前回のエントリーがお経だったので、忘れないうちに「お祈り」についても書いておくことにします。
以下は、あくまでも半可通の、調査もしていない私見なので、専門の方々が読まれたとしても、くれぐれもめくじら立てないよう、あらかじめお断りしておきます。
「お経」は外国の言葉(サンスクリットだと子供のころから聞いていた。)を漢字にしたものらしいから、それ自体が何か日本人の自分に意味をなすかというと・・・チンプンカンプンです。
しかし、「般若心経」を眺めてみると、全部が全部、外国の言葉の「音」を漢字にあてはめた『THE 虎舞竜(ザ・トラブリュー)』風、愚連隊(死語)好みの当て漢字かというと、必ずしもそうではなさそうです。
たとえば有名な、
『色即是空 空即是色』
というのは、『虎舞竜』とは異なり、なんとなくだが意味が通じます。
「形のあるものはないようであるようで」みたいなことを言っているような・・・といったイメージです。
このように一部、ニュアンスが伝わる言葉が含まれていても、やはり”概ね”チンプンカンプンです。
チンプンカンプンなことを一生懸命繰り返し(それも前回書いたように高速で)唱えていると何がおきるのでしょうか?
逆にチンプンカンプンだからこそ、脳みそがリラックスするのでしょうか?
「瞑想」の際に唱える「真言(マントラ)」は「意味不明」の方がよいという話も読んだことがあります。
これに対して、あたしたちもよく知っているキリスト教の「主の祈り」は全然違います。
「私たちの日ごとの糧をおあたえください」とか「私たちも人を許します」
だもの。非常によくわかるし意味もばっちりです。
具体的な内容をはっきりとお祈りするのは、「イメトレ」(なんと下世話なのだろう。)という意味でとてもよいのではないでしょうか?
(神道の神主が唱えているお祈りも具体的ですよね。どこそこのなにがしの商売繁盛~~とか言ってるもの)
それともお経は「お祈り」ではないのでしょうか?
逆に、キリスト教では、意味不明なことを高速で唱えるお経のような「方法」は用いないのでしょうか?
どちらも「数珠」は使うけど。
あたしがキリスト教の教会に出向くことがあることは、前にも書きました。
と、同時に商売人でもないくせに「穴八幡」のお札も買うし、ドーキンスの愛読者でもあるバチ当たりの繰言とお許しください。
(初出:2007年01月10日)
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