2007年10月22日月曜日

歳月は人を待たず

父親が亡くなってから、長年一人暮らしを続けてきた母がついに、老人ホームに入ることになりました。

生まれてはじめて女性物の下着を大量に買ったり、数少ない、ご近所へや主治医への挨拶周りやら、戸締りやらで、自分の引越しとは別の意味で神経がかなり参りました。

主治医は、あたしの家が実家のある町に越してきたときに開業した医者で、本人も80歳を越えています。
今回の引越しは、彼のひと押しの一言(「もう、無理だよ。つかさん。」)で敷居をまたぎました。

迎えにきたホームのバンに乗り込んだ母を見送ってから、実家の戸締りをしました。
最後の洗い物と簡単な拭き掃除をして鍵を閉めて。

おそらく母にその時がきたら、もう自分も実家の町には戻らないのだろうと思うと感慨も一入。

柱の傷は一昨年のとか、歳月は人を待たずとか、光陰矢のごとしとか、学なりがたしとか、時間(=死)というものは、実に公正なものです。

あたしが、自分の「死」というものを明確に実感したのは40歳になったときです。
おそらく、今30代の人たちも同じだと思いますが、39歳までは、まったく意識しませんでした。
まったく。

要するに、40は、完全に折り返してしまった。ということなのでしょう。
つまり、身もふたもないですが完全に「おわった」という感じです。

追記2017年5月25日)フェデリコ・フェリーニによると、「さぁ、これからだ」だそうです。

だからといって不貞腐れるでもなし、漫然と生活を続けるのが凡人のよいところで、凡人には、凡人なりに、日常生活を重ねるうちに、少しずつ自分というものを整理していかなければというところです。

まだ早すぎる感がありますが、本当に歳月は人をまってくれないのです。

未だ覚めず 池旬池塘の夢
階前の梧葉 已に秋聲

追記2017年5月25日この母も今年(←)亡くなりました

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