2012年1月16日月曜日

忘れえぬ人々(国木田独歩)

そんな「行きずり」の人々との出会いを描いた名作があります。
前にも紹介した「武蔵野」を書いた国木田独歩の『忘れえぬ人々』。同じ文庫に収録されています。

パブリックドメインになっていますので「青空文庫」さんから、少しだけお借りして掲載します。

小説家の主人公は旅をしています。宿で相部屋となった相手に書きかけ原稿の『忘れえぬ人々 』という小説を見られてしまい読んでくれとせがまれます。
根負けして話して聞かせてやることにしますが、まず「忘れえぬ人」の定義について聞いてくれと言います。

「忘れえぬ人」とは『必ずしも忘れてかなうまじき人にあらず』なのだそうです。

親とか子とかまたは(朋友知己そのほか自分の世話になった教師先輩のごときは、つまり単に忘れ得ぬ人とのみはいえない。忘れてかなうまじき人といわなければならない、そこでここに恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情をも義理をも欠かないで、しかもついに忘れてしまうことのできない人がある。世間一般の者にそういう人があるとは言わないが少なくとも僕にはある。恐らくは君にもあるだろう』と小説家は連れに言います。

はい。あたしにもあります。

続けます。
主人公が瀬戸内海を船でわたっているとき、海に浮かぶ島々をぼんやりながめていたのだそうです。
以下の引用は、読みやすいように、あたしが段落分けしてしまっています。

菜の花と麦の青葉とで錦を敷いたような島々がまるで霞の奥に浮いているように見える。
そのうち船がある小さな島を右舷に見てその磯から十町とは離れないところを通るので僕は欄に寄り何心なくその島をながめていた。

山の根がたのかしこここに背の低い松が小杜を作っているばかりで、見たところ畑もなく家らしいものも見えない。
しんとしてさびしい磯の退潮の痕が日に輝って、小さな波が水際をもてあそんでいるらしく長い線が白刃のように光っては消えている。

無人島でない事はその山よりも高い空で雲雀が啼いているのが微かに聞こえるのでわかる。
田畑ある島と知れけりあげ雲雀、これは僕の老父の句であるが、山のむこうには人家があるに相違ないと僕は思うた。

と見るうち退潮の痕の日に輝っているところに一人の人がいるのが目についた。たしかに男である、また小供でもない。何かしきりに拾っては籠か桶かに入れているらしい。二三歩あるいてはしゃがみ、そして何か拾っている。自分はこのさびしい島かげの小さな磯を漁っているこの人をじっとながめていた。

船が進むにつれて人影が黒い点のようになってしまった、そのうち磯も山も島全体が霞のかなたに消えてしまった。
その後今日が日までほとんど十年の間、僕は何度この島かげの顔も知らないこの人を憶(おも)い起こしたろう。
これが僕の「忘れ得ぬ人々」の一人である

短編ですが、まるでオー・ヘンリーの小説のような気の利いた展開も待っていますので、まだの方はぜひ一度お読みください。

(更に続く)

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