少し前に、母が入院していた「サナトリウム」の話を書きました。
毎週、たずねようたずねようと思っているのについつい忘れてまして、ついに先週末、母に入院時期を確認できました。
当人的にも、さすがに大昔なのであやふやだそうですが、25歳から27歳の二年間、入院していたそうです。
母は、大正7年生まれですので、今年92。
さて、25歳から27歳というと、ちょうど1943年から45年、つまり終戦の年まで滞在していたそうです。
母によると入院の段階で医者には、結核ではないといわれたのですが、その時点では他の家族は疎開してしまっていて帰る家がなかったので無理を言ってそのまま居させてもらったということらしいです。
当時、母の実家は麻布(金持ちの住んでいる高台方面ではありません。念のため)にありましたが、空襲で火がつくと火事になるというので木造家屋を壊したそうです。父親(つまり、あたしの祖父)を除いた家族の残りのメンバーは、両親の故郷である秋田に疎開していた、と。
あたしの母だけが幸か不幸か病院住まいというか病院に疎開していたというわけです。
でも、父親だけが東京に残っていた?というと、家を取り壊してしまったというのに、どこで暮らしていたのでしょう?これを書きながら疑問が・・・。
27歳で退院ということは、終戦を機会に家に戻ったということですが、一旦壊した家の跡地に、バラック(掘っ立て小屋)住宅を作り直したそうです。
東京(都)が立てたと言っていましたので補助金なり公共工事で行われたのでしょうが、敗戦の中でも福祉や厚生活動が行われていたことがうかがわれて興味深いです。
追記2017年5月25日)この母も今年亡くなりました。
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