2018年6月3日日曜日

Maya(5)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』3

Time誌が1973年3月に明らかにするまでは、カルロスがペルー出身だということは知られていなかった。(ブラジル、アルゼンチン、イタリー出身などとと言われていた。(自分でもいろいろ言っていたのです)

カルロスを疑う人たちは、カルロスがうそつきである証拠だといい、彼を信じる人々は、それが履歴をけすための実践だと言った。

カルロスのペルーでの略歴については、この本が一番詳しいと思いますが、彼の誕生日が一般に知られている1925年ではなく1926年となっています。

カルロスが自分の公式な過去を固めるまでどれくらいかかったかはわからない。
ブラジル生まれ。大学教授の息子。ブエノスアイレスの格式の高い寄宿学校~ハリウッド高校~UCLAなどなど。だが、事実はもう少し平凡なものだ。

Carlos Cesar(eの上に点)Salvador Arana Castanedaはペルーのカハマルカに1926年のクリスマス、時計と貴金属職人の家に生まれた。父の名前は
Cesar Arana Burungary。市のダウンタウンに小さな店を持っていた。



彼の母親は、Susana Castaneda Navoa。痩せていてアーモンド色の目。カルロスが誕生したときは16歳だった。

カルロスの父親の一家はイタリアからの移民で、ブラジルのSao Paolo出身だが、カルロスの直接の家族はカハマルカで暮らしていた。

カルロスの妹は、Lucia Aranaという。
子供のころはいつも一緒で、ビジネスマンと結婚して今もペルーに住んでいる。

彼の苗字のスペルについては少し混乱があるようだ。

1951年にアメリカに来た時の記録によると、Carlos Cesar(eの上に点)Salvador Arana Castanedaとなっている。しかしアメリカで暮らし始めると彼は、Carlos C. Aranhaとhをつけはじめた。

たとえば、1957年のことだが、私と交際をしているころ、私が電話会社の組合からお金を借りるとき保証人のサインには上記のスペリングで書いた。

これは、1959年くらいから彼がブラジルの英雄、Oswaldo Aranhaとの関係をほのめかしはじめていたからだ。

Aranhaというミドルネームを使わなくなった後も、Oswaldo Aranhaとの縁戚関係については言及し続けた。

ここでオズワルドについての解説がありますが省略します。

しかし、カルロスに最も影響を与えた人物は、オズワルドではなく祖父だった。
この祖父は、発明家で面白い話をするのが好きだった。まさに、あのドン・ファンを想起させる人物だった。

彼がThe National Fine Arts School of Peru(Lima)で学んでいたころ、Limaの美術館を訪問している内に考古学の展示に夢中になった。
中には呪術師たちの文化財に関する展示もあった。

少年時代、カルロスは治療師に関する話題をたくさん耳にしていた。
家は典型的な中流家庭だったので自分たちが病気になったら「医者」に診てもらっていたがインディアンや貧しいMestizos(白人とラテンアメリカの先住民の間に生まれた人々)たちは治療師たちの世話になっていた。

市場では多くの治療師たちが薬草を売っていたが、本物の治療師はわずかだとカルロスは思っていた。たいがいはぶらぶらしている老人だ。

治療師たちは、San Pedro(Mother Cactus)の幻覚成分がメスカリンであることを知っていた。
Starr 070320-5799 Echinopsis pachanoi.jpgペヨーテほどは強力ではないが、キロあたり1.2グラム。ペヨーテは38種類のアルカロイドを持っている。

San Pedroの学術的歴史についての記述がありますが、割愛します。

近代ペルーの治療師、Eduardo Calderon Palominoの写真がUCLAのDouglas Sharonの机の上に貼られていた。Eduardo Palominoは、Sharonの先生だった。

Eduardoは、Mother Cactusのことをよく知っている本物の呪術師だった。Eduardoの教えは、カルロスが言っていることに非常に似ていた。

Sharonは、カルロスと類似の研究を行っていた文化人類学者です。

UCLAで学んでいたカルロスは、Eduardoの教えとドン・ファンの教えに非常に多くの共通点があることに気づいた。

ドン・ファンのキャラクターがヤキ族よりもカハマルカの治療師に似ているというのは興味深い話だ。

ここで、意識の変容に関するEduardoの説明がありますが割愛します。

Eduardoに代表される変成意識の取り扱いや”活用目的”についてカルロスは、ペルーで育ったために精通していたはずだが本人はそのことを認めてはいない。

1961年の8月、ドン・ファンの友人の家では、カルロスは幻覚性植物や”メスカリト(mescal)”に関してはなにも知らないふりをしていた。

50歳くらいのインディアンが、カルロスに南アメリカのこと、the Quichas(地名?、それともサボテン)のことをたずね、その地方にmescalがあるかどうか聞いたがカルロスは知らないと答え、最後まで初心者(Novice)のフリをした。

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