2018年6月5日火曜日

Maya(7)『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』5

カハマルカで3年間中学校に通ったあと、カルロスは家族と一緒に大都市Limaに移った。
Jiron Unionという有名な繁華街だった。カルロスは、この町でColegio Nacional de Nuestra Senora de Guadalupeを卒業し絵画・彫刻を学んでアーティストを目指した。


Colegio Nacional de Nuestra Senora de Guadalupe

カハマルカの店の修行で貴金属の扱いには慣れていたし、この町には多くのアーティストたちが活動をしていた。
歴史ある美しい建物もあった。
中でも歴史美術館はカルロスに強い印象を与えた。

カルロスの母、Susana Castaneda Navoaは、1949年に亡くなった。
妹によるとカルロスの悲しみはとても深かったそうだ。自分の部屋に三日間こもって食事もとらず葬式にも出なかった。

彼は世界恐慌のころ(1929年、カスタネダ4歳)、父の宝石店に訪れていた太った女性たちのイメージに取りつかれていた。私はまさにそんな女性に似ていたのだ。
彼は、そんな自分のことを「僕のまがい物(trinkets)に対する執着」と言っていた。

彼は自分の母に対する執着の強さを断ち切るためにすべてから遠ざかることを考えた。

彼の本では、ドン・ファンが自己憐憫と内省を断ち切ることの大切さを秘儀として伝えているが、母の死で受けたような苦しみを二度と受けないためのものだったのだ。

閉じこもっていた母の部屋から出て、自分は家を出るといったカルロスを妹が覚えている。

カルロスは、National Fine Art School of Peruで美術をまなび、やがて(南アメリカ文化について詳しくない人々が暮らしている)アメリカにいくことを計画した。

そのころ、ちょうどOswald Aranhaが国連の活動から戻ってきた。彼は、それに先立つ4年間、ブラジルの大使としてワシントンに駐在していた。そうしたアメリカの話をカルロスは目上の連中から聞いていたのだ。

美術学生時代、カルロスは自分の才能に不安を持っていた。特に第二次世界大戦後のアメリカにおけるアーティストの競争は激しかった。カルロスは、絵画よりも彫刻の方が自分に才能があるだろうと考えた。

年がたつにつれ家族とはますます疎遠になり、以前のひ弱で寡黙な人間からより自信家でアグレッシブな学生になっていた。
人々とのつきあいも上手になりボヘミアンのような生活をしていた。

当時の同級生のJose Bracamonteは、彼が自由で気楽な生活をしていたと言っている。Bracamonteは、カルロスが当時、ギャンブルで生計をたてていたようだと言っている。
彼は、トランプ、馬そしてサイコロが得意だった。

Bracamonteはいう「みんなカルロスのことを好きだった。ウィットと想像力がたくましく、朗らかだった――大ウソつきで、本当の友達だった」
彼はカルロスは、アメリカに渡ることに取りつかれているようだったと言っている。

カルロスは制作活動だけではなくペルーや南米の美術をよく学んでいた。彼が訪れていた博物館には、呪術関係の展示も多かった。

カルロスは、アメリカの友人にOswaldoからアメリカに行かされたといっていた。その話によると彼が中国人女性と親しくなりOpiumu(阿片)をやったからだという。カルロスによるとこれが彼が初めてドラッグに接したときだそうだ。

カルロスはニューヨークに来たと言っているが、1951年にサンフランシスコに来て後にロスアンゼルスに移った。

Lydette Maduroは、ハリウッドで両親と暮らしていてカルロスの初期のロス生活の仲のいい友人だった。
カルロスは、彼女のことをNaneccaと呼んでいて、1955年の終わりまでは頻繁に会っていた。

1955年の12月にLydetteがカルロスを私のアパートに連れてきた。Angela Maduro夫人、Lydettoの母が私に二着のカクテルドレスを作ってくれてLydetteが私のところに届けにきたのだ。カルロスは、そのお使いについてきたのだ。

私は、西8thストリートの5301の叔母が所有するビルのアパートで暮らしていた。


マーガレットが当時暮らしていたアパートの場所




右正面の建物の場所ですが、この建物は当時のままなのでしょうか?

彼らがきたとき、試着するので少し待つように頼んだ。カルロスは、部屋の隅におとなしく座っていた。Lydetteは、仕上げのチェックをした。
帰り際にLydetteが彼を紹介してくれた。

そうそう、Margarita、私の友人のカルロス、南アメリカから来たの」Lydetteが言った。
(彼の容姿の話は省略します)

彼はシャイであまり話さなかったが、なぜかとても興味がわいた。

数日後、仕上がったドレスを受け取りにMaduroの店を訪れた。カルロスに会えることを期待して、”The Search”というNeville Goddardという神秘家が書いた本を持って行った。

彼は店にいて私のプレゼントをとても喜んだ。二人でサンパウロの話や美術の話をした。彼は自分は美術家で彼の専門分野である私のテラコッタの胸像を作りたいと言った。
これは彼が女性を口説くためのいつものテだった。

The Searchの表紙に私の名前と住所、電話番号を書き込んだ。

Introductionで書かれている内容と詳細が少し違いますね。

その場では時間がなくあまり話せなかった。カルロスは本を読んで返すといった。

バルバドス生まれのGoddardは、米国に移住したて西海岸では教師として知られるようになった。(ゴダードの概要省略)

私は、ゴダードの講義には全部参加していた。(ゴダードの思想紹介省略)

私はゴダードの教えに従って毎晩寝る前にカルロスからの連絡が実現することを祈った。

半年待った。1956年の6月の土曜の夜9時にカルロスから遂に電話が来た。彼が仕上げた絵をみてもらいたいので少し寄ってもいいかという連絡だった。

その時、Lydetteが一緒にくるか聞いたが、彼がまるで彼女のことを知らないようなそぶりを見せたのに驚いた。

最初は、冗談だと思ったがのちに、これがカルロスの性分だということがわかる。ある日、人との関係に突然飽きてしまいまるでその人を知らないようなふりをするのだ。

僕は狂ったように恋に落ちるんだ」カルロスがいった「かわいそうな女の子に。そして、パっと終わってしまう。そして新しい女の子を探すんだ。これを繰り返して年をとりそして最後に””もう愛はない、もう新しい喜びはないんだそして死ぬ準備ができた”という日まで」そういうことで、ほかには可能性がないんだ

ドン・ファンは、”そんなことをやめろと僕に言った。ロマンスを唯一の目的にするのはばかげている。もちろん、そんな出会いがあることもあろうだろう。だが、そうしたことには軽く触れる程度にしておき全部をささげることはない”

ドン・ファンのアドバイスはもっともですが、これがカルロス自身の創作逸話とすると「わかっちゃいるけどやめられない」の典型ですね。

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