2011年5月24日火曜日

『浅草紅団』

吉原の話が出たので、場所を浅草に移します。

表題の『浅草紅団』。
川端康成の小説です。

あたしは、中公文庫から出ているものを図書館で借りて読みました。ながらく絶版だったようですが最近復刊しているようです。

浅草で暮らす人々の人間模様を描いた青春小説。といってしまえば身もふたもないですが、永井荷風の「墨東奇譚」(”ぼく”は、さんずいに墨)、高見順の「如何なる星の下に」とならぶダウンタウン文学の最高峰のひとつです。

「紅」に限らず、「墨東」も「如何なる」も今は書店では手に入りずらい作品になってしまいました。
とうも大正期の大衆小説が失われつつあるような気がして残念です。

「紅団」は新聞の連載小説だったそうです。読めば、さすがノーベル賞。素晴らしいフレーズがてんこもりです。

「浅草は東京の心臓。」
「浅草は、人間の市場。」
「……私はなんて可哀相な女でしょうって、いいえ、いいの。それね、男ってなんていいものでしょうというのと、私には同じことなの」

しびれますね~鳥肌ものです。
引用続けますよ。

「恋をしていると、夜涙が出るものよ。別れると、朝涙が出るものよ。この朝の涙が出なくなれば、まず女として一人前だわ。」

参った。
次の引用は長いです。

「私は浅草に生まれも育ちもせぬ。故郷という言葉の意味がちがう。だが、1日に20万も70万も浅草公園に流れ込んでくる人達のうちには、ここを故郷ならぬ故郷と思う人間がどんなに多いことか。失業者や家出人や犯罪者は、なぜ必ず浅草に足を向けるのか。自分というものをその中に隠したり、忘れたりするのに、一番具合いい雑沓が、なぜここにあるか。一口にいえば、浅草公園は恵まれぬ大衆がここに棄てる、生活の重みと苦しみとがもうもうと渦巻いて、虚無の静けさに淀み、だから、どんなにぎやかな騒ぎも寂しく聞え、どんな喜びも悲しげに見え、どんな新しさも古ぼけて現れるのだ。

加賀まりこの自伝『とんがって本気 』の中に、川端康成との対談のくだりがあります。
ノーベルのくせに、加賀まりこに向かって、スカートをもう少し上にあげれば?というとんでもないセクハラを言ったのだそうです。
でも、加賀さんもすごくて、そんな川端翁に官能を感じてしまったのだそうです。
文学者ですもの、おそらく相対する女性の、その場のココロの具合を巧みに察することができるのでしょうね。
でなければ、上に引用したような台詞は思いつかないでしょう。

長文の引用の最後に「浅草が古びている」と書いてありますが、この小説がかかれたのは昭和初期です。その頃から古びていたというのが深いです。

ずっとふるめかしいからこそ浅草なのでしょうね。


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