCLAの教師で早期にこの本を目にしたのは、カルロスは、GarfinkelとMeighanの二人だけではない。
William BrightとPedro Carrascoのところも訪れて熱心に説明をした。もう一人、Robert Edgertonも目を通して批評を加えていた。

University PublicationsにいるMeighanの友人の一人がJim Quebecで、大学院生のカルロスのソノラの呪術師と過ごしたレポートについて耳にしていた。

Quebecは、この本は売れると思ったが彼自身も元は文化人類学者だったので営業部門の意見が大切だと思った。

原稿は何週間も放置されていた。編集会議でも討議されたがなかなか売れるかどうか判断ができなかった。

やはり研究論文として発行した方がいいのではないかという意見もあった。商業的にカルロスは無名だし出版社自体のブランドがアカデミックな印象を与えがちだったからだ。

言うまでもないが、やはり営業部が決定権を持っていた・・いや持っていなかった。
このUniversity of California Pressは、そこらの営利目的に出版社とは違う権威のある会社なのだ。
Harold GarfinkelやWalter Goldschmidtをはじめとするそうそうたる学者たちの本を出版していたのだった。

(Goldschmidtの業界的位置づけ割愛)

William Bright教授は、最初からカルロスを買っていてQuebecに推薦の手紙を書いたし、Goldschmidtもその手紙を読んだ。

GoldschmidtがUniversity of California Pressの編集員だったことは重要だ。

Brightは、カルロスがF.A.Guilfordというフリーランスの編集者を雇って校正作業をする前の原稿の一部を読んでいた。

この原稿を読んだ。君は絶対に出版すべきだ」とカルロスに手紙を書いた。
Quebecは、文化人類学部から突然いい知らせを受け取った。

彼自身のスタッフであるAtlee Arnoldですらカルロスのことを話題にするようになった。Atleeもこれを素晴らしい作品だと言った。だが、象牙の塔が認めてくれるまではさらに一年かかった。

学校をすでに辞めていたカルロスは、その間ずっと不安にさいなまれていた。

2018年7月16日月曜日

Maya(22)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』18

Carlton Jeremy(C.J.)は、1964年の9月から学校に行き始めた。公立の学校ではなく、サンタモニカのSaint Sophia's Montessori Schoolだった。カルロスが最高の教育を受けさせたいと言ったのだ。

カルロスは、そのために貯金をしていて毎月120ドルをきちんと払ってくれた。
この金は、彼がUCLAでブルホ(呪術師)の研究で得たお金だと言っていた。
実際は、資金繰りでは結構苦しかったはずだ。

彼は、学校で図書の販売をしていてOxford Unionの製品を売り込んでいた。
その売り上げで月々の家賃や食費を賄っていたのだ。
9月の初頭、カルロスが弟子生活を辞める前に、最期のメスカリトとの出会いがあった。それはテキサスとの国境に近い、メキシコのChihuahua州で行われた四回のミトテのセッションのことだ。

ミトテは、研究者にとって特に新しい話ではない。

(ミトテの簡単な歴史とカルロスのミトテ体験をを省略します)

カルロスは、フィールドワークで夥しい数のノートを記録した。それといくらかの写真、16ミリフィルムも少しあったし、テープレコーダーの記録も行ったが、これらの内、大半を持ってないと後に言った。
彼は、フィールドノートを読みやすい形に整える作業をした。

時々、彼は、自分の研究がUCLAから出版されるだろうと自信を持っていたが、あるときは自信喪失して落ち込んでいた。

彼は、内容を面白くするために一人称で書いたが、論理的な部分を示すために注釈を加えて彼が体験した超常的なものはすべてドン・ファンの操作によるもので植物による幻覚だったと記した。

彼の1965年の秋に大学院を卒業して修士を取得する予定を計画した。
だが、彼はお金がなくなってしまい結局UCLAを退学してしまった。

私の友人の一人、Alberta Greenfieldと私は、電話会社に関する本を執筆していた。カルロスも手伝ってくれた。私たちが渡す原稿料でまた大学院に戻れると思っていたのだ。
だがカルロスとAlbertaが気が合わなかったようだ。

この本の作業、ドン・ファンとのフィールドワークとその執筆、C.J.の教育、自分の未来)などでカルロスは頭がおかしくなりそうだった。

1965年の秋にカルロスは、Albertaと大喧嘩して本の企画も流れてしまった。学校も放り出し、呪術師に関するノートの束も放って砂漠に戻ってしまった。

(中略)

1966年の早い時期、私がC.J.をSaint Sophiaを辞めさせてLAを去ろうと思っていることを告げたときカルロスは非常に動揺した。
私は、カルロスのいい加減な約束に疲れていた。私たちの関係はおかしくなっていた。

私は、ワシントンD.C.のテレビ局WTOPのチーフ・オペレーターの職を得た。

もし坊やを連れて行ったら君は僕の光を奪ってしまう」と9月に手紙をよこした。

2018年7月13日金曜日

Maya(21)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』16~17

■16章

16章と17章は、カスタネダの本編のおさらいとあまりインパクトのないエピソードが多いのでサラっと流します。

冒頭、呪術師の目の使い方と、夕暮れの世界の裂け目についての言及があります。
 ○最良の場所を見つけるための目の使い方
   ※「立体視」の目の用法
 ○自分が坐る場所を見つけて精霊に対するための動作
 ○休むのにいい場所を見つけるための目の使い方
 ○ドン・ファンの目の動き
 ○別世界の番人を見るための目
 ○(たぶん異世界を)見るための目
 ○世界の裂け目

続いて”しないこと”、”世界を止めること”、”見ること”についても少し言及があります。
 ○しないこと
 ○世界を止めること
 ○見ることと眺めること

私は、これをGarfinkelの現象学の影響とみている。

カルロスは、Edmund Husseriの現象学を学んでいた。それを知ったカルロスの知人がHusseriの机にあった黒檀をカルロスに贈り、それをカルロスがドン・ファンにあげたところすごく気に入ってくれたそうだ。

ドン・ファンとのフィールドワークと並行して、カルロスは、Talcott Parsonsの学問やLudwig Wittgensteinの哲学も学んでいた。

カルロスがヴィトゲンシュタインのことをドン・ファンに話して笑われたエピソードがありますが割愛します。

■17章

「煙」の準備の儀式、1963年12月26日の煙体験についての記述と飛翔の話がありますが割愛します。

Joan Daughtyがカスタネダにはじめて会ったのは1962年の春だ。Joanは彼のインディアン研究に対する情熱に感銘を受けた。

カルロスは、めったにプロジェクトについて語らなかった。話すのはC.J.のことだけだった、あるいはJoanのことだった。

Joanは、カルロスにプロジェクトについて話すことを強いなかったので、カルロスは彼女といるとくつろげたようだ。Joanが絵画や彫刻に興味があったのも気に入った理由のようだ。

彼はとても深い気持ちをもっていたわ」とJoanは語る。「見えている以外のものが彼にはあったわ。彼は第六感を持っていた。彼と話しているとなにもかもが計算機で動いているようだった。どんな話題もなんでも吸収するの。(以下、略)

1964年、Joanがカルロスと私に結婚することになったと告げた時、カルロスは驚いたようだった。
後に彼は、この知らせを聞いて嫌な気持ちがしたと言った。

このあたりちょっと英文がむずかしくて不明です。
この後、ティモシー・リアリーについての話。
家に帰って来てC.J.にリアリーの話をしていたというエピソードが披露されています。

2018年7月12日木曜日

Maya(20)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』15-5

だからドン・ファンは、そうした(ペルーの治療師の)系譜につらなる知識を持っていた一人なのだ。
カルロス自身も飛んだことがある。

1963年7月6日のダツラの飛行のエピソード省略

カルロスは、ドン・ファンがダツラとヤキの”飛行”について最初に言及した人物だとしているが、実はそうではない。カルロスの友人の人類学者Michael Harnerが、ヤキがビジョンを視るためにダツラを腹に塗ることをカルロスに伝えていたのだ。

Harnerは、1961年にペルーのインディアンのConibo族がayahuascaを使うことに興味を覚え、カルロスに、ヤキにとってのayahuascaがダツラのペーストかどうか調べてみるように言ったのだ。

Harnerがカルロスにこの話をしたときにはカルロスはまったく情報を持っていなかったが、その6年後には調査をしただけでなく実際に体験してみたのだ。
カルロスの本では、この体験は”彼の”ドン・ファン独自の知識であると書いている。

(中略)

カルロスは、当時、忙しかったが貧乏だった。本を読んだり研究をまとめたりと自分がやりたいことはたくさんあるのにお金がなく、彼の時間を生活が奪っていった。
Meighanは、カルロスが空腹で死にそうだったと言っている。タクシーの運転手をやりながら酒屋で売り子をやっていた。

当時、カルロスはC.J.をよく連れ出して自分のアパートに泊めたりUCLAのキャンパスに連れていったりした。1963年の秋のある週末も同じようにC.J.を連れ出したが、この週末は普通と異なった。

三日後、彼がC.J.を連れて戻って来た時、カルロスはC.J.を砂漠に連れて行ってカルロスのインディアンの友達に会ってきたのだと言った

C.J.は、その時2歳。”証人”としては厳しいかな。

カルロスは、C.J.をドン・ファンに愛する息子だと紹介して将来を託したいと伝えたそうだ。しかし、彼はお金について心配をしていた。カルロスは、C.J.を立派な私立学校に入れて教育を受けさせたいと考えていた。
それと履歴を消さなければいけないということは、C.J.との関係にも影響を及ぼすはずだった。

こうした希望と心配を話しているカルロスをドン・ファンは黙ってうなずいて聞いていたそうだ。ドン・ファンは、砂で遊んでいるC.J.を見おろして言った。

子ガラスについては心配はいらないぞ」とインディアンが言った。「この子がどこにいて、何をしているかは関係がない。彼はなるようになるさ

なんという情景!
ドン・ファン、カルロス・カスタネダとまだ二歳のCarlton Jeremy Castanedaが砂漠にともに佇んでいるのだ。

(中略)

C.J.が二歳の時、カルロスが連れていると空を見てC.J.が言った。「太陽をみて。年取って弱そうに見えるよ。明日の朝は、若くて美しくなるよ
感動したカルロスが私に夜話してくれた。

(中略)

この話は後に、ドン・ファンが話したこととして『イクストランへの旅』の中で予兆に関するエピソードとして扱われている。

明らかに、こうした会話の一部が創作である、だが”ドン・ファン”は実在する。彼は実在するインディアンで、実際にカルロスが会いに行っていた相手だ。(115p)

しかし、いったんカルロスが文書に書き起こすと、ドン・ファンはまったく博識で異なる存在になってしまう。それは、カスタネダのイマジネーションや周囲の人々、上記のようにC.J.や私、Mike Harner、UCLAの同僚、彼のお祖父などとの会話や存在に影響を受けているのだ。

2018年7月11日水曜日

Maya(19)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』15-4

Meighanは、Mrs.Liptonという作家の妻がUCLAのPowell Libraryの地下にあるUniversity of California Pressの受付として働いていた人がしてくれた話を覚えている。

カルロスが出版の打合せでオフィスに来た時、何度かC.J.を連れて来ていたという。
だが、こと私生活の話になるときまってCarlton Jeremy Castanedaの母親はスカンジナビア人だと言っていたというのだ。

カルロスが執拗にいうので私は、California Department of Public Healthの書類にカルロスが法的な父親であるとサインした。

新しい出生記録には彼の名前がCarlton Jeremy Castanedaと記された。カルロス自身も自分が父親であると署名させられた。面白いことに、彼は、ペルー生まれの学生となっていた。

なぜ僕がChocho(C.J.にカルロスがつけたニックネーム)を愛しているかわかるかい?君の(要素を備えた)子どもだからだよ」とある晩私に告げた。
僕は彼に伝えて一緒に働くよ。彼にすべてを伝えるつもりだ

彼の著書の中では、あいまいに「ぼくのかわいい少年」という言い方をしているが、彼のC.J.に対する愛情は本物だった。

その12月、ドン・ファンはカルロスに過去を徐々に消して完全に自由になるように履歴を消すように指示をした。

もちろん、それは理由は別かもしれないがカルロスが何年もやってきていたことだった。
昔の同級生のJose Bracamonteは、彼を嘘つきと呼ぶが、ドン・ファンによれば履歴のある物だけがウソをつけるのだそうだ。

履歴を消すことは親類とも縁をきることを意味し、それはカルロスがC.J.との関係も捨てることを意味していた。

カルロスは、そのころフィールドワークでは三種類のドラッグを体験している。
ペヨーテ、ダツラ、そしてキノコだ。またドン・ファンに盟友(ally)関する手ほどきも受けている。

『白いタカ』の話が出てきますが割愛します。こちらをご覧ください。

「変身」については多くの謎がある。その頃の週末の定例行動として1961年の11月、カルロスは学校を休んでドン・ファンに会いに行っている。

彼は、老人の義理の娘と会っている、ユカタンからきたメキシコ人で、ドン・ファンの足の怪我の世話をしている。ドン・ファンは転んだあるいは、ラ・カタリーナという魔女に押し倒されたと言っている。

ドン・ファンによるとラ・カタリーナは黒い鳥に変身していたそうだ。はじめカルロスは信じなかったが、とにかく話を聞くことにした。

ドン・ファンによると呪術師の世界では動物に変身するのは普通のことで物理的な肉体から精神は分離して旅をできると言った。

カルロスの故郷から数百マイル離れたペルーのUcayaliでも、ayahuasca(アヤワスカ)を服用したシャーマンは鳥に変身すると言われている。

またペルーPeruvian Montanaの東のAmahuasca族にも同じ言い伝えがあるしエクアドルの東Zaparo族やコロンビアのSiora族やペルーのCamapa族も同様だ。

2018年7月10日火曜日

Maya(18)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』15-3

カルロスがインディアン居留地にでかけて留守にすることで私たちはしょっちゅうケンカをした。
少なくとも彼の研究が終わるまではということで、ついに彼は家を出ることにした。

そして7月。
彼は自分のタイプライターや書き連ねたものをもってMadison Ave.のMarietta Apartmentsに引越しをした。

このような状況であれば、むしろその方が好ましいと思った。
私は彼に薬草を家に持ち込むんでもらいたくなかったし、学校も新しい学期に入ったばかりでもあった。

私もSouth Detroitのアパートを去り、Willowbrookに引越しをした。カルロスの住まいとは近いところだ。

この結婚がうまくいかないのは明らかだった。6カ月たったが週末彼はほとんどフィールドトリップで家にいなかったし、何をしているのか言いたがらなかった。

Adrian Gerritsenというビジネスマンに出会い、カルロスに離婚を迫った。はじめ断られた数週間後に承諾してくれた。

カルロスは、とても簡単に(離婚)できると私に言うと車でTijuana(ティファナ)に行った。
結婚式を挙げたときと同じ担当者に離婚したい旨を説明した。書類を受け取って記入すると役人にカルロスがお金を払った。
彼は、書類が正式に受理されれば離婚が成立すると言った。
私たちはロスに戻った。

その秋と冬、カルロスはフィールドトリップでより多く過ごすようになった。彼がメスカリトと出会ったのはこの時期だと書いている。

1961年の夏ごろにはドン・ファンとの関係が良好だと書いているが、初期の頃は呪術の世界に入ってその儀式のプレッシャーのため憂鬱に苛まれていたようだ。

学校の授業で会う以外はカルロスとはほとんど会うことがなくなり、私がGerritsenと結婚して妊娠したことを知人を通じて知ることになった。

8月12日、Hollywood Presbyterian Olmsted Memorial HospitalでC.J.を産んだ。カルロスが病院に訪ねてきたかどうかはよく覚えていない。


Hollywood Presbyterian Olmsted Memorial Hospital

二年後、カルロスが私を驚かせた。私たちが本当は離婚してなかったというのだ。メキシコでの離婚手続きは、彼のフィールドワークの間、私をごまかすためのインチキだったのだ。いずれ私に告げようと思っていたと言ったが、私がすぐにAdrian Gerritsenと結婚するとは思ってもみなかったのだろうか?

カルロスは、私にまだ公式には結婚していて、誕生した子供は彼の子どもだと言ったのだ。私は麻痺したようになり頭がぐるぐる回った。

そして私たち三人、つまりカルロスとAdrian Gerritsenと私たちが着地点をみつけるまでさらに数週間かかった。

私がようやく事態を受け入れカルロスが私のSoheny Driveのアパートを訪れることを許容できるまで一年かかった。

当初からカルロスは、C.J.に対して強い思いを持っていて、彼の精神的な息子だと言っていた。小さなC.J.が育つのを見るのが大好きだった。

10カ月もするとC.J.は自分の足で立ち、おしゃべりもするようになった。
彼は、学校にC.J.を連れて行くようになった。友人たちがC.J.のブロンドの髪と青い目を指摘すると(私のことは話さずに)母親がスカンジナビア人だと言って説明をしていた。
これは彼がLAで私と付き合う前に付き合っていたGib Edwardsという女性をイメージして話していたのだ。

2018年7月9日月曜日

Maya(17)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』15-2

カルロスは、著書ではその時点でダツラについてまったく無知であったかのように書いている。

事態を一層複雑にしているのは、カルロスがインディアンの情報提供者からドラッグについて教わったのがダツラが一番目のものではないということだ。
彼は最初にペヨーテについて学んだと『教え』で書いている。そして学んだ時期はダツラについての会話が行われる数週間前なのだ。

もし、本当にペヨーテについてダツラより以前に学んだのであればなぜ彼はMeighanに提出した論文にペヨーテについて書かなかったのだろうか?

なぜ出版するまで待ったのだろうか?時系列をごちゃまぜにしてシャーマンへの道が徐々に進むように見せたかったのだろうか?

カルロスの一連の作品が、事実と創作の混合だった可能性がある。アリゾナとカリフォルニアそしてメキシコの砂漠で得た情報の混成、UCLAの図書館も入っているかもしれない。それらを読み物としてまとめたのだ。

逆に、著作の方が彼の弟子生活を正しく書き記したものの可能性もある。

確かなことは1960年、彼が実際にインディアンに会いにいって留守にしていたことだ。
South Detroitのアパートにいることは少なかったし、友達とも過ごすこともなかった、そしてこれまで好きだったオカルト話にも興味を失っていた。

(中略)

彼は、自分の旅行が重要なことだと言っていたが私はあまり興味がなかった。私が知っていたのは彼が家にいないことが多かったことと、それが嫌だったことだ。

ある日の午後、彼はダツラと思われる束を抱えて砂漠から戻ってきて、その煙を私に吸わせて何がおきるか話すように言った。
私には、部屋の中のカーテンだか何かが畳まれるように見えた。カルロスと思しき人間が黄色いメモパッドに私のいうことを書き留めていた。

何時間後かに目覚めたあと私がカルロスに何が起きたのか尋ねたがあまり話したくないようだった。

彼は、まるでそのことが重要でないように振る舞った。彼が書き込んだノートも見せてくれなかった。彼がドラッグをアパートに持ち込んだのは先にも後にもこの一回だけのことだ。

2018年7月6日金曜日

Maya(16)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』15-1

この章は長いので5つに分割します。

カルロスにドン・ファンを教えた友人のビルという人物は、Alan Morrisonのことのように思える。彼は、ドラッグ研究のガイドであり助手だった。

Meighanは「ドン・ファンのことで問題なのは、そして批判されるのは、彼が唯一の人物だということだ。彼は、実際にはどの部族にも属していない。彼の両親は、どの部族にも属していなかったし、彼はカリフォルニアのインディアンたちと暮らしていたこともあるし、またある時はメキシコのインディアンたちとも暮らしている。彼は純粋なヤキではない。また、彼は非常に知的な人物でもある。私も彼のように知的なインディアンに会ったことがあるが非常に稀な存在だと思う」と言っている。

当初、カスタネダは論文の情報提供者として付き合っていて、自分の論文を書籍にして出版するようなイメージは持っていなかった。

彼の論文では、インディアンの情報提供者の名前は明かされておらず偽名で記されている。後に彼の本では、恩師をJuan Matus、つまりドン・ファンと名付けている。この名前は英語でいうジョン・スミスと同じくらいのありふれた名前なのだ。

Meighanは、1966年まで謎のインディアンの名前を知らなかったし、UCLAの同級生たちが知ったのは、『ドン・ファンの教え』が発行された1968年まで知ることがなかった。
しかしカルロスは、ドン・ファン・マトゥスという名前を1963年よりも前に決めていた。

彼とAdrian Gerritsenは、1963年のはじめロスのThird Avenueのカフェでカルロスとお昼を食べていた。話題が中央アメリカのインディアンのことになった。

この人物は、C.J.カスタネダの実の父親です。

Gerritsenは、モルモン教の活動の一環で、ユタ、カリフォルニア、ニューメキシコそしてアリゾナのインディアンの居留地のサポートをしていたのだ。

彼が僕のインディアンについての知識に興味をもったんだ」Gerritsenは当時を振り返る。
彼は、治療師のドン・ファンについて話してくれた。カルロスは何度も会いにでかけ友達になったと言っていた。ドン・ファンは、カルロスを信頼し、その夏、彼とその仲間に会いに出かけることになっていた。カルロスは、この人物と彼の不思議な話について書く予定だと言っていたが、それ以上詳しく話してくれなかった

カルロスは、1961年6月23日からノートを記している。
この習慣は彼が弟子の間ずっと続いた。写真もテープも残っていない。弟子になりたての頃は、隠れてノートをとり記憶をたどって会話やできごとを書き起こしていた。ドン・ファンに記録を取ることがゆるされてからは大量の会話を記録している。

しかし、そうした記録にはいちゃもんもついている。例えば、ドン・ファンは本当にジムソン・ウィードに関する説明をしたのだろうか? したのだとするとカルロスはいつ聞いたのか?

ドン・ファンの説明は、『ドン・ファンの教え』に書かれている1961年の8月23日より前のことだ。少なくともカルロスは、その時点より前に知っていたはずだ。なぜなら彼は、その情報をMeighanに提出した論文に書いているからだ。彼の学部時代の論文には、ダツラの四つの頭についての情報が全部記されているのだ。

カルロスが本で61年に知ったと言っている情報を彼はそれより前に知っていたのだ。

今、思ってみれば、ダツラの扱いについては、彼の情報提供者(ドン・ファン)の中ではあまり重要視されていなかったからではないだろうか?」とMeighanは言う。
ドン・ファンの強力な知恵のストックの中でそれほど重要なものではなかったんだろう。だからカルロスが彼の前に現れたさい、ダツラに非常に興味を示してもわずかの情報しか教えなかったのだろう

ということだとすると、問題はカルロスが書いている日付にいったい意味なんてあるのだろうかという疑問が生じる。むしろ目くらましの一種なのかもしれない。

卒業論文に登場する情報提供者がドン・ファンとは別人物だったということも考えられるが、他の人物が後にドン・ファンが語る内容とまったく同じ知識を語るだろうか?

2018年7月5日木曜日

Maya(15)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』14

※この章は、割と重要です。

カルロスは、Vermontにある自分の部屋を引き払って823 South Detroit Streetの私の部屋に移って来た。



彼は、Haggarty'sの仕事をつづけ、私も電話会社勤務で忙しかった。
彼は夜遅くに帰宅、夏ごろには週末も家をあけるようになった。
時に何時間か、次第に何日も家に帰らないようになった。
はじめは他に女性ができたのでは?と疑ったが彼は否定した。

カルロスは、砂漠に薬草の勉強にでかけていて、”ある男を見つけたんだ”とある日言った。だが、彼がインディアンで先生である以上のことは何一つ教えてくれなかった。

初期のフィールドトリップは、彼がとっているカリフォルニア民族誌(California Ethnography)の授業の延長だった。Clement Meighanという考古学者(archeologist)が教える授業で人気があった。
彼の第一作の本のクレジットで一番に載っていたのがこの人物だ。

この授業は毎年行われていてレポートが課題だった。インディアンとの直接インタビューに成功した学生は無条件にAがもらえた。
カルロスは、このレポートが成功すればいい成績がもらえるだけでなく大学院に入るのにも有利になると考えた。

レポートのテーマには、バスケット(籠)や陶器、農業など事欠かなかったがカルロスは、民族植物学(ethnobotany)に決めた。

60人のクラスメートの中で実際にインディアンとコンタクトした人間は三人だけだった。一人は、大学生の中で一人見つけ人種問題をテーマにした。もう一人は、フレズノ( Fresno)に住んでいる友人を通じてインディアンを紹介してもらい月並みなインタビューを行った。
カルロスだけが情報提供者を見つけたのだ。

実際のところカルロスは、何人ものインディアンとコンタクトし何度かMeighanの指導を受けるために彼のオフィスを訪れている。
始めの頃、カルロスは、Palm Springに近いCahuillaのインディアン居留地を訪れ、次にColorado River近辺のインディアンと接触した。

インディアンに他のインディアンを紹介してもらうのでカルロスは次から次へと情報提供者たちを渡り歩き、不思議な儀式や薬草の利用について学んでいった。
最終的に、彼はJimson Weed ( Datura inoxia)について深い知識を持っている男にたどり着いた。
それがカルロスの卒業論文のベースとなった研究だ。

彼の情報提供者は、Daturaについて驚くほどの知識を持っていた。カリフォルニアの一部インディアンたちによって儀式で用いられるドラッグだ。だが、多くの文化人類学者は4、50年前に情報が失われてしまって研究をやめてしまっているテーマだった」とMeighanは当時を語っている。

だがカルロスが見つけた人物は、いまでも大量にその知識を持っていてしかも使っていたんだ。彼が提出したレポートは、そのような知識を持っている情報提供者がいなければ成立しないものだった。素晴らしい内容だったので私は彼に研究を継続するように勧めた。
彼は、いまだに力の植物としてダツラを扱うことのできるインディアンがいると言った。これについては彼の最初の本に記されている。
彼は、植物の根のどの場所を扱うのかが重要だと言っていた。植物が雄なのかメスなのか、深い部分の根なのかについてはシンボリズムや空想に基づいていて、薬理的な意味があるかどうかは疑わしいと思う。

彼は、いろいろな場所にでかけていき人々の信仰について尋ねて歩いた。私の知る限りでは、ダツラにまつわるこうしたことがこれまで出版されたことはなかった。私は、カリフォルニアの文献をくまなく読んでいたが、インディアンが儀式で扱うドラッグについて尋ねはじめると抵抗にあうため、このような情報を得ることができていなかったのだ。私はカルロスのレポートに感銘を受けた。彼は、これまでの文化人類学が得ることのできなかった情報を手に入れたのだ

(※中略)

カルロスが情報を得た相手は、彼が本でドン・ファンと呼ぶ人物だったのだと思う」とMeighanは言う。「カルロスは、本の中で明示してはいないが、おそらく同じ人物なのだろう。彼は、情報提供者を部族と地域だけ明かしていて、その人物はYuma族とYaqui族の混血だと言っていた

ドン・ファンは、父親がヤキで母親はユマ・インディアンである(『呪術と夢見 - イーグルの贈り物』 )と言っています。
NAVERの「カルロス・カスタネダまとめ」によると、自称ドン・ファンのモデルだったというカチョーラは、1909年、北米大陸 ソノラディザード(Sonola)で、ヤキインディアンの父とトルテックインディアンの母のもとに生まれる、とあります。

文献によるとヤキは、儀式では薬草を使わないそうだが、カルロスは気に留めなかった。彼は、本当の呪術師を発見したのだ。

2018年7月4日水曜日

Maya(14)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』13

LACCを修了すると、カルロスはUCLAに入学した。

芸術家としての道を断念し、教育を専門にしようと考えた。物書きとして身を立てようと思っていたか?と考えるのは興味深いがこの時点ではまだ考えていなかったと思う。

私の叔母が亡くなってからSouth Detroit Streetのデュープレックス(二階建てのアパート)に引っ越した。私はSue Childressと同居した。

初冬、カルロスはHaggarty's(Wilshire Boulvardにある女性ものの店)の経理として夜に働く職を得た。

Andrija PuharichのThe Sacred Mushroomが出版されたとき、カルロスも含めみんなが読んだ。

カルロスは、霊媒役のオランダ人彫刻家のHarry Stoneと自分を重ね合わせていたかもしれない。

Puharichによりカルロスは、メキシコのシャーマニズムとPsilocybe mexicana(キノコ)を知った。
そしてオルダス・ハックスレーにより、詳しく言えばProfessor J.S.Slotkinの研究によりメスカリン、アメリカ・インディアンが使うペヨーテについても学んだ。

サウスウェストの学生たちにはもう一つ有名なドラッグがあった。”loco weed”(ダツラ)と呼ばれるものだ。

ドン・ファンが教えてくれたことになっている三つのドラッグ、キノコ、ペヨーテ、そしてジムソン・ウィード(ダツラ)のことをカルロスはドン・ファンに教わる1960年より前によく知っていたのだ。

この後、マーガレットとNeville Goddardとの不思議な関わりについてのエピソードがありますが、割愛します。この下りは、神秘学や精神世界について精通していたマーガレットとの付き合いを通じてカスタネダが知識を蓄えていったと示唆しています。

続いて1960年の1月、Farid Aweimrineという中東のビジネスマンとアパートにいた時~結婚のエピソードが詳しく書いてありますが、すでに『ドン・カルロスの教え』に書かれている内容とかぶりますのでそちらをご覧ください

あと先になった感がありますが『ドン・カルロスの教え』の著者は、マーガレットの著書を参考にしたと思います。しかし、ここで大きな矛盾があります。
この結婚の詳細を知っているのはマーガレットを含む部屋にいた当事者3人以外にはあり得ません。ですが、マイク・セイガーの『ドン・カルロスの教え』(のオリジナル)は1999年に発表されているのです。
一方、マーガレットの著書は、2001年2月1日発行。マイク・セイガーの記事より後なのです。

これは100%あたしの推測ですが、マーガレットの回想録のゴースト・ライターがマイク・セイガーなのではないでしょうか?

『ドン・カルロスの教え』とよく似た情緒的な書きっぷり、いかにもプロのドキュメンタリーライターっぽい構成、カルロス周辺の人々の取材内容などから彼自身がマーガレットにインタビューして仕上げたのではないのでしょうか?


2018年7月3日火曜日

Maya(13)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』11~12

お待たせしました。(誰が?(笑))
『~魔法の旅』、一応最後まで抄訳が済みましたので連載を再開します。

●第11章

第11章は、カルロスが手掛けた彫刻についての話が披露されています。
その内のいくつかをまだマーガレットが所有していて、Sueの胸像も作ったとあります。

また、カルロスがマーガレットの他の交際相手に嫉妬深かった話とインディアンの占星術についてのエピソードが書かれていますが、あまり面白くないので続く第12章に進みたいと思います。

●第12章

カルロスは、1958年はNorth New Hampshireに住んでいた。そこから数マイル離れたHawthorneにあるRosencrans通り(Ave.)にあるMattel Toy Companyに職を得た。

日本人にもおなじみのマテル社ですね。

彼は、LACCの四年目、Jonnieという女性が経営するAdams Avenueの下宿に引っ越した。
LACCでは、Vernon Kingという先生がカルロスに(詩を)書くことを勧め、学校新聞で入賞したこともある。

1958年の12月、ハリウッドのCherokee Ave.に家を借りることにした。カルロスとの交際に反対する叔母の態度に変化はなかった。

数か月、同棲して私は、叔母の家に一旦戻った。カルロスは、LACCキャンパスに近いVermont St.にある40階建てのアパートMarietta Apartmentに移った。

最終学期になってシルクスクリーンの仕事をしていたし帰化の準備を始めていた。
名前を本名のAranaにするかカスタネダにするか迷ったが結局、カスタネダにした。

1959年に叔母のVelmaが亡くなった。

1959年6月19日、カルロスはLACCを卒業した。美術とプレ心理学で学士号を取得した。実家には、記念写真とともにこの後、UCLAに入る予定だと手紙を出した。これが彼が家族に出した最後の手紙になった。後に出版が成功しても家族はまったくそのことを70年代まで知らなかった。

彼は家族との絆として自分の母の写真を持っていたが、ある日、私との喧嘩の最中に破いてしまった。

2018年7月2日月曜日

『一人旅の友は自由』~孤独な鳥の条件~(3/3)

前回は、PBSのMy Humble Opinionをご紹介しました。

この話で思い出すのがカスタネダの『力の話』で引用されている『孤独な鳥の条件』という詩です。
あたしの手元には、日本語では『力の話』の初期の出版である『未知の次元』に掲載された名谷一郎氏の訳とカスタネダ本の本家?、太田出版による『力の話』真崎義博氏による翻訳、そして上記、二冊の原作、『Tales of Power』に掲載されている英語版があります。

この詩のオリジナルはスペイン語ですので『Tales of Power』に掲載された英語翻訳はカスタネダ本人の手になるものと思われます。
カスタネダは、LACC(Los Angeles Community College)時代、教師に詩の才能を認められていたといいますから詩については造詣が深かったのでしょう。

あたしの邪推では『力の話』から以降は情報提供者(=ドン・ファンたち)不在の完全なフィクションですから文中でカルロスに詩の朗読を頼むドン・ファンは、まさにカルロス本人なのだと思っています。

スペイン語の原詩もついでに掲載しようと検索したところ日本語のブログでとても良い記事を拝見しましたので参考にさせていただきました。この場を借りて御礼申し上げます。


孤独な鳥の条件

孤独な鳥の条件は五つ。
一、孤独な鳥は至高へと飛ぶ
二、孤独な鳥は連れに煩わされることがない
  たとえそれが同類でも
三、孤独な鳥は嘴を天空へ向ける
四、孤独な鳥は決まった色をもたない
五、孤独な鳥はとても静かにうたう

サン・ファン・デ・ラ・クルス
(光と愛の金言集)
※『力の話』(新装版)太田出版2014年4月8日第1版第1刷
真崎義博訳

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孤独な鳥の条件は五つある
第一に孤独な鳥は最も高いところを飛ぶ
第二に孤独な鳥は同伴者にわずらわされず
どの同類にさえもわずらわされない
第三に孤独な鳥は嘴を空に向ける
第四に孤独な鳥ははっきりした色をもたない
第五に孤独な鳥は非常にやさしく歌う
サン・ファン・デ・ラ・クルス
<光と愛のことば>

※『未知の次元』講談社学術文庫1993年6月10日第1刷
名谷一郎訳

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The conditions of a solitary bird are five:
The first, that it flies to the highest point;
the second, that it does not suffer for company,
not even of its own kind;
the third, that it aims its beak to the skies;
the fourth, that it does not have a definite color;
the fifth, that it sings very softly.
- San Juan de la Cruz, Dichos de Luz y Amor
( Carlos Castaneda “Tales of power” )

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LAS CONDICIONES DEL PAJARO SOLITARIO

Son cinco:

La primera, que se va lo mas alto;
la segunda, que no sufre compania, aunque sea de su naturaleza;
la tercera, que pone el pico al aire;
la cuarta, que no tiene determinado color;
la quinta, que canta suavemente.

2018年6月29日金曜日

『一人旅の友は自由』~孤独な鳥の条件~(2/3)

以下、YouTubeに公開されている動画と、あたしの拙い翻訳です。



●ジュディ・ウッドルフ(PBSメインキャスター)

今、これをご覧になってる人の中には家族や友達と過ごす夏休みの計画を立ててる方々もいると思います。
でも、もうひとつのアイデア、もしかするともっといい休暇の過ごし方があるかもしれません。
一人旅の話です。

今夜は、ニューヨークタイムズの旅行記事担当、ステファニー・ローゼンブルームが目的地に着くことより大切なことについて「私の素朴な意見」を話します。

●ステファニー・ローゼンブルーム

私の仕事は旅行記者です。

私の職業を知ると誰もが、自分が旅したい場所について話を始めます。
「そうね、ポルトガルかローマに行きたいわ。でも一緒に行ってくれる人がいないの」

私のこたえ? 「だから? 一人で行けばいいじゃない」

昔、編集長が私を一人で一年間、パリの探訪に行けと命じたの。
たった一人。家から遠く離れて、とてもゆっくりできたわ。
同行者とおしゃべりする必要もないし、付き合う必要もない。だから一人でどっぷりと毎日素晴らしいことに気がつくことができた。ルクセンブルク・ガーデンの緑色の椅子に木漏れ日が差し込むところ、カフェの軒先の日よけに落ちる雨の音とか。

私はいろいろ素敵なものに集中できた。だって誰にも邪魔されないから。
誰も私を急かさないからバルザックの家の近くにあった静かな道でのんびりできた。

一人で出かけなさい。そうすればあなただけが興味を持っていることに接する自由があるんだから。自分のペースで自分のセンスを磨くことができる。好きな美術やデザインの店を探したり、見知らぬ場所を発見したり新しい趣味や冒険のヒントを見つけることができるかもしれないし。ひょっとしたら残りの人生の過ごし方が決まるかもしれない。

一人。これまでの殻から出られる。昔、東京の茶室でお茶を体験した日みたいに自分を見直せる。
秋の午後、フィレンツェの丘に登って生きてることを実感できる。
これからどう生きていくかを考えることができる。他の人が周りにいたらできない体験。

でも、あなたはこう思ってるかもしれない。
「そうね。いいかもしれない・・・でも寂しいでしょ?」
そう、私たちは寂しさからは逃れられない。いつだって寂しさは訪れてくる。
たとえ親しい人たちに囲まれたパーティーにいる時だって寂しくなることはあるから。

それに、もし人と会うのが好きなら、なおさら休暇は一人でとった方がいい。あなたが一人でいるときの方が、見知らぬ人々は話しかけやすいから。それに今は、現地の人たちや旅人たちと親しくなれるチャンスがたくさんある。
料理教室、見学ツアー、ウェブのサービス。

もうひとつ言いたいことがあるの。
もしあなたが女性だったら一人で旅ができるってことはすごいことだってこと。
私たちの先輩の女性たちが長い時間をかけて勝ち取った権利だから。
私の故郷、ニューヨークでは長年、女性には旅行もそうだし一人で散歩したり食事をする権利がなかったんだから。

私が一人で行動するとき、これまで数えきれないほどの女性たちが努力してくれたおかげでできるようになったんだって思う。
だから、誰か友達がアレンジしてくれたり予定を組んでくれるのを待つのではなく自分の人生を楽しんで。

いますぐ航空チケットを買って。ホテルを予約して。
一人で旅に出よう。

●ジュディー・ウッドラフ

ステファン・ローゼンブルーム、素敵なアドバイスありがとう。
家ですごく休暇でも同じことがいえるわね。

(続く)

2018年6月28日木曜日

『一人旅の友は自由』~孤独な鳥の条件~(1/3)

近年、自分の孤独性(solitude)について自覚することが多いです。
(『ひとりメシの話』)

現役時代には、それなりに会社や社会にしたがってほどほど過ごしてきましたが、まるで論語でいう70歳のように「心の欲するところに従って則を超えたい」なんて思い始めているなと。

いまだに同じ職場で働いている身ですが、現役時代では付き合いで顔を出していた社交関連や夜の誘いについてはいろいろ理由をつけてパスするようになってきました。
健康問題もあるし、お酒に時間使うくらいならハーモニカの練習の方が大切だしね。

また周囲も事あるごとにあたしが自分の孤独重視キャラクターを訴えてきたせいか彼らも尊重してくれているようでありがたいことです。

孤独性は自由で時間も好きなように使えるのでメリットはあるのですが、逆に自分がどこにも所属していないような感覚にもなります。

自分のベースが職場でもなければ家庭でもない。友人たちでもなければ趣味の集まりでもない。
寂しい( loneliness )というのとも違う、どちらかというとアイデンティティの問題のような感覚。
ごくごく平凡なあたしが感じている感覚だからたぶん全部の人間が持っている感覚なのかもしれません。

そもそも、どこかにどっぷりと所属したくないわけなのだから所属してなくて結構なことですが、人はどこかにコアとなるホームグラウンドが必要なのかなとも思う時があります。(それは過去の自分かもしれないし)
いずれにせよ、なんだかんだいって人は一人では生きられないわけですから。

とかつらつら考えていたらPBSニュースの連載企画で毎回ゲストが「My Humble Opinion(私の素朴な意見)」という短いスピーチをするコーナーでぴったりの話題がありましたのでご紹介したいと思います。

最初にMC(ジュディ)が紹介して、本人(ステファニー・ローゼンブルーム)、最後にジュディがまとめ、となってます。

素晴らしいトークだったので訳したんですが、あたしの素人訳になると全然雰囲気が伝わりませんがご容赦を。

(続く)

2018年6月27日水曜日

Hoochie Coochie Man

今、調べてみたら「ゲイン・ミュージック・スクール(過去記事)」のブルースハープ教材を練習していたのは、2011年。
かれこれ7年も前なんですね。はぁ~。

あの頃は、真夏の炎天下でも車の中に籠って汗だくで課題曲の「セロリ」とか一生懸命やってたなぁ。
まさか車内練習ができない身体になるなんて思ってもみませんでした。

もしかすると会社でも座りっぱなしなのに車の中でも長時間座ったりしてたので前立腺がまいっちゃったのかもしれませんね。

それはさておき、そうした課題曲の中に表題の「Hoochie Coochie Man」があります。
ゲインの課題の原曲はマディ・ウォーターズではなくてエリック・クラプトン版でしてハープはジェリー・ポートノイのプレイです。

ブルースハープに手を出すと一度は演ってみたい曲なので課題にあるのはありがたかったです。

で、なんとか覚えた後、二回ほど人前でやったことがあります。
一度目は、セッション。

まったく未経験の頃の話で、お店も完全「外様」。たった一人で知り合いもいない。
(というより度胸試しであえて一人で初めての場に行ったんですが怯えて後悔したものです)

ビビりながらハーモニカとマイクを握りしめてますとフロントを取るギターの人が「”フーチークーチーマン”やりたいと思います。よいですか?」と声をかけてくれました。

学んだばかりの曲だったので、ひとまず助かった!と思いました。
アドリブなんて全然ダメですから(今も)、教材にあった通りのソロを吹きました。
お客さんがお情けで拍手してくれたのが嬉しかったなぁ。

(二曲目は、ストーミーマンデイでビビっちゃって全然メタメタでした。今思えば、ストマン進行だって別に恐れなくてもよかったのに・・・。ま、何事も体験ですよね)

その後、2013年に今度は知り合いのいるセッションの場で自分がフロントで演らせていただきました。

前回は、歌は別の人ですのでちょうど本音源のハーモニカパートだけでしたが、今度は歌も歌います。ところが、途中で数箇所歌詞を忘れ真っ白に!!

今思えば、別に元歌詞だってめちゃくちゃな内容なんだから適当に歌えばいいのに。

ホストバンドの方々がなんとかフォローしてくれたので終えることができましたがガックり。

この曲の歌とハーモニカを独りでやると歌とオブリガード(ハーモニカ)をすばやく交互に演るので一旦乱れるときりがないといいますか。リズムも崩れちゃうし。

それと歌詞ですが、内容が非常に男っぽいというか精力絶倫男の歌ですので、あたしの芸風にまったく合わない(笑)

B.B.Kingみたいに友達に「お前、頭おかしいんじゃないか?」(B.BKing自伝参照)ぐらい精力持て余している人の歌ですよね。

とまぁ、そんな経緯でこの曲をしばらく敬遠していたのですが、最近、ふと久しぶりに演奏してみようかなと試したらまったく忘れてる!

これはまずいってんで、あらためてゲインの教材を取り出して思い出しつつなんとか戻してますが、冒頭で述べたかつての練習風景が思い出されてなんだか甘酸っぱい思いが胸の中に蘇る今日この頃です。

2018年6月26日火曜日

TOEIC体験記(12)最終回

●その後、また受けるのか?

繰り返してますように、準備を進めていく内にTOEICの「本番試験」ってあんまり英語の学習と関係ないんじゃないか?という疑問が出てきた上、TOEICのスコア自体が趣味・目的になったら本末転倒だなと思いました。

よく楽器のコンテストで優勝した人が、そこで満足して楽器辞めちゃうことがあるような感じになったり、逆にいつまでも満点とれなくて精進辞めちゃうみたいになったりも嫌だなと思いまして、もう受けるのはやめようと思いました。

老眼がえらい疲れるし、首凝るし(笑)

とはいえ「究極のゼミ」シリーズについてパート3・4以外は、買わなくてもよかったかなぁと前にいいましたが、受験後に『TOEICテスト究極のゼミPART 5語彙・語法【超上級編】』を追加購入しました。
TOEICのおかげで「語法」について理解を深めたいなと思ったので日常の継続学習の友として買いました。

なんだかんだ言ってもも久々に試験受けて楽しかったな。
なにより終わった後の解放感が良かったし。

●スコア
930点でした。
(950点はいけるだろうと思っていたのですがミスが多くとらぬ狸でした)

●収支勘定

今回の受験でかかった費用を積み上げてみました。

受験料、参考書、リスニング会場として使ったカラオケボックス代から回答用紙のコピー代、試験当日の交通費までで総額約3万1000円でした。

半年で3万円。月5000円の授業料という換算ですね。

2018年6月25日月曜日

TOEIC体験記(11)

さて、(10)でご説明しました図表問題の「性質」を踏まえてのあたしの「先読み」方法を書いておきます。

まず、パート1(写真問題)の説明時間。これは例題も含めた説明なので30秒くらいあると思います。

一般的な参考書に書いてある先読みは、この30秒の間に、パート3の最初の問題、つまり32番~34番を先読みするのですが、あたしは、ここでそのあたりはすっ飛ばしてパート3と4の図表問題の「Look at the graphic.」の設問を先読みします。

最新の図表問題は、パート3で3問。パート4で2問の図表問題が出ています。
あたしは、このパート1の30秒で、それら5問の「Look at the graphic.」設問(と図表)だけ、つまり5つを先読みすることにしました。

これらの設問に対して前述の図表問題の性質を踏まえ、会話の中で何を聞き取らなければいけないかを事前確認しておくことにしたのです。

残りの設問の先読みについては、後で実際にこの図表問題に到達したときに対応します。
この方式をとってから図表問題でパニックになることがなくなりました。

放置しておいたパート3の最初の問題、つまり32番~34番の先読みは、パート2の説明の時に行えば十分です。

実は、「本番」についての項目で、

○自分のやり方が注意されるのかと気が気じゃなかった。

ということを書きましたが、あたしが心配していたのがこれで。
最初に後ろにあるパート4の図表問題を先読みしていて試験官にリーディングパートを先読みしていると誤解を受けるのでは?と心配でしたが、幸い誤解はされませんでした。

●リーディングパート(パート5・6・7)

リーディングパートは、参考書類が共通に書いているのは時間との闘いということです。
特にパート5をいかに速く終えるかというのが勝負の分かれ目になっていると書かれています。
あたしも『文法特急2急所アタック編』のおかげでスピードについてはそこそこの速さに到達できました。

とはいえ『でる模試 リーディング700問』のような難易度の高い模試ですと時間が足らなくなる。

特に、最後の問題は長めの文章が三つもあって時間が迫ってくると焦っています。
すると読解がうわっ滑りになって読み直したりして時間を無駄にして間違いも増えてしまいます。

ところが、これらの設問。後の見直しで時間に関係なく落ち着いて説いてみると三文章問題、二文章問題の設問は文章の量の割に答えが比較的簡単だということに気が付きました。

そこで問題を次のように後ろから逆に解いていくことにしたのです。

パート7を後ろから。
パート6を後ろから。
パート5を初めから。

このやり方にしてから時間オーバーをすることはなくなりました。
(間違いはありますけど(笑))

しかし、これはいったい英語の勉強なのか?

2018年6月24日日曜日

マーガレットの回想録、追加抄訳中にて

マーガレット・カスタネダの回想録のご紹介を一回中断して、TOEICのネタを書いていますが、回想録の後半の章の抄訳がいい感じで進んでいるので最後まで済ませてから続きをご紹介したいという魂胆です。

もう少しかかりそうなので、TOEICネタが済んだ後も少しかかりそうです。
しばしお待ちください。(って待っててくれる人がいればの話ですが(笑))

2018年6月22日金曜日

TOEIC体験記(10)

◎設問先読みと図表問題対策

さて、TOEIC受験者の間ではもはや常識となっている設問先読みですが、あたしはもうひと工夫することにしました。

パート3とパート4の最後に数問ずつ登場する図形問題は、設問に加えて図表を読み取る分、より多くの先読み時間が必要で、ややもするとパニックになってしまいます。

あたしの先読み方法をご紹介する前に、まず図表問題と設問、選択肢の「性質」について例示したいと思います。

ちなみに先読みしている段階では、ナレーションはまだ聴いていませんので、ナレーション内容は関係ありません。



設問1.Look at the graphic. Which product will be on sale this weekend?

(A) Red
(B) Green
(C) Yellow
(D) Blue

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グラフであれ、表であれ図示されている項目の順番と選択肢の順番は必ず同じになっています。そこはいじわるじゃないですね。

さて、上記の設問は、「何色」(横軸)かを聞いているわけですが、その場合、これから流れるナレーションの方は、必ずグラフの別軸つまり『数』に関しての話があります。色についての会話は絶対にありません。

選択肢と「」の要素についての話題が来るなと心(耳)の準備をしておくのです。
この例の場合は、おそらく「売り上げが一番少ない(高い)製品をセール対象にしよう!」みたいな会話が想定されます。

これが講演時間と講演者が載っている表であれば、選択肢の方が「時間」を選ぶ場合、会話は「僕は、Mr. Kingのレクチャーを受けるつもりです」のようになるし、逆に選択肢が「講演者」のリストだったら、「僕は10:30のレクチャーに行こうと思ってる」といった会話になります。

考えてみれば上記の解釈は、間違えさせるために作られている設問の設計上は当たり前なのですが、わからないうちは何から何まで「覚えておかなくちゃ」なんてなっちゃうのでスルーしていい情報は捨ててしまえると聞こえてくる音もしっかりしてきます。

2018年6月21日木曜日

TOEIC体験記(9)

■各パートの感想と攻略方法
●パート3・4の続き

選択した答えを忘れてしまう、あるいは覚えるために後の設問を聞き逃すといったミスを回避するためのテクニックが前述の『新TOEIC TEST 全力特急 絶対ハイスコア』にありました。
選択肢を覚えずに、その箇所を三本の指で押さえておくというものです。

この本では、三つの設問が完了した時点で解答用紙にサっサっサっと軽く印をつけておいて最後にまとめて塗るというアドバイスをしています。

練習問題で試したのですが、三本で押さえているためか指がつっぱって”ずれてくる”のと抑えている指の頭が丸っこくて指先がAさしてたのかBさしてたのかわからなくなっちゃって(笑)かえってパニックになってしまいました。

そこであたしが考えた改良案。

指は、一番目の設問の選択肢を「中指」。
二番目の設問の選択肢を「人差し指」の「二つだけ」を押さえる。これでつっぱりません。
三つ目の設問は、その問題の「最後(直前)」ですからどの選択肢が答えなのかさすがに覚えてます。中指・人差し指は済んでる問題なので「指に覚えておいてもらいます」。

で、三番目の設問についてのナレーションの該当箇所が読まれた段階で、三つ分の回答欄を瞬時に塗りつぶします。こうすると次の設問の先読み時間をかなり稼ぐことができます。

念には念をということで試験前日には、人差し指と中指の爪の形をとがらせておきました(笑)。

しかし、果たしてこれはいったい語学の勉強なのか?

この方法は、慣れてくると指の役割は補助的になってきましてナレーションを聞きながら三つの設問に対する選択肢を選んで忘れないようになってきました。

ナレーションの流れは、設問に対応する順番で該当箇所が読まれるから順に対応していけるから覚えるのも順番通りです。
三問目に対応する答えが一問目より先に読まれることはありません。(たぶん)


ただし、一問目に対応する答えが超冒頭で話されてしまい、うっかりぼーっと聞き逃してしまうことがありますので集中力は肝要です。
ぼ~っと生きてきたわけです。

また、本当にぼ~っとすることが多いのでこれだけ対策を講じてもうっかりナレーションが進んでしまうことが度々です。これはあたしの性格ですので、そうしたミスはもう仕方がないとあきらめることにしました。本質と関係ないし。

だって本当の会話の場面だったら、あれ?今、なんて言いました?って聞き返せばいいわけですからね。

先読みも慣れてきますと、三問分の設問と選択肢を読むと設問の傾向が浮かびあがってきて不正解の選択肢(ハナから考慮しなくていい)があらかじめ見えてくることもあります。

2018年6月20日水曜日

TOEIC体験記(8)

■各パートの感想と攻略方法

●パート1・2

パート1と2で一番苦労したのは、(オーストラリアを含む)ブリティッシュ系英語の聞き取りと、独特の「言い換え」(パラフレーズ)でした。
「言い換え」は、例えば「洗剤」をテーマにした日本語だとこんな感じ。

○設問:家の”台所洗剤”がなくなったのでスーパーで買おうと思っています。
○正解の選択肢:話し手は、小売り店で”家庭用の液体石鹸”を買う予定だ。

間違いを誘発するために持って回ったような言い回しがパート1・2に限らず3・4とやたらと登場します。

勉強を始めた当初は戸惑いましたが、消去法(明らかに間違っているもの以外を正解とする)と併用することで後半は”英語発音”への慣れもあってあまり悩むことはなくなりました。
この経験で反省し、今はBBCのポッドキャストも聞くようにしています。

●パート3・4

◎設問先読みとリテンション(記憶)

このパートは、あたしの一番の悩みでした。

設問の元となる会話やナレーションを聞いて、その内容に沿った設問が各ナレーションに対して3問出ます。

さて、やってみますと、TOEICに独特の用語に慣れてしまうとナレーターがプロということもあってリスニング自体はまったく問題なく、100%隅から隅まで聞き取ることができるのですが、設問の段階になるとすっかり何を聞いたのか忘れているのです(笑)

考えてみると、あたしは普段から人の話を聞き流すところがありますからね~。
おそらく、同じ問題を日本語でやっても同じように答えられないと思います。

そこで知ったのが、TOEIC受験ベテランの方々には常識だと思われる「設問の先読み」というテクニックです。

パート1の説明が行われている時に、パート3の最初の設問(設問32~34)を先に読んでナレーションでおさえるべきポイントを把握しておくというテクニックです。

たとえば、ナレーションで買い物の値段を言っていても値段を問う質問がないとわかっていれば、そこは気にせずスルーしちゃっていいわけです。

その変わり、「値引きする品物はなにか?」という設問があるなら、ナレーションでそこが出るところを聞き逃さず、解答を記憶に刻む必要があります。

ところが、ここで首尾よく答えをAとかBとか頭に刻もうとすると、頭がある種の考え事状態に入るので次の設問に対応するナレーション部分を聞き逃したりする間抜けな現象が発生します。(あたしだけかもしれないですが)

2018年6月19日火曜日

TOEIC体験記(7)

少しずつディテールに入ってきました。
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■勉強する場所

勉強場所ですが、家の他に公民館や図書館の自習室を活用しました。
図書館は平日は無理ですが、公民館は夜9時までやっているのでずいぶん助かりました。人の声や雑音もあるので集中力を高める練習にもなりました。
また、リスニングの模試は数回カラオケルームを利用しました。

家でも家人が留守の時には、イヤホンではなく音質を悪くする意味でもiPhoneのスピーカーで模試を行いました。

実際に本番に臨んでみると音質はかなりいいのでイヤホンで試験勉強してもあまり差異はないかなと思いました。ただスピーカーよりイヤホンの方が集中力が増す感じがあるので本番に近い環境になるにはスピーカーからの出力で実施する方がいいと思いました。

■テスト本番

ここまですべて独学でやってきたのですが、本番に際して参考書にまったく書かれていなかったことがありましたので書いておきます。ベテラン受験者の方にとっては、アホか?と思われてしまうかもしれません。

○問題用紙が、リスニングとリーディングが一冊でまとまっていた

事前に試験の心得やルールを読んでみるとリスニングをやってるときにリーディングパートを読んではいけない。というのがあって勝手にこれは「別冊」になってるんだな?と思いこんでいました。

○リスニング試験とリーディング試験は、リスニングを一旦やめるんではなくて連続して進めてよい

つまりリスニング終了時に一旦鉛筆を置かずに続けてリーディングに進めていいということですが、これができるとリーディングに避ける時間が30秒近く増えます。

(実は、本番のリスニング終了時まで、リスニングが終わると「一旦止め!」となるのかと思い込んでいました)

これは、後述する「設問先読みテクニック」によりパート4の最終問題でナレーションが選択肢を読み上げている内にリーディングを始められるということです。

でも、よく考えるとリスニング問題の間にリーディングをやってはいけないというルールに反するのではなかろうか?と思いますが、現場では構わずに先に進めました。

○問題用紙がシールで封緘されていた

うすうすそうなってるのじゃないかと思ってたのですが、単に知らなかったというだけです。破り方汚くなっちゃいました。

○机の上には筆箱もおけない

よほどこれまでに不正行為があったんでしょうね。
アジア系外国人の代理受験などが問題となってますからね。

○自分のやり方が注意されるのかと気が気じゃなかった

これは後で詳しく書きますが、リスニングのパートで一番最初に、パート3と4の「図表問題」の設問を先読みするというあたしが考えた独自のやり方です。

リスニングパートを読んでいる限りは注意を受ける筋合いではないのですが、図表問題はリスニング問題の最後にあるので試験官がリーディングパートを読んでいると勘違いして注意してきたら嫌だなという不安です。

2018年6月18日月曜日

TOEIC体験記(6)

ここまで何度か「テクニック」ということばが登場してきましたが、なんだか英語の勉強というよりは完全に試験対策の世界に入ってきていることに気がつきました。

また、設問なども、とんでもない言い回しやパラフレーズ(言い換え)が多用されていまして現実の世界とはかなり異なるな~というのがあたしの実感です。
言葉を学ぶというより、”TOEICの勉強”という感じ。

さて、2018年に入って追加で次々と参考書を買っていったわけですが、さすがに本物の模試も必要だなということで下記の三種類の「紙の模試本」を買いました。

===模試形式の本===
●TOEIC(R)テスト 新形式精選模試 リスニング(加藤優著、2,052円)
●TOEIC(R)テスト 新形式精選模試 リーディング(加藤優著、2,052円)



●公式 TOEIC Listening & Reading 問題集 3(Educational Testing Service、3,024円)

●TOEIC L&Rテスト でる模試 リスニング700問(ハッカーズ語学研究所、2,592円)
●TOEIC L&Rテスト でる模試 リーディング700問(ハッカーズ語学研究所、2,592円)
 

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既読の、「特急」シリーズのアドバイスによると、あれこれ買わずに一種類を何度もじっくりとやる方が効果があるそうなんですが、問題の答えを覚えてしまうので新しい問題をたくさん解きたいなと思いました。

『新形式精選模試』は、5回分。
『公式』は、2回分、『でる模試』は、なんと7回分あります。

当たり前かもしれませんが、この三つの内、『公式』が一番本番に近く、『でる模試』は、難易度がかなり高く感じました。
『でる模試』は、後述するテクニック(またか(笑))を編みだすまでリーディングを時間内に終えることができませんでした。(酷い時は、10分以上オーバー)

『精選模試』は、二つの間くらいの難易度。

どれかひとつにしろと言われれば、『精選模試』がバランスがとれていて一番オススメかと思います。(『でる模試』は、解説がほとんどありません)

あたしは、『特急シリーズ』他の個別参考書と並行して、週末中心に「模試」を実施しました。家の用事などもあり、まとめて二時間とるのがむずかしいので、土曜はリスニング。日曜はリーディング。ってな感じで進めました。

『公式』は、二回分しかないので”大事に”やることにして以下のような感じで進めました。

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『新形式精選模試』を5回分
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一回『公式』一回分をはさんで
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『でる模試』7回分
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『精選模試』の二回目を復習
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試験前日に『公式』の二回目
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