2006年5月28日日曜日

陳式太極拳

前回、中国の老師たちについて書いたとき、さらさらっと「陳発科、最後の弟子・・」とか「四天王」とか書きましたが、太極拳に触れたことのある人たちには、ははぁ、とか羨ましい!とか妬ましい!!半可通のくせに!!ときても一般の人たちにはとんと、そのありがたみ?がわからないなと反省しました。

マニアックなホームページはネットで検索すればいくらでもあるので簡単に補足説明をば。
太極拳にも日本の剣道のように流派があります。
創設者の名前をとって呉とか陳とか孫とか楊てな感じです。

太極拳が踊りのように見えるのは一つ一つの武術の技を連続した動きで覚えるからです。
いい例ではありませんが、剣道の素振りで小手・面・胴といった形を連続して動いているようなイメージです。
この一連の動きを太極拳では套路(とうろ)と呼んでいます。

さて、呉、陳、孫や楊を「創設者の名前」と書きましたが、実際は「創設」ではなくて、そのまた先生から習った武術を自分の代で革新的に改造して有名になった人といったほうがいいのだと思います。

お叱りを覚悟で書いてしまうと、陳式がゴシックで楊式はバロックというイメージ。
前者が古くて後者は近世。太極拳が日本で有名になったのは、先にも書いたとおり、楊式を短く、簡単にした簡化太極拳なので一般的には太極拳といえばみな楊式風のものを思い浮かべていると思って間違いありません。

陳式というのは、あまりテレビなど映像で見たことがありません。先日、テレビで長拳(いわゆるカンフー、・・あぁまたしかられてしまう。)の大会の模様が写されていましたが、陳式太極拳はおよそマスコミの注目を浴びたことがありません。

ま、要するに、太極拳をはじめると楊式系から入門するのですが、ハマりだすとどうしても陳式に憧れてくるという感じです。

ギョーザパーティーを一緒にした洪均生老師は、陳発科、晩年の弟子です。(古今亭志ん生と円菊師匠の関係に近い…といってもわからないか…。)

発科は、陳式太極拳の第17代目の正統な後継者であり近代に誕生した太極拳の天才といわれています。ネットであらためて調べると、1887-1957。なので終戦後しばらくの間存命だったことがわかります。

←陳発科

陳式は、陳家構(ちんかこう)という陳一族が暮らしている村の中で伝わっているもので陳発科は、この田舎から都会に出て陳式太極拳を広めた人物です。村ではいろいろ言われたことと思います。

一方、残された村の中でも太極拳は継承され続け、やがて四天王といわれた若手が第19世。陳小旺、陳正雷、王西安、朱天才、老師たちです。その後ってどうなっているのだろう。次の世代は育っているのでしょうか?

今はどうなっているかわかりませんが、あたしが訪れたときは、いやはやもう田舎。「七人の侍」に出てくる村のような印象です。

旅の疲れをねぎらってくれるために洗面器にお湯を入れておしぼりを渡してくれました。
料理も都会のように香料を使っていないのでほっとする味。すばらしいホスピタリティでした。(旅行費用もばか高かったけど。)

この項を書くにあたってネットでいろいろ検索してみたら、かつて「敦っちゃん」とか呼んでいた日本人の仲間が「老師」って呼ばれていました。やはり継続は力ですね~。
練習熱心だったもの。えらいなぁ。すごい!

その点、半可通の自分としては夜中にこんな戯言書いているのが関の山。
楊式については、長くなるのであらためて。

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