「力のあしどり」もついつい分量が増えたので小分けします。
1962年4月8日。
死について二人の会話は続きます。
「死は人間みたいなもんじゃない。むしろひとつの存在だ。だが、それは無であり、しかも全てだとも言える。どう言っても正しい。死ってのは人が望むすべてなのさ」
死についての考えは育った部族によって違うのかとユマ・インディアンとヤキ・インディアンを引き合いに出しましたが、それは問題じゃないと一蹴されてしまいます。(旅223)
上記のユマ(Yuma)・インディアンについていつものようにWikiをひもといてみますと、エントリーはなくQuechanという別の部族名がかかってきます。
どうも、この呼び名にはいろいろいきさつがあるようですが、カルロスはYuma居留地に暮らしているインディアンをそのように呼んでいるようです。
さてドン・ファンによると死に対する考え方は部族のような育ちではなく決めるのは当人の力で、その総和が生き方や死に方を決めるそうです。
「それじゃ、力ってなんだい?」
「それは感覚だ。幸運に似とる。あるいは、気分と言ってもよかろう。力ってのは自分の出身とは関係なく得られるものだ」(旅223)
つぎに知者の意味を尋ねます。ドン・ファンも言いますが本当に質問しますな。
「知者ってのは、学ぶという苦しい道を心から歩む者だ」
「あせったり気持を変えたりせずに、できる限り深く自分の力の秘密を解いてゆく者のことだ」
対話がすむといきなり「力の場所」へ長い旅にでるぞと言われます。
ちなみにこの1962年4月8日は、『教え』では、知者の「四つの敵」についても会話しています。こちらの『旅』でもここで知者の定義を尋ねているので完全に整合性がとれていることがわかります。
(おそらく当日の)午後3時過ぎに、西シエラ・マドレ山脈のふもとにつき夕方まで過ごします。
また地名がでました。なんとなくなじみのある響きの地名ですが「シエラマドレ」で検索すると一番上にはフィリピンの地名が出てきます。前述のドライブルートと読み比べてイメージを膨らませましょう。
ここでも強行軍でへとへとになってあおむけにひっくりかえったカルロスをドン・ファンが施術します。
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ドン・ファンが大声で笑い、しばらく、わたしを前後に転がした。その動きで呼吸が楽になった。(旅226)(体術)
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カルロスが、どうしてそんなに体力があるんだ?と尋ねると、自分をしっかり扱っているから、疲労とか具合が悪いとか感じる理由がないのだと答えます。
「その秘密は、自分になにをするかより、なにをしないかってことにあるんだ」
ここでドン・ファン理論の新たな重要フレーズ「しないこと(not doing)」が登場しました。(旅227)
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